「惑わす者と導く方」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書: 詩編 第36編1-12節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章18-26節
・ 讃美歌:355、343
今夕与えられました御言葉はヨハネの手紙一2章18~27節の御言葉です。ヨハネは2章の18節で、「子供たちよ、終わりの時が来ています。」と彼の教会の仲間たちに、終末の、終わりの時の到来を宣言します。なぜ、ヨハネは、終末の到来が、わかったのかというと、それは、彼曰く、18節「反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」とこのように言っております。ここで「あなたがたがかねてから聞いていた」と書かれていることとは、これは福音書に書かれている主イエス・キリストが預言された終末の徴のことであります。そこには、終わりの時、主イエス・キリストが再びこの世に来てくださるその時の前に、この世には偽預言者や、偽メシアが現れて人々を惑わすということが書かれてあります。この主イエス・キリストの預言を受けて、ヨハネは今、そのような「惑わすもの」、18節では「反キリスト」と書かれている、そのような人が現れた。だから、主イエス・キリストが預言していた終わりが来ていることがわかると18節に書いたのです。ヨハネがここでどのような人が「反キリストだ」ということは明確には書いておりませんが、この手紙の先の所を読みますと、それがわかります。それは誤ったキリスト理解をしている者であるということがわかります。さらには「神様と交わるためには、ある特別な宗教的な知識を持つことが大事だ。そしてその知識を持つことによって神秘的な体験をする。それによって神を知ることが出来る」とそのようなことをも、この反キリストと呼ばれる人たちは考えておりました。この反キリストと呼ばれる人たちは、どうやら19節を見ると、「彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。」とあるように、もともとは、ヨハネの教会の中にいた人々であったようです。そこから、自分たちの主張が教会の信じている事柄とそぐわなくなったので、教会から去っていったようです。去っていった人々を、ヨハネはもともと仲間ではなかったと言います。19節の後半で「仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。」わたしたち、それはヨハネ教会の群の中、にとどまらず去って行ったから、仲間ではないとここで、かなり強烈に反キリストと呼ばれる人たちを批判しています。ここを言葉通り読むと、なぜここまでヨハネは、教会を出て行った人たちを厳しく批判するのかとヨハネに対して疑問をいだきます。ですが、やはり、ここには、ヨハネの曲げられないとても重要な筋、思いがあったのです。反キリストという人たちは、キリストを告白し口で認めていても、真にキリストを信じでいないような人たちです。22節で「イエスがメシア、(救い主)であるということを否定するもの」と言われるほど、キリスト教の根本を揺るがすほどの誤った考えを持った人たちが、ここで言われている反キリストです。この反キリストと呼ばれた人たちは、「主イエス・キリストは洗礼を受けるまでは、神の子ではなかった」とそう考えていました。「主イエス・キリストが神でなかった時期があるという」その考えは、キリストの受肉、言い換えて説明すると、神であられる主イエス・キリストが肉体をとってこの世に来てくださったという教理を否定している考えです。これはもはやイエス・キリストを信じていると言えないレベルの誤りです。ヨハネはこの手紙書いた当時、この考えが教会内にはびこり始めていたことを恐れ、またその意見になびく者たちが現れ、教会が分裂するという経験をしたのでしょう。ある神学者は、教会内にそのような誤った考えがはびこるということは、どんなに危ないかということを「一万人の非キリスト者が陰謀を企てるより、信仰を言い表していた一人が反逆するほうが、教会は揺れ、信仰者を動揺させる。」とこのように言っています。ですから、ヨハネの教会は、そうとう揺れ、そこにいた信仰者たちはとても動揺していたのだと思います。ヨハネはその主張をする人たちを追い出したのか、その人達が自ら教会から出て行ったのかはわかりませんが、彼らが、信仰者を惑わすものであるということをこの経験を通して確信したのでしょう。 キリストを受け入れたとおもわれる人でも、しばしば道をはずれてしまう。わたしたちもそうです。おなじです。わたしたちも教会に行かなくなっていた時期もあるし、これからいつか信仰が弱くなって、教会に行かなくなってしまうのではないかという不安は、わたしたちに付きまとってきます。そうしたら、わたしは反キリストになってしまうのではないか。という不安がわたしたちに沸き起こるとおもいます。宗教改革者カルヴァンは、教会に来なくなってしまう人には三種類のタイプの人がいると言っています。