「良い木につながる」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:申命記 第7章6-11節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第7章15-20節
・ 讃美歌: 353、579
・狭き救いの命の道から広い滅びの道に迷い込ませようとする者がいる。
先週の礼拝においてわたしたちは、「狭い門から入りなさい」というイエス様の教えを聞きました。狭い門 は、イエス様のことを示しており、そのイエス様の中に信じて入る、イエス様を信じてイエス様と共に歩む、 その歩みこそ救いの道であり、滅びではなく命につながる道であることが教えられました。逆に広くて大きな 門は、大きくて優雅でだれでも入ることができるようであるが、勝利者しかはいることのできない、よき人し かはいることのできない門であって、その広い門にある広い道は、そこには自分の好き勝手ができるスペース が有り、だれにも干渉されずに歩むことの出来る道であるが、それは滅びに通じる道であるということが語ら れました。本日のイエス様の教えは、その狭い門に入り、狭き道を歩もうとしているものたちに向けての警告 です。どのような警告かと言えば、それはその狭き命の道から迷い出させ、広い道に導く者がいるので警戒し なさいということです。
本日の15節には「偽預言者を警戒しなさい」とあります。この偽預言者こそが、わたしたちをイエス様とい う命の道から迷い出させようとする者のことです。預言者とは、神様のみ言葉を預けられ、それを伝える者、そ の意味で、信仰の指導者、導き手です。その預言者に、偽者がいる、とイエス様は教えておられます。偽者の 預言者に導かれていったら、間違った道を歩むことになってしまう、そうならないようによく警戒しなさいと いうことです。このマタイによる福音書で語られている預言者とは、教会において、神様のみ言葉を教え、その 指導者となっていた人々のことです。その人々の中に、偽者がいる。15節の後半で「彼らは羊の皮を身にまと ってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」とイエス様は偽預言者の実態を、羊と狼とい う比喩を用いて語られています。教会はしばしば羊の群れに喩えられます。イエス様が良き羊飼いで、キリス ト者ひとりひとりは、その羊であります。偽預言者たちは、一見キリスト者の仲間の一人であるように装って いますが、実際はその仲間の羊たちをイエス様という羊飼いから、離れるように導いていこうとするものです。 その偽預言者の中身は貪欲な狼であって、羊を餌食にしようとしているのです。つまり、その狼は、羊を自分 の食い物、自分のものにしようとしているということです。神様のものであるキリスト者を、神様のものでは なく、自分のものにしようと虎視眈々と狙っているものということです。ある注解者は、新共同訳聖書では「 貪欲な狼」と訳している言葉を、「引き裂く狼」と訳しています。つまり、偽預言者は、神様と人との関係を引 き裂こうとしている者ということでしょう。「神様のものではなく自分のものにする」、「神様とわたしたち との関係を引き裂く」、「わたしたちを神様から離そうとする」、これらが偽預言者の本質を示しているとい えるでしょう。イエス様によって結ばれた父なる神様との関係を、この偽預言者は脅かそうとしている。わたし たちがこの偽の羊、偽の預言者についていくと、正しい道を歩んでいたはずなのに、滅びに通じる道に導かれ てしまうのです。このような危険が、狭き道、イエス様を信じる者の歩みには必ずあるということを、イエス 様はご存知であったので、わたしたちに警戒しなさいと注意されているのです。
・イエス様は実りを見れば、偽預言者が否かを見破れると教えられている
イエス様は、「あなたがたをわたしから引き離そうとするものに注意しなさい」ということだけでなく、そ のような偽預言者を見分ける方法をわたしたちに伝えようとされています。16~18節にはこうあります。「あ なたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い 木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶ こともできない」。つまり、導くものが良い導き手か悪い偽者の導き手かは、その実らせる実でわかるという ことです。良き導き手と悪い導き手を見分けるには、どのような実が実っているかを見ればよい、というわけ です。しかし、わたしたちは、「この実を結ぶ」ということが、実際にはどういうことを意味しているのかは あまりわかりません。
・「実」とは「行いの内にある本心」と「結果」
