「ご存じだから」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:列王記上 第8章37-40節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第3章19-24節
・ 讃美歌:518、224
父なる神様は、わたしたちのことを全てわかっています。わたしたちが、神様との約束を守れないことも、その事実を隠そうとすることも、神様を恐れて自ら隠れてしまうことも、全てご存知です。神様はわたしたち以上に、わたしたちのことをご存知です。神様は全てご存知の上で、わたしたちを愛してくださいます。 19節で「神の御前で安心できます」とヨハネは、わたしたちに断言します。しかし、なぜわたしたちは神様のみ前で安心できるのでしょうか。その答えは、20節書かれています。「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」実はこの20節口語訳では、冒頭に「なぜなら」という理由を示す言葉が入っています。ですから、この新共同訳にも「なぜなら」という言葉入れて、もう一度読んでみましょう。「なぜなら、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」わたしたちが、神様の前に出るときに、安心できるのは、神様が自分の心よりも偉大であって、神様が全てご存知だからであるとヨハネはわたしたちに諭します。 神様の御前で安心できると、突然語られますが、ヨハネがここで前提していることがあります。それは、実は、わたしたちはもともと神様の御前では、安心できない存在であるということです。言い換えると神様の前で人は不安でいっぱいになってしまう存在であるということをヨハネは前提として考えています。 旧約聖書の中でも、そのことが書かれています。預言者イザヤは神殿で神様を見た時に、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」。と言っています。まさにこれが不安になっている状態です。
では、わたしたちは実際、どういう時に不安になるでしょうか。神様の前でということはいったん置いておきまして、わたしたちの経験の中で、代表的な不安になる時というのは、それはやらなければいけない事ができていない時、また誰かと結んだ約束を破ってしまい、その約束していた人とあわなくてはならない時。これがわたしたちの経験からわかる不安になる時だと思います。もうすぐ夏休みです。小学校中学校時代を思い出して見てください。夏休みの宿題をたくさん出されました。楽しく8月を過ごしていて、気が付いたら31日。夏休みの宿題が何一つ終わっていなくて、9月1日を迎えてしまったら、これは恐怖です。9月1日に学校に行くことは恐怖となります。おそらく8月31日の晩は不安で眠れなくなるでしょう。宿題してくるという約束を学校の先生とは結んではいないですが、この夏休みの宿題は、夏休みに宿題をやってくるという学校との約束です。そのやらなければならないことこれをやらなかった。その状態で先生に合わなければならないと、考えると、これは恐怖です。
わたしたちが「やるべきことをやれなかった。」「やらなきゃいけないことをできなかった。」とそのようにわたしたちの心が感じる時に、わたしたちは自分の心に、自分自身が責められます。自分の心が自分を責めるのです。20節でヨハネも「心に責められるときがあろうとも」と書いています。これは原文に忠実に訳すと「わたしたちの心に責められることがあろうとも」となります。ヨハネが語るように、わたしたちが不安になる原因の一つは、自分の心によって自分が責められる時です。
やらなきゃいけないことをできない。いつもやろうやろうと思っていても、行動に移せない。自信がない。そして、やっぱりできなかった。そう心が自分を責めます。
クリスチャンも、「神様が互いに愛し合いなさい」「隣人を愛しなさい」と掟を与えてくだっているけど、そのことをできない。隣にいる人を、愛するどころか、傷つけてしまう。または、神様のみ言葉を聞きに、神様に会うために、礼拝には毎週行こうと思っているけど、礼拝にいけなかった。ということがあると思います。その時、わたしたちは、苦しくなります。なぜなら、神様との約束を守れない自分はやはりだめなやつだと。自分の心に責められるからです。
そして不安になります。神様が守りなさいといったことを守れなかった。礼拝でも、神様の前に出る時、日常で神様のことを思う時、神様は自分に対して怒っていらっしゃるのではないか。わたしに愛想をつかしているのではないかとそう思ってしまいます。
それは、先ほどのたとえならば夏休みの宿題をやらないまま、学校に行き、先生に会うということです。先生は絶対わたしを叱る、そして先生ダメなわたしに愛想を尽かして、わたしのことを嫌うのではないかとそう思うと思います。
わたしたちは自分の心に責められ、心に不安を覚えると、どのような状態になってしまうでしょうか。おそらく、わたしたちは、自分の心に責められると、罪悪感を覚え、今度は、約束を結んだ人に、怒られるのではないかということを想像して、恐れて自分の家に引きこもってしまうとおもいます。不安があり、その約束を結んだ対象、または約束を結んだ対象者と距離を置きたくなります。先ほどの夏休みの例えで続行すると、先生に怒られると思い、9月1日に仮病を使って、学校休み、家に閉じこもる。これが約束の対象者と距離を置くということです。
