夕礼拝

主の訓練

「主の訓練」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第8章1-20節
・ 新約聖書:使徒言行録第20章32節
・ 讃美歌:249、361

約束の地に入る備え
 月に一度、私が夕礼拝説教を担当する日には、旧約聖書申命記を読み進めています。申命記は、エジプトの奴隷状態からモーセに率いられて脱出し、四十年の荒れ野の旅を経て、いよいよ約束の地カナンを目前にしているイスラエルの民に、モーセが神のみ心、掟をもう一度語り聞かせているというものです。モーセはここで、これから約束の地に入って行こうとしているイスラエルの民に、その備えをさせているのです。その思いが8章の1節にも現れています。「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる」。
 モーセは民にどのような備えをさせようとしているのでしょうか。2節の始めに、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」とあります。イスラエルの民はこの四十年間、主なる神に導かれて荒れ野を旅し続けてきました。神が出発せよとお命じになったら、天幕を畳んで出発し、神がお示しになる方向へと向かって行き、そして神がここで留まれとお命じになったらそこに宿営し、次の出発の命令を待つ、という生活を彼らはしてきたのです。それは先の見通しが立たない、自分で立てた計画に従って歩むことができないという意味で、大変不安定な、落ち着かない生活でした。またその間彼らの食物は、神が日ごとに与えて下さった「マナ」でした。それは彼らが生きて行くのに十分なものでしたが、しかし決して豊かなご馳走というわけではありません。イスラエルの民はこのマナしか与えられていないことにしばしば不満を洩らしました。またこのマナは、蓄えておくことの出来ないものでした。毎日その日の分だけが与えられたのです。その日の分は与えられているが、翌日の分までの蓄えはない、つまり明日の生活の保証なしに日々生きているのです。それはやはり不安なことです。荒れ野の旅は神によって日々養われ導かれる歩みでしたが、それはこのように先の見通しや保証のない、落ち着かない不安な歩みでもあったのです。そのような四十年を経て、いよいよ彼らは約束の地に入ろうとしています。約束の地を得たなら、畑を耕し、作物を作りというように、自分で計画を立て、それを実行していくことによって糧を得る生活が始まるのです。そして神が彼らに与えて下さろうとしているカナンの地は、7節以下にあるように大変良い地です。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。このような豊かに恵まれた土地における新しい生活に入ろうとしている民にモーセは、四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさいと言っているのです。それは何のためかというと、約束の地での豊かに恵まれた生活においても、荒れ野を歩んだ時と同じように生きるためです。約束の地においても、荒れ野を歩むように生き続けること、それがイスラエルの民に求められている課題なのです。

主の訓練を思い起こす
 それは、豊かな作物などが与えられても、質素な貧しい生活を続けなさいということではありません。四十年の荒れ野の旅を思い起こすことによって何が求められているのかが2節の後半に語られています。「こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」。このことを思い起こすことが、四十年の荒れ野の旅を思い起こすことの目的なのです。ここには二つのことが語られています。第一は、四十年の荒れ野の旅は苦しみだったということです。それは十分な水も食べ物もない貧しい生活だったというだけでなく、先程見たように、先の見通しや保証のない不安な生活だったということです。荒れ野の生活におけるその苦しみを忘れるな、とモーセは言っているのです。そして第二のことは、その苦しみは主なる神がお与えになったものであり、それは彼らを試すためだった、ということです。
 「試す」と言うと私たちは、神が人間に課題を与えて、その出来映えを採点して合格とか不合格を判定する、つまり神が人間をテストする、というようなことを思い浮かべます。しかしここでの「試す」はそういうことではありません。3節には「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。ここにも、主があなたを苦しめ、飢えさせたとありますが、その飢えの中で主はマナを与えて彼らを養い、それによって、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ことを知らせて下さったのです。荒れ野の旅において主がイスラエルの民に苦しみをお与えになったのはこのことを教えるためでした。神がご自分の民に苦しみをお与えになるのは、民を疲れ果てさせ、倒れさせるためではありません。4節にあるように「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」のです。主は苦しみを与えつつも民を守り支えて下さったのです。その守り支えによって、主がお与えになる苦しみは「主の訓練」という意味を持つのです。5節には「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」とあります。主が苦しみをお与えになったのは、彼らを滅ぼすためではなくて、父として子であるイスラエルの民を訓練するためだったのです。それは父としての愛によることです。主がイスラエルの民に求めておられるのは、四十年の荒れ野の旅における苦しみを主の愛による訓練として思い起こし、その訓練によって主が教えて下さったこと、つまり「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということを忘れずに、約束の地に入ってからも主の口から出るすべての言葉によって生き続けていくことなのです。主が彼らを試し、御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされたというのもこのことと結びついています。主の戒めを守るとは、主のみ言葉を大切にし、それに従って生きることです。人は主の口から出るすべての言葉によって生きる、という信仰を確かなものとするために、主は彼らを試し、訓練をお与えになったのです。

