夕礼拝

義に飢え渇く人々

「義に飢え渇く人々」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章1-2節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章6節
・ 讃美歌 : 100、300

飢え乾き
 私たちに本日与えられております御言葉は主イエスが語られた山上の説教の幸いについてであります。「義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。」と主イエスは語られました。この「義に飢え渇く」とはどういうことでしょうか。先ず「飢え渇く」ということについてみてまいりましょう。詩編42編にこのような状況があります。そこには一頭の迷い出た鹿の姿があります。一頭の鹿が荒れ野に迷い出ました。太陽は照りつけ、容赦なく体から水分を奪っていきます。見渡す限りの砂漠では水分の補給はできません。鹿はようやく谷を見つけます。谷は川によって作られたものですから、谷底には川が流れているはずです。弱った足を踏ん張りながら、鹿は谷川の水を慕い求め、崖を下ります。しかし、その場所には水がありません。川の流れた後が残っているものの肝心の水はありません。そのような生きるための水がない状況の先には何があるのでしょうか。「飢え渇き」が満たされないならば、命を維持することは出来ず、生きることを断念しなければならず、ただ死を待つのみです。これは詩編第42編の状況であります。詩編第42編2、3節にはこうあります。「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」詩編の作者はそううたっています。この詩人は人生の荒れ野において神の御顔を見失い、尋ね求めます。涸れた谷に鹿が水を求めるように、激しく神様を求めるのです。自分は飢え渇いている、と神様に慕い求めるのです。その飢え渇きを止めなければならないと必死であります。10節「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」といあります。詩人は飢え渇きを覚えております。飢え渇きを覚え、生きることを断念しなければならないその状況を歌います。「飢え渇く」ということは、それほどに必死に追い求めざるを得ないという状況というものを、「強烈」に表現している言葉であります。

義に飢え渇く
 主イエスはその「飢え渇く」という表現を用いて、「義に飢え渇いている人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」と語られました。この強烈な表現である「飢え渇く」と言う言葉が「義」と結びついています。「義に飢え渇いている人々」とはどのような人々なのでしょうか。「義」とは「正しいこと」であります。義に飢え渇く、義をひたすら追い求める人々とは「正しさに飢え渇き、正しさをひたすら求める人々」ということです。そして、そのような人々は「幸いである」というのです。ここで注意したいのは「義を行う人」が幸いだと言われているのではないのです。正しいことを行う人が幸いであるというのではありません。幸いであるのは「正しさに飢え渇いている人、義をひたすら慕い求める」人々であります。正しいことを行い、自分の正しさを求める人が祝福されているのではありません。正しさに飢え渇いている人々が幸いなのであります。正しさに飢え渇いている人とは、自分の中には正しさを見つけられない人ということです。正しさを自分の中には見出さず、神様に正しさを求め、神様から義を与えられると言うことを祈り求める人こそが祝福されるのであります。正しいこと、義を行う人が祝福されているのではなく、自分の中には義、正しさを見出すことの出来ない人間が祝福されているのです。自分の正しさを主張するのではなく、ただ神様に依り頼むようにして神様から与えられる正しさを求める人を主イエスは祝福されているのです。

正しさではなく
 神様から与えられる正しさとは、主なる神様の義であります。人間の正しさ、人間の義ではありません。神様の正しさ、神の義を求める人が幸いなのです。人間の正しさというのはいい加減なものです。人間は何が正しいかという事で、いつも争っています。言い争いをし、武力を用います。正しさ、正義というものを巡って、争いを起こしています。お互いに譲らず、自分にとって都合の良いものを正しいと、正義だと主張するのです。主イエスは「正しい人は幸いである」と言うのではなく、「義に飢え渇いている人々は、幸いである」と、言いました。自分の中には義、正しさを見出すことの出来ない人間が、主イエスによって祝福されているのです。自分の正しさを主張するのではなく、ただ神様に依り頼むようにして神様から与えられる正しさを求める人を祝福されたのです。この主イエスが語られたことは、当時の人々を驚かせたことでしょう。何故なら、当時律法学者、あるいはファリサイ派の人々は律法に記されていることを固く守るということが、正しいことであるとしていました。正しい人とは、義なる人はそのように律法を忠実に守る人のことであると考えていたのです。正しいことを行い、正しい人となることこそ幸いであるというのが当時の常識でありました。しかし、主イエスは全く反対に自分では正しいことを行えない人、自分の中に正しさを認められない人の方が幸いであると宣言されたのです。自分では正しいことを行なえない人、自分の中に正しさを認められない人の方が必死になって神様からの義を求めざるを得ないからであります。自分の正しさに満ち足りている人よりも、むしろ自分の中に正義を欠いており、義というものが無いという事に思い悩んでいる人こそ、神様の義に満たされるのであります。

