主日礼拝

新しい革袋

「新しい革袋」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第98章1―9節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第2章18―22節
・ 讃美歌:22、117、475

主イエスへの驚き
 主イエス・キリストが、カファルナウムの町を拠点として、ガリラヤ地方で教えを宣べ伝えていかれた、その最初の頃のことを今私たちはマルコによる福音書から聞いています。主イエスの教えは人々に驚きを与えました。そのことが1章22節に語られていました。カファルナウムの会堂で語られた主イエスの教えに、人々は非常に驚いたのです。それは主イエスが律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからだとそこに語られています。主イエスの教えは、当時の人々が聞き慣れていた律法学者の教えとは全く違っていたのです。律法学者たちは、律法にこう書いてある、ということを根拠として、また過去の律法学者たちが律法をどう解釈してきたかを拠り所として教えていました。自分以外の権威によって自分の教えの正しさ、正統性を証明するという仕方で教えていたのです。ところが主イエスは、自分自身が権威を持っている者として、神の国の福音を宣言しました。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というみ言葉がそれを代表的に示しています。このような語り方をする人はそれまでいなかったので、人々は驚いたのです。また先週読んだ2章13節以下には、主イエスが徴税人だったレビに「わたしに従いなさい」と声をかけ、彼が主イエスの弟子になったことが語られていました。人々から罪人の代表として蔑まれ、嫌われていた徴税人を弟子とする、そのことも人々にとって大きな驚きだったでしょう。このように主イエスの語る教えも、なさることも、人々にとって驚きの連続だったのです。本日の箇所にも、主イエスとその弟子たちの行動を見ていた人々が驚いて、「なぜこうするのですか」と尋ねたことが語られています。彼らが尋ねたのは、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」ということでした。当時彼らの身近な所に、洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちがいましたが、その人々はどちらも断食に励んでいたのです。ところが主イエスとその弟子たちには断食している様子が見られませんでした。人々はそこにも、主イエスを中心とする群れの独自性、他の人々との違いを感じて驚いたのです。

ファリサイ派の断食
 断食、食事を断つことは洋の東西を問わず宗教的に意味ある行為とされています。聖書の信仰においては、それはどういう意味を持っていたのでしょうか。旧約聖書において、断食は基本的に、神様に自分の罪を告白し、悔い改めることの表れとして位置づけられていました。例えばダビデが、部下の妻であるバト・シェバと関係を持ち、部下をわざと戦死させて彼女を奪ってしまった、その罪を預言者から指摘され、自分の犯した罪の大きさ、恐ろしさに気づいた時、彼は断食して祈ったのです。断食はそのように、罪を犯した者が神様の前にひれ伏し、悔い改めて赦しを求めることの印です。聖書において断食はそのように罪の告白、悔い改めと結びついていたのです。それゆえに、律法では、年に一度、大祭司によって特別な犠牲が献げられ、神様による罪の贖いを受ける「贖罪の日」に断食をするように教えられていました。それが後に、バビロン捕囚後の時代になると、イスラエルの人々は年に四回断食をするようになりました。それは、民の罪の結果として国を滅ぼされ、バビロンに捕え移されてしまったということへの反省から、年に一度断食して悔い改めるだけでは足りないと考えるようになったということでしょう。主イエスの時代になると、ファリサイ派の人々は、週に二度、月曜と木曜に断食をするようになりました。それは一方では、律法を一般の人々より厳格に守り、常に悔い改めて祈ることを大切にしようという彼らの信仰の現れでしたが、しかし他方でそれは、主イエスがマタイによる福音書の第6章16節で批判なさったようなことにもなっていたのです。主イエスはこうおっしゃいました。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。断食しているのを人に見てもらおうとする、つまり神様に対する悔い改め、祈りの行為だったはずの断食が、人に見せるための、自分の信心深さ、熱心な信仰の姿を人に自慢するためのことになってしまっているのです。罪の悔い改めの行為のはずだったものが、いつのまにか自分を誇る自慢の行為になってしまう、まことに皮肉なことですが、私たちがしばしば陥る問題であると言わなければならないでしょう。ファリサイ派の弟子たちの断食はそのような問題をはらんだものとなっていたのです。

