夕礼拝

主と共に歩んだヒゼキヤ

2026年9月27日 夕礼拝
説教題「主と共に歩んだヒゼキヤ」

列王記下 第20章1〜21節 
テモテへの手紙二 第2章8〜13節

ヒゼキヤ王
 旧約聖書列王記下の18章から20章にかけてには、南王国ユダの王ヒゼキヤの治世のことが語られています。このヒゼキヤ王について18章5節以下にこう語られていました。「ユダの王の中で、ヒゼキヤのようにイスラエルの神、主を頼りとしていた者は後にも先にもいなかった。主に固く結び付き、付き従って離れることなく、主がモーセに命じられた戒めを守った」。このようにヒゼキヤは、主なる神に忠実に従う王として歩んだのです。

アッシリアの侵略と主による救い
 しかしこのヒゼキヤの治世の間に、ユダ王国は大きな危機に直面しました。同じイスラエルの民の国である北王国イスラエルが、アッシリア帝国の王センナケリブに攻められ、滅ぼされたのです。センナケリブはさらに南王国ユダにも攻めて来て、多くの町を占領し、降伏を求めました。センナケリブの家臣はユダの人々の気持ちをヒゼキヤから引き離すためにこう語りかけました。「ヒゼキヤは、主なる神がユダ王国を守って下さると言っている。しかしこれまで多くの国々が、それぞれの信じる神に頼ってアッシリアに抵抗してきたけれども、ことごとく滅ぼされたではないか。ユダだけは特別ということはあり得ない。だからヒゼキヤにだまされるな。あなたがたは生き延びるためには降伏するしかないのだ」。つまり、ヒゼキヤとユダの人々は、主なる神に信頼して歩むか、この世の軍事力においてどちらに勝ち目があるかを見極めて歩むか、という選択を迫られたのです。つまり彼らが直面したのはもはや単なる政治的状況判断の問題ではなくて、信仰の問題だったのです。これまで読んできた18、19章には、このアッシリアによる侵略の危機の中でヒゼキヤが、預言者イザヤを通して、主なる神のみ言葉を求めたことが語られていました。イザヤは19章6節以下でこのような主の言葉を告げました。「あなたがたの主君にこのように伝えなさい。『主はこう言われる。アッシリアの王の家臣たちが私を冒涜する言葉を聞いても、恐れるな。見ているがよい。私が王に霊を送り込むと、彼は噂を聞いて自分の国へ引き返す。そこで私は剣にかけて彼を殺す。』」。主なる神はイザヤを通して、恐れ、慌てふためいて、何とかしなければと焦って動き回るのではなくて、静まって、主のなさるみ業を見ていなさい。そうすれば、私がこの危機からあなたがたを救う、と告げたのです。
 19章35節以下に、この主のみ業が実現したことが語られています。主の使いがアッシリアの陣営で、一晩の内に十八万五千人を撃ち殺したのです。これは実際にはどういうことだったのかは分かりません。疫病が起ったのではないか、とも思われます。何が起ったにせよ、アッシリア王は退却せざるを得なくなり、国に帰り、そこで息子たちによって殺されたのです。このようにして、ヒゼキヤとユダ王国はアッシリアの侵略から救われました。アッシリアの王は、主なる神だけが我々の手からユダを救うことができる、などということがあるはずはないではないか、と嘲りましたが、その主なる神が、ユダを救って下さったのです。

瀕死の病気にかかったヒゼキヤ
 このように18、19章には、ヒゼキヤの治世における最大の危機であるアッシリアの攻撃と、主なる神によるそこからの奇跡的な救いが語られていました。本日の第20章には、このことと並行してヒゼキヤ個人に起った出来事が語られています。ヒゼキヤは死の病にかかり、しかし主に祈ったところ主の憐れみによって癒され、寿命を15年延ばしていただいたのです。19章に続く20章にこれが語られているので、私たちはともすれば、この出来事はアッシリアの脅威からの主による奇跡的な救いの出来事の後に起った、と考えがちです。つまり「一難去ってまた一難」という話のように感じるのです。しかしそうではありません。なぜなら6節で主は、「私はあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリア王の手から、あなたとこの都を救い出す」と言っておられるからです。つまりアッシリアからの救いはまだ実現していないのです。アッシリアによって国を滅ぼされそうになっている、その危機のまっただ中で、ヒゼキヤは死の病にかかったのです。20章の冒頭の1節に「その頃」とあるのは、ユダ王国がアッシリアに攻められて滅亡の危機に瀕していたその頃、ということなのです。つまり18、19章に語られていることと20章に語られていることは同時並行的に起っています。18、19章は、ヒゼキヤ王とユダ王国が、アッシリアの脅威によって直面した危機とその顛末を語っており、20章は、その危機の中で、ヒゼキヤ個人が死の病にかかるという苦しみを味わったことを語っているのです。つまりこれは、「一難去ってまた一難」ではなくて、「泣きっ面に蜂」ということだったのです。