十字架の出来事
 主イエスがこの山上の説教の中で語られた言葉というのは、私たちの普通に考えている常識というものを覆すような新しい教えでありました。自分の中には正しさのない人、自分では正しいことを行えない人が幸いである、と言うのです。主イエスがなぜ、確信を持ってそのようなことを持って言うことができたのでしょうか。それは主イエスご自身が罪人を義とする、神の義の現われそのものであったからであります。神の義は、罪人を義とするものであります。神様の義、正しさによって、罪人である人間が義とされるのです。神様の御業によって、罪人である人間が罪を赦されるのです。主イエスは義のない罪人である人間に義をもたらすために地上に来られたのであります。主イエスは義に飢え渇く者を、義で満たすためにこの地上に来られました。そしてまさに、主イエスは義の無い人間を義とするために十字架への道を歩まれました。神の義が義に飢え渇く人間にもたらされ、その主イエスの歩まれた道の頂点こそ十字架の出来事であります。神様の義、神様のなさる御業によって義に飢え渇く人間が満たされるのです。神様の義とは、何よりも十字架における出来事であります。義、正しさに飢え渇く人間が主イエスの十字架の出来事によって、罪を赦され、贖われるのです。主イエスは罪人として裁かれたのです。人間こそが本来ならば罪の宣告を受けるべきはずでありましたのに、この人間が無罪であると、そのように無罪の宣告を受けたのです。主イエスは罪無きお方であるにもかかわらず、罪深い私たちに人間のために十字架につけられたのです。この十字架の出来事によって、不義なる者に義が与えられたのであります。義に飢え渇く者たちに義が与えられ、私たち、罪に悩む者が義によって満たされたのであります。義を失い、神様の前でも隣人の前でも、ただ全く義を無くした者とは私たち人間であります。誰よりも義に飢え渇く者こそ、神様の義によって満たされるのです。主イエス・キリストにおいて私たちの父であられる神は、イエス・キリストの十字架を通して、私たちが義を受け取ることを望んでおられます。十字架の出来事において神の義が示されました。この十字架における出来事こそ、神様のみが人間に示して下さる義であり、人間はただそれを賜物として、ただ恵みによってのみ受け取ることができるのです。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマの信徒への手紙3章22-24節)主イエス・キリストを信じる者によって神の義、神の正しさが私たちに与えられるのです。神が私たちから、私たちの罪を取り去り、私たちにご自身のもの、すなわち義をお与え下さったのです。私たちはそのお方、主イエス・キリストの十字架による贖いの業を通して、神の義を得ることができたのです。そのことを信じ、受け止める人は満たされる経験をするのです。

主イエスの与えられるもの
 主イエスは「義に飢え渇いている人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」とおっしゃいました。義に飢え渇く人が幸いであるのは、「満たされる」からであります。自分の深い罪に縛られ抜け出すことが出来なくなっていたサマリアの女性に主イエス・キリストはこう言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書第4章13-14節)主イエスの与えて下さる水、御言葉によってこそ「満たされるのです。そして、主イエスはご自身のところに「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(同7章37節)と招いて下さるのです。義に飢え渇く者を主イエスは満たしてくださるのです。主イエス・キリストはこの宣言なさり、約束をしてくださるのです。これこそ「救いの確信」であります。主イエス・キリストの中に自らの罪の赦しと神の平和を見出した人は、主イエス・キリストによって満たされるのです。主イエスによって渇きを癒されるのです。
 本日はこの後、共に聖餐の食卓に与ります。この食卓は教会の真中にあります。主イエスのお言葉で「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタイによる福音書第26章27節)また「皆、この杯から飲みなさい。」(同、27節)とあります。この主イエスの食卓への招きの御言葉であります。主イエスの備える食卓においてのみ、このお方のみがお与えるになる義、罪の赦しのみが飢え渇きを癒すことができるのです。その義を喜んで受け取って、失望ではなく希望と悲しみではない喜びに生きる者となりましょう。

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