夕礼拝

神様が父である幸い

「神様が父である幸い」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第63章15-19節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第6章9節 
・ 讃美歌:136、457

 神様はわたしたちが、神のこどもたちとなる事を望んでおられます。また神様は、わたしたちに「父よ」と呼びかけられることを望まれておられます。そのために、自分の愛する独り子イエス様をこの世に送り、独り子の命と引き換えにして、わたしたちを罪人から神の子どもたちとなるための道を開いて下さいました。その道に近づいているもの、またその道を歩み始めたこどもたちに、イエス様は今日の祈りの手ほどきをしてくださいます。

 6章5~8節でイエス様が、わたしたちの祈りの陥りやすい間違いについて警告をなさった後に「だから、こう祈りなさい」そう言って教えてくださったのが「主の祈り」です。わたしたちは礼拝の時はもちろんのこと、いろいろな機会に「主の祈り」を祈っています。しかし、定められた礼拝の順序に従って、決められた時間に祈っていますので、ともすると、あまり考えないで、言葉だけを出しているということになりがちです。わたしたちは「主の祈り」の一つ一つの言葉の中身を無視して、言葉の外側である音や形だけを繰り返して祈っていることが多いです。ですから、今日は、イエス様の言葉に基づいて、イエス様の祈りの手ほどき聴き、主の祈りの中身、今日は始めの部分ですが、その主の祈りの中身がなんであるかを、共にこの礼拝の説教を通して聞き、その中身に迫っていきたいと思います。

 今日の共に聞くのは、「主の祈り」のはじめに当たる「呼びかけ」の部分です。この最初の部分である呼びかけの言葉は、「天におられるわたしたちの父よ」です。わたしたちがだれにお祈りをしているか。それは、もちろん、神様です。けれども、その神様を「天におられる父」と呼んでお祈りをするということはいったいどういう意味なのか。信仰者となって教会に長く連なっている者は、神様を「父なる神様」であるとか「天の父よ」と呼ぶことにすっかり慣れっこになっていまして、何も感じないことが多いのではないかと思います。しかし、わたしたちは、本当に正しく「神様がわたしの父である」ということを実感して、お祈りをしているでしょうか。わたしたちは「神様が父なる神様だ」ということを初めから教えられていましたので、「父なる神様という、神様である」とただ言葉だけ受け取って、呼びかける。そのように主の祈りを祈ることに慣れ、ただ言葉だけを唱えているのと同じように、「父なる神様」ということも、形だけになっていってしまうという、そのような危険があると思います。

 神様を「父」と呼ぶことができる、つまり「神様を父としていい」ということを知った当時のユダヤの人々の受けた衝撃は、非常に大きかったでしょう。なぜならば、ユダヤの人々は、旧約聖書の時以来、神様は恐るべき聖なる御方であり、その前へ出るならば、その神様の威光に打たれて死んでしまう、そのような恐れを持って神様のことを考えていました。モーセにしても、あるいは、預言者イザヤにしても、そのような神様の前に出て、本当に息の止まるような恐れを感じていることが旧約聖書にかかれています。そのような考えを土台に持っているので、この主の祈りを教えられた弟子たち、群集たちにとって、神様を「父よ」と呼ぶことができるということは、全く思いも掛けない、驚くべきことでした。神様を「父よ」と呼んで祈ることができるということは、神様がただ親しげな神様になったという事ではなくて、わたしたちがその聖なる神様を、恐れないで、その神様の前に出ることができるようになっているということです。神様に向かって「父よ」と言ってお祈りをすることは、本当は唯一の神の子であるイエス様だからこそ言えることです。神の子は「神」ですから、罪のないものです。罪のないものだけが、神様の前にたち、生きることができものです。そのように神様の前に生きて立てるものが「神の子」なのです。では、なぜ、イエス様は、罪を犯してしまうわたしたちに、「父よ」と呼びかけなさいと言われたのかが気になるところです。なぜ、わたしたちが今、神様を父よと呼んでいいのか。それはイエス様が、実際に十字架に掛かって、すべての人の罪を代わりに背負い、その罪の負債を御自分の命と引き換えにして精算してくださったからです。その罪の贖いによって、わたしたちは罪を赦されて、神の子ども認められて神様の前にたち、「父よ」と呼びかけて祈ることが赦されているのです。このイエス様の死は、すべての人の罪を贖うためのものです。この死によって、すべての人が神の子どもとなる道が開かれたのです。だから、洗礼を受けていない人も「父よ」と呼びかけることは赦されています。クリスチャンでなければ言ってはいけない呼びかけというわけではありません。