涙を流して祈ったヒゼキヤ
 この苦しみの中で彼は、涙を流し激しく泣いてこう祈っています。3節です。「ああ、主よ。私がまことを尽くし、誠実な心で御前を歩み、あなたの目に適う良いことを行ってきたことを、思い起こしてください」。このヒゼキヤの涙ながらの祈りは、単に自分を病と死の苦しみから救ってください、という祈りではありません。今危機に瀕しているのは彼自身の命だけではなくて、ユダ王国そのものなのです。その危機の中でヒゼキヤは、自分がこれまでまことを尽くし、誠実な心で御前を歩み、主なる神の目に適う良いことを行ってきたことを思い起こしてください、と主に祈っているのです。それは先ほど18章5節以下で読んだように、真実です。そのことを思い起こして、自分とユダ王国を救って下さるように、と彼は祈り願ったのです。ですからこれは、ただ自分の病が癒されるように、というだけの祈りではありません。ヒゼキヤは、自分の病の癒しとユダ王国の救いを一つのこととして祈り求めたのです。2節に、「ヒゼキヤは顔を壁に向け、主に祈って言った」と語られているのも、周りの人間たちに目を向けるのでなく、ひたすら主なる神に向かって祈った、ということを意味しているのでしょう。ヒゼキヤは、主なる神と真剣に向き合い、涙を流し激しく泣きながら祈ったのです。この真剣な祈りを、主なる神は聞いて、それに応えて下さったのです。

主による癒やしの宣言
 ヒゼキヤの祈りを聞いた主が、預言者イザヤを通して新たに語って下さったみ言葉が5節以下です。「引き返して、私の民の君主ヒゼキヤに言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたを癒やす。あなたは三日目に主の神殿に上るだろう。私はあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手から、あなたとこの都を救い出す。私自身のため、また僕ダビデのために、私はこの都を守る。』」自らの命と、ユダ王国の命運とを一つのこととして真剣に祈ったヒゼキヤのことを、主は、「わたしの民の君主ヒゼキヤ」と呼んでおられます。このようなヒゼキヤこそ、神の民を導く君主として相応しい、ということです。そして主は、「私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたを癒やす」と宣言して下さいました。「あなたはもはや生き長らえることはない」と言っておられた病を、癒して下さる、とおっしゃったのです。大事なことは、この癒やしの宣言が、ユダ王国の救いと一つのこととされていることです。「私はあなたの寿命を十五年延ばし」と主はおっしゃいましたが、それは「アッシリアの王の手から、あなたとこの都を救い出す」ということと一つなのです。自らの病とユダ王国の命運を一つのこととして祈ったヒゼキヤに主は、私はあなたによってユダ王国を救う、と宣言して下さったのです。この宣言を主が実行して下さったのが、7節に語られているヒゼキヤの病の癒やしであり、19章の終わりに語られていた、アッシリアの陣営で主の使いが十八万五千人を撃ち殺してユダ王国を救って下さったという奇跡だったのです。

預言者イザヤによって支えられて歩んだヒゼキヤ
 主なる神によるこの奇跡的な救いの実現においてヒゼキヤを支えたのは、預言者イザヤによって語られた主なる神のみ言葉でした。アッシリアによって包囲される、という危機の中でイザヤはヒゼキヤに、先ほど見たように、恐れ、慌てふためいて動き回るのではなくて、静まって、主のなさるみ業を見ているように、というみ言葉を語りました。ヒゼキヤはこのみ言葉に従って歩み、それによって、あのような救いの奇跡を見ることができたのです。20章に語られている病気においても、イザヤが語った主の言葉が彼を導き支えています。イザヤは、「あなたはやがて死ぬ。生き長らえることはない。家の者にそのことを伝えておきなさい」という主の言葉をヒゼキヤに語ったのであって、それは彼を支える言葉にはなっていない、と感じるかもしれません。しかし、この主のみ言葉がヒゼキヤを、涙を流しつつ主に真剣に祈ることへと向かわせたのです。それによって彼はあの癒やしと救いの宣言を聞くことができたのです。イザヤが告げた「あなたはもう生き長らえることはない」という一見残酷な主の言葉こそが、ヒゼキヤの祈りを引き出したと言うことができるでしょう。預言者の語る主の言葉は、それを真剣に聞く者たちを主に向き合せ、祈る者とします。そこに、主による新しい救いのみ業がなされていくのです。ヒゼキヤはこのように、滅亡の危機に直面する国を率いる王としても、また死の病に苦しむ一人の人としても、預言者イザヤを通して主のみ言葉を聞いたのです。それによって彼は王としても個人としても、主なる神の大いなる救いのみ業を体験することができたのです。

