主日礼拝

どう聞くべきか

「どう聞くべきか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: アモス書 第8章9-12節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第8章16-18節
・ 讃美歌:2、204、408

聖書を読む
 私たちの教会では、この春まで二年間にわたって「聖書通読運動」をしてきました。二年かけて、旧約聖書を一回、新約聖書は二回通読しよう、という運動です。1週間ごとに読む箇所を示したスケジュール表をお配りして、それに合わせて読んでいけばこの目標が達成できる、ということになっていました。アンケートを取ったわけではありませんが、このスケジュール通りに通読ができた、という人はそう多くはないだろうと思います。しかし、このスケジュールとは別に、自分なりのペースで聖書の通読をしている方はけっこうおられます。そのようにしてもう何回目かの通読をしている、という話も聞きます。大事なのは、このスケジュール通りにすることではなくて、それぞれが自分の生活の中で聖書を開き、読んでいこうという志を持つことです。先週天に召され、ご葬儀が行われた宍戸邦子さんは、最後の入院をなさっている間に、ついに旧新約聖書の通読を終えることができたことを大変喜んでおられました。私たちは聖書を、神様のみ言葉、神様から私たちへの語りかけであると信じています。その聖書に出来る限り親しみ、それを読みつつ生きることが、私たちの信仰の要(かなめ)なのです。

聖書の難しさ
 しかしそう思って聖書を読んでいく時に私たちが感じることは、聖書は難しい、ということです。聖書の難しさにはいくつかの種類があります。新約聖書は二千年近く昔、旧約聖書に至ってはさらにそれから一千年も昔に、この日本とはかけ離れた遠い国で書かれたものだということから来る難しさがあります。時代や文化的な背景が今日の私たちとは全く違うのです。しかしそういう背景の違いによる難しさだけでなく、聖書そのものの語り方から来る難しさもあります。聖書は、分かりやすい説明や解説の本として書かれてはいないのです。別の言い方をすれば、聖書は教科書やマニュアルではないのです。これを読めば誰でも一定のことが分かる、という書き方にはなっていません。むしろ聖書の中には読む者に謎をかけるような語り方をしている所があります。そういう箇所を読むと、個々の言葉や文章はそれなりに理解できても、全体として何を語ろうとしているのかさっぱり分からない、ということになるのです。

謎解き
 本日ご一緒に読むルカによる福音書第8章16~18節もそういう箇所の一つです。ここは短いところであり、基本的には四つの文章から成っています。第一の文章は16節「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。第二は17節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。第三は18節の前半「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」。第四は後半「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」、この四つです。これらの四つの文章は、それぞれの意味はそう難しくはありません。16節は、ともし火は覆い隠したり寝台つまりベッドの下に置くべきものではなくて、燭台の上に置いて部屋を照らすためのものだ、という話で、ごく当たり前のことです。17節は、隠されているものはいつか必ずあらわになる、ということです。18節前半は、「どう聞くべきかに注意しなさい」という忠告で、言葉自体の意味は難しくはありません。後半の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」も、言葉の意味は特に難しくはありません。このようにそれぞれの文章の意味はそれなりに分かるわけです。しかし、これらの四つの文章がどのように結びついており、全体として何を語ろうとしているのかはまさに謎であって、さっぱり分からない。だからここを読むと「難しくて分からない」という感想が生まれるのです。これは、時代的背景だとか当時の人々のものの考え方などを知ることによって解決する難しさではありません。このような箇所を読むためには、一種の謎解きのようなことが必要になります。謎を解くための糸口を見つけ、そこから少しずつ、それぞれの文章がどのように結び合っており、全体として何が語られているのかを探り出していかなければならないのです。今日はこの箇所についてそういう作業を皆さんとご一緒にしてみたいと思います。

