主日礼拝

これはわたしの愛する子

「これはわたしの愛する子」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第2編7-9節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第3章13-17節
・ 讃美歌:

いよいよ主イエスの登場
マタイによる福音書の第3章を読み進めています。本日の箇所の冒頭の13節に、「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた」とあります。この「来られた」は、移動して来た、というだけの言葉ではありません。先週読んだ3章の1節には、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて」とありました。その「現れて」と13節の「来られた」は原文においては同じ言葉です。以前の口語訳聖書はここを、「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ」と訳していました。主イエスの道備えをする洗礼者ヨハネが先ず現れ、次いでいよいよ救い主イエス・キリストが現れたことを、マタイはこの13節で語っているのです。洗礼者ヨハネが言わば前座を務め、真打である主イエスが、いよいよ人々の前に姿を現されたのです。その主イエスが真っ先になさったことは何だったかを本日の箇所は語っています。主イエスは先ず、ヨハネから洗礼を受けたのです。
先週のところに語られていたように、ヨハネは、ユダヤの荒れ野のヨルダン川のほとりで、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語り、人々に、悔い改めの印としての洗礼を授けていました。人々はヨハネのところに来て、自分の罪を告白して洗礼を受けたのです。つまり洗礼は、罪人が、悔い改めて神の赦しを受けることを示す象徴的な儀式です。洗礼という儀式を受けさえすれば罪が洗い清められて赦される、というような、お祓いみたいなことではありません。ヨハネは、洗礼を受けにやって来たファリサイ派やサドカイ派の人々、当時の宗教的指導者たちに、「悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、差し迫った神の怒りを免れることはできない」と厳しく語りました。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、先週申しましたように、何か良い行いをして救いに相応しい者になることではありません。そういうことではなくて、自分は神に赦していただかなければ救われ得ない罪人であることを心から認め、ひたすら神の赦しを求めることが求められているのです。それこそが、本当の意味での悔い改めです。そういう真実の悔い改めの印としての洗礼をヨハネは人々に授けていたのです。いよいよ人々の前に姿を現わされた主イエスが、真っ先になさったのは、ヨハネのもとでこの洗礼を受けることだったのです。

これでは立場が反対
ヨハネはそれを思いとどまらせようとした、と14節に語られています。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と彼は言っています。つまり、これでは立場が逆です、ということです。ヨハネは、先週読んだ11節で、自分の後に、自分より優れている方が来られる、と語っていました。自分はその方のために道を整える者に過ぎない、前座に過ぎないという自覚をヨハネははっきりと持っていたのです。そして、自分が授けている水による洗礼は、その方がお授けになる聖霊と火による洗礼に比べれば影のようなものに過ぎない、とも言っていたのです。つまり、自分の後から来る方こそ、本当の意味で洗礼をお授けになる方だということです。ヨハネは主イエスを見たとたんに、この方こそ「わたしの後から来る方」だと分かりました。それは主イエスに後光が差していたとか、そのお姿が他の人々とは違っていたということではありません。人々は全く気づかなかったけれども、救い主のための道備えをする使命を神から与えられていたヨハネには、イエスこそ自分が道を整えている救い主であることが分かったのです。ところが、真打である主イエスが、前座に過ぎない自分から洗礼を受けようとなさる。それでは立場が反対です、とヨハネは言ったのです。
このようにヨハネが主イエスの受洗を思いとどまらせようとしたことを語っているのは、マタイ福音書だけです。このヨハネの言葉の意味を正しく捉えなければなりません。ともすればこれを間違って読んでしまうことが多いように思うのです。ヨハネは、主イエスが自分から洗礼を受けるなんて相応しいことではない、と言ったわけですが、それは、主イエスは何の罪もない方なのだから、悔い改めの印である洗礼を受ける必要はない、ということではありません。ヨハネが言ったのは、「あなたこそ洗礼を授けるべき方であって、私はむしろ受けるべき者であるのに、これでは反対です」ということです。主イエスに罪があるとかないとか、悔い改めの必要があるとかないとか、そんなことを彼は一言も言っていません。ところが私たちはこのヨハネの言葉を、主イエスは神の子であり何の罪もない方なのだから、悔い改めの洗礼を受ける必要はない、とヨハネも考えたに違いない、と思ってしまうことが多いのではないでしょうか。しかしヨハネはそんなことを言ってはいません。そんなことを言っていないというのは、ヨハネが、主イエスにも罪があるから悔い改めが必要だと思っていたという意味ではありません。そもそもヨハネは、主イエスに罪があるとかないとか、悔い改めが必要だとか必要ないとか、洗礼を受ける必要があるとかないとか、そういうことを語ってはいないのです。そんなことを言える立場ではないからです。もしも彼が、「あなたは罪のない方ですから、私から洗礼を受ける必要はありません」と言ったとしたら、その時ヨハネは、主イエスよりも上に立ち、主イエスのことを罪があるとかないとか評価する立場に身を置いていることになります。それこそ、前座が真打に対してすることではありません。しかし私たちは知らず知らずのうちに、そういうことをしてしまっているのではないでしょうか。主イエスに罪があったかなかったか、悔い改める必要があったかなかったか、主イエスが洗礼を受けるのは相応しいことかそうでないか、などと私たちが考えるのは、それこそ身の程知らずの傲慢です。ヨハネが語ったのは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」ということです。それはつまり、「私はあなたに洗礼を授けていただいて、救っていただかなければならない者です」ということです。神の召しによって、救い主のために道を整える働きをしている彼も、救い主によって救っていただかなければならない者の一人なのです。ヨハネはそのことを意識していたので、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私から洗礼を受けるのでは、立場が反対です」と語ったのです。私たちも、主イエスに罪があるとかないとか、主イエスが悔い改めの洗礼を受けるのは相応しいとか相応しくないとかあれこれ考えるのではなくて、このヨハネのように、自分は主イエスから洗礼を受け、主イエスに救っていただかなければならない者だ、ということをはっきりとわきまえることが大切なのです。

