夕礼拝

終わり、そして始まり

「終わり、そして始まり」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 創世記 第49章29節-第50章26節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第11章17-22節
・ 讃美歌 : 10、461

ヤコブとヨセフの死
 私がこの教会の牧師に就任した2003年の9月から、夕礼拝において、旧約聖書の最初の書である創世記を読み始めました。それ以来、原則として毎月1回、私が夕礼拝の説教を担当する時には創世記を読み進めて参りまして、ついに本日、それを終えることになりました。丸五年かけて創世記を読み終えるわけです。本日読む創世記の最後の所、49章29節以下には、二人の人物の死が語られています。一人はヤコブ、もう一人はヨセフです。ヤコブは、イスラエルの民の最初の先祖であるアブラハムの孫であり、神様から「イスラエル」という名をいただいた人です。このヤコブの息子たちから、イスラエルの十二の部族が生じました。ヤコブ即ちイスラエルは、アブラハムの家族がイスラエルの民という一つの民族へと成長していく分岐点に位置する人なのです。ヨセフはこのヤコブの子です。彼は兄たちの妬みと憎しみによってエジプトに奴隷として売られました。しかしそのエジプトでついには総理大臣になり、そのことによって、ヤコブの一家が飢饉を避けてエジプトに逃れ、飢え死にすることなく生き延びることができたのです。創世記の37章以降はそのことを語るヨセフの物語です。創世記はこのヨセフ物語をもって終わり、その結末においてイスラエルの民はエジプトに住んでいます。そのことが次の「出エジプト記」につながっていくのです。このように、ヤコブもヨセフも、イスラエルの民の歩みにおいて重要な転機をもたらした人です。この二人の死を語ることによって、創世記は締めくくられているのです。
 と言っても、二人の死の場面そのものはごく簡単に語られているのみです。ヤコブの死は49章33節に「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」とあります。ヨセフの死はもっと簡単に、50章26節に「ヨセフはこうして、百十歳で死んだ」とあるのみです。ヤコブは130歳でエジプトに移住し、147歳で死んだことが47章28節に語られていました。ヨセフは今読んだように110歳で死にました。ヤコブもヨセフも、高齢になって、いわゆる天寿を全うして亡くなったのです。聖書はそれを自然なこととして、さらりと語っています。本日の箇所に詳しく語られているのはむしろ、彼らの埋葬のことです。二人とも、自分の埋葬について、あるいは自分の遺体をどうするかについて、指示を与えて死んだのです。そしてこの点に、同じように天寿を全うしたこの二人の死における違いが現れているのです。

ヤコブの埋葬
 ヤコブは、自分を葬る場所を指定しました。それが49章の29~32節です。彼は自分の遺体を、「カナン地方のマムレの前のマクペラの畑にある洞穴」に葬って欲しいと言ったのです。この洞穴は、ここに語られているように、アブラハムが妻サラを葬るためにヘト人エフロンから買い取ったもので、死海の西のヘブロンにあります。そこにアブラハムとサラが、またヤコブの両親であるイサクとリベカも葬られています。ヤコブも、先に亡くなった妻レアをそこに葬ったのです。先祖たちの眠るこの墓に自分も葬って欲しいというのがヤコブの遺言でした。このヤコブの思いはよく分かります。しかしこれは簡単なことではありません。ヤコブとその家族は今、エジプトにいるのです。墓は、カナン地方、つまり今のパレスチナにあるのです。遺体をエジプトからそこまで運んで埋葬するのは、当時としたら大変なことです。しかしヨセフはこの父の願いを叶えるために自分の持っている力を存分に行使しました。50章2、3節にこうあります。「ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエルにその処置をした。そのために四十日を費やした。この処置をするにはそれだけの日数が必要であった」。この「防腐処置」というのは、要するにミイラにしたということです。エジプト人の得意な技術が駆使されて、遺体を遠くまで運ぶことができるようにしたのです。その上で彼はエジプトの王ファラオに、カナンの地の墓に父を葬りに行かせて下さいと願い出ました。ファラオはそれを快く許し、その葬りのために7節にあるように、「ファラオの宮廷の元老である重臣たちすべてとエジプトの国の長老たちすべて」を供としてつけてくれたのです。さらに9節には「戦車も騎兵も共に上って行った」とあります。ヨセフは一族の者たちとこの多くの供たちを連れて、父の遺体をカナンの地まで運んだのです。それは「まことに盛大な行列となった」と9節にあります。そして10節によればゴレン・アタドという所で、七日間にわたる非常に荘厳な葬儀が行われました。そこは「ヨルダン川の東側」だとあります。そこから墓のあるヘブロンまではまたかなりの距離があります。エジプトからヘブロンへ行くことを考えると、ずいぶん遠回りをしたことになります。このことにあまり深い意味を考える必要はありません。これは11節にある「アベル・ミツライム」という地名の起こりを語る伝説と結びついて出来た話です。大事なことは、ヨセフが父ヤコブを、その遺言の通りに、カナンの地にある先祖の墓に葬ったということです。

