夕礼拝

最も偉大な人間でも

「最も偉大な人間でも」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; マラキ書、第3章 1節-5節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第7章 24節-28節
・ 讃美歌 ; 496、430

 
1 「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」、この言葉は、主イエスが私たちに、教会に来ている理由を改めて問われている言葉でもあります。なぜ教会に来るのか、ひと言で言ってみてください、そう問われた時、わたしたちはどう答えるでしょうか。「人に誘われ導かれたからです」と答えるでしょうか。「深い悩みを経験したからです」と答えるでしょうか。それとも、それらを通して導き入れられた「神の恵みのご支配を喜び、礼拝するためです」と答えるでしょうか。その答えを、主イエスご自身が、ここで示してくださっているように思うのです。

2 ここに出て来る群衆たちは、今まで洗礼者ヨハネを頼りに歩んできました。今主イエスのまわりを取り囲んでいる群衆たちは、元々ヨハネについて歩き回っていた人たちなのです。主イエスがここで、「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」(24節)と問いかけられていることからも、このことは分かります。彼らは元々洗礼者ヨハネに会うために荒れ野へ出て来た人たちだったのです。ヨハネに神の言葉が降り、彼が罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた場所は荒れ野でした。ですから群衆はこの荒れ野へ出てきたのです。3章7節で、「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」という言葉がありますが、この人たちこそ、まさしく今、主イエスを巡り囲んでいる群衆たちなのです。
 ということは、ここでどういうことが起こっているのでしょうか。この人たちは、元々洗礼者ヨハネを見に出て来た人たちでした。ところがいつのまにか彼らは主イエスについて歩き回るようになっているのです。いつのまにか自分たちの歩みを委ねた人物が、洗礼者ヨハネから主イエスに切り替わっているのです。ヨハネはどこに行ってしまったのでしょうか。3章の冒頭で悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めた洗礼者ヨハネは、同じ章の後半で、早くもガリラヤの領主ヘロデによって捕らえられ、牢に閉じ込められているのです。彼ら自身も十分に自覚しないうちに、群衆は洗礼者ヨハネを奪われ、主イエスの後について歩き出しているのです。
 彼らがこのことにはっきりと気づかされたのは、まさにこの7章で、洗礼者ヨハネから遣わされた弟子たちと主イエスとの問答が、彼らの目の前で行われた時だったのではないでしょうか。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(20節)。弟子たちが携えてきたこのヨハネの問いは、まさにこの群衆たちも直面している問いでもあったはずです。かつて自分たちが「もしかしたら彼がメシアではないか」と心の中で考えていた人物自身が、主イエスに向かって「あなたがメシアなのですか、それともほかの方を待つべきですか」という問いを発している。彼らはこの出来事を目の当たりにして、ひどくショックを受けたのではないでしょうか。自分たちがメシアではないかと期待していた人自身が牢に入れられ、今「あなたがメシアですか」という問いを主イエスに向かって送ってきている。ということは、自分たちもこの目の前にいる人に向かって同じ問いを発せざるを得ない。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。

3 この群衆の中に生まれてきた動揺と主イエスへの問いを深く感じ取られながら、ヨハネの使いを見送った後、主はこの群衆たちに向かって語りだすのです。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」(24節)。「あの時あなたがたが荒れ野へとわざわざ出て行ったのはなぜだったのか、思い起こしてごらんなさい」、主はそう呼びかけておられます。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か」。この時代には葦を引き合いに出した次のようなことわざがあったと言われています。「人は葦のように柔軟であるべきで、杉の木のように頑なであってはならない」。ヨルダン川の岸に生えている葦のように、風に吹かれるがままに揺れている、そのような生き方こそ自然で、賢い人生の送り方だという処世訓のようなものでしょう。けれどもあの日、荒れ野に出て来た群衆たちに、そんなことを言っている余裕があったでしょうか。今まではそうだったかもしれません。ヘロデが領主になり、その支配に苦しめられれば、その苦しみに甘んじて生きていたかもれません。生きていくためにローマ帝国の手先となって税金集めに躍起になっていた人たちもいたのです。自分の身を売って生きざるを得ない女性たちもいたはずです。貧富の差は大変なものだったでしょう。生きていくために罪を犯さなくてはならなくても、仕方がない。誰もがそう思い、あきらめていたのでしょう。
 「では何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か」(25節)。当時しなやかで柔らかな服は王宮の偉い人が身にまとう服とされていました。華やかな衣を身にまとい、贅沢に暮らす王が住む宮殿、それはこの世の栄華、富と栄えを象徴するものだったでしょう。群衆は決してそのような生活を手に入れることなどできないと知っていながらも、こうした生活に憧れを抱いたでしょう。またそうしたいわゆる偉い人を尊敬したり、また妬んだり羨んだりしていたのです。
 こうした様子は、今を生きる私たちと本質的には何も変わっていないのではないでしょうか。葦のように世の中の風潮に流されるがままに生きる、この世の事柄、日々の生活のことでいっぱいいっぱいになっている群衆の姿は、私たちの姿と何も変わるところがないのではないでしょうか。私たちは葦のように時の流れに身を任せ、この世の豊かさに憧れながら、せいぜい平穏無事な生活を送れればそれでよい、と考えているふしがあるのです。
けれども荒れ野にやってきたこの群衆たちは、もはやそうは言ってはいられないことを知ったのです。洗礼者ヨハネに対して彼らが尋ねた問いは「では、わたしたちはどうすればよいのですか」、という深刻な問いかけだったのです。迫り来る神の怒りをひしひしと感じる、おそれから出て来た問いだったのです。

