説教「救いの道を宣べ伝える」 副牧師 川島章弘
旧約聖書 ホセア書第4章1-3節
新約聖書 使徒言行録第16章16-24節
フィリピでの伝道
本日は使徒言行録16章16~24節のみ言葉に聴いていきます。いわゆる「パウロの第二回伝道旅行」において、パウロたちは小アジア(現在のトルコ)からエーゲ海を渡って、マケドニア、つまりギリシアに足を踏み入れました。この時、キリストの福音が初めてヨーロッパに渡り、ヨーロッパ伝道が始まったのです。マケドニアに渡って最初にパウロたちが伝道した町が、フィリピというローマの植民市(しょくみんし)でした。本日の箇所の直前では、パウロが語った福音を聞いて、ティアティラ市出身で紫布を扱う商人のリディアという女性とその家族が洗礼を受け、キリスト者となったことが語られています。そしてリディアの家は、ヨーロッパ最初の教会となったのです。しかしパウロたちは、ヨーロッパ最初の教会であるリディアの家に留まっていたわけではありません。むしろリディアの家を拠点として、フィリピでの伝道を続けました。その中で起こった出来事が16節以下に語られています。40節までこの出来事について語られていますが、本日はその前半24節までを読みます。
地道に伝道する
冒頭16節に、「私たちは、祈りの場に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」とあります。「祈りの場」は、16章13節にあるように、フィリピの町の門の外、川岸にありました。そこには、ユダヤ人や、ユダヤ人ではなくても神を崇める人たちが、祈るために集まっていました。パウロたちがリディアと出会ったのも、まさにこの「祈りの場」でした。16節から分かるのは、パウロたちが、リディアの家がフィリピの最初の教会となった後も、この「祈りの場」に通っていたということです。少し先の18節を見ると、占いの霊に取りつかれた女奴隷が同じことを「幾日も繰り返」したとありますから、パウロたちは幾日も、この「祈りの場」に通っていたことになります。直前の箇所では、パウロが「祈りの場」で福音を語るとすぐに、リディアとその家族が洗礼を受け、キリスト者となっているので、パウロの伝道の華々しさを感じます。しかし16節などからは、むしろパウロたちが地道に、繰り返し「祈りの場」に通って福音を宣べ伝えたことが分かります。教会の伝道は、時には華々しく感じられることがあるかもしれません。しかし、それは結果に過ぎません。私たちの教会は、パウロたちがそうであったように地道に伝道していきます。効率の良い伝道などありません。けれども、そのように地道に伝道していく私たちを、神は確かに用いてくださり、伝道のみ業を前進させくださり、キリスト者を起こしてくださるのです。そのことに信頼して、今月の18日の秋の伝道礼拝に向けても、私たちは地道に、身近な方々を礼拝にお誘いしていきたいのです。
占いとは
地道に、繰り返し「祈りの場」に向かう道の途中で、パウロたちが出会ったのは、「占いの霊に取りつかれている女奴隷」でした。16節の後半には、「この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」とあります。「占いの霊」とは、占いをする力を与える霊ということでしょう。それがどのような占いであったかは、はっきりしません。ただどんな占いにも共通していることがあります。それは、この世界には得体の知れない力が、しばしば「運命」と呼ばれるような力が働いていると考え、その力をコントロールすることによって災いを避け、幸いを得ようとする、ということです。この時代より現代のほうが占いから解放されているかといえば、まったくそうではありません。現代の日本にも星座占い、姓名判断、手相占い、おみくじなど、挙げればキリがないほど多くの占いが日常生活に広く浸透しています。そしてそれらはいずれも、「運命」と呼ばれるような力をコントロールしようとするものなのです。占いは、人々が得体の知れない力に脅かされることによって、不安や恐れを抱えていることを前提としています。そしてその不安や恐れから、一時でも逃れるために、たとえば「運気の上がるもの」の購入を勧め、それを売って利益を得ているのです。この女奴隷も、何らかの占いによって、同じように利益を得ていました。もっともその利益は彼女自身のものになるのではなく、彼女の主人たちのものとなったのです。
神から引き離そうとする力
そのように言われて、私たちは、得体の知れない力をコントロールして人々の不安や恐れを和らげ、その対価として利益を得ることが、悪いことではないようにも思います。しかし18節では、パウロが「占いの霊」に、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と命じると、「霊は即座に」女性から出て行った、と語られています。この描き方は悪霊を追い出すときと同じです。ですからこの箇所は、「占いの霊」を「悪霊」と見なしているのです。なぜでしょうか。「悪霊」とは、神から私たちを引き離そうとする力です。そして「占い」は、神がこの世界を支配しているのではなく、得体の知れない力が支配していることを前提にしています。ですからその占いの力を与える「占いの霊」も、神のご支配を否定する力、神から引き離そうとする力にほかなりません。だから「占いの霊」が「悪霊」と見なされているのです。
そうであればこの女性は、単に主人たちの奴隷であった、というだけではなく、「占いの霊」、つまり「悪霊」の奴隷でもあった、と言うべきでしょう。ほかならぬ彼女自身が、神から引き離そうとする力に支配されていたのです。「占いの霊」の力によって、多少なりとも得体の知れない力をコントロールできたとしても、いやできるからこそ、その力に脅かされ、不安と恐れを抱かないわけにはいかなかったのです。このようにこの女性は二重の奴隷状態にあったのであり、二重の苦しみを味わっていたのです。
悪霊の力の助けを拒む
とはいえ「占いの霊」によって、この女性が特別な力を持っていたことも、また確かなことであったでしょう。17節で、彼女がパウロたちの後ろに付いて来て、このように叫んだと言われています。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。彼女のこの言葉はまったく間違っていません。確かにパウロたちは、神によって福音を運ぶ器として選ばれ、用いられた「神の僕」であり、人々に「救いの道」を宣べ伝えていました。どのような占いであったにせよ、「占いの霊」は事柄の本質を見抜くような、ある特別な力を彼女に与えていたのです。