偽預言者を見分けるために、その実を見なさないとイエス様は言われています。イエス様が比喩的な表現で 語られているこの「実」また「実を結ぶ」ということは、何を意味しているでしょうか。ある注解者は、「実を 結ぶ」とは一方で「行為の結果」であり、他方で「行為」をそのもののことだと考えられているといってます。 もし、実がそのものの「行為」であると考えたとしましょう。そうすると、良い行為をしている人は、良い木 につながっている人で、悪い行いをしている人は悪い木につながっているとわたしたちは単純に理解できます 。しかし、立ち止まって考えてみると、その「行為」を表面的に見るだけでは、その人が偽預言者かどうかを 知ることはできないことがわかってきます。偽善者は、祈る時、形としては神様に祈っているようであったが 、その本当の所は人に聞いてもらうため、自分をみてもらうために祈っていました。もし、行為だけをみるな らば、この偽善者も、祈りという善行を行っていましたから、わたしたちの目からみると良い実を結んでいる としか判断できません。「行為」だけで判断する時、「行い」もまた、表面は羊に見えるが、中身は貪欲な狼で あることがあるために、ダマされてしまうことがあるのです。ですから、イエス様が言っている「実」は、表 面的な「行為」ということではないでしょう。良いか悪いか見分ける判断の材料となるのは、その「行為の目的 」です。言い換えれば、「行いの内にある本心」です。神様と語り合うために祈っていたのか、人にみせようと して祈っていたのか、その二つの違いは祈りの「目的」です。しかしそうは言われても、わたしたちは、他者 の行った「行為の内にある本心」「行為の目的」を見ているだけで知ること、理解するということが困難なこ とを知っています。いや、それが不可能であると言っても過言ではないでしょう。そうすると、イエス様が実 ということを「それは行為の目的だ」という意味で語っておられるとしても、イエス様はわたしたちに不可能 なことを勧められているということになります。ですから、わたしたちは、この実という言葉を、「結果」と しての意味で受け止めたいと思います。しかし、結果といっても、なんらかの「行い」をしたという「結果 」、言い換えれば実績という意味で考えてしまうと、先ほど考えていた「表面的な行為」ということと、何ら 違いがありません。この結果ということを、より受け取りやすく言葉を換えるならば、「結末」と考えたほう が良いと思います。偽預言者の行いの結末は、人が神様から離れるということです。偽預言者に導きによって 神様から離れる。それは、具体的言えば、キリストの体である教会から人が離されてしまうということです。 偽預言者によって、ある人の心が神様から離れてしまう。自分のことばかり考えてしまう。他人の目ばかり気 にして、神様の眼差しや神様のことを忘れてしまう。結果、具体的に教会から離れてしまう。それが、偽預言 者の行いの結果です。そのような、わたしたちを教会から、離そうとする人からは離れたいと思いますが、わ たしたちは、具体的に偽預言者とはどのような人かイメージすることができません。それは今の時代には、聖 書の書かれた時代のような預言者はいませんから、偽預言者と言われても具体的に偽預言者がどのような人で あるかはわたしたちにはイメージしにくい。ですから、新約聖書、旧約聖書に書かれている聖書が描く偽預言 者を見てみましょう。
・聖書が語る偽預言者
新約聖書のヨハネの手紙一4章5節(445頁)にあるヨハネの言葉によると、偽預言者は、世に属し、世のことを 話すと語られています。また世や、世の人々は、その偽預言者の言葉に耳を傾ける。なぜならば、偽預言者は 、耳に心地よい言葉を多く語るからだとヨハネは語ります。そして、偽預言者は、その言葉をもって、世の人 々を捕えます。旧約聖書のエレミヤ書にも偽預言者は登場しています。エレミヤ書23章16節(1220頁)では、偽 預言者はこのようなことを語ると書いています。「彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉では なく、自分の心の幻を語る」。偽預言者は、神様の言葉ではなく、自分自身の心の幻を語って、わたしたちに 望みを抱かせます。その望みは空しい望みです。預言者エレミヤの生きていた時代は、いつイスラエルの国が 、隣の大国であるバビロニアに攻め滅ぼされるかと、ヒヤヒヤしていた時代です。その時本当の預言者である エレミヤは、「バビロニアよって国が滅ぼされる、大事にしていた神殿が滅ぼされる」と神様の言葉を預かり 語りました。しかしイスラエルの人たちにとってそれは、聞きたくない、受け止めがたい言葉でした。そこで、 エレミヤと同じ時代を生きた偽預言者は、イスラエルの国は滅ぶことない、「平和があなたがたに臨む」「災 いがあなたたちに来ることはない」と主は言っていると、イスラエルの人たちにとって、耳に聞こえの良い言 葉を並べて、惑わします。偽の預言者は、自分の心の願望を語ります。このように、偽預言者は、世に不安や 恐れがあるときに、耳心地のよい言葉を語り、そして世の人は、その偽預言者の言葉を信じます。これまで、 見てきた偽預言者を踏まえて、今日のイエス様の言葉を考えると、偽預言者とは、羊のように装って、神様の 民に近づいてきて、狭き道は厳しく困難な道だからといい、時に今歩んでいる道は辛いだろうだからわたしの 所にこれば苦しくないよ、こちらの方にこれば安全だよ、楽だよ、そう神様が導かれているよといって、広い 道へと、わたしたちを導こうとするものであるということです。羊の群れの中、教会の中にも、そのような人 がいるということです。