ヨハネの弟子の断食
 そのような偽善者の姿を厳しく批判したのが洗礼者ヨハネでした。彼は荒れ野に現れて、イスラエルの人々に心からの悔い改めを求めたのです。マタイによる福音書には、ヨハネがファリサイ派の人々に「蝮の子らよ」と激しい言葉を浴びせたことが語られています。自分たちは神に選ばれた民だ、という優越感を抱き、それによって安心している人々に、「神の民だというなら、本当に神のみ心を行なわなければならない。そのためには先ず、自分の罪を真実に悔い改めることが必要だ。人に見せるための、偽善的で心の伴わない断食をしているあなたがたは、神の民であるどころか、蝮の子らだ」と言ったのです。そしてヨハネとその弟子たちは、真実な悔い改めに生きるために、何曜日と何曜日というような形式によるのではない断食をしていました。ヨハネは「いなごと野蜜を食べていた」と1章6節にありますが、それは彼の生活の全体が一種の断食だったということです。ヨハネの弟子たちはそういうヨハネの歩みに倣う断食をしていたのです。

飲み食いする主イエスと弟子たち
 このように、ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちとでは断食の意味が全く違います。しかしどちらの人々も断食を大切にし、積極的に行なっていたのです。それに対して、主イエスの弟子たちは断食をしていませんでした。主イエスご自身は、しばしば断食して祈っておられたことが何箇所かに語られています。しかし主イエスはそれを弟子たちにはお求めになりませんでした。むしろ主イエスは、弟子たちと、また様々な人々と、共に食事をすることを喜ばれました。聖書には、主イエスが断食したということよりも、食事をした、食事の席に着いたということの方がずっと沢山語られています。主イエスは、断食よりも共に食事をすることの方を大事になさったのです。ルカによる福音書の7章34節には、主イエスに対して「大食漢で大酒飲みだ」という非難がなされていたことが語られていますが、それはこのように人々と食事をすることを好む主イエスのお姿から出たことだったのでしょう。断食をせず、むしろ積極的に人々と飲み食いをするところに、主イエスとその弟子たちの集団の特色があり、人々を驚かせる新しさがあったのです。

婚礼の客
 「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問われた主イエスは、不思議な答え方をなさいました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」。主イエスの弟子たちが断食をしないのは、婚礼の客だからだ、と主イエスはお答えになったのです。婚礼の席と断食とは全く似つかわしくありません。結婚披露宴に招かれた客が、御馳走を前にして、「私は今断食をしていますからいただけません」と言って何も箸をつけずただ座っているというのは失礼な話です。「それなら何故こんな所へ来たのか」ということになるのです。主イエスの弟子たちは、そのように婚宴に客として招かれている、だから断食はできないのだ、と主イエスはおっしゃったのです。彼らを婚礼に招いたのは誰でしょうか。婚礼に客を招くのは花婿です。その花婿とは主イエス・キリストです。主イエスが花婿として来られて、今や婚礼の宴会が始まっている。弟子たちは花婿である主イエスによってその宴席へと招かれている客なのです。

花婿主イエス
 主イエスは花婿としてこの世に来られた、と聖書は語っています。旧約聖書においてそもそも、主なる神様とその選ばれた民イスラエルの関係は、花婿と花嫁、夫と妻の関係として描かれてきました。だからイスラエルの民が主なる神様を捨てて他の神々、偶像を拝むようになった罪は、妻の不貞、姦淫になぞらえられてきたのです。このことを土台として、神の独り子、救い主イエス・キリストが花婿として来られた、という新約聖書の信仰が生まれました。新約において、主イエスを花婿に譬えている箇所は本日の箇所の他にもいくつかあります。ヨハネによる福音書の3章29節では、洗礼者ヨハネが主イエスのことを花婿と呼んでこう言っています。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾 け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。ヨハネはここで自分と、自分の後に現れた主イエスとの関係について、主イエスこそ婚礼の主役として登場する花婿であり、自分は花婿の介添え人、脇役であって、花婿の到着を喜び、そして消えて行く者だと言っているのです。救い主イエス・キリストこそ婚礼の主役、花婿であり、その到来を周りの者たちは喜ぶ、という点でこれは本日の箇所と同じことを語っていると言えます。しかし同じように主イエスを花婿として位置づけながらこれとは違ったことを語っている箇所もあります。マタイによる福音書25章1節以下には、花婿が到着したら明かりを灯して迎えるために待っている十人のおとめのたとえ話があります。この花婿は、世の終わりにもう一度来られる主イエスのことです。花婿である主イエスが将来再び来られることによって救いが完成する、そのことを信じて主イエスの到来にしっかり備え、待っている信仰をこの話は教えています。ここでは花婿である主イエスが来られるのは将来来のことです。つまり新約聖書において、主イエスは既に来られた花婿であられると共に、これから来られる花婿でもあられると語られているのです。

