「あなたは何を見ていたのか」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:マラキ書第3章19-24節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第11章7-15節
・ 讃美歌:220、460
本日与えられました聖書の箇所、マタイ福音書第11章の7節に、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」と書かれています。次の8、9節にも「では、何を見に行ったのか」と書かれています。そのようにイエス様が人々に問うておられます。これはそのままわたしたちに対する問いでもあります。わたしたちは今、何を見にここに集まっているのでしょうか。わたしたちは何を見たくてこの礼拝に集まっているのでしょうか。この夕礼拝に集って、わたしたちが見ようとしているものとはいったい何なのでしょうか。その問いを心に留めつつ、御言葉を聞いていきたいと思います。そして、説教最後にはイエス様のこの問いかけに応えられる者となっていきたいと思います。
本日の箇所の冒頭に「ヨハネの弟子たちが帰ると」とあります。このヨハネは、この福音書の3章に登場している洗礼者ヨハネです。彼は、イエス様が現れる前に、荒れ野で「天の国は近づいた」と宣べ伝え、人々に悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けていた人です。また彼は、この時、領主ヘロデに捕らえられて、いつ死刑にされてもおかしくない状態で獄中に置かれていました。本日の箇所はそのヨハネの弟子たちが、ヨハネの所に帰った後のことです。イエス様は、今度は群衆に対して、そのヨハネについて語り始められました。そして、そこで「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」と言われました。
多くの人々は、洗礼者ヨハネの言葉を聞き、彼から洗礼を受けるために荒れ野へ行きました。彼らが荒れ野へ見に行ったのは、洗礼者ヨハネだったのです。しかしその洗礼者ヨハネのもとで、あなたがたは何を見たのか、それがイエス様の問いです。「弱々しく風になびく葦のような人物か?それとも、高級な服を着た貴族か?そんなものではないだろう!「預言者」を見に行ったのだろう!確かに、彼は預言者だ。しかし、それ以上の者なのだ。あなたがたは、その彼を見たのか?!」とイエス様は言われています。9節で、「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である」。あなたがたは、預言者を見に、荒れ野のヨハネのもとへ行ったのだ。預言者というのは、神様のみ言葉を預かって人々に伝える者です。その人を見に荒れ野へ行った、それは、人々がその人を「ただ見るため」というよりも、その人から、神様のみ言葉を聞くために行ったということです。あなたがたは、ヨハネという預言者に会い、彼から神様のみ言葉を聞こうとして荒れ野へ行った、そうだろうとイエス様はここで言っておられるのです。
それは今礼拝に集っているわたしたちとつながることであると言えるでしょう。わたしたちは荒れ野ではなくて礼拝堂に来ているのですが、それはこの建物を見に来ているわけでもないし、牧師や伝道師の顔を見に来ているわけでもありません。わたしたちはここに、神様のみ言葉を聞くために集まっています。荒れ野に、ヨハネに会いに行った人々と、礼拝に集っているわたしたちはその点で共通するものがあります。そのように、神様のみ言葉を聞くために荒れ野に行った人々にイエス様は、「そうだ、あなたがたが会いに行ったヨハネは預言者だ。しかし、預言者以上の者でもあるのだ」とお語りになっていました。では、ヨハネは預言者であり、預言者以上の者でもある。それはどういうことなのでしょうか。
預言者というのは、先ほど申しましたように、神様のみ言葉を預かって語る人です。神様から御言葉を託された人によってわたしたちは、み言葉を聞きます。神様の教えを聞きます。それによって神様のみ心を知り、また神様が今自分に求めておられること、命じておられることを知ることができます。ヨハネに関して言えば、彼は「悔い改めよ、天の国は近づいた」と教え、人々に罪の悔い改めを求めました。自分の罪を知り、それを悔い改めて赦しを乞い、新しくなることを今神様は求めておられる、ということを人々はヨハネから教えられたのです。そしてその悔い改めの印としてヨハネは洗礼を授けていました。人々は、ヨハネのもとに来て洗礼を受けることによって、自分の罪を悔い改めて神様に赦していただき、新しくなろうとしたのです。そのようにして神様のみ心、教えに従おうとしたのです。預言者のもとに行くというのはそういうことです。神様のみ言葉を聞き、それを理解し、それに従っていく、そのために人々は預言者のもとに行くのです。