まことの預言者とは
 またここには、主のみ言葉を預けられて語る預言者とはどのような者なのか、も示されています。イザヤは主から示されてヒゼキヤに「あなたはもう生き長らえることはない」と語ったのです。しかし主はヒゼキヤの真剣な祈りを聞いて、直ちにそのみ心を変えて「私はあなたを癒やす」という新たなみ言葉を語られたのです。それはイザヤが彼に死の宣告をしてから、「中庭を出ないうちに」だったと4節にあります。イザヤは、さっき語ったのとは全く違うことを告げるために中庭を出ないうちに引き返すことになったのです。それは普通には納得のできないことです。私たちなら、自分がさっき語ったことはどうなってしまうのですか、これでは私の面目は丸潰れではないですか、と腹を立てるところです。しかし、そのような人間の面子を捨てて、主なる神によって示されたみ言葉を語っていくのが預言者です。主なる神は自由なお方です。そしてその自由なみ心によって私たちを救おうとしておられるのです。一旦決めたことはもう変えることはできない、そんなことをしたら面子が丸潰れだ、などとお考えになるのではなくて、人間の真剣な祈りを聞き、その涙を見て、救いを与えて下さるのです。それは私たちの目から見たら、神のみ心が変化した、前に言っておられたことと違う、と感じられます。しかし私たちを救おうとして下さっている神のみ心は変わってはいないのです。主が自由なみ心をもって私たちを救おうとして下さっている、この根本的なみ心を受け止めて、人間の目から見たら変化していくように思われるみ心についていくのが預言者です。自分の面子、プライドにこだわっていたらそれはできません。それらから解放されて、新たに示された主の救いのみ心を告げるために直ちに引き返したイザヤの姿は、まことの預言者とはどのような者かを示しているのです。

しるしを与えて下さる主
 8節から11節には、主なる神からの癒やしと救いの宣言を聞いたヒゼキヤが、そのしるしを求めたことが語られています。しるしとは要するに、主が宣言して下さったその救いが本当に実現するという証拠です。私たちは、そういうしるしを求めるのは、主の救いを疑っているということで、それは不信仰だと思ったりします。しかし聖書には、主なる神ご自身が、そのようなしるしを求めよとおっしゃっているところがいくつかあります。本日のところでも、しるしを求めたヒゼキヤに主はイザヤを通して積極的に応えて下さっています。しるしを求めることは確かに、主を試すような不信仰である場合もありますが、ここでは、むしろ主が、しるしを与えて下さることによって、み言葉を信じて生きる者の信仰を励まし、支えて下さっている、と捉えることができます。主はヒゼキヤの求めに応えて、日時計の日影を十度戻す、という驚くべきしるしを与えて下さったのです。これはいったいどういうことが起ったのか、と詮索するのは無意味です。主はヒゼキヤに驚くべきしるしを与えて、彼の病の癒やしと、ユダ王国のアッシリアからの救いの宣言が確かなものであることを示して下さったのです。私たちにも、このようなしるしが数多く与えられています。日時計の日影が十度戻る、というような単純なしるしではなくても、信仰の目で見つめるならば、なにげない日々の生活の中に、また私たちの目にはむしろ試練や苦しみと感じられるような出来事の中にも、主が与えて下さっているしるしは満ちているのです。私自身にとっても、体調が悪い中で、今日こうして講壇に立ってみ言葉を語ることができている、そのこと自体が主の恵みの確かなしるしです。皆さんも、信仰の目を開かれるなら、それぞれの生活の中にそのようなしるしを見出すことができるでしょう。主はそのようにして私たちの信仰の歩みを支えて下さっているのです。