喜びと祝いに生きる
 本日の箇所では、主イエスの弟子たちは花婿である主イエスによって婚礼に招かれた客であると語られています。その客がなすべきことは断食ではなくて、花婿の到来を心から喜び祝い、祝いの宴席に着いて飲み食いすることです。そのようにして、花婿である主イエスが来られたこと、それによって神の国、つまり神様のご支配による救いの実現が決定的に近付いたことを心から喜び祝うことです。それが、主イエスを信じて従っていく弟子たちのなすべきことなのです。ここに、主イエス・キリストを信じる信仰の基本的な性格が示されています。それは「喜びと祝いに生きる」ということです。信仰者は、主イエス・キリストの到来によってもたらされた神の国を喜び祝いつつ生きるのです。主イエスは、神の国は近づいたという宣言に続いて、「悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃいました。神の国、すなわち救いにあずかるためには、自分の罪を知り、悔い改めることが確かに必要です。しかしそのことは同時に「福音を信じる」ことなのです。福音とは、思いがけなく告げられる良い知らせ、喜びの知らせです。自分の罪が全て主イエスによって担われ、赦されているという知らせを、私たちは思いがけず受けるのです。その赦しは、私たちが必死に悔い改めたからではなくて、神様が、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって与えられている、そういう知らせを、私たちは思いがけなく聞くのです。そしてその知らせを信じて喜ぶのです。福音を信じるとはそういうことです。その喜びの中でこそ私たちは、自分の罪を本当に見つめることができます。悔い改めはこの喜びの中でこそ生じるのです。悔い改めれば喜ばしい福音が与えられるのではなくて、悔い改めることと福音を信じて喜ぶことは一つなのです。主イエスが来て下さったことによって、この福音、喜びの知らせが告げられました。それを信じる者は、喜び祝いつつ生きるのです。主イエス・キリストを信じる者の生活の根本にはこの喜びがあります。主イエスを信じて生きる者の生活にも、勿論様々な苦しみや悲しみが襲ってきます。行き詰まったり、挫折することがあります。病や老いがあり、死の苦しみがあります。けれどもそのような深い苦しみ悲しみの現実の中でも、主イエスを信じる者は、深いところで喜びと祝いに生きることができるのです。それは自分の力で獲得したり守ったりする喜びではありません。自分の中に喜んだり祝ったりする根拠を持っているわけではないのです。この喜び祝いは、神様によって与えられるもの、神様が遣わして下さった花婿である主イエス・キリストが、私の救い主として来て下さったことによる喜びであり、祝いです。この喜びと祝いが、深い苦しみや悲しみの現実の中を生きる私たちを支えるのです。

花婿が奪い取られる時
 この喜びと祝いへと招かれている弟子たち、信仰者に、断食は相応しくありません。しかし主イエスは20節でこうもおっしゃいました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。「花婿が奪い取られる時」、それは主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺されることを意識した言葉です。主イエスはここでご自分の受難、十字架の死を初めて暗示なさり、その時には弟子たちも断食をすることになるとおっしゃったのです。断食には、深い悲しみや嘆きの表現という意味もあります。ヨハネの弟子たちが断食していたのは、師であるヨハネがヘロデによって捕えられ、あるいはもう既に殺されてしまったかもしれない、その悲しみの表現だったのかもしれません。同じように主イエスの弟子たちも、主イエスの逮捕、十字架の死によって、花婿である主イエスを奪われ、引き離されてしまう、そのことを悲しんで断食をすることになる、ということでしょう。主イエスが共にいて下さってこそ、婚礼の喜びは成り立つのです。その喜びが奪い去られてしまう時には、悲しみの印である断食が相応しいことになるのです。
 しかしここで語られているのはそのことだけではないと思います。主イエスの十字架の死は、弟子たちも含めた私たち全ての者の罪のために起るのです。私たちの罪を背負って、主イエスは身代わりとなって十字架にかかって死んで下さるのです。そのことに目を開かれていくなら、主イエスの十字架は一人の人間の悲惨で残酷な死ということに留まらない、私たち一人一人にとって深い意味を持つ出来事となります。私たちはそこに、自分自身の罪の大きさ、恐ろしさを見つめさせられるのです。そして同時に、その自分の罪を背負い、赦して下さる神様の恵みの大きさ、深さを見つめさせられるのです。そしてその赦しの恵みの中で悔い改めへと導かれるのです。ですから、花婿主イエスが奪い取られる時に弟子たちがする断食は、単なる悲しみの表現ではなくてやはり悔い改めの断食です。初代の教会の人々は、そのような意味での断食を、やはり週に二回、ファリサイ派とは違って水曜日と金曜日にしていました。金曜日は主イエスの十字架の死の日です。主イエスの十字架の苦しみと死による罪の赦しの恵みを見つめる中で、罪の悔い改めの断食はやはり意味あるものとして受け止められていったのです。