・わたしも偽預言者だった
実は、わたし自身がかつてその教会の中にしる偽預言者のようなもの、貪欲な狼であったものでした。大学 生の時、既に洗礼を受けクリスチャンであったのに、教会に行っていませんでした。そのわたしが教会に戻る きっかけとなったのが、教会にいたある女性に好意を抱いたことでした。その当時は、下心をもって教会に通 っていたということです。その時、わたしはまさに世でも言う「羊の皮を被った狼」でありました。熱心なク リスチャンのようになれば、その女性が振り向いてくれると思い、熱心に教会に通いました。そして、まさに 、偽預言者的なことをしたことがありました。その女性が、ある深刻な悩みをもっている時に、相談に乗り「 こうすれば大丈夫だよ」「自分がなんとかするから安心して」などと言い、耳心地の良い言葉を語っていました 。その時のわたしの本心は、その人を本当に助けたいという真心からではなく、その人を自分のものにしたい という下心でした。そのような貪欲に基づいた行動をしていました。その人とお付き合いする可能性がないと わかった時、わたしは急にその人に冷たくなったり、怒ったりしたことから、わたしのその時の行動が、その 人を所有したいという貪欲で動いていたということがわかります。その女性は、しっかりとしていたからか、 わたしの下心があからさますぎたからかはわかりませんが、否、そのどちらでもなく、神様にその人は守られ ていたので、わたしの貪欲な誘いになびくことがなかったのだと思います。わたしの貪欲話は、もういいとし て、わたしはわたしがいかに貪欲だったのかをここで話したいのではなくて、わたしがその偽預言者のように 生きていた時に、最後にどうなったか、どのような結末になったかということをお伝えしたいのです。わたし は、まずその女性が他の誰とも付き合ってほしくないと思っていたので、その女性のまわりに近づいてくる男 性をその女性から引き離そうと必死でした。ですので、その女性の人間関係を引き裂くことばかりしていまし た。もちろん自分自身も、まわりの男性から嫌われ、関係が切れていきました。そして、その女性が別の誰か と付き合った時に、わたしはその人に対して、怨みや怒り、嫉妬、あらゆる汚い心をもって、その人を軽蔑す ることをし、その女性との関係も最後には切れてしまいました。わたしは、その女性がわたしだけを見つめて ほしいと願っていました。それは、つまり神様を見つめるのではなくて、自分を見つめてほしいということで す。神様との関係ではなくて、わたしとの関係だけで生きてほしいということです。わたしは、その女性と神 様との関係をも、引き裂こうと願っていたのです。まさに偽預言者です。偽預言者のようであったわたしの結 末は、関係の消失です。自分自身がまわりを引き裂く狼となっていたので、わたしのまわりの関係はすべて切 れてしまいました。わたしのまわりには、関係を切らされて傷ついた人が多く、わたし自身もすべての関係を 失い、孤独となり、苦しみました。これが、偽預言者の結ぶ「実」です。偽預言者のまわりでは、関係のこじ れがおこり、関係が切れることがしばしばおこります。そして、偽預言者自身が、孤独となっているはずです 。孤独とは、独身という意味ではなくて、すべての人間関係を失い、そして神様との関係も見失っている状態 です。
今、わたし自身の経験を踏まえ、色々な偽預言者の特徴を見てみました。神様から人を離そうとする、貪欲 な思いでわたしたちを自分のものとするということが偽預言者の行いの目的であり、「実」である結果は、関 係の破壊です。しかし、教会の中で、関係の破壊が起こっていても、誰が原因であるのか、だれが貪欲をもっ てそうしているのかを、判断するということは容易ではありません。人間関係をこじれさせている人がいても 、その人のことを即座に「あの人は偽預言者である」とはわたしたちには断定はできません。耳心地の良いこ とを語っていれば、その人が偽預言者であるということにはなりません。その人が、教会から離れ去るという ことが起きたとしても、離れた人が偽預言者であるということにはなりません。その人が、偽預言者の策略で 、教会から離れされただけかもしれません。わたしたちは、誰が偽預言者なのかということを判断することは できません。誰が偽預言者だったのかという結末は、人にはわからないのです。
・結末は誰にもわからない。人はわからない。神様だけがご存知である。