神の約束のもとでの生涯
 このことは、先祖や妻の眠る墓に葬られたいというヤコブの自然な気持ちに従ったというだけのことではりません。もっと大きな意味があります。あのマクペラの洞穴は、アブラハムとその家族が、孫に当るヤコブに至るまでにカナンの地において得ることができた唯一の土地なのです。アブラハムの歩みは、創世記12章において、彼が神様の約束を受けて旅立ったことによって始まりました。アブラハムに与えられ、その子イサクに、その子ヤコブに繰り返し与えられてきた神様の約束は、このカナンの地をあなたとあなたの子孫に与えるということでした。つまりカナンの地は彼らにとって神様の約束の地だったのです。しかしアブラハムもイサクもヤコブも、実際にそこで得ることができたのは、このマクペラの洞穴の墓だけでした。ヤコブに至っては、飢饉を避けて生き延びるためとはいえ、約束の地を遠く離れたエジプトに下らざるを得なかったのです。ヤコブがマクペラの洞穴に葬られることを願ったのは、単に先祖や家族が眠っているからではありません。自分の生涯は、主なる神様のあの約束のもとで歩んだ生涯だった。自分の人生の意味はそこにこそある。この神様の約束の実現の最初の印であるあの墓に葬られたい、というのがヤコブの遺言なのです。ここには、神様の祝福の約束を信じて、そこに希望を置き、この世を旅人、寄留者として生きたヤコブの信仰が凝縮されています。神様の約束は、目に見える仕方ではまだ実現していません。彼は約束の地を得てはいないし、そこに住むことすらできない状態の中で死んでいこうとしているのです。しかし彼の信仰の目は、神様の約束をこそ見つめています。それゆえに、彼はこの寄留の地エジプトで、安らかに、大往生を遂げることができたのです。

兄たちの不安
 さてヨセフと兄弟たちは父ヤコブの遺言通りにその埋葬を済ませてエジプトに戻りました。この葬りの業が終わった時、ヨセフの兄たちの心に新たな不安が生じたことが50章15節以下に語られています。15節に「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った」とあります。兄たちが昔ヨセフにした悪、それは言うまでもなく、ヨセフを奴隷に売ったことです。父ヤコブがヨセフをえこひいきするのでヨセフに嫉妬し、憎んだのです。この兄たちの憎しみによってヨセフは奴隷に売られ、異国で長い苦しみを味わいました。結果的にはエジプトの総理大臣になり、今こうして家族全員が飢饉を逃れて生き延びることができたわけですが、しかし兄たちがヨセフに対してした悪事は決して消し去ることはできないのです。兄たちが不安になったのは、ヨセフはその恨みをまだ忘れてはいないだろうということです。父ヤコブが生きている間は、兄たちに復讐をすると父が悲しむので差しひかえていたが、父が死んでその葬りも終わった今、ヨセフはいよいよその恨みを晴らそうとするのではないか。今やエジプトにおいて、ファラオに継ぐ権力を持っているヨセフですから、彼らに対して、何でもしたいように出来るのです。こういう不安にかられた兄たちは、人を介してヨセフにこう言いました。16、17節です。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」。「お父さんは生前こう言っていました」と、兄たちは父ヤコブを持ち出してヨセフの心をなだめようとしています。「どうかわたしたちの咎を赦してください」と自分たちの罪の赦しを願ってもいますが、それだけではなくて、「赦してくれないとお父さんが悲しみますよ」と、ある意味では脅しをかけているのです。兄たちの恐れ、不安もよく分かります。また同時に、彼らのずるさ、打算も見えるのです。それは別にこの人たちだけのことではないでしょう。自分自身の中にもこのような思いがあることを私たちは知っています。ここには私たち人間の赤裸々な姿が描かれているのです。

