「目を覚ましていなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:マラキ書 第3章13-18節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第13章32-37節
・ 讃美歌:135、233、440
主の再臨を待つ
本日の説教の題は「目を覚ましていなさい」です。説教中に 居眠りをするな、ということではありません。本日ご一緒に読む マルコによる福音書第13章32節以下につけられた小見出しもそ うなっています。この箇所で主イエスは三度にわたって「目を覚 ましていなさい」と言っておられます。33節と35節と最後の 37節です。目を覚まして何をしていなさいと言っておられる のでしょうか。徹夜で勉強しなさいというのではありません。眠気 に打ち勝つ宗教的修行を積みなさいというのでもありません。 主イエスは、「待っていなさい」と言っておられるのです。大きな お屋敷で門番の務めを与えられている僕が、主人の帰りに備 えてしっかりと目を覚まして待っている、そういうたとえを主 イエスはここでお語りになりました。そこに示されているように、 「目を覚ましていなさい」というのは、人の帰りを待っていると いう状況におけることなのです。私たちの信仰は、目を覚まして 主人の帰りを待っているという信仰です。その主人とは、言う までもなく主イエス・キリストです。主イエスは、十字架にかけら れて殺され、三日目に復活し、天に昇り、今は全能の父なる神 の右に座しておられる、と聖書は語り、私たちは毎週の礼拝に おいて、使徒信条によってその信仰を告白しています。そして使 徒信条はそれに続いて「かしこより来りて、生ける者と死ねる 者とを審きたまはん」と語っています。主イエスは今おられる天 から、いつかもう一度、大いなる力と栄光を帯びて、裁き主と して来られるのです。それによって今のこの世は終わるのです。 主イエスはそのことを、「小黙示録」と呼ばれるこの13章において 語ってこられました。13章の24節以下を振り返っておきたい と思います。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗 くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動か される。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に 乗って来るのを、人々は見る」。人の子とは主イエス・キリスト のことです。その主イエスがもう一度この世に来られる、その いわゆる再臨において、最後の審判が行われ、この世が終わる のです。しかしそれはいたずらに恐れや恐怖を抱かせる教えで はありません。次の27節にはこうあります。「そのとき、人の子 は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって 選ばれた人たちを四方から呼び集める」。つまり、主イエスの再 臨によるこの世の終わりは、主によって選ばれ、信仰を与えら れ、キリストに結ばれた人にとっては、主のもとに呼び集められ て、主と共におることが出来るようになる時、つまり救いの完成 の時なのです。それゆえに私たち信仰者は、主イエスがもう一度 来られることを、主イエスのお帰りを、希望をもって待ち望みつ つ生きるのです。
主イエスの留守を守る
そのような私たちの信仰を、主イエスはこの箇所で、「家を 後 に 旅 に 出 る 人 が 、 僕 た ち に 仕 事 を 割 り 当 て て 責 任 を 持 た せ、門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなも のだ」というたとえによって言い表しておられます。このたとえに はいくつかのポイントがあります。その一つは、主人が旅に出て、 家にいない、その留守を僕たちが守っている、ということです。 それが私たちの信仰の状況なのです。主人である主イエスが、今 私たちのもとにはおられないのです。これは、主イエスが今私たち と共にいて守り支えて下さらない、ということではありません。 主イエスは確かに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたが たと共にいる」と約束して下さったのです。主イエスは今この 時も、私たちと共にいて下さるのです。しかしそのことは目に 見えません。主イエスは目に見えない仕方で、聖霊の働きによ って共にいて下さるのです。聖霊の働きによって、主イエスは確 かに私たちと共にいて下さるし、私たちを守り支え導いて下 さっています。けれども、肉体をもって復活して、天に昇り、父 なる神の右に座わられた、その目に見えるお姿においては、主 イエスは今私たちの間にはおられません。不在なのです。その主 イエスが帰って来られることを、主の再臨を私たちは待ってい るのです。つまり主イエスの再臨とは、今は目に見えない仕方 で、聖霊の働きによって共にいて下さる主イエスが、目に見え るお方としてもう一度来て下さることです。言い換えれば、今は 隠されており、信仰によって受けとめるしかない主イエスのご支 配があらわになり、誰の目にも明らかになり、全ての者がそれに 服するようになることです。その主の再臨を私たちは待ってい るのです。そういう意味で、私たちの信仰生活は、主イエスの留 守を守っている生活なのです。