ヨハネは、わたしたち人が、「神様の掟を完璧に守ることができる」とは考えてはいません。しかし、その約束を守れないわたしたちでも、「神様の御前で安心できる」というのです。それはなぜでしょうか。それは神様がすべてをご存知だからです。神様は「すべてを知っておられる」ということが、なぜわたしたちが安心できるということになるのでしょうか。その答えを探るために、神様が何をご存知であるかということを考えてみたいと思います。すべてをご存知ということは、一つの見方では、わたしたちの心が責めてきて、怯えて、事実を隠そうとして、仮病を使って家に引きこもったとしても、その嘘も含めてすべて知っておられるということです。学校の先生の場合は、本当に病気で休んだのか、仮病なのかは、わかりません。この場合のすべてをご存知という意味は、神様の目にはすべてを見えていて、悪いことしているということもすべてご存知であるということです。神様は、そのような罪を、あえて目をつぶって見逃したりはしません。しっかり見ておられます。そしてそれは、ダメだということ言う、厳しさを持っておられます。そして神様は、すべてをご存知であられて、わたしたちを裁かれる方です。何が良いことで何が悪いことであるかをすべて知っておられる方です。このような意味での、神様は全てをご存知であるということも真実です。
しかし、この点だけで、「すべてをご存知である」ということを解釈すると、わたしたちの恐れと不安は残ったままです。神様はわたしたちのすべてを見透かして、叱って、裁かれると思うと、わたしたちはますます恐れ、自分の家に引きこもってしまいます。神様が「すべてをご存知である」という事は、先ほどの見方が表からの見方だとすると、裏からの見方もあります。それは、「神様はそのように怯えるわたしたちの心もすべてご存知である」ということです。神様の掟を守れず、神様を愛することができない、隣人を愛することができない、自分を愛することができない「わたし」をご存知で、怯えて、引きこもり神様の御前に出られない「怯えるわたし」もご存知であるということです。神様は、そのような、わたしたちを見て憐れんでくださります。神様は、すべてをご存知であられて、わたしたちを裁かれるかたです。何が良いことで何が悪いことであるかをすべて知っておられる方です。しかしその裁きは、わたしたちの心の持っているものさしではなくて、神様の持っておられる憐れみをもった愛のものさしで測られます。神様は、憐れみと赦しを持って、さらに怯えるわたしたちの気持ちをすべてご存知でわたしたちに近づかれ接してくださいます。それを、わたしたちに見える形で示してくださったのがイエス様です。イエス様は、怯えて自分の内側、自分の家に引きこもっているわたしに、赦しと憐れみをもってきてくださいました。そのことが、ヨハネによる福音書に書かれています。ヨハネによる福音書20章19節以下です。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
これは、イエス様が復活された時の記事です。弟子たちは、イエス様が犯罪者として、十字架に付けられたので、その弟子である自分たちもユダヤ人に捕まえられて、処刑されてしまうかもしれないと怯えていました。そこで自分たちのいる家の扉に鍵をかけて、引きこもっていました。この時に弟子たちのなかには、死んでもイエス様から離れませんと約束したのに、「イエスなんて知らない」といって逃げてしまった人もいます。弟子たち皆、イエス様に従う約束をしたのに、それを守れなかった人たちばかりです。ですからこの時の、怯えは神の子であるイエス様との約束を破ってしまったという恐れもあったと思います。 恐れて、鍵を閉めて、誰も家には入れないようにしていた。しかし堅く扉の鍵を閉めていたはずだったが、その扉を超えて、家の真ん中に突然現れた。その方は、約束を結んでいた張本人、イエス様でした。そこで、弟子たちは、イエス様を見た瞬間、怯えたかも知れません。そうであったとしたら、弟子たちは「死んでも一緒にいるという約束を破って、イエス様を見捨ててしまったから、怒られる」と怯えたでしょう。しかし、聖書では弟子たちは、喜んだと書いています。なぜなら、イエス様が最初に「あなたがたに平和があるように」と挨拶をされ、手と脇腹を見せられたからです。この挨拶、手と脇腹が物語っていました。そこに、神様の愛が見えていました。なによりも自分を優先して、神様を捨ててしまったという罪が、その手と脇腹の傷で明らかになりました。わたしのせいで、イエス様は傷ついてしまったということが、その手と脇腹の傷でわかるのです。手の傷は十字架にかけられたときに、打たれた釘跡です。脇腹の傷は、イエス様が死んだあとに、兵士が、本当にイエス様が死んでいるのかを確かめるために突いた時にできた傷です。その二つの傷を見て、弟子たちは、イエス様が本当に死なれたことがわかりました。しかし、甦って、今、目の前におられる。自分は神様を捨ててしまい、死なせてしまった。もう自分のせいで、もう神様に会うことはできないと思っていた。さらに、その罪悪感と恐れで引きこもっていた。しかし、死なせてしまったイエス様が目の前に現れてくださった。怒られるのではないかと恐れている自分に憐れみをもって「平和があるように」と二度もイエス様は言われた。 ここのイエス様を送ってくださったのが父なる神様です。ですから、ここに、まさにこのイエス様の出来事に、神様がわたしたちに憐れみと赦しをもって接して下さるということが現れています。