 ローマの信徒への手紙8章15節には「あなたがたは人を奴隷として、再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と書いてあります。これは、洗礼を受けて、信仰者になったものに語りかけられたパウロの言葉です。先ほど、「父よ」と呼びかけるのは、クリスチャンでなくても言ってもよいと言いました。確かにイエス様の死によって、罪を赦されて、神様の前に立つことができますから、呼びかけて祈っていいのです。しかし、それでは、「神様がわたしたちの父である」と、本当に知り、実感することはできないでしょう。パウロのこの言葉は、洗礼を受け、聖霊が与えられることで、ほんとうの意味で「アッバ、父よ」と呼ぶことができると言っています。自分の罪を悔い改めて、神様を信じると告白しなければ、洗礼を受けることはできません。つまり洗礼を受け、クリスチャンでなければ、聖霊が自分の内に与えらないので、本当の意味で、「父よ」と呼ぶことができないのです。イエス様がわたしの本当の救い主であると信じて、洗礼を受けるとき、わたしたちは聖霊が与えられます。その聖霊がわたしたちの内に宿り、罪を犯すはずのわたしたちが、新たにされていき、実態のともなった神の子に変えていってくださるのです。洗礼を受けた途端に、実態が伴った完全な神の子になるわけではありません。終わりに向かって、わたしたちは日々新たにかえらえているのです。ですから、洗礼を受けたのもの、まだ完全には神の子どもになっていないのに、「父よ」と呼ぶことが赦されているのです。洗礼を受けたものは、さらに、神様を本当の意味で「父よ」と呼ぶことができる幸いに与ることができます。

 では、本当の意味で神様を「父と呼ぶことができる幸い」とは、なんだということがわたしたちの気になるところです。最近のお父さんがあまりお父さんらしくなくなって、子供をほったらかしたり、さらにいきすぎて殺してしまったりと、いろんなことがニュースに出てきます。ですから神様を「父よ」と呼ぶことができること、神様が父であるということが、それほど胸に響くという、ことではないかもしれません。けれども、本来父というものは本当に子供を愛しているものです。ですからイエス様は神様のことを表す一番ふさわしい言葉として「天の父」という言葉をわたしたちに教えて下さいました。主の祈りでも「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えられています。イエス様が神様にお祈りする時は「アッバ」と言って祈っています。「アッバ」っていうのは「お父さん」という意味のアラム語です。アラム語は宗教的な言語ではなく、日常で使う言語です。ですからこれは堅苦しい呼び方でなくて、小さな子供が日常できに「お父さん」って呼んでいる、そのような時に使う言葉です。ですから、わたしたちに当てはめて考えると、その「父」の呼び方は、人それぞれになるでしょう。人によっては、「パパ」であるだろうし、「父ちゃん」かもしれません。「おやじ」かもしれません。小さい子が日常的に、父親を「おやじ」と呼ぶのはあまりみかけたことはありませんが。ここで大事なのは、祈っている相手は、日常的であるということです。イエス様は、そのように父に対しての呼び方が、「アッバ」でした。イエス様は、日常的に神様と接しており、またその言葉からは、小さい子が父を信頼して頼っていることは表れています。