隠されているもの
 さて、まず最初の二つの文章、16節と17節のつながりを考えてみたいと思います。ともし火は覆い隠したり寝台の下に置くべきものではない、つまりともし火は隠すのではなく、人々によく見えるようにすべきものだ、というのが16節です。主イエスは、ともし火についての知識を教えようとしているのではありません。ともし火はたとえとして用いられているのであって、そのように本来隠すべきではなく人々の前にあらわされるべきものがある、ということを語っているのです。これと17節の「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」とのつながりを考えるための鍵は、「隠す、隠れている」という言葉です。17節は、今は隠されており、秘められているものが、必ずあらわになり、人に知られるようになる、と言っています。この二つの節を結び合わせることによってここに語られているメッセージが見えてきます。それは「ともし火のように本来人々の前にあらわされ、示されるべきものが、今は隠されてしまっているという現実がある。しかしいつかはそれがあらわになり、人に知られるようになる時が必ず来る」ということです。16、17節はそういうことを語っているのです。問題はその、「本来あらわにされるべきなのに今は隠されており、しかし必ずあらわになるもの」とは何か、です。そのことを次に考えていかなければなりません。
 ところで、この問いはちょっと横に置いておいて、今申しましたことから分かるのは、17節の「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」という文章が語っていることは、これを単独で読む時に受ける印象とは全く違うということです。この17節をそれだけ取り出して読む時に、私たちは多くの場合、悪事は人に知られないように隠していてもいつか必ずバレるものだ、という意味に理解するのではないでしょうか。それを信仰的に表現するならば、人間の目はごまかせても、神様の目は節穴ではない。神様は私たちが隠している、あるいは心の中に秘めている罪まで全てお見通しなのであって、その罪はいつかは必ずあらわにされるのだ、ということになります。いやそんなふうに読むのは、お前に何かやましい点があるからで、これはむしろ、誰も見ていない所で、人知られずなされた善い行いや親切、そういう隠された善行も、いつか必ずあらわになり、神様の酬いが与えられるのだ、と読むべきだとおっしゃる方もおられるかもしれません。いずれにせよ私たちはこの「隠され、秘められていること」を、私たちが隠している悪事や善行として理解することが多いと思うのです。しかし17節をそのように読んでしまうと16節のともし火の話と結びつかなくなってしまいます。そのような読み方は17節の解釈としては間違っているのです。

種を蒔く人のたとえ
 それでは、「本来あらわにされるべきなのに今は隠されており、しかし必ずあらわになるもの」とは何なのでしょうか。それを考えるためのヒントとなるのが、次の18節前半の「どう聞くべきかに注意しなさい」という言葉です。「どう聞くべきか」って、いったい何を聞くのでしょうか。「聞く」という言葉が唐突に出て来たように感じられます。しかし実はそうではありません。8章の流れの中で、この言葉は大事な意味を持っているのです。前回は8章4節以下の、主イエスがお語りになった「種を蒔く人のたとえ」を読みました。蒔かれた種のあるものは道端に落ち、芽を出すことなく鳥に食べられてしまった、あるものは石地に落ち、芽は出したが根を深く張ることができずに枯れてしまった、あるものは茨の中に落ち、茨に塞がれて実を結ぶことができなかった、そしてあるものは良い土地に落ち、しっかりと育って百倍の実を結んだ、そういうたとえ話を主イエスは語られたのです。そしてこの話の意味を主イエスご自身が説明しておられるのが11節以下です。そこに「種は神の言葉である」とあります。このたとえ話における種は、神様のみ言葉を表しているのです。そしてその種が蒔かれた土地は、そのみ言葉を聞く人間を表しています。神様のみ言葉を聞いても右の耳から左の耳へと抜けていって何も残らないのが、道端に落ちた場合です。み言葉を受け入れて信仰の芽を出しても、苦しいこと、試練にあうと枯れていってしまうのが石地に落ちたケースです。同じく芽を出しても、この世のいろいろな思い煩いや誘惑に心を塞がれてしまって信仰の実を結ぶことができないのが茨の中の場合です。そして良い地に落ちたものとは、15節にあるように、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」です。このように、この四つの土地の違いは、私たちが神様のみ言葉をどう聞くかの違いを語っているのです。この「種を蒔く人のたとえ」に続いて本日の箇所が語られています。ですから「どう聞くべきかに注意しなさい」という教えの意味はこの流れの中で明らかです。神様のみ言葉をどう聞くか、その聞き方に注意しなさい、ということです。どう聞くかによって、神様のみ言葉の種が実を結ぶか、それとも無駄になってしまうかが決まるのです。