裁くのは神
 兄たちのこの言葉を聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節から21節に、ヨセフの兄たちへの言葉が記されています。「ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。』ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた」。ヨセフは、自分の復讐を恐れている兄たちを慰め、優しく語りかけ、彼らとその家族を保護することを約束したのです。私たちはこのことを、ヨセフの高潔な人格を表す言葉、として受け取ってしまってはなりません。創世記が語ろうとしているのはそんなことではないのです。ヨセフが言っていることの中心は、19節の「わたしが神に代わることができましょうか」ということです。それは、「私があなたがたの悪事に復讐することは、私が神に代わってあなたがたを裁くことだ。そんなことはできない」ということです。ここには、「人の罪を裁くのはあくまでも神であって、たとえ被害者であっても、自分ではない」という信仰が語られているのです。被害者であっても、罪に対して怒り、復讐をしていくことは、神に成り代わって罪を裁こうとすること、自分が神の立場に立とうとする人間の傲慢なのだ、とヨセフは言っているのです。

神のみ業を受け入れる
 これは、「悪人を懲らしめることは神様あなたのなさることですから、お願いしますよ、ちゃんと裁いて下さいよ」ということではありません。神様がそこで何をなさるのか、その神様のみ業を受け入れるということです。20節に、その神様のなさったこと、み業が語られています。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」。神様はこのようなみ業をなさったのです。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが」とあるように、兄たちは確かにヨセフに悪を行いました。それは消すことのできない大きな罪です。そのためにヨセフはさんざん苦しみました。しかし神様は、その兄たちの悪を善に変えて下さった、それは決して、彼らのしたことが悪ではなくて善だと言っているのではなくて、その悪をも神様が用いて、善なるみ業を行って下さったということです。それが、「多くの民の命を救う」ということです。ヨセフが売られた先のエジプトで総理大臣になることによって、ヤコブとその家族のみでなく、エジプトの多くの人々が飢饉から救われたのです。兄たちの罪によって自分に与えられた苦しみを神様が用いて、このような恵みのみ業を行って下さった、そのことを神様の恵みのみ業として受け入れる、とヨセフは言っているのです。今自分が兄たちに復讐するとしたら、この神様のみ業を否定し、それを受け入れない、ということになるのです。ヨセフが、兄たちを赦し、慰め、優しく語りかけ、彼らを保護すると言っているのは、彼が並外れて寛容な優しい人間だからではありません。彼は神様のみ業を受け入れたのです。それを受け入れたから、そのみ業において用いられた、自分に悪を行った人をも赦して受け入れたのです。それは人格ができているか、優しい人間であるか、という問題ではありません。私たちの人生を導き、恵みのみ業を行って下さる神様とどう向き合っているか、その神様をこそ自分の主人、従っていくべき方として信じているか、ということなのです。

ヨセフの涙
 ヨセフのこの言葉を味わう上で見逃してはならないことがあると思います。それは17節の最後のところの、兄たちの言葉を聞いた時のヨセフの反応です。「これを聞いて、ヨセフは涙を流した」とあります。このヨセフの涙はいったいどのような涙なのでしょうか。私は以前は、これはヨセフが、兄たちの無理解、自分の思いを受け止めてくれておらず、今なお自分を恐れ、不安に思っていることを嘆いた涙だと思っていました。なぜならヨセフは既に、本日の所と同じことを兄たちに語っていたからです。それは45章の、ヨセフが自分の正体を初めて兄たちに明かした場面です。45章の4、5節でヨセフはこう言ったのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。「神が私をあなたたちより先にエジプトにお遣わしになり、それによって皆を飢饉から救って下さったのです、だから私を売ったことを悔やんだり責め合ったりする必要はありません」と彼は言ったのです。それは嘘偽りのない言葉です。それなのに、父の死をきっかけに兄たちの心にヨセフへの疑い、恐怖が再び起ってきている。私の言葉を本当には信用してくれていなかったのか、なさけない、そういう思いでヨセフは涙を流したのではないか、と思っていたのです。勿論そのように理解することもできると思います。しかし今は、この涙をもっと幅広い意味に捉えるべきではないかと思うようになりました。ヨセフの心には、いろいろ複雑なものがあったと思います。兄たちによって受けた苦しみ、それによる心の傷は簡単に忘れたり癒されたりはしません。ヨセフの中には、やはり兄たちを赦せないという思いがあっただろうし、復讐してやりたいという感情があったでしょう。しかしまた、これら全てのことにおいて神様がみ業を行って下さって、彼らの悪をも用いて恵みを与えて下さったことも事実です。そのことをヨセフはよく知っているのです。そういう複雑な思いの中で兄たちの言葉を聞いた時、ヨセフは涙を流した。動揺したのです。様々な思い、感情によって心を揺さぶられたのです。19節以下の彼の言葉は、この涙の中から、あるいはこの涙を経て語られたものなのです。裁きは神様のなさることで、自分が神に代わることはできないというのも、また自分に対してなされた悪、罪をも用いて神様がなさったみ業を受け入れることも、決して簡単なことではありません。それには複雑な葛藤が伴うし、そこで私たちは涙を流すのです。しかしこの涙の中で、主なる神様と向き合い、神様のみ前を歩み続けていくところに、ヨセフが兄たちを慰め、優しく語りかけた、あの言葉が与えられていくのではないでしょうか。この涙の中で、神様こそがただ一人本当に裁きをなさる方であり、人間の悪、罪をも用いて恵みのみ業を成し遂げて下さる方であることを受け入れる者とされていくことが信仰です。そしてその信仰によって私たちは、自分に対して罪を犯した人をも受け入れ、新しい交わりに生きることができるようになるのです。