4 主イエスはそのことをよく知っておられました。もはや群衆が求めているのは、上手な世渡りの話ではない、どうしたら神の怒りの下に焼き殺されるしかないこの自分が救われるのか、という大問題であることをよく知っておられたのです。それゆえに主はおっしゃいました、「では、何を見に行ったのか。預言者か」(26節)。群衆はこの問いかけにきっと、「そうです。その通りです」と答えたでしょう。「私たちは神の言葉を求めているのです。それを語り、取り次いでくれる預言者を求めているのです。その人を洗礼者ヨハネの中に見出したのです」。彼らはそう言いたかったに違いありません。けれども、主はこの群衆の求めをもさらに越えて起こっている出来事に、彼らの目を向けさせるのです。「そうだ、言っておく。預言者以上の者である」(26節)。
 主イエスはここで、旧約聖書のマラキ書第3章1節以下の預言を引かれます。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」(27節)。この預言の言葉は、「大いなるおそるべき日」が主によってもたらされる前に、預言者エリヤが再び送られ、「父の心を子に 子の心を父に向けさせる」ことを預言しています。つまり、主が私たちの元に来られる前に、そのための準備をするための使いがやって来るというのです。そして主イエスによれば、その使いの者こそが、洗礼者ヨハネにほかならないのです。このヨハネについて主は、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(28節)とおっしゃいました。ヨハネが人間の中で最も偉大である理由はいったい何でしょうか。先ほどの預言が引用された元の旧約の箇所、マラキ書第3章にはこうありました。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」(1節)。この預言の言葉を、主イエスが引用しておられる7章27節の言葉と比べてみると、何が分かるでしょうか。マラキ書の預言における「わたし」、「わが」という言葉が「あなた」という言葉に置き換えられているのです。つまり、主イエスはこのマラキ書の預言の言葉を、父なる神から自分に向けて語られた言葉として受けとめ、そして自分が来たということは、あのマラキが預言した主なる神がやって来られたことにほかならないのだ、ということを示しておられるのです。そしてヨハネが偉大なのは、世々の預言者が指し示してきた、来るべきお方が、まさにこの主イエスご自身にほかならないことを、その最も間近において証ししたからにほかならないのではないでしょうか。主イエスにおいて到来した神のご支配に最も近く接近し、これを指し示すために、神によって選ばれたことにこそ、ヨハネの偉大さのゆえんがあるのです。ヨハネが弁舌巧みで、表現力が豊かだったからではありません。才能や人格が優れていたからではありません。牢屋に入れるというヘロデのひどい仕打ちにも屈することがなかったからではありません。むしろそうした屈しない力を生み出した神の恵みの選びがあり、神様の御用のために用いられていることにこそ、ヨハネの偉大さの理由があるのです。

5 ここまでは、群衆たちにもすぐに理解できたかもしれません。けれども、主イエスが一番伝えたいことは、このことをも越えていくのです。「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」!人間の中で最も偉大だ、と言って最大限のお褒めのお言葉をくださった後で、主イエスはびっくりするようなことをおっしゃるのです。その人間の中で最も偉大なヨハネさえ、問題にならないくらいの偉大な世界が神の国にはある、というのです。そしてその偉大な神の国のご支配が、今、この私において始まっているのだ、主はそうおっしゃっているのです。 
 私たちの日常においては、いかに時の流れに柔軟に対応して幸せな生活を築くか、どうやって富や栄えを手に入れるか、が関心のあるところかもしれません。けれども、そういう人間の世界の価値観では見当もつかないような恵みのご支配が今始まっていることに目を向けるよう、主は招いておられるのです。もはや群衆が思いを向けるべきは、ヨハネがどういう人物なのか、この人に従ってきたことが正しかったかどうか、といった振り返り、反省ではありません。ヨハネによって指し示されている神の恵みのご支配が、この主イエスにおいて始まっていること、そしてこのお方に導かれて人生を歩むことが、彼らが今目を向けるべきこと、決断すべきことなのです。そして同じ問いかけ、同じ招きが、今私たちにも向けられているのです!

