「心の清い人々」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第51編1-19節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章8節
・ 讃美歌 : 294、518
清いですか
主イエスの祝福の御言葉を共に聞いております。本日は「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」という御言葉を聞きたいと思います。この御言葉を皆さんはどのように聞き、日毎の生活の中でどのように受け止めておられるでありましょうか。神を見るとすれば、心が清くなければならない、というのは当たり前のことのように思われるかもしれません。しかし、神を見るとはどういうことか、心が清いとはどういう状態を言うのでしょうか。私たちは自分が日毎の生活の中で、自分は神を見る清さに生きていると既に思っているのでしょうか。そう問われると返事に困るのではないでしょうか。そのようなことは、自分の生活の中で、真剣に問うたことはないと思うかもしれません。自分のような人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるためにこのように教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っているのであると答えられる方もおられるでしょう。
神を礼拝する
神を見る清さに生きるとは、神の御前に出る清さと言うことができます。神を見る、神様の御前に出る礼拝者の姿を描いている聖書の箇所があります。旧約聖書の詩編第24編は「神殿で神を礼拝する」時の場面を歌ったものであります。1節「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。」私たちはこの神様の造られた世界の中で、礼拝者として集められているということです。神様の栄光を現す礼拝を毎週献げているのです。この詩編の歌は、主なる神を礼拝するために大勢の人たちが都エルサレムを目指す様子を歌っています。神殿のある聖なる山がそびえたっています。その神殿の中には、「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むもの」を造られた主、 大海の上に地の基を置かれた主、潮の流れの上に世界を築かれた主がおられます。そのような主なる神が栄光の輝きを持って満たしておられるのです。そこでは、人間が神とお会いできる、聖なる空間がそこにあります。それでは、どのような人が、「主の山に上り 聖所に立つことができるのか。」どのような人が主なる神を見るために、主なる神の御前に出るために、主なる神を礼拝するために、この山に来ることが出来るのでしょうか。その至聖所に立つべき者とは誰なのでしょうか。そこに集まってきた者たちは、自分の胸に手を当てて考えるのではないでしょうか。一体誰がこの聖なる場所に立つのに相応しいのか。この自分は果たして神を見るのに、神の御前に立つのに、神を礼拝するのに相応しい人間であるのか。4節にこうあります。「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人。」6節「それは主を求める人ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」とあります。神を見るのは、神様の御前に立つのは、神を礼拝するものとして相応しいものは、「潔白な手と清い心をもつ人」であり、「主を求める人」と言います。「心の清い人々は、幸いである」「いかに幸いなことか、清い心を持つ人」と歌うのです。
これを聞いた人々のうちで、その何人かは喜びに満ちて主なる神を讃美するでしょう。ああ、本当にそうだ、その通りだ。自分は空しいものは求めて来なかった。偽りを語らず、正直に生きてきた、今こそ自分が報われるのだ。このように思い、神様の前に自信を持って立つことができる者たちもいるでしょう。けれども、本当にそう思える人はいるのでしょうか。神様を見るのに、神を礼拝する者として相応しいものは、「潔白な手と清い心をもつ人」であると知り、「心の清い人々は、幸いである」と言う主の御言葉を聞き自分こそ、そのような人間であると思われるでしょうか。心の清い者が神を見ることができるとして、自分はどうして心を清くすることが出来るのでしょうか。この世を生きていくのはそう簡単なことではないでしょう。自分はこの世を生きていくためには、競争に打ち勝ち、生き残るためには綺麗事ばかりは言ってはいられない。自分は生きていくために必死である。多少汚いと思われる手段を使っても、それは仕方の無いことであると思いながら、自分の歩みを振り返り、主の前に立てないと思われるでしょうか。主イエスの祝福の言葉である「心の清い人々は、幸いである」という御言葉を聞き、私たちの多くはこの御言葉に相応しい者ではないと思います。