 そうするとわたしたちはそれぞれ、父なる神様のことをなんと呼べばいいでしょうか。それは、自分がもっとも、呼びかけ易い、慣れている、言葉で「父」と呼ぶことがふさわしいのではないかと思います。ちなみに、わたしは、独りで祈るときは、神様のことを「お父さん」と言って、呼びかけて祈り始め、相談したり、お願いしたりしています。そう祈るのは、わたしにとって、ちゃんと人格的で、お話しのできる相手としての「父」を想像した時にでてきたのが、「お父さん」という言葉だったからです。昔のわたしは、「父なる神様」と祈ると、どうしても、「父」ということよりも、「神様」の部分を強く意識してしまい、なにか、日常的ではなくて、そして人とはまったく異なった「神」に祈っている感じがしていました。日常的ではないので、非日常のことがら、つまり、困った時などしか、祈らなくなってしまっていました。その時は、神様が父であるということなどは、意識も考えもしていなかった時でした。今はそのように呼びかけても、神様が「父」であることを忘れてしまうということはありませんけれども。ですから、わたしたちの呼びかけの言葉がこれじゃなきゃだめということはありません。この「主の祈り」の呼びかけで、イエス様は、「神」という言葉は使わないであえて「父」と呼びかけることをわたしたちに勧めておられます。大切なのは、わたしたちそれぞれが、日常的であり、神様がわたしたちを常に愛してくださっていて、見守ってくださっていて、すべてを委ねきれるほどに信頼できる方で、そしてなにより身近な方として、「父」と呼びかけるということです。最も大切なのは、この方が「本当におられる」として、祈ることでしょう。

 当時のユダヤ人たちは神様にお祈りする時に「アッバ」なんて言葉は使わなかったそうです。「いと高き神よ」とかそのような言葉を使いました。神様に「アッバ」なんて、そんな気安く呼ぶもんじゃないというふうに思っていたのです。けれどもイエス様はそんな水臭い関係じゃない、神様は本当に「お父さん」とすがりついて行けるようなお方なんだということをわたしたちに教えて下さりましたし、またイエス様御自身がそのようなふうにして祈っておられます。たとえばあのゲッセマネのお祈りの時です。イエス様の受難が始まる大変な時です。自分が十字架にかかるかどうかを、神様に示していただく、そのような、自分の命の掛かった祈りの時に、「父よ」「アッバ」と言って祈っています。イエス様は、「父さん、父さんに、できないことはありません。どうか、この杯を取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と祈りました。これは自分の生き死にがかかっている深刻な祈りです。その時でもイエス様は「アッバ」「お父さん」と言って祈っています。そして絶対の信頼を持っています。皆に見捨てられて十字架にかかって殺される、その苦しみから逃れたいと思う人の心をイエス様も持っておられました。けれどもそれを脇へ置いて「わたしの思いではなく」自分の肉の思いを消して「みこころのままになさって下さい」と自分を天の父の御業の器として投げ出しています。これは、あきらめてそのように言っているのではなく、父なる神様を信頼しきって言われています。

 このイエス様の祈りのお姿に、神様がわたしたちの父であることの幸いが示されています。わたしたちが神様を本当に信頼し「父」と呼ぶことができる時、自分の歩みに不安を持ち、疑いを持つという、そのような恐れをなくなります。わたしたちが本当に神様を父として信頼できるときは、苦難や試練に押しつぶされることもないはずです。自分のやっていることも間違いはないだろうか、こういうことをやっていいだろうかとうろうろ、うろうろしない。たとえ間違っていても構わない、神様がわたしの父であって全部の責任を神様が負って下さる、間違っていたら神様がちゃんと正しい道にもどして下さる。わたしがどのような過酷な試練でも苦難にあっても、それに押しつぶされる前に父は必ず助けてくださる、さらにその試練も苦難も無駄なものにせず、万事を益としてくださることをわたしは知っている。そのような信頼が「アッバ、父よ」という言葉の中に込められているのです。

 ではそのような信頼をわたしたちはどこから得てくるのでしょうか。それは神様が、神様の敵であったわたしたちを愛して、その罪をあがなうために自分の独り子をわたしたちに与えて下さり、「神様のこども」にしてくださったこと。それを知ることからです。わたしたち人は時に神様を忘れ、自分勝手に生き、隣人を知らず知らずの内に傷つけるそのような罪人です。神様の子どもとなるような資格も権利も、自分の中には何一つなく、持ってもおりませんでした。しかし神様がそのようなわたしたちを愛し、御自分の子どもとしようというと決意をしてくださって、自分の愛する独り子イエス様をこの世に送り、わたしたちの罪をすべて御自分お一人で担い、その命と引き換えにして、わたしたちを罪人から神様の子どもたちとなるための道を開いて下さいました。

