夕礼拝

小さな群れよ、恐れるな

「小さな群れよ、恐れるな」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; ダニエル書、第7章 15節-28節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第12章 22節-34節
・ 讃美歌21; 351、389

 
1 (「恐れるな」)
 「恐れるな」。主イエスが私たちにお語りになったお言葉の中でも、特に繰り返し繰り返し、飽くことなく主が語られたのが、このお言葉であると思います。「恐れるな」。主が何度でもこのように語りかけられたことを、今新しく受け止めたいと願います。「恐れる」、ここで使われている言葉の元になっている言葉は、「逃げる」という意味の言葉です。耐え切れないほどの驚きに捉えられて、逃げ出したくなる。激しい身震いに襲われて、そこに留まっていられなくなる。我を失って、前も後ろも分からなくなる。パニックに陥って自分でもどうしたらいいのか分からなくなる。そういう意味の言葉です。「恐れるな」、主イエスが私たちに繰り返し、このように語りかけられたということは、私たちの中にこのような恐れがあるということを、主がよくご存知であったからです。心の中に沈んできて、静かにたまっていくような恐れ、それをいつもいつも新しくかきだし、取り除いてくださるように、主は何度でも、このお言葉を持って語りかけてくださるのです。  この福音書が書かれた時代にも、教会の中にあったのは恐れでした。ローマ帝国の教会に対する迫害が、散発的にではありますが、始まっておりました。その中で迫害によって散り散りにされたり、ついに命を失ったりする人たちも出ていたのです。教会は迫害され、追いつめられていたのです。まことに、生まれて間もない教会は、32節にあるように、「小さな群れ」であったのです。吹けば飛んでしまうようなか弱く見える集団であったのです。「小さな群れよ、恐れるな」。この主の御言葉は、明日何が起こるか、どうなってしまうかも分からない中で、教会が聴き取った御言葉であり、また聞き続けた御言葉であったのです。

2 (間違った恐れの克服)
 しかしそれにいたしましても、どうしてこれだけ主イエスが繰り返し、「恐れるな」、お語りにならねばならなかったのか。今日の箇所のすぐ前、7節でも「恐れるな」と語りかけられておりますし、11節では「心配してはならない」と諭すように呼びかけておられます。主イエスが何度でも語りかけられ、新たに恵みの中に立たせてくださらなければ、すぐに教会の中を覆ってしまう「恐れ」があったからに違いありません。そしてまた、教会がこの「恐れ」を克服するために、間違った手だてを講じることがしばしばあったからではないか、そう思うのです。私たちはしばしば、主イエスを見つめることを忘れて、独自に対策を立てようといたします。自分たちでこの不安に立ち向かい、恐れを克服しようとするのです。もし私たちを捉える恐れが、生活が成り立っていくかどうか分からないという不安であるならば、ちょっとやそっとのことで生活が立ち行かなくなったりしないように、少しずつでもお金をためるでしょう。命がいつ失われるやもしれない、病気や怪我をいつするかも分からない。いつ緊急にお金を用立てる必要が生じるかも分からない。そういう不安を静めるために保険に入ります。そうやって自分のなすべき務めを行い、自らの労働の実りを貯え、堅実に生活を築いていくことが、しっかりとした人間の生き方だ、私たちはそう思う。ルカの教会においても、迫害から身を守るために、こんなことを聞かれたらこう答えたらいいのではないか、あれこれ思い巡らされていたであろうし、お金にものを言わせて身の安全を確保することも話し合われたかしれません。だからこそ、今日の箇所のすぐ前では、金持ちが大きな倉を建て、自分の収穫をみんなしまいこんでいる姿が描かれるのです。その姿は私たち人間の世界の常識から言えば、堅実で、まっとうな歩みだ、ひとかどの人間としてふさわしい人生の築き方だ、ということになるでありましょう。けれども、神の眼差しから見た場合、それは「愚かな者よ」、そう厳しく言い渡されるような人生でしかない、というのです。そこには決定的に大事なものが抜け落ちている、そう主はおっしゃるのです。それは私たちが今日何をしようか、何を食べようか、何を着ようか、そうあれこれと思い悩む、それらすべてに先だって私たちの歩みについて心を配っていてくださる、主なる神を見つめること、です。神がすべてに先だって、私たちの毎日の歩みについて、日々の生活について、心を配っておられる。そのことにこそ、気づいてほしいのだ、それが主の願いであり、呼びかけであり、招きです。