主イエスは「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と語られました。私たちはその主イエスの御言葉を聞き、自分の心は清くないし、清くもなれないと、主の元から離れてしまうでしょう。主イエスはそのようなことを望んでおられるのではありません。主イエスは「心の清さに生きる」ことの本当の意味を私たちに伝えようとされているのであります。主イエスは私たちを御自分の語る御言葉に相応しくないからと、私たちと距離を置くのではなく、私たちを主イエスの御言葉の元に招いておられるのであります。 心の清さとは何でしょうか。私たちはもしかすると、しばしばこのように理解しているかもしれません。心とは人間の最も深いところにあり、しかも肉体からは区別され、心と肉体とは別々のものであると考えるのではないでしょうか。ここで「心」と訳されている言葉は、確かに人間の存在の中心にあるようなものではあるけれども、人間の中の独立した、清潔な部分というのではないのです。人間の中心が本当に清いとは、その人の存在そのもの、その人全部が清いということです。心が清ければ、他は汚れて良いということではないでしょう。中心が、本当に清ければ、心も体もすべてが清くなるのです。
清いとは
本当に清くなるとは、どういうことでしょうか。清さとは何でしょうか。この「清い」という言葉は「単純」という意味があります。「単純」という言葉はあまり良いイメージがある言葉ではありません。人間と言うのはもっと複雑で、深い、陰影のあるところがなくてはいけない、と思われるかもしれません。表も裏もない単純な人間とは愚かなことであるという考えを私たちは持っているのではないでしょうか。しかし、主イエスは「心の清い人々は、幸いである。」といわれます。愚かな程に単純に、表裏なしに生きることを求めておられます。単純な清さに生きよと、呼びかけておられるのです。主の御言葉の中に、単純に、素直に立つことを求められている。神をまっすぐに、濁りなき思いで、清らかな目で仰ぎみることを求められ、そこに幸いがあると、主は言われます。しかし、その主がお求めになることに、主の宣言なさる祝福に私たちは答えることができるのでしょうか。悪いと知りつつ、なお憎しみの中に立ち続ける私たち、祈るべきだと知りつつ祈れなく自分の姿、何の影も持たず、神の御前に立つことができるのでしょうか。主イエスは「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」という御言葉を語ることによって、「心の清さに生きる」ということの本当の意味を伝えようとされたのです。
罪人の傍らに
表面的に清くなるということであれば、その方法は幾らでもありました。ユダヤ教の、特にファリサイ派と呼ばれる人々が一生懸命追い求めていたものは「清さ」です。清くなる方法と具体的な手段でありました。神殿に詣でるためには律法の規定に従って、動物の犠牲を献げなければならない。それは清さが得られます。食事をするに際しても清い食べ物と汚れた食べ物の規定がありまして、それを守るということで自分を清く保つ努力がなされました。それを守りさえすれば、自分は清い人間になれると思っていたのであります。したがって異邦人、罪人、重い皮膚病を患っている人などは、これは汚れた存在であるという風にみなして、食事を共にすることさえ避け、忌み嫌ったのであります。しかし、主イエスはそのようなことを守ることが出来ることが人を清くすることではない、と教えました。主は率先して罪人や異邦人、病を負った人たちと交わりをお持ちになったのです。辞める者の傍らに寄り添い、率先して汚れた者たちと思われている人たちとの交わりに生きたのです。また、マタイによる福音書25、26節において「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」と主は言われました。これは、心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めることには意味がないと主はおっしゃったのです。主イエスは表面的な清さを求めているファリサイ派の人たちを強く非難したのです。更に続く、27、28節は「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」と言いました。主イエスはただ表面的な、外面的な清さというものではなく、「心の清さ」を求められたのです。そしてここでの「心」とは、ただ外面的な人間の感情や気持ち、と言うことではなく、その人の存在そのもの、その人そのものなのです。「全人格の中心」をあらわす言葉であります。その人そのもの、その人の存在そのものが清くなければ、何もならないと言うのです。
