夕礼拝

永遠の命を受け継ぐ

「永遠の命を受け継ぐ」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: ヨナ書 第2章1―10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第19章16―30節
・ 讃美歌 : 356、479

金持ちの青年と主イエス
 本日はマタイによる福音書第19章16節から30節の御言葉に聞きたいと思います。主イエスの前に一人の青年が主イエスに問います。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのですか。」(16節)この青年は「どうしたら人生の成功者になれるのか「どのようにして豊かで、幸せな生き方ができるのか」ということを尋ねていません。今日の競争社会にあって、勝利者になる方法などを聞いているのではありません。この青年が切実に聞きたいと願っていた質問は「永遠の命を得る」ことでした。この青年は模範的に思われるような青年です。この質問の内容においても、その態度においても、この青年は火の打ち所もないほどに模範的に生きてきました。
 主イエスはこの青年の切実な問いに対してこのように言われました。17節からです。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(17~20節)この青年は神様の掟、教えである律法の中心である十戒を守ってきました。けれども、まだ何か欠けているでしょうかと主イエスに問います。主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)と言われました。青年はその主イエスのお答えを聞くと、悲しみながら立ち去りました。青年は沢山の財産を持っており、それを全部手放すことが出来なかったからです。  主イエスは究極の「善いこと」を教えようとされたのではありません。主イエスは「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」(17節)と言われました。善い方はただおひとり、つまり父なる神様お一人ですから、善いことについては、その父なる神にお尋ねすべきであるのに、どうしてこのわたしに尋ねるのか、と主イエスは言われたのです。自分の良い行いや正しさ、人間の業によって生きるのではなく、ただお一人の善い方である神様によって生きるようにと主イエスはこの青年を招いておられるのです。この青年は自分の財産を手放すことが出来ませんでした。自分の財産を手放すようなことは到底自分には出来ない、という自分自身に気付いたのです。主イエスは自分の善い行い、人間の行いによって、永遠の命を得ることは不可能であることを教えられたのです。自分が何か良い行為を行い、それが充分になったところで永遠の命に達することはできないということを示されました。この青年は自分には出来ないことがあることを自覚しました。主イエスは、神様の御前に立ち、その全存在を委ねること、この青年にとっては全財産を手放すことが永遠の命を得る唯一の道であることを、主イエスは示そうとされたのです。
 この青年は「悲しみながら」主イエスの前から立ち去りました。この青年は「全財産を投げ出して貧しい人に施さなければならないのに、自分にはそれができない」と自覚しました。この後の青年の歩みは悲しみに支配されたものでした。青年はこの後も、これまで通り律法を守り、善いことに励み、人々に親切にする歩みをしたでしょう。周囲の人々はこの青年のこと立派な人格者だろうと感心し、褒めることでしょう。 けれども、本人はどうだったのでしょう。この青年の中にはいつまでも満たされることのない悲しみが支配していました。自分の善い行い、正しさという財産を拠り所とする生き方によって、本当に主イエスの御前に立つこと、従うことが出来ないという悲しみでした。

誰が救われるだろうか
 この青年が立ち去った後、主イエスは弟子たちに、「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23節)と言われました。弟子たちはこの主イエスのお言葉を聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と聞いたのです。一体誰が救われるのだろうか、誰も救われないのではないか、という弟子たちの驚きと戸惑いが込められている言葉です。主イエスは弟子たちを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(26節)と言われました。救われるということ、救いとは人間の業ではなく、神様の業なのです。人間にできることではない、と主イエスは言われます。人間の良い行い、そのための努力によって救いが与えられるのではないのです。先ほどの青年が言うように「まだ何か欠けているでしょうか」と言うように、善い行いを積み上げて、救いが得られたということはないのです。救いとは、私たちの良い行い、という私たちの側から得られるものではなく、神様から、私たちの外側から与えられるものなのです。救いとは「人間にできることではない」のです。主イエスは「神は何でもできる」と言われます。

神は何でもできる
 「神は何でもできる」。それは、神様は全能である、ということです。神様が全能であられるとは、どんな人でも、自分の正しさ、善い行いという財産を全く持っていない人でも、その恵みのご意志によって救うことができる、ということです。この私をも救って下さるところに神様の全能が示されています。起こり得ないことが実現することこそ神の全能の力によってなのです。それは、この私が救われる、救われるに値しない者が救われるということが実現するのです。
 神様の全能の力を私たちはどのようにして示されるのでしょうか。それは主イエス・キリストにおいてです。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちは、神様の全能、神様は何でもできるということを示されます。神は、その独り子を私たちと同じ人間としてこの世に遣わされました。その神の子、ご自身が神であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、この上ない苦しみを受け、死んで下さったのです。神様が、私たち罪人のために、ご自分の身を犠牲にして苦しみと死を引き受けて下さった。神は何でもできるとは、こんなことまでもできるということです。ご自身を徹底的に低くして、罪人を救うことができる、それが神様の全能です。主イエス・キリストの十字架にこそ、神様の全能がいかに徹底的なものであるかが示されています。そして神様は、その主イエスを、死者の中から復活させ、新しく生かして下さいました。主イエスによって罪の赦しが与えられていることを信じること、その主イエスの復活にあずからせ、新しく生かして下さるという恵みの印です。この主イエスを復活させた力で、神様は、私たちをも新しくして下さるのです。自分の善い行い、正しさという自分の財産を拠り所として生きている私たちが、その財産を握りしめている手を離して、無一物になって、神様の恵みと慈しみに身を委ね、それに支えられて生きる者へと新しくされることができるのです。神は何でもお出来になります。私たちをこのように新しくされることもおできになるということです。この神様の全能の力、主イエス・キリストの十字架と復活において示されているお力です。神様の全能のお力、何でもできる力によって、救われるはずのない私たちに救いが与えられているのです。