ヨセフの遺言
 この19節以下の言葉が、ヨセフ物語の本当のクライマックスであると言えるでしょう。その後に語られるのはヨセフの死です。ヤコブと同じように、死に臨んだヨセフは遺言を語ります。それが24節と25節の二つの言葉です。一つは「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」、もう一つは「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください」です。ここには、ヨセフが自分の遺体について与えている指示があります。その点ではヤコブの遺言と共通するわけですが、その内容はヤコブの場合とは違います。ヨセフの遺言に特徴的なのは、「神は必ずあなたたちを顧みてくださる」ということが繰り返されていることです。それは具体的には、「この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」ということです。つまり、ヤコブは、過去に神様によって与えられた約束を見つめ、その約束の印であるマクペラの洞穴に埋葬してくれるようにと言ったわけですが、ヨセフは、むしろ将来を見つめているのです。神様があの約束を実現して下さり、イスラエルの民をこのエジプトから、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた約束の土地に導き上って下さる時が必ず来る、その時に自分の遺体をその約束の地へと携えて行け、それまでは、このエジプトの地に置いておいてよいと言っているのです。ヤコブもヨセフも、同じ墓に葬られることを望んでいます。しかしそこで見つめているのが、ヤコブにおいては神様が過去に与えて下さった約束であるのに対して、ヨセフにおいては、神様が将来その約束を実現して下さることなのです。ヨセフのこの遺言によって創世記は終わります。その終わりは、新しい始まりでもあります。イスラエルの最初の先祖たちのことを語る創世記は、このヨセフ物語をもって終わり、神様がイスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへと導き上って下さることを語る出エジプト記が始まるのです。神様の救いの歴史における一つの時代が終わり、新しい時代が始まるのです。ヤコブとヨセフの死を対照的に描くことによって、創世記の著者はこの終わりと新しい始まりを読者に意識させようとしているのです。

終わり、そして始まり
 そして、この終わりと新しい始まりを描くことの中に、あのヨセフの涙と、その涙の中から与えられた慰めと赦しの言葉が語られていることに大きな意味があると思うのです。神様の救いの歴史において一つの時代が終わり、新しい時代が始まる、そのことは、私たち一人一人の人生においても起るのです。ヨセフがそうだったように私たちも、消すことのできない苦しみ悲しみをかかえています。罪ある人間どうしの関係の中で、深い傷を負ってしまい、その傷がいつまでもうずき、私たちを苦しめるということがあるのです。その中で、「私が神に代わることができるだろうか、人を裁くのは神であって私ではない」という信仰に本当に立ち、そして私に悪をたくらみ、たくらむだけでなく実際に行ったその人をも通して、神様がみ業を行って下さり、悪をも善に変えて下さる、そのような恵みのみ業が行われているのだと信じて、それを受け入れることができるならば、そこには新しい歩みが始まるのです。それは先ほども申しましたように簡単なことではありません。私たちはそこに至るまで涙を流します。しかし私たちが流すその涙は、神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちと共に、また私たちのために流して下さっている涙なのです。主イエスは、私たちが神様によって罪を赦され、慰めを与えられて新しく歩み、その中で人の罪をも赦し、慰めの言葉を語っていくことができるようになるために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。この主イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、復活による新しい命の恵みにあずかることによって私たちは、過去の罪とそれに対する憎しみ悲しみと決別し、慰めと赦しに生きつつ救いの完成を待ち望む新しい歩みを与えられるのです。創世記を読み終えようとしている今、私たちの人生にも、主イエス・キリストによる恵みに満ちた終わりと、新しい始まりが与えられることを祈り求めていきたいのです。

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