 神様はわたしたちを「神の子ども」とするために、愛する唯一の自分の子を手放し十字架に付けられたのです。わたしは、それは、自分が犠牲になるよりも厳しいことなのではないかと思います。もし、わたしの子が誰かのために、亡くなったとしたら、わたしは「息子は素晴らしかった」とは言えませんし、喜べません。そうではなくて、「なんでわたしの子が」「わたしが代わりに死んだほうが良かった」と苦しむと思います。父なる神様は、わたしたちを救うために、「わたしたちを自分の子」とするために、自ら、愛する子を差し出されたのです。決して無感情に、事務的に差し出されたということはないでしょう。想像もできないほどの苦しみであると思います。死ぬのは本当は嫌だという息子に、あの子たちのために、死になさいと言われたのです。その「あの子たち」がわたしたちです。わたしたちが、愛されて、子とされているのは、この「父と子の苦しみ」に基づいているのです。わたしたちを罪から救うために、愛する子を献げられた。それほどまでに、わたしたちのことを愛してくださっているのです。そのように救ってくださった神様が、わたしたちを神の子と認めてくださり、「父とわたしを呼び、信頼しなさい」と言われているのです。

 神様を「父よ」「お父さん」と呼ぶことができるということは、どんなに大きな恵みであるか。その大きな恵みをわたしたちは与えられています。わたしたちはいろいろ重荷を負っています。体の重荷、心の重荷、家庭の重荷、いろんな重荷があります。そしてそのような重荷を思い起こすと、何か自分の先行きが暗いように思います。しかし、その時に思い返したいことがあります。それは「わたしは神さまの子と認め、そのように変えてくださる」ということです。この天地を造り、いっさいを所有しておられる神様、その神様が、限りなく愛して下さる子であるということは、わたしたちの前途に本当に大きな祝福が約束されているということです。今は重荷を負って苦しんでいます。けれども神様はその重荷を負っていることを、無駄にはされず、本当の神の子こどもとなるためのよき訓練としてくださいます。またしかし、その試練や訓練に耐えられない時は、すぐに逃れの道を示してくださいます。逃れたらもう神の子となれないというわけではなく、またその道に戻してくださいます。そして、今度は試練に耐えることのできる力と支えを与えてくださり、共に歩んでくださいます。そのように、わたしたちの重荷を背負った歩みを、本当に神の子となるための祝福の道に変えて下さるお方が、わたしの父であります。そのことをわたしたちが生活のただ中で、もう一度受け取り直した時に、今までわたしたちの前に立ちふさがっておった絶望の壁が崩れてゆきます。わたしたちはよく辛い目に会いますと「運命だ」と言います。しかし、わたしたちの父なる神様は運命さえも支配なさる神様です。運命なんかに負けない。すべてを支配なさる神様がわたしたちを愛して下さる。その証拠は何か、御自分の独り子を十字架にかけて下さった。しかもそれはわたしたちの罪をあがなうためです。このキリストの十字架によって、あがなわれることのできない罪はない。わたしたちは自分の行き届かないところ、悪い癖、いろんなものを見てはつぶやきます。「ああわたしは駄目だ」と言います。しかし、じゃあキリストの十字架はそれをあがなうことができないほど、力が弱いでしょうか。そんなことはない、全能の神様がわたしたちを救うために独り子を十字架にかけて下さったということは、どんな壁も障がいも、打ち破ることができるという神様の驚くべき業です。その愛の業をはっきり知った時に、心の底から「アッバ、父よ」と呼ぶことができます。その父を信頼し、悔い改めて、洗礼を受けたものは「神の子ども」です。この言葉の持つ重みを共に、しっかりと受け止め、神の子どもとして、「父よ」と呼びかけ、祈ってまいりましょう。

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