「一人は、神を恐れているかのように装って、実際は内側に自分を征服してしまうほどの悪意を貯め込んでいる人、二人目はもっとずる賢い偽善者で、彼らは人々を騙そうとする、それだけでなく自分自身も欺き、目が眩んで惑わされて、神に純粋に仕えているのだと自分のこと信じようとする人である。三番目の人々は、生きた信仰の根っこを持っていて、神の子とされる恵みを生き生きと植え付けられ、この恵みを証ししようと心に思っている人である。」とこのように述べています。ヨハネが「反キリスト」や「惑わすもの」と呼んでいるのは、カルヴァンの言う、一番目と二番目の人々のことです。それは信仰が弱くなって、教会にいけないというのではなく、神を恐れている、信じていると口先ではいうものの、心では信じていない人、さらに自分を信じて他の人まで惑わす人のことです。この人たちは信仰の根がもともとないのです。信仰の根というのは、主イエス・キリストと結ばれていること、言い換えると教会に結ばれているということです。わたしたちは三番目の人々です。わたしたちは、諸事情、諸問題があり、教会にいけなくなることがありますが、そのせいで、教会とのつながりがなくなったのではありません。ヨハネはこの三番目の人々は、教会の外に追い出されることはないと考えています。反キリスト者たちは、このような事を考え、自ら教会のつながりから出てしまったのです。ですから仲間ではない。最初から仲間ではなかったとヨハネにそう言われたのです。 三番目の人たちを、対象にヨハネは20節でこのように語ります。「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」 この油はいったいなんでしょうか。わたしたちは、油を注がれた経験はありません。この時代のヨハネの教会の人も、油を注ぐ儀式があったかは定かではなかったそうです。ではこの油は何を指し示しているかというと、一言でいいますと、これは聖霊のことです。旧約聖書で、ダビデが油を注がれると、「主の霊がダビデの上に臨み、かれにとどまり続けた」と書いてあります。聖霊が下るということでは、主イエス・キリストが洗礼を受けられた時に、聖霊が天から主イエス・キリストに注がれます。このように、洗礼を受けるものは、聖霊の注ぎを受けます。ですから、わたしたちも、聖なる方主イエス・キリストによって、わたしたちが洗礼を受けるときに、聖霊を注がれています。この聖霊の故に、あなたがた、(わたしたちは)真理を知っているとヨハネは言います。では真理を知るということは、いかなることかとわたしたちは疑問に思いますが、それは、今日の説教の後半で明らかとなります。 続いて22節「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」 イエスがメシアであることを否定する、というのは、一つは主イエスがメシア、救い主であるということ否定すること、もうひとつは主イエス・キリストが肉体をとって来られた方ということを否定することです。つまりヨハネはここで神様御自身がナザレのイエスという人間において世と出会ってくださったこと、その御子が世の罪、わたしたちの罪を担って、わたしたちを死から救ってくださった救い主であることを否定するものは反キリストであるといっています。 反キリストと称されるものたちは、自分たちだけが知っている「神についての深い認識」と「神との深い交わり」によって、神を知ることができると考えていました。神様を知るために、主イエス・キリストは必要ないと考えていて、またそれを主張していたのです。また神様を知るためには、ある特別な宗教的な知識を持つことが大事だ。そしてその知識を持つことによって神秘的な体験をする。神秘的な体験がなによりも大事であるというそのような誤った考えが持つものこそが、ヨハネはイエスをメシアと認めない反キリストであるとここで断言しています。 23節「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。」 「御子を認めないものは、御父に結ばれていません。」この「御父に結ばれていません」というのは元の言葉をそのままで訳すと、「御父を持っていません」となります。わたしたちが「持つ」ということ考えるとき、それはなにか、神様を自分の手で掴んだり、自分の方から獲得したりすると、考えてしまいそうですが、その考えこそが、反キリストと称される教会から出て行った人たちの考えです。わたしたちは、自分の修練や、努力、また特別な深い宗教経験、体験によって神様を知るのではありません。自分たちの側から、いくら頑張っても、神様を知ったり、神様を獲得したりはできません。そうではなくて、ここでヨハネは、わたしたちが獲得する物でなくて、御子がわたしたちの贈り物となってきてくださったので、その御子を通してわたしたちは、神様を「持つ」ことできると語っています。その御子がこの世に贈り物として肉体を持って来たことを認めないものは、父を持っていない、すなわち父とのつながりはないと断言しています。「持つ」というのは、単純に考えると、所有するとか、そのものを自由に扱うことができると考えてしまいますが、ここで使われているのは、その意味での「持つ」ではありません。