バビロンの脅威を見つめていたイザヤ
 さて20章の12節以下には、バビロンの王がヒゼキヤの病気のことを聞いて、使者を遣わして見舞いの手紙と贈り物を届けてきたことが語られています。ヒゼキヤは彼らを喜んで迎え、王宮の宝物庫の中のすべてのものを見せました。つまりヒゼキヤは彼らをユダ王国にとっての脅威とは全く考えていなかったのです。しかしこのバビロンこそ、後にアッシリア帝国を滅ぼし、そしてユダ王国をも滅ぼして、主だった人々を連れ去って捕囚とした国です。この訪問も、単にヒゼキヤの病気見舞いということはありません。それにかこつけて、ユダ王国の内情を探りに来たのです。そのことに気づいていたのは預言者イザヤでした。イザヤはヒゼキヤに「あの人々は何を言ったのですか。どこからやって来たのですか」と問いました。ヒゼキヤは「彼らは遠い国、バビロンからやって来ました」と答えました。ヒゼキヤはバビロンを、自分たちとは関わりのない遠い国としか感じていないのです。しかし預言者であるイザヤは違いました。目に見える現実の背後にある主なる神のみ心を常に見つめていた彼の目には、バビロンつまりバビロニアが、ユダ王国を滅ぼし、人々を連れ去って捕囚とし、王宮にある全てのものを持ち去ってしまう、という将来が見えていました。このことは、主のみ心を聞きつつ生きることによってこそ、この世の現実をより深く洞察することができる、ということを示しています。主なる神を信じる信仰は、この世の現実に目を塞いで信仰の世界に閉じこもることではなくて、この世の現実をより深く、リアルに、正しく見つめる目を与えるのです。

あなたが告げられた主の言葉はありがたい
 さてイザヤから、バビロンによる将来のユダ王国の滅亡を告げられたヒゼキヤは19節で「あなたが告げられた主の言葉はありがたい」と言いました。そしてそれは「自分の在世中は平和と安定が続くと思ったからである」と語られています。これはどういう意味なのでしょうか。主の言葉が告げているバビロンによるユダの滅亡は将来のことで、自分が生きている間は平和と安定が続くならそれでよい、ということでしょうか。だとしたらそれは無責任な言葉です。ヒゼキヤのこの言葉には人間の弱さから来るそういう無責任な響きが確かにあるし、私たちも同じような無責任な思いを抱きます。今年は地球温暖化の影響が世界中で激しく現れており、早急な対応の必要性が指摘されていますが、自分が生きている間に地球が滅びてしまうことはないだろう、と思って結局何もしない、ということを私たちは繰り返しているのではないでしょうか。ヒゼキヤもそういう人間の弱さをかかえて生きていたのです。しかし彼の言葉にはさらに深い意味があります。「ありがたい」という言葉は「自分には関わらないからそれでよい」という無責任な意味では本来ありません。これは「良い」という意味です。彼は、将来バビロンによってユダが滅ぼされるという主の言葉を「良い」と言って受け入れたのです。彼はユダの王として、アッシリアの脅威からの救いを主に祈り願い、主がそれを叶えて下さったことを体験しました。また自分自身の病の癒やしを祈り、主がそれを与えて下さったことをも体験しました。主なる神が祈りに応えて大いなる憐れみと恵みのみ業を行って下さったことを体験したのです。しかし彼はそのことを、主なる神は自分たちの味方だからユダ王国は決して滅びることはない、ということの証拠とは考えなかったのです。アッシリアからの救いは主の憐れみと恵みによって与えられたのであって、将来の救いを保障するものではない。北王国イスラエルが、主なる神を離れ、他の神々を拝むようになる罪に陥ったことによってアッシリアに滅ぼされたように、ユダも、主の目に叶わない歩みをするならば、主のみ心によって滅ぼされるのです。また彼は主の恵みによって寿命を十五年延ばしていただきましたが、永遠に生きる者とされたわけではありません。主のみ心によって死ぬ時が来るのです。ヒゼキヤはその主のみ心を「良い」と受け入れています。「あなたが告げられた主の言葉はありがたい」という彼の言葉は、主なる神のみ心こそが最善であり、全てを導き、支配していること、人間の思いや願いを叶えるために神がおられるのではなくて、人間は神のみ心を最善のものとして受け入れ、それに従って生きることによってこそ、本当に良い人生を生きることができるのだ、ということを語っているのです。

主と共に歩んだヒゼキヤ
 ヒゼキヤはこのように、ユダ王国のどの王よりも、主を頼りとし、主に固く結び付き、付き従って離れることなく歩みました。彼の歩みには多くの危機があり、苦しみがあり、彼自身の弱さも欠けも罪もありましたが、預言者イザヤが語った神の言葉を常に聞きつつ、主なる神と共に生きたのです。それによって彼は幸いな歩みを与えられたと言うことができるでしょう。私たちはヒゼキヤの生涯に、この教会の9月の聖句の響きを聞き取ることができると思います。テモテへの手紙二の第2章13節です。「私たちが真実でなくても/この方は常に真実であられる。この方はご自身を否むことはできないからである」。ヒゼキヤが共に生きた主なる神は、その独り子イエス・キリストを遣わして、私たちと共にいて下さいます。私たちはこの主イエス・キリストと共に生きることによって、主の真実に支えられた幸いな歩みを与えられるのです。

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