それが誰であるかということは、神様だけがご存知であることです。イエス様は偽預言者の結末をこのよう にお語りになっています。18節「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれる」ということは、つま り神様が、その偽預言者を打ち倒し、完全に切り離し、燃やされ滅びに至らせるということです。エレミヤ書 では、「神様御自身が、この偽預言者に立ち向かい、罰を与える」と書かれています。だれが、偽の預言者で あるかは、わたしたちがわからなくても、神様がご存知で、神様が裁きをくだされると聖書は語ります。です から、わたしたちが、誰が偽預言者であるかを気にすることはありません。わたしたちが、偽預言者を倒す必 要はないからです。
・他者を裁くことはできない。しかし、自分が神様のため生きているのか、自分のために生きているのかは、他 の誰よりも自分が判断できる。
ですから、わたしたちが、隣人が偽預言者であるないかということ、判断し、裁く必要はありません。しか し、わたしたちが気にしなければならないことは、自分自身がそのようになっていないかということです。わ たしたちは、時に滅びの道に誘う偽預言者のようなことをしてしまうことがあります。クリスチャンであって も貪欲が完全に無くなっているというわけではなく、またわたしたちは自分の力や努力、修行や修練によって貪 欲を抑えこんだり、無くしたりすることはできません。もともと、わたしたちはエデンの園でアダムとエバが 堕罪した時から、人は原罪という悪い木に結びついています。誰もが、貪欲を持つ偽預言者となったのです。 わたしたちも、もちろん例外ではありません。だから、わたしたちは、本当は、切り倒されて、燃やされて、 永遠に滅びるという道を歩む者だったのです。しかし、その、わたしたちが負うべき滅びという裁きを、切り 倒されて燃やされるという裁きを、イエス様が代わりに、苦難にあわれ、十字架に掛けられて犠牲となられる ことで、わたしたちの代わりにその裁きを負ってくださったのです。わたしたちが今だ、悪い木につながった ままであるならば、わたしたちは「悪い実」を結びます。「悪い実」が結ばれれば、人間関係がことごとく切 れていき、他者を傷つけ、または傷つけられ、ボロボロになっていきます。自分自身の持っていた関係だけで なく、自分が頼りにしていたプライドや能力、力すべてのものがことごとく崩されていきます。最後は、空虚 と孤独、絶望と死が目の前に広がります。その状態は、滅びの一歩手前です。悪い木の枝は、やがて切られる か、自分で枯れて、折れて死ぬのです。その先は、燃やされるという完全な滅びです。しかし、その滅びをイ エス様が代わりに負ってくださった。そして、さらに、その悪い木の枝を良い木である御自身にさし、わたし たちを良い木の枝としてくださったんです。だから、わたしたちは、救われたのです。わたしたちが、もし悪 い木と結びついていたとしても、そして関係の破壊による孤独、そして死という絶望の底で、主はわたしたち を助けてくださるのです。しかし、そこで、主を知ったもの、イエス様とつながったものは、良い木につなが っています。もともと、醜い枝としても、もともとは貪欲な狼だったとしても、良い木つなげられます。イエ ス様という良い木につながった狼は、子羊と共に生きることができるようになります。それが今のわたしです 。
わたしたちが、良い木に結ばれたということを、実際に示すのが洗礼です。洗礼を受けたものは、同時に教会 の群れの一員となります。教会というキリストの体、良い木に、目に見える形で結びつきます。そして、パンと ぶどう酒という聖餐の聖礼典により、今でも自分が良い木につながっているということを、神様によって示さ れ、知らされています。それが、わたしたちが良い木につながっているという、神様からの証です。
最後に、良い木に結ばれたわたしたちが気にしなければいけないことを聞いていきましょう。それはなにかと 言えば、神様の御言葉です。イエス様という羊飼いに導かれるようになった羊たちは、飼い主の御言葉を聞き 分けると聖書で言われています。良い木に結ばれた、良き羊飼いに導かれるわたしたちが、偽預言者に惑わされ ないためには、神様御自身が語られる、言葉を聞くことが必要です。だれが、偽預言者かを判断して、断罪す ることがわたしたちの役目ではありません。それは、神様がしてくださることです。そうではなくて、羊は、 良き羊飼いであられるイエス様が語られる言葉を聞くことが大事なのです。礼拝の説教は神様が説教者を通し てわたしたちにひとりひとり語られるメッセージです。また礼拝の説教は、イエス様のことを証言している聖 書に基づいて、語られています。すなわち、この礼拝の説教にこそ、生きている良き羊飼いの言葉があるので す。この神様の御言葉にわたしたちは耳を傾ける必要があります。この教会の礼拝のみ言葉を聞くことこそが 、良い木にしっかりとつながっているということです。イエス様は、良い木です。その枝につながりなさいと イエス様は言われています。そして羊として、しっかりと御言葉を聞き、偽預言者に惑わされることなく、着 いてきなさいと言われています。もし、迷い出てしまっても、良き羊飼いは、命をかけてわたしたちを狼の手 から救い出し、元の道に戻してくださいます。良い木につながり、良き羊飼いの言葉を聞き逃さず、まっすぐ に狭き命の道を、群れをなして歩んでまいりましょう。