大きな報い
 するとペトロは、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と言いました。主イエスは、救いは人間の力で獲得できるものではないと言われたのです。何か善いことをしたらその見返りとして救いが与えられるというものではないと言われたのです。それなのにペトロは、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っております。自分たちの行い、自分のことを主張しています。そして、更に「では、何をいただけるのでしょうか」と、その見返り、報酬を求めているのです。この言葉は、主イエスの教えと矛盾する内容です。そのようなペトロの言葉に対して主イエスは驚くべきことを仰います。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました。ここで主イエスはペトロの求めを退けてはおられないのです。主イエスは私に従ってきたあなたがたには、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めるという大きな報いが与えられると言っておられるのです。また、十二人の弟子たちだけではありません。29節にあるのは、誰であれ、主イエスの名のために、つまり主イエスを信じる信仰のために、大切なものを捨てて従った者には、その百倍の報いがあるということです。それは私たちに対しても語られていることです。私たちも、主イエスのために、信仰のゆえに大事なものを捨てて従うならば、大きな報いを期待してよいのだと言っておられるのです。

信仰とは「捨てる」こと
 救いは私たちの善い行いの報いとして得られるものではありません。人間の業、正しさによって与えられるものではありません。救いに全く相応しくない者に、神様の、恵みに満ちた全能のみ力によって与えられるのだ、というのが、あの金持ちの青年の話とそれに続く主イエスのお言葉の語っていることです。けれども、27節以下においては、主イエスによってそこに一つのことがつけ加えられています。救いは、善い行いへの報いではない、しかし、神様は、私たちの信仰に報いて下さる方だ、ということです。報いとして救われるのではないが、信仰への報いはあるのだ、と言ってもよいでしょう。そこにおいて見つめられている信仰は、「捨てる」ことです。ペトロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っています。確かに弟子たちは、自分の仕事や家族を捨てて主イエスに従ってきたのです。また、29節で全ての信仰者を対象に語られているのは、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てることです。自分にとって大切な、かけがえのないこれらのものを信仰のゆえに捨てることに対しては、その百倍の報いが与えられると言われているのです。
 先ほどの金持ちの青年にも、主イエスは財産を捨てることが求められました。神様を信じるということは、何もかも自分の手に握りしめている、その手を離して捨てるということです。捨てると言うことを、別の言い方にしますと、自分の手から、神様に御手に委ねると言うことです。私たちの小さな手において持っているものを、手放して、その手を神様のみ手の中に委ねるのです。主イエスは私たちにもそのことを求めておられます。私たちが大事にしているもの、気がかりであり、心配していること、切に願い求めていること、誰にも打ち明けられないで心の中に隠してしまい込んでいること、それらの、私たちが自分の手にしっかりと握り締めているものを、その手を離して、主なる神に委ねることを求めておられます。その主イエスは、全能の父なる神様の独り子です。何でもできる方です。その何でもできる力を、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さるために用いて下さった方です。神様の全能の力は、私たちがたとえどんな罪人であっても、その罪を赦して救って下さることに発揮されるのだということを示して下さった方です。その主イエス・キリストのみ手の中に、私たちは自分の大切にしている、あるいは気にかけているあのことこのことを委ねるのです。そこには、神様の全能のみ力によって、百倍の報いが与えられます。私たちがそれを握り締め、自分の力や才覚でどうにかしようとして生まれる結果よりも、もっと良いものが与えられるのです。
 信仰とは手を広げて、自分の握り締めているものを手離すことです。捨てるということです。あの金持ちの青年は自分の財産を手放すことが出来ませんでした。青年は自分の行い、自分の正しさを人生の土台、拠り所として生きていました。自分自身の存在を手放す、主イエスにすべてを委ねることが出来なかったということです。主イエスは青年に対してその拠り所を捨てて、私に従って来いと言われました。青年はそれが出来ませんでした。自分の手に持っている、握り締めている人生の土台から手を離す勇気がなかったのです。何の拠り所もない、不確かな歩みに陥ることが怖かったのでしょう。不確かなものに対して自分の身を委ねるということは不安です。主イエスに一切を委ねる歩みは、決して不確かな、何の拠り所もない歩みではありません。主イエスの示されている父なる神様は全能なる力を持たれているお方です。その方に全てを委ねる歩みです。そして、主イエスに全てを委ねる歩み、信仰の歩みには豊かな、百倍にも優る報いが与えられるのです。

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