「恐れなくてもよい」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第56編1-14節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第10章26-31節
・ 讃美歌:352、196
「人々を恐れるな。」「神様を恐れなさい。」イエス様はわたしたちに語られています。
わたしたちは、自分の生活を生きる時、「あれが怖い、これが怖い」と、何かに対していつも恐れや不安を 抱いています。そうなるのは、神様を恐れることを、まだ知らないからであると、ある説教者は言っています 。だからびくびくと生きてしまう。神様を恐れることを忘れると、恐れなくてよいものに恐れてしまう臆病が 引き起こされる。信仰を与えられているのに、いつも不安を抱き、先のことに悩み、自分のまわりのものが何 かしら攻撃してくる、襲ってくるのではないかと臆病になる。わたしも、このように臆病になってしまうこと がよくあります。誰かと関係が悪くなると、その人は自分に対して何かいってくるのではないだろうか、影で なにか言っているのではないだろうかと、気にしないようにしても気になって、その人の言動が気になって、 その人の目が気になる、周りの人もみんなその人になにか言われてわたしのことを変な目で見ているのではな いだろうかと、不安になる。不安がやがて恐怖になり、なるべくその人に近づきたくなくなって、逃げたくな る。そんなことがありました。
わたしたちは、人を愛することができない罪に捕らえられて、人を傷つけたり、傷つけられたりするという ことはよく知っています。しかし、実はその罪とも深く絡み合っているわたしたちの神様を恐れない罪によっ て、臆病になっていることにはあまり気づいていません。いつも不安になり、臆病になるという弱さに、わた したちはどんなに深く捕らえられているでしょうか。わたしたちは、そのことを経験しているはずなのに、そ れを自覚していない、いや自覚しようとしない。心の深い所ではいつもびくびくとして、ときどきその臆病が 顔を出したりしているのに、それは「人間だから仕方ない」とか、「わたしはそういう性格だ」といって、終 わりにしてしまっている。しかし、イエス様は、臆病になってしまっていることを自覚していないわたしたちを 、しっかりと見つめてくださっています。そして、そのことをご存知であってくださるから、イエス様は本日 のみ言葉をわたしたちに与えてくださります。「人々を恐れなくてもよい、神様をこそ恐れなさい」。イエス 様は今日わたしたちにこの言葉を差し出しておられます。この御言葉が、わたしたちの恐れる魂の支えとなる ように、イエス様はわたしたちにこの御言葉をわたしたちの植え付けて下さろうとしておられます。
では「神様を恐れる」ということはどういうことなのだろうかと、疑問に思った方もおられると思います。 父なる神様を恐れるというのは、父なる神様の力強さを知るということです。わたしたちが神様の御前に立つ 時、本当の自分が顕になります。それは10章26節にもあるように、覆われているものが剥ぎ取られ、顕になる ということです。何を身にまとっていても、剥ぎ取られる、つまり裸となり、何ももっていない本当の自分、 弱い自分が暴露されるということです。わたしたちは、通常強い者であるかのように着飾ろうします。自分の 力や財産、功績という武具を着て、時に見栄、嘘という装飾品をつけて、自分を強く見せたり、華やかにみせ たりします。これは先週語った狼の皮とも言えます。ですが、そのように着飾っているわたしたちに対して、 神様はそれらの下に隠れている何もない「わたしの姿」を見透かしておられます。そして神様は、それらの武 具も装飾品も、全部取り去ることもおできになります。つまり、神様にとって、わたしたちが積み上げた功績 や財産、嘘や力などは、まったく意味をなさないものであるということです。裸にされた自分は、まったくの 無防備です。今までは、自分が生き延びるためには、自分の財産という武器で戦ったり、知恵やお金を使って 交渉したりして、どうにかこうにか生きていけたかもしれません。しかし、神様の前では、それは何も通用し ない、というか何もなくなるので、何もできなくなる。わたしたちを神様の前で裸になったわたしたちは何も できませんから、もし神様がわたしたちを攻撃されるのならば、一瞬にして滅んでしまいます。体だけでなく 魂も、全てを滅ぼすことができると、イエス様は28節で父なる神様のことを言われています。しかし、イエス 様は、父なる神様は力を持って、あなたを滅ぼしつくしてしまうかもしれないから、恐れをもって、きちんと しなさいと、言っているのではありません。それでは、あたかもナイフをチラつかせて刺されたくなかったら ちゃんとしろと脅すのと同じです。イエス様は、「父なる神様は、そのようなお力を持っている、そのような 裁きを行うことができる方である」ということを、確かに言っています。しかしイエス様は、「その父なる神 様が、わたしを信じるあなたを赦し、今愛する子としてくださっている。」「そして、あなたを攻撃するもの に、そのような力をもって立ち向かってくださる。」といっておられます。むしろ今日イエス様は、「その父 なる神様の力強さ、まもりを、あなたは忘れてはいないですか。」「恐れをもって、その力を信頼しています かと」イエス様はわたしたちに問いかけておられます。