正しいことをすべて行う
洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたヨハネに対して主イエスが15節でお語りになったことにも注目しなければなりません。主イエスは、「私だって悔い改めなければならない罪人だ」などと謙遜なさったのではありませんでした。そうではなくて主イエスは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃったのです。この「正しいこと」という言葉は、他の所では「義」と訳されています。5章の10節に「義のために迫害される人々は幸いである」とあるその「義」です。5章20節には「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とあります。この「義」も同じ言葉です。これらの箇所から分かるように、この「義」という言葉は、人間が行うべき正しいこと、という意味です。主イエスはここで、人間が行うべき正しいこと、なすべきことをしよう、とおっしゃったのです。つまり主イエスも、自分が洗礼を受ける必要があるとかないとか、悔い改める必要があるとかないとか、そんなことを言ってはおられないのです。主イエスが洗礼をお受けになったのは、それが主イエスにとって必要だったからではなくて、それが人間として正しいこと、なすべきことだからです。主イエスは、人間がなすべき正しいことを全て行なおうとしておられるのです。神のみ前に罪を告白して、悔い改め、赦しを願うことの印として洗礼を受けることは、人間がなすべき最も基本的なことです。主イエス・キリストは、そのことを、私たちの先頭に立ってして下さったのです。ヨハネはそのことに驚きました。神から遣わされた救い主であり、むしろ洗礼を授けるべき方である主イエスが、悔い改めの印である洗礼を受けることによって、罪人である私たちが神の前でなすべきことを先頭に立ってしようとしておられる。それは彼が思い描いていた救い主の姿とは違いました。しかし主イエスはそういう救い主として歩み始めようとしておられたのです。

天からの声
ヨハネは主イエスのお言葉に従って、主イエスに洗礼を授けました。ヨルダン川の水に全身をどっぷり浸されるという洗礼です。主イエスが水から上がると、「天がイエスに向かって開いた」と16節にあります。そして主イエスは、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」のです。ここは、マルコによる福音書と同じ書き方になっています。洗礼を受けた主イエスに、神の霊、聖霊が降ったのです。その時天から声が聞こえたと17節にあります。その天からの声は、マルコやルカとマタイとでは違っています。マルコとルカにおける天からの声は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」でした。マタイではそれが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」となっています。誰に対して語られた言葉であるかが違っているのです。マルコとルカでは、「あなたは」と主イエスご自身に対して語られた言葉となっています。つまり、聖霊が降ると共に、父なる神が主イエスに、「あなたはわたしの愛する子である」と宣言なさったのです。この天からの言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編第2編7節から来ていると考えられます。そこには「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」とあります。ここから考えれば、「あなたは」というマルコやルカの方が元々の形なのかもしれません。それではマタイにおける「これはわたしの愛する子」という声の意味は何なのでしょうか。マタイにおいては、この声が語られている相手は主イエスではなくて、ヨハネを始めとしてそこにいる人々、主イエスの受洗を目撃した人々です。この福音書を読んでいる私たちもそこに含まれていると言えるでしょう。マタイは、父なる神が私たちに、「人間としてなすべき正しいことをして、悔い改めの印である洗礼を受けたこのイエスこそ、私の愛する子である」と告げておられることを語っているのです。