主イエスを信じる者の新しさ
 このように、主イエス・キリストによる救いを信じるキリスト教会の信仰においても、断食は意味あるものとして行なわれていきました。けれどもそこには、ファリサイ派の人々の断食とも、ヨハネの弟子たちの断食とも決定的に違う新しさがあったのです。その新しさとは、花婿である主イエスが来られたことによって既に婚礼が始まっている、信仰者は主イエスによってそこに招かれている客である。その信仰者にとって、本当に相応しいのは断食よりもむしろ喜びと祝いだ、主イエスによる救いを告げる福音を喜び祝うことこそが信仰の中心なのだ、ということです。主イエスの到来によって、断食は、もはや信仰において中心的な位置を持つことはなくなっているのです。今やそれに代わって信仰の中心には、花婿主イエスを迎えての喜びの宴、祝いの食事が位置づけられています。それを具体的に示しているのが、礼拝においてあずかる聖餐です。主イエス・キリストによる救いを信じて洗礼を受け、キリストを頭として生きる教会に加えられた者は、聖餐において主イエスによる救いの恵みを文字通り味わい、それによって養われつつ喜びと祝いに生きていくのです。
 しかし同時に言えることは、私たちは今、救い主イエス・キリストを肉の目で見ることはできないし、手で触れることもできないということです。十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活した主イエスは、天に昇り、今は父なる神の右の座に着いておられます。この地上に目に見える仕方ではもうおられないのです。主イエスが私たちの救い主であり、天におられる、ということは、目で見ることができない、信じるしかない事柄です。そういう意味では、この世を生きている私たちは、花婿である主イエスを奪い取られている状態にあると言えます。主イエスによる救いをこの目で見て確かめることはできず、目に見えるのは、様々な苦しみや悲しみ、不安に満ちた現実なのです。その中で私たちは、主イエスによる救いや神様の愛など本当にあるのだろうかという疑いを抱き、苦しみや悲しみに負けてしまいそうになります。喜び祝ってなどいられない、悲しみの断食こそ自分には相応しい、と感じるのです。しかしそのような私たちに主イエスは、「私は世の終わりにもう一度来る」と約束して下さいました。その時には、今この世でははっきりと見ることができない主イエスのご支配が明確に表わされ、神の国が、神様による救いが目に見える仕方で完成するのです。そのことを信じて、忍耐しつつ、私が来るのを待っていなさい、と主イエスは教えて下さっています。それが、先ほどの「十人のおとめのたとえ」において語られていることです。既に来られた花婿主イエスが、将来もう一度来て下さり、今は隠されている救いを完成して下さるのです。その花婿主イエスの到来にしっかり備えて待っていることもまた、私たちの信仰の大切な特徴です。花婿主イエスが既に来られたことを喜び祝いつつ、その主イエスがもう一度来て下さることを忍耐して待ち望んでいく、それが、主イエス・キリストを信じる者に与えられている新しい生き方なのです。

新しい革袋
 21節以下で主イエスは、「織りたての布で古い服に継ぎ当てをするな。新しいぶどう酒を古い革袋に入れるな。新しいぶどう酒は新しい革袋に」とおっしゃいました。主イエスによってもたらされている新しい救いを受け止めるために、あなたがた自身が新しくなりなさい、と言っておられるのです。それは、神様の救いにあずかるのに相応しい立派な人になれ、ということではありません。主イエスが十字架の死をもって私たちの罪を赦し、私たちを神の子として下さった、その救いの恵みを喜び祝い、そしてその主イエスがもう一度来て下さり、今は隠されている救いを完成して下さることを待ち望みつつ生きる。それこそが私たちの備えるべき「新しい革袋」なのです。
 私たちがその新しい革袋となるために神様が備えて下さっている場がこの主の日の礼拝です。礼拝に集い、キリストの福音を聞き、そして聖餐にあずかる時に、私たちのために十字架にかかり、復活して下さった主イエスによる救いが確かに与えられるのです。そしてそれと共に、世の終わりにもう一度来て下さる花婿主イエスによる救いの完成を待ち望む希望が新たにされるのです。聖餐は、既に来て下さった主イエスの恵みを味わう喜びの食事であると共に、再び来たりたもう主イエスによって世の終わりに約束されている喜びの宴席を先取りしてかいま見る希望の食事でもあります。教会の礼拝においてみ言葉を聞き、聖餐にあずかることによって、私たちは新しい革袋となり、そこに主イエスが注いで下さる新しい喜びのぶどう酒によって生かされていくのです。

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