わたしたちも、日々神様に従えない、神様のことを忘れてしまう、そして神様の言葉、掟を忘れてしまいます。その時この弟子たちと同じように、恐れて、怯えて家の鍵を閉め、引きこもってしまいます。自分の心のものさしでもって測り、もうダメだ、自分はダメだ、神様の前に立てるようなものではないと、自分でさばきを下します。しかし、さばきをくだされるのは、神様です。自分の心よりも偉大であられる神様がわたしたちをお裁きになります。神様は神様の愛のものさしをもってわたしたちを裁かれます。その愛は、イエス様にあらわれているように、赦し憐れみをもっています。先にイエス様の犠牲により、先に無罪の判決をだされて、わたしたちは裁かれるのです。
わたしたちは自分で自分の家の鍵をかけ、その中で、自分で自分をさばき、苦しみ、不安になり閉じこもります。裁かれてしまうと不安なので神様とも関わろうとしません。
しかし、その神様は、そのわたしたちが自分で自分を裁くことも、神様に対する怯えていることも、隣人に対して怯えていることも、苦しんでいることも、不安なことも、すべてご存知です。ご存知だから、イエス様をわたしたちにも送ってくださいました。 そのイエス様を信じる。それはイエス様が本当に死なれ、本当に復活されたということを信じることです。言い換えるならば、引きこもっていた自分の家に入ってきてくださったイエス様を追い出すことなく受け入れるということです。それがわたしたちに与えられた掟であると、ヨハネは23節で言っています。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ」ることだと、言っています。ユダヤ人にとって、名とは、自分の存在そのものことです。ですので、名を信じるというのは、イエス様の存在を信じるということです。神の子であり、わたしたちの救い主であるということを信じるということです。言い換えるならば、自分の家の中に来てくださった復活されたイエス様を信じ、そこで、イエス様と手をつないで、結ばれるということです。イエス様を信じ結ばれること、これは教会が行なっている洗礼のことです。イエス様を信じ、洗礼を受けること、これが掟であるとヨハネは言います。このヨハネの言う神様の掟は、神様のみこころであります。赦しと憐れみの神様が求めておられることは、わたしたちがイエス様を信じ、洗礼を受けることです。ヨハネの言うイエス様が命じた掟は、イエス様を信じることと、もう一つのことを要求しています。それは「この方(イエス様)がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」といっています。神様のみ心のもう一つは、隣人と互いに愛し合うということです。この二つをなせれば、神様のみ前で安心できるとヨハネは言います。信じ、洗礼をうけることをしたクリスチャンでも、この「隣人を愛すること」、これができなくて苦しむ人は多いと思います。しかし、神様はそれができずに苦しんでいるわたしたちをご存知です。わたしの正しくない所も、すべてご存知です。わたしたちが自分の正しくないところをいくらがんばっても正せない、自分の力ではなおせない、ということもご存知です。自分ではなくて、このすべてをご存知の方こそが、人を正しく整えることが出来るお方です。従って、神様の前で安心して立てる、隣人の前でも安心してたてるようになるには、わたしたちが神様を信じ、神様に頼り、神様に祈ることが必要です。わたしたちが神様を愛したい、神様の前に立ちたい、隣人を愛したい、隣人と和解したい、隣人と向き合いたいと神様に願うことは、神様のみこころにかなっています。なぜならば、それが、神様の要求された掟と同 じ内容だからです。そのみこころに適った願いは必ず叶えられると、ヨハネが22節で「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです」といっています。
神様の前で不安になるわたしたちを。全てをご存知の上でわたしたちを愛して下さる神様。その神様を信じ、頼り、祈る。そして、神様を信じ頼りきったわたしたちが神様のみこころを行いをもって、示していくことができる。それはこの地において神様のみこころが実現されるということです。それでも、神様を信じることができなくなる時、頼れなくなる時がわたしたちにはあります。しかし、そのわたしたちを神様はご存知です。ご存知だから、イエス様を遣わしてくださいました。イエス様を知るために、この聖書とこの教会を与えてくださいました。教会でイエス様につながっていることをいつでも、今でも確認する聖餐という儀式を与えてくださいました。神様は全てをご存知だから、神様は全てを備えてくださっています。 この恵みに感謝して、祈りましょう。