割り当てられた仕事
34節のたとえのもう一つのポイントは、旅に出る主人が僕 たちに仕事を割り当てて責任を持たせられた、ということです。 主人はただ旅に出たのではなくて、僕たちそれぞれに仕事を割 り当てたのです。主人の留守を守っている僕である私たちには、 それぞれに、なすべき仕事が割り当てられているのです。「責任を 持たせ」とも語られています。「責任」と訳されているのは「権威」 とも訳せる言葉です。主イエスは私たち信仰者一人一人に、権威 をお与えになっているのです。権威を与えるのは仕事をさせるた めです。会社などでも、ポストを与えるということは、権威を与 え、その人の裁量で仕事ができるようにするということでしょう。 何の権威も与えられていなければ、ただ命じられたことをする しかないのです。ですからこの主人が僕たちに権威を与えたのは、 彼らがそれぞれに割り当てられた仕事を自分の裁量で行って いけるためです。「責任を持たせ」とはそういうことです。またこ の「僕たちに仕事を割り当てて」というところの原文は、「彼 の仕事を」となっています。つまり主人の仕事が僕たちに割り 当てられているのです。それを行うための権威が分け与えられ ているのです。ですからここに語られているのは、主人の留守中に も、僕としてのいつもの仕事を怠けずにきちんとしていなさい、と いうことではありません。主人の留守中に、僕たちが、主人の働 きを代って担うようにと命じられたのです。それが、主イエスの 再臨を待つ私たち信仰者の姿です。私たちも、今この世におい て、主イエス・キリストのお働きを、主イエスに代って行なって いくのです。そのための権威を、主は私たちに、教会に委ねて下 さっているのです。
教会を建て上げ、維持する
私たちに委ねられ、私たちが主イエスに代って行なっていく主の働 きとは何でしょうか。それは、主イエス・キリストを頭とする教会を この世においてしっかりと建て上げ、それを守り、維持していくこと であり、また教会がこの世の中でその使命をしっかりと果していくこ とでしょう。教会を建て上げ、守り維持するというのは、建物を建て て維持管理することではありません。それも一つの付随する働きでは ありますが、最も大事なことは、教会が、主イエス・キリストを頭と し、主イエスにこそ従い仕えるキリストの体として築かれ、維持され ていくことです。この世には、教会を主イエス・キリストのご支配か ら引き離し、別のものの支配下に置こうとする力が様々に働いていま す。そのような攻撃から教会を守ることが、私たちに与えられている 使命なのです。私たちの教会が先人たちから受け継ぎ、大切にしてい る教会の制度、長老制度というのは、まさにこの使命を果たすために 生まれてきたものです。長老制度が確立したのは、今のイギリスの北 部、スコットランドです。スコットランドと南のイングランドはもと もと別の王国であり、教会の歴史も違います。イングランドにおける 宗教改革は、ヘンリー8世という王様によって始められました。国王 主導型の宗教改革です。それに対してスコットランドの宗教改革は、 王に対抗して行われたのです。国王はカトリックでした。その王に抵 抗する仕方でスコットランドの長老教会は成立したのです。そのスコ ットランド長老教会の人々が今でも強烈に持っている自覚、自負があ ります。それは、国家に対して、具体的には国王に対して、教会の自 由を守るということです。教会を国家の、王の干渉から守ることを彼 らは第一の課題と考えており、そのために、牧師と、信徒の中から選 ばれた長老たちによる会議を教会の決議機関とする長老制度を築いた のです。つまり長老制度というのは、スコットランドの教会が、教会 を主イエス・キリストの教会として、主イエスのご支配にこそ従う群 れとして守り維持するために、この世の権力を持つ王と体を張って戦 ってきた、その戦いの中から生まれたのです。
私たちの戦い
同じように私たちは、今私たちの置かれた時代や状況の中で、 教会をしっかり築き、守るとはどういうことかを考えていかなけ ればなりません。今日本の社会において教会がしなければならな い第一のことは、教会が本当に教会になる、ということではない かと思います。つまり私たちが、本当に主イエス・キリストの福 音によって生きる群れとなることです。私たち一人一人が、目に は見えないが聖霊によって共にいて下さる主イエスとの交わり に生き、礼拝において、説教と聖餐とにおいて与えられる神様の み言葉によって養われて生き生きと喜んで歩み、ただ主イエ ス・キリストにこそ従い仕えるがゆえに兄弟姉妹の間で真実に 仕え合っていく、そういう、この世の他の所にはない共同体を 築いていくことです。そのために私たちが今戦わなければならな いのは、私たちの外にある国家でもなければ、キリスト教に敵対 する何らかの勢力でもなくて、私たち自身の中にある、本気でキ リストを信じ、本気でキリストに従い仕えていくことを妨げて いる思いです。