これは私の愛する子、わたしの心に適う者
マタイ福音書の「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉からは、旧約聖書のもう一つの箇所とのつながりが見えて来ます。それはイザヤ書第42章の1節です。そこにはこうあります。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」。ここには「わたしの子」という言葉はなくて「わたしの僕」ですから、本日の箇所との関係はすぐには見えてきません。しかし本日の箇所の「わたしの心に適う者」と同じことが、このイザヤ書の、「わたしが支える者」とか「わたしが選び、喜び迎える者」というところに語られています。これらをまとめれば「わたしの心に適う者」となるのです。また「彼の上にわたしの霊は置かれ」というのも、聖霊が主イエスの上に降ったことと重なります。ですからマタイにおける天からの声は、詩編第2編7節とイザヤ書第42章1節の両方から来ていると言えるのです。イザヤ書において神は人々に、ご自分のみ心に適う僕を指し示して、この人を見よ、この人によってこそ私は救いを実現する、と宣言なさいました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というマタイにおける天からの声において主なる神は人々に、私の愛する子であるイエスこそが、イザヤ書に語られている「主のみ心に適う僕」である。主の僕による救いは、このイエスによってこそ実現するのだ、と宣言しておられるのです。
それでは、イザヤ書に示されている「主のみ心に適う僕」はどのような救いを実現するのでしょうか。イザヤ書の42章以降には、「主の僕の歌」と呼ばれるところが4箇所あって、その最後、クライマックスが53章です。そこには、主の僕が、人々の罪を代って背負って苦しみを受け、罪人の一人に数えられ、殺される、そのことが、多くの人の罪の赦しのためのとりなし、贖いとなり、その主の僕の受けた傷、苦しみによって、罪人への救いが与えられることが語られています。主のみ心に適う僕はそのように、自らの苦しみと死とによって、罪人たちの救いを実現するのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、このイエスこそ、イザヤ書が預言している主のみ心に適う僕であることを告げているのです。しかもそのイエスは「わたしの愛する子」であることも語られています。つまり、神がご自分の愛する独り子を、罪人たちの救いを実現する主の僕としてこの世に遣わして下さったことがここに示されているのです。主イエスが、私たちの罪を背負って苦しみを受け、死んで下さる生涯を送っていくことが、ここに暗示されているのです。

十字架の死による救いのために
イザヤ書が語っている主の僕とのつながりを見つめることによって、主イエスがここでヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになったことの意味がさらにはっきりします。主イエスは、人間として正しい、なすべきことである悔い改めを私たちの先頭に立ってして下さった、それが主イエスの受洗の意味だと申しました。しかしそこにはさらに、主イエスが「主の僕」として、私たちの罪をご自分の身に引き受けて、私たちに代わって苦しみを受け、死んで下さる、という意味もあったのです。神のみ前で罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けるという、罪人である私たちがなすべき最も大切なことを真っ先に行なって下さった主イエスは、そのご生涯の最後に、私たちの罪を全て背負って、私たちに代って、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、私たちの罪の赦しのための贖いを成し遂げて下さったのです。罪を告白して悔い改めの洗礼を受けるのは、神の赦しを願い求めるためです。しかし先週も申しましたが、人間の悔い改めが人を救うのではありません。神による罪の赦しが与えられて初めて、救いは実現するのです。その罪の赦しを、十字架の死によって実現するために、神の愛する子、み心に適う者であられる主イエスがこの世に来て下さり、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けることによって、救い主としてのみ業を始めて下さったのです。マタイは主イエスの受洗に、十字架の死に至る歩みの始まりを見ているのです。

主イエスが定めて下さった洗礼
ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、私たちの悔い改めの先頭に立って下さった神の独り子主イエスは、十字架の死と復活によって、私たちの罪の赦し、救いを実現して下さいました。そして、私たちをその救いにあずからせて下さるために、ご自身の洗礼を定めて下さったのです。そのことが、この福音書の最後の所、28章18節以下に語られています。復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、弟子たちを全世界へと遣わすに際して言われたのです。「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」。今や私たちには、復活した主イエス・キリストが定めて下さった、父と子と聖霊の名による洗礼が与えられています。これこそヨハネが、わたしの後から来る方が聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる、と言っていた洗礼です。この主イエスの洗礼は、ヨハネが授けていた悔い改めの印としての洗礼を受け継いでいますが、悔い改めの印であるだけでなく、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命、永遠の命にあずかることの印でもあります。その洗礼を受けて主イエスと結び合わされ、信仰者として生きることは、特別に立派な人になることでもなければ、一風変わったおかしな人になることでもありません。むしろそれは、神によって命を与えられている全ての人間がなすべき正しいこと、ごく自然なことなのです。主イエスはヨハネから洗礼を受けることによってそのことを示して下さったのです。私たちも、自分が主イエスに救っていただかなければならない罪人であることを認めて、悔い改めて洗礼を受けます。そして主イエスが十字架の死と復活によって罪人のために実現して下さった救いにあずかって、神の恵みによって生かされる新しい人生を歩んでいくのです。洗礼を受けた主イエスに、父なる神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言して下さいました。主イエスが定めて下さった洗礼を受けることによって、神は私たちにも、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言して下さる。そのことを私たちは信じてよいのです。

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