6 私たちがこの教会に集うてきた背景にはさまざまなきっかけがあります。いろいろな出来事、人との出会いがあります。時にはそうした出来事や導いてくれた人の方が強烈な印象として残って、そこから自由になれなくなることも起こります。自分が劇的に回心した出来事を誇って、これにこだわり続けることもあるでしょう。そこでほかの人の導かれ方を生ぬるいと思って裁いてしまうこともあるかもしれません。自分を信仰に導いてくれた人への感謝や尊敬の方が強く、教会につながることよりも、その人の行くところどこにでもついていく、その人がいなければ信仰生活を守っていけない、といった状態になることもあり得ます。けれども、私たちはそれを乗り越えて進んでいくべきなのです。洗礼者ヨハネの導きを通して、それを越えて、向こう側にある主イエスにおける神のご支配の方にこそ、目を向けてゆくように招かれているのです。
 私は牧師の息子として育ち、幼い頃から教会で育ちましたから、雷に打たれるような回心を経験するといったことはありませんでした。むしろいつも神様に祈り、神様と対話する中で、自分の罪を示され、また赦しを示され、また伝道者として歩むことへの招きを示されてきた人間です。その中で、自分が電撃的な回心経験を持たないことでひけめを感じたり、悩んだりすることもありました。大変な決断をして信仰に入った方から、「あなたには分からないでしょうけど」と言われながら、その苦労話を聞かされる時はなんとなく不愉快な気持ちがしたものです。けれども、私たちはどうやって信仰に入ったか、誰に導かれて信仰に入ったか、といった事柄を越えていかなければならないのではないでしょうか。それは感謝をもって振り返る事柄ではあるでしょう。しかし、私たちの今を生きる信仰がそこにかかっているのではないのです。それらは皆、神が私たちを救いに入れるために、ご計画の中で用いられた神の道具です。洗礼者ヨハネのようなものです。そうした出来事や人物に導かれた末に、今私たちが入れられている神の恵みのご支配そのものにこそ、私たちの信仰がよってもってかかっていることを覚えたいと思います。あの私の悩みも、根本的には問題とはならないのだ、と思うようになりました。いろいろな導きを経て、今自分もそこに加えられている神のご支配をこそ、見つめよう、洗礼者ヨハネではなく、主イエスにこそ、見つめる目の焦点を合わせよう、合わせることができるようにさせていただこう、と思うようになりました。そして大変な戦いや苦労を伴って信仰に入った話も、そういう現実があるということへの感性を、牧会者としてわきまえておくように、という主からの語りかけとして受けとめるようになりました。

7 この恵みのご支配をもたらしてくださったお方こそ、実はこの世で「最も小さな者」として生きられた主イエスご自身にほかなりません。このお方は罪人と食卓を共にし、病や死の世界に入っていかれ、直接手を置いてくださいました。そしていばらの冠をかぶせられ、十字架への道のりを歩み通されました。この小さく、低き歩みを全うされた主イエスを、父なる神は甦らせ、高く挙げてくださり、御国においてあらゆる名に優る名をもってあがめられる方とされたのです。このお方のご支配が始まっていることを腹の底まで味わうのがこの礼拝です。そこで焼き尽くされるべき罪人である私たちが主イエスの十字架において赦されていることを味わうのです。礼拝は神の国におけるとこしえの神との交わりを、今この地上で映し出し、響かせているのです。日常の思い煩いを礼拝の中にまで持ち込み、礼拝が始まっても自分の繰り言で心が占拠されている私たちに、主イエスが「黙れ、この人から出て行け!」と言ってくださいます。そして悩みと苦しみの渦巻くこの世界の只中で、始まっている神のご支配を仰ぎ、その完成に望みを置きつつ歩む幸いに招き入れてくださいます。その時私たちはこの世の営みを象徴する「風にそよぐ葦」を見れば、主イエスが打たれた葦の棒を思い起こし、「宮殿」を見れば、まことの王のご支配が完成することに思いをはせるのです。
この世の営みの只中で、神の恵みのご支配を生き始めるのです。

祈り 父なる神様、どうか私たちがあなたの恵みのご支配を見つめるより先に、自分の状態や自分の独り言、自分の導かれた経緯のよしあし、底の浅いこの世の幸福観に縛られてしまうことがありませんように。見つめるべきものを正しく知り、仰ぐべき希望が確かで揺るぎないものであることを思わせてください。自分がどのように救われるかよりも、救ってくださるあなたの恵みの御業の偉大さをほめたたえる者とならせてください。
御子イエス・キリストの御名により祈ります、アーメン。

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