神の言葉によって生きるために
 この信仰の訓練が、マナによって民を養うことによって行なわれたのは意味深いことです。マナは、人間の労働によって得られるものではなくて、ただ神の恵みとして天から与えられた食物でした。つまりイスラエルの民の荒れ野の旅は、人間の働きや努力によってではなく、ただひたすら神の恵みによって支えられていたのです。そのマナは、神のみ言葉を指し示しています。私たちの信仰の旅、神の民としての歩みを真実に支えるのは、神のみ言葉です。神のみ言葉は、人生に色を添え、豊かにするための装飾品ではありません。余裕ができたらそれを求めるのものよい、というような、あってもなくてもよいものではありません。神の言葉は、荒れ野の旅におけるマナのように、神がそれによってこそ私たちを生かし、命を支えて下さるものなのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所は使徒言行録第20章32節です。ここは使徒パウロが第三回伝道旅行の終わりにエルサレムへと上る途中、エフェソの町に近いミレトという港に寄港した際にエフェソ教会の長老たちを呼んで語った告別説教の一部です。パウロは、エフェソの教会の人々と会うのはこれが最後になることを意識して、今生の別れを告げているのです。その時彼はこの32節を語りました。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。もう二度と会うことはない最後の別れにおいてパウロは、教会の人々を、神とその恵みの言葉に委ねているのです。神の言葉にこそ、彼らを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせる力があるのです。パウロは神の言葉の力に教会の人々を委ねているのです。それを私たち教会の側から言うならば、私たちの信仰の生活、信仰者として生きる歩みの全てはみ言葉に委ねられたものとならなければならないということです。この「委ねる」という言葉は、「傍らに、あるいは前に置く」という意味です。私たちの生活全体が常に神の言葉の傍らに、あるいは前に置かれ、荒れ野におけるイスラエルの民の歩みのように、み言葉によって出発し、み言葉によって示された方向に向かい、み言葉によって留まるものとなる、そのようにひたすら神の言葉によって養われ導かれて生きることが大切なのです。マナはそういう信仰の訓練のために与えられたのです。
 マナが示していることはもう一つあります。それは先程も申しましたように、蓄えておくことができない、ということです。毎日その日の分を集めて食べるのであって、明日、明後日の分まで蓄えていくことはできないのです。このことが、み言葉によって養われて生きる生活のあり方を教えています。私たちは、神の言葉を日々新たにいただかなければならないのです。それを自分の財産として蓄えておいて、そこから小出しにして生きることはできないのです。今日は蓄えがあるからみ言葉を新たにいただかなくても大丈夫、と思うとしたらそれは既に、み言葉によってではなく自分の力で生きようとしているのです。それは、人はパンだけで生きることができると思うことです。パンとはここでは、私たちが自分の力で獲得し、蓄えておくことが出来るものの全てを代表しています。私たちは実にしばしば、パンを蓄えることで安心しようとしますが、しかし私たちを本当に生かすものは、自分の中に蓄えておくことのできる何かではなくて、神の生けるみ言葉なのです。そのことを毎日具体的に体験していたのが、イスラエルの民の四十年の荒れ野の生活でした。約束の地に入ってからも、毎日天からのマナによって養われて生きた荒れ野の生活を思い起こし、そのように日々み言葉に養われて生きるようにとモーセは教えているのです。