神の言葉は隠されている
 前回のところからのこのような流れを考えていくことによって、先ほどの16、17節の「本来あらわにされるべきなのに今は隠されており、しかし将来必ずあらわになるもの」とは何かという問いへの答えも見えて来ます。それは神様のみ言葉です。その理解に基づいて16節以下を語り直してみるとこのようになります。「神様のみ言葉は覆い隠されるべきものではない。人々にはっきりと示されるべきものだ。その神様のみ言葉が今は隠されており、秘められてしまっている。しかしそれはいつか必ずあらわになる。人々にはっきりと知られるようになる。だから、その神様のみ言葉を今どう聞くか、その聞き方に注意しなさい」。
 神様のみ言葉は今、隠されている、秘められたものとなっている。それについては特に説明はいらないでしょう。私たちはまさにそういう現実の中を生きているのです。つまり神様は聖書を通し、教会を通してみ言葉を語りかけて下さっていますが、そのみ言葉はなかなか人々の耳に届いていきません。神様がみ言葉を語りかけておられることに気付かない人が大勢いるのです。いやそれは他人事ではありません。聖書を読み、礼拝に集ってみ言葉を聞いている私たち自身も、神様のみ言葉を本当に聞き、それをしっかりと受け止めることがなかなかできません。「種を蒔く人のたとえ」はそういう私たちの現実を描いています。私たちは、み言葉の種をしっかり受け止める良い地になれず、道端のようであったり、石地のようであったり、茨の中であったりしているのです。また私たちは、最初に申しましたように、聖書を読んでも難しい、理解できない、と感じてしまいます。神様のみ言葉が隠され、秘められてしまっているというのは、まさに私たちの現実なのです。

どう聞くべきか
 そのような私たちに主イエスは、「どう聞くべきかに注意しなさい」と言っておられます。それはどういうことでしょうか。あの「種を蒔く人のたとえ」によって考えるならば、道端や石地や茨の中のような者にならないように注意し、良い地になれるように、つまり「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」になれるように努力しなさい、ということでしょうか。そうではありません。なぜなら、そのように読んでしまうと、16、17節がある意味がなくなるからです。「種を蒔く人のたとえ」にすぐ続けて、「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と語られているならそういう意味になるでしょう。しかし18節の前には16、17節があるのです。18節の「だから」は、「種を蒔く人のたとえ」ではなくて16、17節を受けています。つまり、神様のみ言葉は今は隠されており、秘められているけれども、必ずあらわになり、人に知られるようになる、ということを受けて、「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と言われているのです。このことに気付くなら、「注意しなさい」とはどう注意せよということなのかが分かってきます。注意しなさいとは、しっかり見なさい、ということです。何をしっかり見るのか。それは、神様のみ言葉が、今は隠されており、覆われてしまっており、人々の目に届かない、私たち自身においても、それをなかなか正しくしっかりと聞き、受け止めることができないという現実がある。けれども、隠れているものであらわにならないものはなく、秘められたもので人に知られず、公にならないものはないのだ。神様のみ言葉は、いつか必ずはっきりと表わされ、公になり、つまり実現するのだ。そのことをしっかり見つめなさい、ということです。神様のみ言葉をあらわにし、公にし、実現するのは誰でしょうか。それは神様ご自身です。神様ご自身が、ご自身のみ言葉を表わし、人々にはっきりと知らせ、お語りになった救いの約束を実現して下さるのです。そのことは既に主イエス・キリストによって実現しました。神様が独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神様が約束して下さっていた救いは実現したのです。私たちはこの主イエスの十字架による神様の救いのみ業を見つめることによって、同じ神様が将来与えると約束して下さっている救いの完成を、つまり主イエスを復活させて下さった神様が私たちをも復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さることを信じて、それを実現して下さる神様の力に信頼して、み言葉を聞くことができるのです。このように、神様ご自身がそのみ言葉を必ず実現して下さることを信頼しつつみ言葉を聞くこと、それが「どう聞くべきかに注意しなさい」という教えによって主イエスが語っておられることなのです。