自分自身の中のその思いと戦って、教会を真実 の教会として建て上げていくことができるならば、私たちは言 葉と行ないをもって、主イエスによって示された神様の愛を、独 り子の命を犠牲にして下さることによって、私たちとの間に、 人 間 の 罪 に よ る 敵 対 を 乗 り 越 え て 新 し い 平 和 な 関 係 を 築 い て下さった愛を証ししていくことができるでしょう。そしてその 時私たちは、この社会において、敵対関係にある人々の間に平和 が打ち立てられていくために仕えることができるでしょう。旅に 出て不在である主人イエス・キリストが、今私たちに割り当て、 そのための権威を与えて下さっている仕事とはそのようなことな のではないでしょうか。
門番の務め
さて、僕たちに割り当てられた仕事の中で、特にその内容が 語られているのは門番です。門番こそが、「目をさましているよう に」と命じられているのです。門番が目を覚ましているのはいろ いろなことのためです。門番は、家を守る歩哨、見張りです。泥 棒が忍び込もうとするかもしれないし、武装ゲリラが襲って来 るかもしれない。そういう敵に対して警戒しており、危険が迫 ったらいち早く警報を発することが彼の務めです。そのため に、眠り込まずにしっかりと目を覚ましていなければならないの です。教会に、主イエス・キリスト以外のものの支配が入り込む ことを警戒しているというのもそういうことです。私たちはそうい う門番としての務めを与えられています。そのためにいつも目 を覚ましていなければならないのです。
主人の帰りを待って目を覚ましている
そしてもう一つ、門番が目を覚ましていることの大事な目的は、 主人の帰りを待つことです。主人がいつ帰って来るのか、あな たがたには分からないからである、と35節にあります。いつ帰って 来てもいいように、目を覚まして待っていて、主人を迎え入れ る準備をしているのです。主イエスの再臨を待っている教会に おいては、このことが何よりも大事な務めであると言えます。け れどもそれは具体的にはどういうことなのでしょうか。いつも目 を覚まして主人の帰りを待っていると言うけれども、人間眠ら ずにずっと起きていることなどできません。三日もすれば倒れて しまいます。勿論ここでも、一人の人がずっと眠らずにいることが 考えられているのではありません。35節に、主人の帰りが「夕方 か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か」という四つの時があ げられていますが、これは夜の歩哨の当直交替の区分ではないか、 とも言われます。つまり交替で起きているのです。ですからこの 「目を覚ましていなさい」は、個人に対する命令ではなくて、 共同体に対する、主の再臨を待ち望みつつこの世を歩む教会 に対する命令です。私たちは、教会において、兄弟姉妹と協力し て、目を覚まして主の再臨を待つのです。
目を覚ましているとは
36節には「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠ってい るのを見つけるかもしれない」とあります。これを読むと私たち は、主人が帰って来た時に居眠りしているのを見られたら大 変だ、と思います。それは親の留守中に何か悪さをしていた子 供が、突然親が帰って来てその現場を見つけられるのを恐れ るような感覚です。しかし、目を覚まして主人の帰りを待つと いうのは、そういうびくびくとした恐れの感覚を持って生きる ことではないでしょう。むしろそれは喜びをもって待ち望みつつ 生きることであるはずです。
そこで、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、マラキ書第3章13節 以下を見てみたいと思います。マラキ書3章は、主の裁きの日が来る ことを語っています。私たちはここを、主イエスの再臨による最後の 審判、それによるこの世の終りの到来の予告として読むことができま す。17節に「わたしが備えているその日に」とあるのが、その終り の日です。その日に何が起るのでしょうか。その前のところ、16節 までには、人々が「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを 守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても、何 の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪 事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」と言ってい ることが語られています。これが今のこの世の現実です。つまり、主 イエスのご支配、神様の恵みのご支配が隠されており、目に見えない のです。だから、神様を信じても虚しいのではないか、という気持ち になるのです。しかしそのような現実の中で、主を畏れ敬う者たちも いる、ということが16節に語られています。