3 (本当に大事なもの)
 ところが私たちはしばしば、与えられている神の大きな心配り、豊かな顧みに気づかず、自分で自分の人生を築こうと躍起になっています。そういう歩みを重ねている限り、どんなに財産を築いても、どんなに人生の失敗を防ぐ安全装置をたくさん用意しても、私たちの恐れは消えないでしょう。不安はなくならないでしょう。この世で築かれた富は、いつ失われるか分かりません。一夜の火災で塵と灰になり果てることだってあります。強盗に盗まれてしまうことだってあり得ます。富を築けば築くほど、今度はどうやってそれを守り、保ち続けていくかを巡って、さらなる思い煩いがこみ上げてまいります。いつまで経ったって、この「恐れ」、「心配」、「思い煩い」から、解放されることはないでしょう。神の心配りを見ようとしない中で築かれていく人生は、いつも思い煩いに捕らわれ続けるのです。
 自分自身の心の中の声が「ああでもない、こうでもない」と騒ぎ立て、自分の独り言が心の中を覆い尽くしそうになる時、主は御言葉をもって私たちの心をもう一度押し広げてくださいます、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」(22-23節)。もっともなことです。改めて聴くほどのことでもない、そんなふうに私たちは思うかもしれません。けれども私たちはこの至極当たり前なことを、実にしばしば忘れているのです。食べ物は命をつなぎ、支えるための手段です。衣服は暑さや寒さ、危険から体を守るための道具です。その道具や手段にすぎないものに、私たちは驚くほどの執着をし、こだわってしまう。テレビを見ても、雑誌を見ても、グルメやファッションの話題に大変なエネルギーが費やされています。世の中総力を挙げて、「何を食べようか」、「何を着ようか」という話題にうつつを抜かしていると言ったら言い過ぎでしょうか。その一方で、これがなければすべては虚しいところの、自分自身の命そのものについて、自分の体そのものについて、どれだけ意識されているでしょうか。今晩にでも取り去られるか分からない、命そのもののもろさ、危うさについてどれだけ意識されているのでしょうか。今日も生きていることが当たり前で、明日も生きているに決まっている、勝手に決め込み、思いこんでいるところで成り立っている、実に危なっかしい毎日が、私たちの生活なのです。

4 (空の烏、野の花-神の慈しみの眼差し) 
私たちが「何を食べようか」、「何を着ようか」といって心を煩わせている時、主イエスは肝心な命そのものに、私たちの注意を向け直されます。「あなたの命を今日も支え、守り、養っているお方は一体どなたなのか」。そのことを思い見るために、空を飛ぶ烏(からす)、野原の花のことを考えてみなさい、そう促されます。烏という鳥は、旧約聖書のレビ記(11:15)を見ましても、申命記(14:14)を見ましても、汚れたものとして数えられています。現代においても、不吉な鳥とされたり、群れをなしてうるさく鳴く鳥とされたりして、あまり歓迎されていません。野原の花、これも燃料として木材が高価であったために、手軽に使える燃料として引っこ抜かれて炉に入れられていた草花たちです。つまり人間にとっては取るに足りないもの、大したことのないもの、いくらでも替えがきくもの、そういうものです。それなのに、その一羽一羽、一本一本が神に覚えられ、その顧みの中に数え入れられているというのです。人間が堅実な人生を歩もうとするなら不可欠なものだ、とふつう思うであろうこと、種を蒔き、刈り入れをし、納屋や倉に収める。そういう営みなんか一切していない烏、取るに足りない存在として人間が普段思いに留めてもいないこの鳥を、主は今日も養い、命を支えてくださるのです。明日炉に投げ入れられて、当然のごとく人間によって燃料として燃やされてしまう野の花、その花を、栄華を極めたと言われるソロモン王にも増して、美しい色で着飾らせてくださる。それが神の顧み、慈しみの眼差しなのです。

5 (御国をくださる神の御心)
今日の聖書の箇所について、いくつかの翻訳では、興味深い小見出しがついております。ある国の聖書にはこういう見出しがついておりました。「思い煩いと本当の宝」。またある翻訳にはこういう見出しがありました。「偽りの心配と本当の心配」。これは二つのものが対比されているということを見つめている標題です。この世の富について私たちが思い煩うことなど比べものにならない、本当に豊かな宝が、私たちの前に差し出されているのです。「何を食べようか、何を飲もうか」と心を煩わせている、その偽りの心配に心をのっとられてはならない。心配をするとは、文字通り、それに専ら心を配る、思いを向けていくということであります。それなら、もっと心を配るべきこと、思いを向け、見つめていくべきことがある、全てに先立ってあなたに心を向け、あなたに心を配り、今日も命を与え、生かしてくださっている主なる神の顧み、慈しみの眼差しをこそ見つめなさい、そう招いておられるのです。「何を食べようか、何を飲もうか」、そのことを追い求めるのではなく、「神の国」をこそ追い求めるのです。
 そしてこの御国が来ますように、という私たちの願いに先立って、主なる神の御心がすでにはっきりとしているのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32節)。これは何度でも味わい、かみしめたい御言葉です。この御言葉に真実に生きることができるなら、もう何もいらない、そう言い切ることのできる御言葉ではないでしょうか。口語訳ではこうなっています。「御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。御国を私たちに下さること、私たちを御国の世継ぎとすること、それが父なる神が恵みを持ってすでに決めておられることなのです。そのことをご自身喜んでおられる。神のお気に召したこととしてくださっている。「わたしの恵みの支配の中で、あなたがたに生きてほしい。この恵みの中を歩んでほしい。わたしがよしとし、あなたがたに与えたいと願っているこの恵みに、あなたたちも心を開いてほしい」、私たちが願うより先に、神がみ恵みのうちに、こう願っておられるのです。神のご支配は、来るか来ないか分からないような不確かなものではありません。願っても実現するか分からない、怪しいものではありません。世界の支配者である主なる神ご自身が願い、ご自身の中ではっきりと決意しておられることなのです。