神の力に信頼して
 私たちはしばしば、神様のみ言葉の聞き方を間違えてしまいます。どう間違えてしまうかというと、そこで見つめるべきこと、注意すべきことを間違えてしまうのです。み言葉を聞いた自分がそれをどう受け止め、どう生かし、何を成し遂げ、どのような成果をあげることができるか、ということを見つめてしまうのです。言い換えれば、神様のみ言葉を生かすも殺すも自分次第だと思ってしまうのです。しかしそれは間違いです。神様のみ言葉は、神様ご自身がそれをあらわにし、示し、実現して下さるものです。前回の「種を蒔く人のたとえ」においても私たちはこのことを見つめました。あのたとえ話はともすると、私たちがみ言葉をどう聞き、それをどう生かすかによって実が実るか無駄になるかが決まる、というふうに読まれがちです。しかし前回申しましたのは、このたとえ話は、種を蒔いて下さる方である神様が、道端や石地や茨の中であるような私たちに、み言葉の種を根気強く蒔き続けて下さり、私たちを耕して良い地とし、百倍の実を実らせて下さる、と読むべきだということです。ですから15節の「良い地」の説明「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」というのは、私たちが自分の力でみ言葉を生かし、実らせることができるような立派な人になる、ということではありません。み言葉を実現して下さる神様の力に信頼しつつみ言葉を聞き、それを自分の内に大切に持ち続け、み言葉の種が神様の力によって芽を出し実を結ぶことを忍耐して待つことこそが、良い地である人間の姿なのです。本日の箇所の「どう聞くべきかに注意しなさい」というみ言葉もそれと同じことを語っています。み言葉をあらわにし、実現して下さる神様の力を信じて、そのみ業を待ち望みつつみ言葉を聞いていくことこそが勧められているのです。

持っている人は更に与えられる
 18節後半の、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」という教えの意味もそこから分かってきます。これはやはりこれだけを取り出して読むと誤解される教えです。豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなるという、今日の格差社会を現しているようないやな言葉だと感じられてしまうのです。しかしこの教えが語っているのは、やはり神様のみ言葉を聞くことにおいて起ることです。そこにおいて「持っている人」とはどういう人か。それは、「どう聞くべきか」をちゃんと注意し、正しくみ言葉を聞いている人、つまり、み言葉をあらわにし、実現して下さる神様の力に信頼して、そのみ業を待ち望みつつみ言葉を聞いていく姿勢を持っている人です。そのような姿勢でみ言葉を聞く人には、更に与えられる。つまりみ言葉によって与えられる恵み、祝福がその人の内でどんどん大きくなっていくのです。しかし「持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。それは、「どう聞くべきか」に注意せず、み言葉を正しく聞く姿勢を持っていない人です。神様の力に信頼するのではなく、自分の力でみ言葉を生かそうと思っている人、神様のみ言葉の恵みの中で自分が生かされるのではなく、自分の工夫で神様のみ言葉を生かしてやろうとする人です。そのような姿勢でいると、神様のみ言葉を本当に聞くことができません。新たに聞くことができないばかりか、既に聞いたと思っているみ言葉も、実は神様のみ言葉ではなかったことが明らかになっていくのです。「持っていると思うものまでも取り上げられる」とはそういうことです。自分では神様のみ言葉を聞いてそれを実践しているつもりでいるけれども、実はその人が聞いているのは神様のみ言葉ではなくて、自分の言葉、自分の考えに過ぎないのです。「どう聞くべきか」に注意しないとこのようなことが起ります。神様のみ言葉を聞くことができなくなってしまうのです。そこには、預言者アモスが語った、神様のみ言葉を聞くことができない飢えと渇きが生じます。神様のみ言葉を聞くことができない飢えと渇き、それは私たちが気付かない間に、自分の力に自信を持ち、自分の考えや主張や感覚によって人生を歩むことができると思っている間に進行していきます。自分の力や考えによって生きようとする時に、私たちは実は飢えと渇きの中にあるのです。なぜなら、私たちが自分で考えることや自分の力で出来ることの中には、人生を本当に養い、潤す豊かさはないからです。しかし私たちが、自分の力ではなく神様の力に信頼し、神様の恵みのみ言葉によって生かされることを願い求めつつみ言葉を聞いていくならば、私たちは、今あるみ言葉の恵みを更に豊かに増し加えられていくのです。その恵みは無尽蔵です。その無尽蔵の恵みにあずかるために、み言葉をどう聞くかに注意し、その姿勢を整えていきたいのです。

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