ここでは、神様を「知る」ということや、「神様と交わっている」という意味で「持つ」という言葉が使われています。ですからヨハネの言うように、主イエス・キリストによってしか、神様は啓示されません。言い換えると、主イエス・キリストを知ることなしには神様を知ることはできないのです。神様がどういう方なのか、神様はわたしたちに対してどのようなことを思われているのか、神様のみ心はなんなのかと、わたしたちは知りたくなります。そして調べたり、勉強したりします。しかし、一向に神様のことはわからない。いくら探しても、調べても、勉強してもわからない。それがわたしたちの現実だと思います。「主イエス・キリストを知りなさい」といわれると、わたしたちは、それはなにか、知るために自分で勉強したり、熱心に教会に通ったりすることだと思いがちです。もちろん、聖書を学ぶことや、教会に通うことは良いことです。でもそれは、やらなければいけないことしないで次のステップを踏んでいるようなことです。次のステップの前にあることとは、それは、主イエス・キリスト御自身がわたしたちに主イエス・キリスト御自身のことを知らせてくださっているということです。それは、聖書通して、礼拝の説教を通して、御自身のこと、神様のことを伝えようとされているということです。それを知ること、その伝えようとなさっている主イエス・キリストの言葉を聞き、主イエス・キリストを受け入れるということが、まず先に、自分で何とかして知るということよりも大事になってきます。 ところが、主イエス・キリストが伝えてくださってということ知りを信じ、洗礼を受けたけれども、やっぱり主イエス・キリストはなにをお語りなっているかわからない、聖書が難しすぎて、やっぱり神様のみ心がわからないという悩みはあるかもしれません。さらに、今日の御言葉に出てくるように、「反キリスト」や「惑わせようとしているもの」と呼ばれる、誤った神様の理解や間違った主イエス・キリストの理解を持っている人たちが、自分のそばに居て、「これが真理だ」と断言されたら、それを信じて従っちゃうかもしれないという恐れは残ると思います。それに対して、ヨハネは「あなたがたは油を注がれているから大丈夫だ」と、わたしたちにいっています。 信じて洗礼を受け時に、わたしたちは同時に主イエス・キリストによって聖霊を注がれます。 主イエス・キリストから頂いた聖霊は、救い主である主イエス・キリストを信じますという告白と信仰を、わたしたちの内に無くなることのないように、いつまでも残るようにしてくださいます。27節で「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。」この油は聖霊のことです。聖霊なる神様がわたしたちにすべてを教えてくださるとヨハネは言っています。聖霊なる神様は主イエス・キリストがこの世にいた時に教えられていた教えを継続してわたしたちに教えて下さいます。ではその教えとはなんなのかというと、それは神様の御心です。父なる神様は「わたしの考えや心は、愛する子にすべて示している」と聖書を通して語られていますから、神様の御心は主イエス・キリストにすべて表わされています。主イエス・キリストに示された神様の御心とは、それは、わたしたちを愛してくださっているということ、そしてわたしたちを滅ぼすことなく、永遠の命を与えたいということです。主イエス・キリスト御自身が福音書の中でこう語られておられます。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネによる福音書6章40節)」またヨハネによる福音書は、3章 16節で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と神様の御心を語っています。この世に独り子を送ってくださったのはわたしたちの罪を償ういけにえ、としてです。そのいけにえになるために、主イエス・キリストは人となって、わたしたちと同じに肉体をとってこの世に来てくださいました。わたしたちを救いに来てくださいました。 聖霊はこのような事柄を、わたしたちに教えて下さっています。そしてその事柄をわたしたちに理解できるようにしてくださいます。聖書の語る言葉が難しくてわからなかったが、ある出来事を通して、またある説教を聞いてその言葉がわかようになったという出来事があったとすると、その出来事の裏で、聖霊が働いておられます。また自分たちが主イエス・キリストを信じるようになったきっかけの出来事や出会いの背後で、間違いなく聖霊なる神様が働いておられます。そのことをヨハネによる福音書は、聖霊なる神様は、「あなたがたと共に」おり、いつも「あなたがたのそばに」とどまり続け、いつも「あなたがたの中に」いると、言葉をかえて語っています。 わたしたちはそのように、聖霊なる神様に導かれ、教え続けられています。今日ヨハネはわたしたちに、「あなたがたは、惑わすものに導かれることはありません、正しく教え導かれる方があなたがたを導かれます」と断言してくれています。聖霊なる神様の働きを信じ、祈り、わたしたちは今週も前へと進みます。 祈りましょう。