しかしイエス様は、ヨハネは預言者以上の者であると言われました。それは、今申しました、預言者のもとへ行って人々がすること、そこで起る以上のことが、ヨハネのもとで起るということです。では、いったい何が起るのでしょうか。それは、古の預言者たちと、ヨハネを比べてみることで、わかります。古の預言者たちも、ヨハネと同様に、「救い主が来られる」、ということを民に告げ預言していました。本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるマラキ書の、第3章の1節で、メシヤ到来の預言がなされていて、そのマラキを始めとして多くの預言者たちが、救い主の到来を告げていました。しかしそれらの預言者たちとヨハネとは決定的に違うとイエス様は言われます。どこが違うのか、それはヨハネが、やがて救い主が来ることを教えたというだけではなくて、今それが決定的に近づいていることを告げ、人々をその救い主との出会いのために備えさせたことです。ヨハネは救い主について預言したばかりでなく、じかに顔と顔を合わせその救い主を見ました。古の預言者たちは人の子の日が確かに来て、メシヤが現われることを預言しましたが、ヨハネはその日の実際の目撃者であり、その日のために人々を整えるということをしていたのです。ヨハネは、救い主であられるイエス様実際に出合っており、また人とイエス様を、実際に出会わせるということにおいて、決定的に他の預言者と異なっていたのです。
それにより、ヨハネのもとに来た人々は、従来の預言者たちへの従い方、つまりただ神様のみ言葉を聞き、その教えを受けるということではすまなくなってしまいました。教えを聞いて、それを理解して、そしてそれを自分の生活の中で少しでも実践していこう、その教えに従って生きていこう、それならば、自分は安心だということにはならない。今までと根本的に異なったことがヨハネのもとでは起ってきていたのです。
その、ヨハネのもとで起っている特別なこと、それまでの預言者たちのもとでは起らなかったことを描いているのが、12節です。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」。これはとても意味がとりにくい文章で、注解者や昔の説教者も、様々な形、解釈で受け止めています。唯一明らかなことは、洗礼者ヨハネにおいて新しく起っていることを語っている言葉だということです。ヨハネの登場によって、何が新しく起っているのか。難しいのは、「襲う」という言葉の意味です。天の国が襲われ、奪い取られようとしている、と言われています。それは最も自然には、天の国が敵によって攻撃を受けていると読めるでしょう。ここにある「奪い取ろうとしている」という言葉は、「手に入れようとする、つかもうとする」という意味も持っています。そちらに重きをおいて訳すと、「激しく襲う者たちが天の国を手に入れよう」としている、ということになります。そうするとこの「襲う」という言葉は、滅ぼそうとするという否定的な意味ではなくて、肯定的な、天の国、神様のご支配、その救いにあずかろうとする、ということまったく異なった意味にも取ることできます。そうすると、ここの節を、「ヨハネの登場以来、人々は天の国を獲得しようと熱心に励んでいる」、とも読めるのです。こちらの意味で取ると、ヨハネが来たことによって、天の国、神様の救いが、決定的に人々のものとなり始めている、ということを語っているのです。ヨハネが来たということは、あなたがたが、天の国を、神様の支配や救いを手に入れることができる時が始まったのだということをイエス様はここでいっているのです。
洗礼者ヨハネは、時代の決定的な転換点に立っています。そのことを語っているのが13節です。「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」。ヨハネは、預言者と律法の時代の終りに立っています。それは旧約聖書の時代の終わりと言ってもよいでしょう。「預言者や律法」の時代、それは、神様のみ言葉や教えを聞き、それを理解して、それを自分の生活の中で少しでも実践していこう、その教えに従って生きていこう、それで良いんだという、そういう時代です。しかしヨハネの登場によって、もはやそれではすまないことになっている。ただ教えを聞いて理解して実行するというのではなく、この世に来られた救い主と対面しなければならない、それが、新しい時代の者たちのなすべきことです。ヨハネは人々を、その救い主と顔と顔をあわせるために備えさせました。それが、この新しい時代を生きる者のあるべき姿なのです。わたしたちも新しい時代を生きるものです。ですからこのイエス様との対面に備えていく必要があります。わたしたちがこうして礼拝に集うのは、ここで、この救い主イエス様と対面するためです。「あなたがたは、何を見にここに集っているのか」という問いの本当の答えがここにあります。わたしたちは、何のために礼拝に集まるのか、教会の建物を見るためでも、牧師や伝道師の顔を見るためでもない、み言葉を聞くためだ、それはその通りです。けれども、それだけでは十分な答えではないのです。み言葉を聞いて、それを理解して、実行していけば、神様に喜ばれる正しい立派な者になることができる、そういう思いでみ言葉を聞きに来ているのだとしたら、わたしたちはまだ預言者と律法の古い時代を生きているということになってしまいます。礼拝においてみ言葉が語られる時、わたしたちはそこで、わたしたちの救い主であられるイエス様と出会います。礼拝ごとに、そのイエス様との対面を繰り返しながら生きる。そういう意味で、わたしたちは、礼拝に、イエス様を見るために来るのです。