それでは「清さ」とは何でしょうか。先ほど、この「清い」という言葉は「単純」という意味やひだが一つもない、しわが一つもないということと述べました。更に、この言葉にはまじり気がない、という意味があります。それは心が分かれていない状態、であるということです。それは神様に対して、心が分かれていないということです。神様に対して分かれる心ではなく、分かれていない一つの心を持っているということです。それが、「心の清い」ということになります。分かれている心とは多くのことを欲したりする心です。いろいろなことを欲したり、気にかけると心が乱れます。そのような乱れた心ではないということです。この「清い心」と正反対の言葉はヤコブの手紙4章8節にあります。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」とあります。清い心の反対の意味とは「心の定まらない」者たちであるとあります。心の定まらない者たちは、「心を清めなさい」と勧めております。心の定まらないとは、二つの心を持っているということです。二つの、別々の心を持っているということです。裏表のあることです。清い心で神様を求めようとすることは、二つの心で神様を求めないということです。ただ一つの心で神のご支配を願うのです。一つの心は表面上では神様を求めているようでも、本音のところでは、あるいはもう一つの心では何処か他の方向を向いているというのであれば、心は別々になってしまいます。私たちに問われることは、私たちはそのようにして心を一つにし、迷いなく神様へと心を向けることです。ただひたすら神を見つめることです。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分に目を向けるのではなく、ただひたすら神様のご支配を求めることです。そのことによって心の清い者とされるのです。心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめる人です。神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、ということを考える時には私たちの心は、一つではなくなり、自分の誇り、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いに満たされ神が見えなくなってしまうのです。神様こそを見つめている人は、神様を見ることができます。自分の姿を見るのではなく、人の姿の見るのではなくて、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめるのです。けれども、実際の私たちの日々の歩みとは、思い煩い、心が乱れ、ほんのささいなことにより対立してしまうものです。いくつもの自分の願望によって、それを抱え込んでいるがゆえに、それによって引き裂かれ、かき乱され、濁ってしまっています。主イエスはそのような私たちを、清い心に生きることへと招いて下さるのです。このような罪の汚れの中にいる私たちを主が招いて下さるのです。罪の汚れの中にいる私たちが神の招きに応え、神の赦しを祈り求めるのです。主イエス・キリストを見つめ、この方にのみ頼っていくのです。
清い心を創造して下さい
本日共にお読みした旧約聖書詩編第51編12節「神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。」とあります。私たちのうちに清い心を与えて下さいと、神に祈ることです。この詩編はダビデの祈りとして伝えられております。過ちを犯したダビデが汚れた心を抱えながら神に祈った祈りです。汚れた心を持った者の祈りです。清い心は、神が新しい心を創造し直して、私たちに与えて下さるのでなければ得ることはできません。何よりも清い心を与えて下さる方は、心の清さへと招いて下さる主イエス・キリスト御自身です。この主イエスが清さを与えて下さるのです。主が与えて下さった清さとは何でしょうか。主イエスは何をされたのでしょうか。主イエス・キリストは罪人である人間の汚れた心を、十字架の血潮によって洗い流して下さったのです。人間の罪が、主の十字架によって清められたのです。洗礼を受けるとは、これまでの人生の罪を洗い清められ、それまでの自分に死ぬということです。洗礼を受けた信仰者もまた、この世の荒波において、心が汚されてしまいます。それは私たちの根本が罪の汚れにあるからです。罪の汚れを主の十字架によって清められたことを信じ、歩むのが信仰者の姿です。汚れた心を抱え神様の前に立つのに相応しくないということを知っております。だからこそ、私たちは清い心を主に求めるのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さいました。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人であります。主の十字架を思い起こしつつ、レントの時を歩んでいるのであります。汚れた心を持ちながら歩んでいる私たちが主イエス・キリストによって清められ、絶えず「私達の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい」と祈るものでありましょう。