イエス様の「恐れるな」という言葉は、戒めではありません。これはイエス様の励ましと慰めの言葉です。 恐怖に対して、やせ我慢して、耐えろといっているのではありません。神様は「お前は弱い、恐れてんじゃな いよ」と怒って言われているのでもありません。これは、「人を恐れるな」という教訓ではなくて、わたした ちに勇気を与えようとされているイエス様の慰めと励ましのお言葉です。この「恐れるな」という言葉に、主 の慰めの響きを聞き取ることができるならば、それはまことに幸いなことです。今日の箇所では、イエス様は もうすぐ派遣される弟子たちに向かってこの言葉を語っています。弟子たちが遣わされていくに際して、イエ ス様が一番心配なさったのは、弟子たちが怖がってしまい、なにも動けなくなってしまうことです。だから、 その弟子たちの心の中に生まれるに違いない、恐れを取り除くこうと、この言葉を与えたのです。「人々を恐 がる必要はない。」という言葉は、恐怖を覚えているわたしたちにとっては、「なんで恐がるのか?」とイエ ス様に、なにか「お前は、臆病だなー」と言われているように聞こえてしまいます。わたしたちは、誰かに「 何でそんなに怖がっているの?」といわれるのが、一番恥ずかしいことだいうことを経験上、知っています。心 の中にある、恐怖を指摘されると、わたしたちは恥ずかしいと思うだけでなく、なんでそんなこと指摘するの と怒ったりして、その指摘を素直に受け止められないものです。「恐れなくてもいいじゃない」と言われても 、怖いんだから仕方ないじゃないと思ってしまいます。「恐れるな」とイエス様に言われても、その言葉を受 け止められないとしたら、わたしたちは恐れから自由になることはできません。
わたしたちは、時に人を傷つけることもあれば、傷つけられることもある、人のものを盗りたくなったり、 実際に盗みを働く人もいる。罪が存在する世界に生きていますから、そのような悲しい現実に遭遇することも 多々あります。自分が傷つけられる可能性、恐怖に脅かされる可能性は多々あるのです。昨日フランスで起き たこともそうです。わたしは、もし明日日本で起きたらと、ふと想像して怖くなったりもしました。そのよう なわたしたちに、イエス様は言われます。「この世や人が奪えるのは、せいぜいあなたのからだだけではない か。なぜ、それを恐れるのか。彼らは、あなたの魂を殺すことはできないのだよ。」28節でイエス様は「体は 殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れ なさい」といっておられます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」それが、私たちがこの世で 出会い、恐れる人たちです。その人たちによって、体が殺されてしまうかもしれない、そういう恐れの中に私 たちはあります。確かに、体は彼らによって殺されてしまうかもしれない、しかし彼らは、魂まで殺すことは できないのだ、とおっしゃっています。人々は、あなたの体を殺すことができるかもしれないが、彼らの力は あなたの魂にまでは及ばない、それに対して、神様の力は、体のみではなく、魂にまで及ぶのだ、ということ です。その場合の魂とは、私たちの一番中心の本質の部分、大事な部分のことを指していると言えるでしょう 。人間の力はそこにまでは及ばない、しかし神様の力はそこに及ぶ。魂をも滅ぼすことができる、それなら、 本当に恐れるべきなのはどちらか、それがここでの問いです。つまり私たちは、恐れる相手を間違えているの ではないか。本当に恐れるべき方を見つめなさいというのが、28節の教えなのです。
しかし、これを聞いてもわたしたちは、人は魂を滅ぼすことはできないから、安心だとはどうしてもなりま せん。正直に言うと、体や精神、心が傷つけられることがどうしても、怖いのです。28節で、「体を殺すこと しかできない者を恐れるな」といっていますが、イエス様は、わたしたちの体を、軽んじられているわけでは ありません。イエス様は、体が大事じゃないと言いたいのではありません。むしろ、30節で父なる神様がわた したちの「髪の毛一本残らず数えられている」とあるように、父なる神様はわたしたちの体を髪の毛の一本ま でも、大事に見ていてくださっています。29節には、二羽の雀が一アサリオンで売られているとありますが、 この当時一つのパンが2アサリオンで売られておりました。つまりパンを買う代金の半額で二羽の雀が買えたと いうことです。つまり食糧としてパンよりも安く売られている小さな雀ですら、父なる神様の許可なしには地に 落ちることはない、つまり捕まることはないのだし、さらに人の髪の毛一本もしっかりと見ておられる父なる 神様が、誰かから勝手にわたしたちの髪の毛の一本すらも奪わせはしないといっておられるということです。 神様の許可がなければ、髪の毛一本する落ちることはないのです。ですから、もし誰かがわたしの髪の毛を引 っこ抜いたとしても、それは神様の許可のもとで行われたことです。しかし、父なる神様は、そのようなわた したちを攻撃してくる人たちが、わたしたちの体も魂も滅ぼすことは絶対に許可されません。体が殺されると いうことは、あるでしょう。後藤健二さんはISに殺されてしまいました。体は殺されました。しかし、後藤健 二さんの魂も体も、父なる神様は守っておられます。魂も体も滅ぼされていません。復活するからです。だか ら「恐れる必要はない」とイエス様はいっておられるのです。しかし、わたしたちは、これを聞いても、やは り恐怖を克服することはできません。