ヨハネは人々に、救い主と対面する備えをさせました。しかしそれは、救い主にお会いするにはそれに相応しい清さ、正しさ、立派さを身につけなければならない、ということではありませんでした。先ほどの12節の、「天の国は力ずくて襲われている」という言葉は、別の訳し方をすれば、「天の国は力をもって突入してきている」とも訳すことができます。人々が頑張って努力して天の国を獲得していくと言うよりも、天の国の方が、力をもってわたしたちのただ中に突入して来ているのです。この世に来て下さったイエス様のみ言葉とみ業とによって、人々は天の国、神様の救いに巻き込まれているのです。努力して正しさや清さを身に着けた者がそれを獲得しているということではないのです。礼拝においてわたしたちがイエス様にお会いすることもそれと同じです。イエス様の方から、み言葉によって、わたしたちの中に突入してきて下さり、わたしたちを神様の恵みに巻き込んで下さっているのです。ヨハネが教えた備えは、悔い改めることです。それは、自分が神様の恵みに相応しくない、罪ある者であることを認め、その罪の赦しを与えて下さる救い主、イエス様を自分の内にお迎えすることです。その備えによって、わたしたちは、礼拝において、救い主にお目にかかることができるのです。イエス様は、わたしたちのまわりにあるあらゆる妨げや壁を、力をもって打ち破ってきてくださり、わたしたちの目の前にまできてくださっています。今までわたしたちは、イエス様が目の前にいてくださったのに、自分のことばかり見たり、隣の人のことばかり見たりして、イエス様を見ていてなかったのです。そのことを認めて、イエス様を見る、そしてイエス様の言葉を聞き、イエス様を救い主として受け入れる。それが悔い改めて、洗礼を受けることなのです。それが新しい時代に生きるわたしたちのなすべきことなのです。
イエス様は、その信仰の決断を、この群衆にも、またわたしたちにも求めておられます。14節以下に、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」とあります。ヨハネは、「現れるはずのエリヤである」、それは、本日共に読まれたマラキ書3章の23節から来ていることです。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。「大いなる恐るべき主の日」、それはその前のところに語られているように、神様ご自身がこの世に来られ、裁きを行い、救いと滅びとをお定めになる終わりの日です。そのことが起こる前に、預言者エリヤが遣わされ、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」のです。つまり、このエリヤは、神様と人々との関係を整えて、来るべき主の日を迎える備えをさせるのです。ですから、先立って遣わされ、イエス様のための道備えをしたヨハネは、まさにこのエリヤの働きをしており、だからエリヤであるとイエス様はいっておられるのです。このヨハネの働きによって、人々は救い主をお迎えする備えを与えられたのです。イエス様は「あなたがたが認めようとすれば分かることだが」と言っています。問題は、人々が、ヨハネを、このエリヤとして、救い主の先駆けとして認め、彼が伝えたように悔い改めて、救い主との対面に備えていくかどうかです。ヨハネをエリヤとして受け入れる信仰の決断、つまり悔い改めて救い主を受け入れ、救い主を信じて生きる決断を、人々にも求められているのです。「耳のある者は聞きなさい」という言葉も、その信仰の決断を求める言葉です。ヨハネをエリヤとして認め、そのエリヤが道備えをしたイエス様において、天の国がこの世に、わたしたちの現実の中に突入してきている、わたしたちがどうこうしらからでなくイエス様がわたしを救うために来てくださった、そのことを信じ受け止める、その信仰の決断によってわたしたちは、天の国に与かる者となるのです。そうして、わたしたちは驚くべき恵みに与かる者となるのです。痛み、傷つき、汚れきった自分の身体が、主イエスの流された血によって癒され、清められる。真っ黒であった心も身体も、雪よりも白いものにされる。そして誰しもが何を対価にして払っても得ることができなかった、死に対する勝利、身体の復活、永遠の生命、それらを無償で与えられる。そのヨハネも驚く、驚くべき恵みに信じるものは、あずかることができるのです。
イエス様は、ここにいるわたしたちが一人ひとり悔い改めて、その恵みの内を生きて欲しいと願っておられます。そして今日もわたしたちに語りかけてくださっています。「あなたがたは何を見に、この礼拝に来たのか?」その主の問いかけに、「主よ、あなたです。わたしの救い主であるあなたを見に来ました。」とそう応えることのできる者は幸いです。わたしたちは今、主に信仰の決断を求められています。「あなたは何を見に、ここに来ているのか?」すべてのものが、主に会うためにここに来たという日が来ることを、今、共に祈りましょう。