「そのとき、主を畏れ 敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前 には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記され た」。目に見えない、隠された神のご支配を、信仰の目で見つめ、そ れを信じて神様に従って生きる者たちの姿です。そして17、18節 「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、 万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは 彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆 らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」。その 日、裁きの日、主イエスの再臨の日には、主を畏れ、神に従う信仰者 たちが、神様によってその宝として憐れみを受けるのです。そして、 「正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別」が 明らかにされるのです。それがまさに裁きです。その裁きにおいて神 様のご支配があらわになり、目に見える仕方で確立することによ って、それまでのように、神を信じて仕えても虚しいのではないか、 という疑いの余地がなくなるのです。神を信じ神に仕える信仰者が、 神によって大いなる憐れみ、恵みを受けるのです。主イエスの再臨に おいてそのようなことが起る。それを私たちは待ち望みつつ、今のこ の、主のご支配がなお隠されている世を、信仰をもって、忍耐と希望 をもって、主に仕えて生きるのです。この、再臨によって明らかにな る神様の憐れみ、恵みを、信仰の目でしっかり見つめ、その喜びに生 きることこそが、目を覚ましていることです。眠り込んでしまうとい うのは、この信仰の目が曇ってしまい、終りの日に私たちをご自分の 宝として集めて下さる神様の恵みのみ心を見失い、喜びと希望を失 ってしまうことです。目を覚まして主人の帰りを待っているというの は、居眠りをしているのを見つかったらどうしよう、とびくびくする ことではなくて、主イエス・キリストによって約束されている神様の 救いの恵みを信じて、忍耐と希望をもって、喜んでこの世を生きるこ となのです。
父だけがご存じである
主イエスはいつ帰って来られるのか、再臨によるこの世の終わりは いつなのか、「その日、その時は、だれも知らない」と32節にあり ます。主の再臨がいつかを知ることは誰にもできないのです。そのこ とに私たちは不安を覚えます。これから先のことをあらかじめ知って 安心したいという思いが私たちにはあるのです。しかし聖書は、それ を知ることは許されていない、と語ります。聖書が教える信仰は、私 たちがいろいろなことを知ることによって安心するという信仰ではな くて、目を覚まして、忍耐と希望をもって待ち望みつつ生きる信仰で す。そこでは、安心してしまうことはできません。ある緊張感の中に 留まり続けることになります。「知らない」ということの中に忍耐し て留まり続けるのです。主イエスはそのような緊張感のある忍耐の歩 みにおいて、私たちと共にいて下さるのです。その日、その時を知ら ないのは私たちだけではありません。「天使たちも、子も知らない」 とあります。「子」つまり主イエスご自身も、ご自分の再臨の日を知 らないのです。その緊張感と忍耐の中に、私たちと共に立って下さ っているのです。その日、その時を知っているのは、「父だけ」で す。父なる神様が知っておられることを、子である主イエスは知らな い、それは、主イエスが神ではないとか、父より劣る者だということ ではなくて、主イエスが、父なる神を心から信頼して生きておられる ということです。父なる神を信頼し、全てを委ねておられるから、 「その日、その時」を知る必要がないのです。「知らない」というこ との中で生きることは緊張感と忍耐に生きることだと申しましたが、 それは主イエスにおいては、父なる神様を深く信頼して生きることだ ったのです。この主イエスと共に生きる私たちも、父なる神様を信頼 して、全てをお委ねすることができます。そこでは私たちは、知らな いこと、分からないことがあってよいのです。自分が全てのことを知 っている必要はないのです。父なる神様が全てを知っておられ、私た ちに必要な救いを与えて下さる、ということで十分なのです。そのこ とを信じて、神様に信頼して生きるところには、自分がいろいろなこ とを知っていることによって得られる安心とは全く別の、それよりも はるかに深くまた確かな安心があります。私たちは、主イエスがいつ 帰って来られるのかを知ることはできません。また自分の人生に、そ してこの世界に、これから何が起こるのかも知ることはできません。 それらは全て父なる神様が知っておられます。私たちにただ一つ知ら されているのは、将来主イエスが帰って来る、その時に、今は隠され ている主イエスのご支配があらわになり、私たちの救いが完成すると いうことです。その約束を信じて、忍耐と希望と喜びの中で、目を覚 まして主の再臨を待ちつつ、主が今私たちに委ねて下さっている務め をしっかりと果していきたいのです。