この言葉を、聞いた12人の弟子たちもそうでした。ここまでしっかりとイエス様の言葉を受けた弟子たちが 、この後どうなったかというと、やはり死を恐れました。体を殺されるのを恐れました。イエス様が十字架に つけられる前の裁判の時に、逃げた弟子もいたし、十字架刑が確定してから、自分も裁かれるのではないかと 思って、逃げた弟子たちもいました。弟子たちはイエス様から離れて自分たちの命を守ろうとしたのです。神 様を捨て、弟子たちは、死への恐れ、迫害への恐れに負けてしまったんです。弟子たちは逃げ出せずにはおれ なかった。しかし、弟子たちに見捨てられてお一人となったイエス様だけが、お逃げにならなかった。自分を 罵る人を前にしても、自分を傷つける人を前にしても、処刑の直前でも、死を前にしても、逃げることなかっ た。イエス様はボロボロになりながら、恐怖や痛みを覚えながら、ゴルゴダの丘に向かって歩いて行きました 。イエス様は無敵の英雄のように堂々と死を打ち負かしに歩いていったのではありませんでした。すべての攻 撃、痛み、恐れ、病、その体に受けて、最後に死なれました。弟子たちは、恐れに負けて逃げ出してしまった のですが、イエス様は恐れを受け止めて逃げずに死なれました。イエス様は、弟子たちの代わりに恐れを負い 、死なれました。わたしたちの代わりに、地獄にまで行かれて、地獄で味わう滅びを受けられました。しかし 、そこでも、負けられなかった。負けなかったイエス様が、最後に父なる神様によって復活させられて、死に 勝たれました。そのイエス様の後について行くものは、もはや地獄に行く必要はない、死ぬことはなくなった と弟子たちは、復活されたイエス様と出会い、そのことを知りました。弟子たちもわたしたちも、イエス様を 信じて洗礼を受けひとつとされたとき、イエス様と共に死に、イエス様と共に復活させられ、死に勝って生き ることができるようになっているのです。
イエス様を信じて歩む者となった時わたしたちは、父なる神様から、「これはわたしの愛する子」だと宣言 され、「神様のもの」とされて、死と滅びから救われるのです。父なる神様は、わたしたちを恐れさせる人々に 対して、「これはわたしのものだ。勝手に手を付けるな。この子の髪の毛一本すらお前に渡さん。」という御 心、父として愛をもって、わたしたちを守ってくださいます。父なる神様は、わたしたちを脅かす人々、命を 奪おうする人々、誘惑してくる悪魔、それらの者が、わたしたちの体を殺しても、魂も体も滅ぼさず、必ず甦 らせてくださります。しかし、そのような父なる神様の愛を受けているのに、恐れてしまい、恐怖に負けて、 自分の力を頼って逃げてしまう、受難の時の弟子たちのようなわたしたちでもあります。父なる神様の愛を信 じることができない、父なる神様にすべてを委ねきることができない、自分の力に頼って逃げようとしてしま う。どうしてもわたしたちは、父なる神様の力強い御業を軽んじて、自分を襲う者の力を重んじて恐れてしま う。父なる神様のみ腕の力強さを恐れることができていないのです。しかし、イエス様は弟子たちもわたした ちも、そのようになることをご存知でありました。だからイエス様は今、わたしたちのために、父なる神様に 、「父よ、このわたしの弟は、このわたしの妹は、まだあなたのことをしっかりと信じることはできていませ ん。まだこの世にも、この世の人々にも恐れを抱いています。その恐れに負けて、逃げ出すことも、閉じこも って怠けることもあります。しかし、お許し下さい。彼は、わたしの弟です。彼女はわたしの妹です。あなた の子どもたちです。この弟と妹たちのためにわたしは死んだのです。お許し下さい。」と執り成しをしてくだ さっています。このイエス様の執り成しがあるからこそ、わたしたちは、今、神様を信じることができずに、 恐れ、逃げ、自分でどうこうしてしまうような罪を犯しているのに赦されているのです。このイエス様の執り 成しの支えがあるからこそ、わたしたちは前を向くことができるのです。この執り成しに支えられているから 、再度恐怖と向き合うことができるのです。そして父なる神様の愛がわたしたちの、勇気を起こさせるもので す。父なる神様こそが、わたしたちを守ってくださる、復活させてくださるのです。父なる神様こそが、その 敵を滅ぼし、敵から友へ、敵から兄弟姉妹へと、造り変えてくださるのです。その父の愛とみ腕の力強さをわ たしたちは信じているのです。わたしたちを執り成し赦してくださる主が、わたしたちを愛し守り敵に打ち勝 って変えてくださる主がわたしたちと共にいてくださるのです。主が共にいてくださるから、「もう、恐れな くてよいのです」。この主の力強さを、この主の御業を、この主の執り成しと赦しの恵みを、わたしたちは讃 え、屋根の上いるように全地に向かって歌い、告げ知らせるのです。