主を忘れることのないように
 しかしこれはとても難しいことです。モーセはその難しさを意識して、11節以下で警告を語っています。11節には「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」とあります。荒れ野の生活を忘れるとは、主なる神を忘れることなのです。約束の地に入り豊かな生活をしていくうちにそのことが起るのです。どのようにしてそれが起るのかが12節以下に語られています。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」。豊かさを得ることによって「心おごり」、主なる神を忘れるのです。豊かさ、富、財産が、主なる神を忘れさせ、み言葉に聞きつつ生きることをめやさせていくのです。この豊かさ、富、財産そのものは、7節以下に語られていたように神の恵み、祝福であって、それ自体が悪いものではありません。しかし人間はそれを神の恵み、祝福として受け、感謝してますます神と共に生きるのでなく、心おごり、神を忘れてしまうことが多いのです。それがいかに間違ったことであるかを示すために14節の後半以降にこう語られています。「主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を涌き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。あなたがたは、主なる神の救いを受け、その恵みによって富を与えられているのだ、それを、自分の力と手の働きで築いたなどと考えてはならない、そのようなおごり高ぶりに陥ってはならない、と言われています。神を忘れるとは、神によって生かされているのを忘れ、自分の力で生きているかのように思い込むことです。そうなると、神のみ言葉を求めようとしなくなるのです。
 神の祝福によって与えられたはずの豊かさの中でそのようなおごり高ぶりに陥り、神を忘れてしまわないように、私たちはよく警戒しなければなりません。そのためには、モーセが教えているように、神の救いのみ業、導き、恵みをしっかりと見つめていなければなりません。私たちに与えられているのは、神の独り子イエス・キリストによる救い、導き、恵みです。主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪の支配から解放され、なお罪や弱さを持ちながらも神の民とされ、祝福を受けて生きる者とされているのです。そして私たちには、約束の地として、神の恵みのご支配の完成である復活と永遠の命が約束されています。その約束の保障として、主イエスは復活なさったのです。主イエスの十字架の死と復活によって実現したこの救いの恵みを告げるみ言葉を常に聞き続けることによって、私たちは、荒れ野におけるイスラエルの民が、神が与えて下さったマナによって養われつつ、約束の地を目指して生きたように歩むことができるのです。

偶像崇拝とおごり高ぶり
 モーセは19節以下でもう一つの警告を語っています。「もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる」。主を忘れることがここでは「他の神々に従い、仕え、ひれ伏す」こととして見つめられています。先ほどは、主なる神を忘れて、自分の力で生きているかのようなおごり高ぶりに陥ることが語られていました。それは決して、自分の力で何でもできる、という傲慢な思いに陥るということだけではないのです。人間は自分が弱い者であることを感じています。それゆえに、人間を越えた何らかの力に頼ろうとするのです。しかしそこにおいて、神に従いそのみ前にひれ伏すという謙遜に生きるのではなくて、自分が主人であるままで、人間を越えた力を自分に奉仕させようとするのです。そのようにして人間は様々な神々、偶像の神々を造り出していくのです。つまり主なる神を忘れて他の神々を拝むようになるということの根本的な問題は、どの神を信じるか、という選択の問題ではないのです。そこで問われているのは、私たちが、自分の人生が主なる神によって導かれ、支えられていると信じているのか、それとも自分の力によって生きているのだと思っているのか、です。自分の力で生きていると思っている者が、つまり「自分の力と手の働きで、この富を築いた」と思っている者が、その自分の富を守るために、自分の願いや望みを実現し、苦しみを取り除くために、その都度いろいろな神々の助けを借りて、自分の力を補強しようとする、それが偶像の神々です。つまり偶像というのは、自分の力で生きていると思っている者が、自分が主人であり続ける中で、自分に仕え奉仕する者として造り出した神なのであって、偶像崇拝の根本には、主なる神を忘れ、自分の力で生きていると思う人間のおごり高ぶりがあるのです。

苦しみをも主の訓練として
 しかし私たちは実際には、主なる神によって生かされている者です。富を築く力を与えて下さったのは主であって、主なる神が私たちを養い、導き、祝福を与えて下さっているのです。主なる神との関係こそ、つまり主が語りかけて下さるみ言葉を聞くことにこそ、私たちの人生の真実な支えがあるのです。このことをしっかり意識して、主の口から出る全ての言葉によって生きる者となることこそが、主を忘れないで生きることです。そして主を忘れないで生きるなら私たちは、私たちの人生に主がお与えになる様々な苦しみを、主の訓練として受け止めることができるのです。苦しみに直面する時に、「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」という5節のみ言葉を、また「それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」という16節のみ言葉を思い起こすことができるのです。私たちは、苦しみを主なる神から与えられる訓練として受け止めることには抵抗を覚えます。訓練なら忍耐してそれを受けなければならないからです。そうでなくて苦しみを何かのたたりにしてしまって、それを取り除く占いに頼る方が楽なのです。しかしそれこそがまさに、主を忘れて他の神々に従うことです。そこには、主の養い、支え、導きを受ける歩みは得られないのです。
 荒れ野の生活を忘れるなというモーセの勧めは、苦しみをも神から与えられた訓練として受け止めることを私たちに教えています。それを主の訓練として受け止めていくところにこそ、主がその苦しみの中でも、み言葉というマナによって自分を養い、支え、歩みを導いて下さることを私たちは体験していくことができるのです。2015年を終えるに際して私たちは、この一年のそれぞれの歩みにおいて、特にそこで与えられた苦しみ悲しみにおいて、主が父として子である自分を訓練して下さったことを見つめ、その訓練の中でみ言葉によって養い、導いてきて下さったことを確認したいと思います。そのことによってこそ、新しい年、2016年を、希望をもって迎えることができるのです。

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