6 (恐れを引き受ける十字架)
 冒頭に、ここで語られている「恐れるな」という言葉には、「逃げるな」 という意味が込められていると申しました。逃げないということは、逆に言うならば、今立っているところに踏みとどまる、ということです。神の国に生きる心、神の前での豊かさにこそ与る幸い、神の恵みのご支配を生きる喜び、そこに留まり続けるのです。言い換えるなら、私たちのあらゆる思い煩いに先立って、神がしてくださっている心遣いにこそ、心を向け、それに感謝して歩むのです。今日も命を与え、支え導いてくださった主の心配り、決して当たり前にはできない恵みに満ち足りて生きるのです。私たちの「恐れ」は、本当に恐れるべきお方を見失い、その恵みのご支配を忘れるところから湧き上がっています。そんな私たちを主は、「信仰の薄い者たち」と呼ばれる。これは文字通りには「信仰の小さな者たち」という意味です。しかしその「信仰の小さな」私たちに「恐れるな」と今日も語りかけ、恐れをはぎ取り、除き去るために、神はその独り子を十字架に上らせたのです。「恐れるな」。これは友達が気落ちした者を慰めるためにかけている程度の言葉とは違います。まさに主イエスの全存在がかかったお言葉なのです。「わたしはあなたの中にある恐れをよく知っている。だからこそ、そのあなたの恐れを取り除くために、わたしがあなたがたの恐れを引き受けて、その恐れを十字架の上で味わい尽くす。それによって恐れを克服する愛をあなたがたの内に満たそう」、そうおっしゃってくださるのです。この世でもっとも恐れられている、死の恐怖を、主イエスは一手に引き受けてくださいました。それほどまでに、神の眼差しの中で、尊い者、価高き者として受け止められているのが私たちなのです。
この国の中で、本当にわずかな群れである私たちです。現状を見つめれば、心許ない気持ちでいっぱいになってくるような思いもいたします。私たち一人一人の中に、また教会の中に、恐れがあります。しかし十字架に着けられ、甦られた主イエスが今日も、「恐れるな」と語りかけ、その恐れをむしり取ってくださるのです。御国を喜んでくださる父なる神の御心の前にもう一度立たせてくださるのです。この世の富ではなく、この生ける神に心をつなぐこと、それが本当に恐れを克服する道です。この神を通して、私たちは神の御前に覚えられ、価高い者として見つめられ、大事にされている自分自身を受け取り直すことができるのです。そしてまた、この世に生きる隣り人たち、共に生きる隣人を見つめ直すことができるのです。私たちのこの世の富をも、この世に御国の到来を告げ知らせるために用いていく自由が与えられていくのです。主の私たちに対する心配りに対応して、私たちの中にも、隣人に対する自由な心配りが形づくられていくのです。
 この世の富についての思い煩いに代えて、神の恵みのご支配を、本当の宝、本当の富とできる幸いがここにあるのです。偽りの心配から解き放たれて、神が私たちに心を配ってくださっている、その恵みに生き切ることができます。今日も恵みに満ち足りて、悔いなく生きる自分とされている喜びがあるのです。この豊かな恵みに招いてくださる神に心をつなぐ時こそ、小さな群れの恐れは、取り除かれるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、私共一人一人の中に、また小さな群れである教会の中に、恐れがあり、心配があります。あなたの御前にさらすには戸惑いを覚えざるを得ないような、恥ずかしい心の有り様です。しかしその深いところにある本心も、あなたはよくご存知でいらっしゃいます。だからこそ主はおっしゃいました。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。どうぞ何が神の御心であるかをわきまえ知った、本当の意味で堅実な歩みを、あなたの御前での確かな歩みを、私共に刻ませてください。恐れを取り去り、罪を赦し、御国の勝利に今から与らせてくださるあなたの御心に、私共の思いをも重ね合わせつつ、生きることができますように。今日という一日も、あなたに心をつなぎ、あなたをこそ何よりの豊かさ、本当の宝とすることができる恵みに満ち足らせてください。 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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