そうであるならば、パウロは彼女から「占いの霊」を追い出さなくても良かったように思います。主人たちに多くの利益を得させていたのですから、彼女はフィリピで有名な占い師であったのでしょう。有名な、影響力のある占い師というのは、現代で言えば、SNSのインフルエンサーです。そのような人が、自分たちのことを、「いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えている」と叫び続け、発信し続けてくれれば、よい宣伝になるし、地道に繰り返し「祈りの場」に通って伝道するよりも、よほど効果のある、効率の良い伝道ができたかもしれません。しかしパウロは、そうしませんでした。18節に「彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き」とあります。パウロがたまりかねたのは、彼女がうるさかったからではありません。そうではなく彼女の言葉を聞いて、キリスト教や教会に興味を持つ人が出てきてしまうかもしれないことに、たまりかねたのです。それは、パウロが、伝道が進みさえすれば何をしてもよい、とは考えていなかった、ということにほかなりません。彼女が正しいことを言っていたとしても、彼女を支配していたのは、神のご支配を否定し、神から引き離そうとする力でした。キリスト教の信仰は、私たちの信仰は、占いとは決して相容れません。私たちは得体の知れない力ではなく、神がこの世界と私たちの人生のすべてを支配してくださっていることを信じているからです。御子キリストの十字架と復活によって、すでに神の恵みのご支配が、目には見えなくてもこの世界に始まっていることを信じているからです。だからパウロは、彼女の力に、つまり悪霊の力に頼って伝道することを拒んだのです。神から引き離そうとする力に、悪霊の力に助けられて、たとえ一時、伝道が華々しく進んだとしても、それは見せかけのことに過ぎません。結局、その人たちは神の恵みのご支配を信じているのではなく、得体の知れない力の支配に脅えているのです。
私たちの教会は、占いに頼って伝道しようなどとは考えないでしょう。しかし、このようなことをすれば、これを用いれば、もっと伝道が進むのではないか、と思うことは少なくありません。もちろんそのすべてが間違っているわけではありません。しかし私たちは、そのように思うとき、それを行い、それを用いることが、悪霊の力に助けられることではないか、よく吟味する必要があります。とりわけ、より効果的な伝道とか、より効率の良い伝道というのは大きな誘惑となります。私たちの教会は、よく吟味した上で、悪霊の力に助けられることであるならば、拒んでいく必要があるのです。
奴隷状態からの解放のために
しかしパウロは、自分のたちの信仰と占いは決して相容れないから、この女性から霊を追い出した、というだけではないでしょう。先ほど申したように、この女性は二重の奴隷状態にあったのであり、二重の苦しみを味わっていました。パウロは彼女の苦しみを受けとめ、彼女から霊を追い出すことによって、二重の奴隷状態から解放したのです。「占いの霊」を追い出すことによって、彼女は占いの力を失ったに違いありません。しかしそれは同時に、「占いの霊」の奴隷からの解放でもありました。また主人たちは占いの力を失った彼女を見捨てたでしょう。自分たちに利益をもたらす存在ではなくなったからです。しかしそれは彼女にとって、主人たちの奴隷からの解放でもあったのです。この女性のその後については、何も分かりませんが、リディアの家に行き、フィリピ教会のメンバーとなった、と想像されることもあります。パウロが霊を追い出した後、彼女にリディアの家に行くよう勧めたのかもしれません。本当のことは分かりません。でも、そうであったら良い、と思う想像ではないでしょうか。
鞭打たれ、牢に入れられる
この女性のその後は分かりませんが、はっきりしていることは、19節にあるように、この女性の主人たちが、金儲けの望みがなくなってしまったので、つまり自分たちの利益が失われたので、激しく怒ったということです。その怒りに駆られて彼らは、「パウロとシラスを捕らえ、広場の役人のところに引き立てて」行き、「そして、二人を高官の前に引き出し」ました。22、23節には、その高官たちが「二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように」命じ、「何度も鞭で打ってから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた」と語られています。この一連の行為は、明らかに不法な行為です。実際、37節でパウロは、「高官たちは、ローマ市民である私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ったあげく投獄した」と非難しています。パウロたちがローマ市民であることを知らなかった、というのは言い訳にはなりません。高官たちは二人の身元を調べるべきだったからです。しかし高官たちはそうしませんでした。主人たちが怒りに駆られて二人を責め、群衆たちも一緒になって二人を責めたので、その声に呑み込まれて、ろくに調べもせず、裁判にもかけずに、二人を公衆の面前で鞭打った後、投獄したのです。
金儲けの望みがなくなったので
このようにしてパウロとシラスは牢に入れられたのですが、その原因が何であったのかを見ていきたいと思います。主人たちはパウロとシラスを高官たちの前に引き出したとき、このように言っています。20節の後半からです。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。ローマ人である私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習を宣伝しているのです」。「ローマ人である私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習」というのが、具体的に何を指しているのか、はっきりしません。占いの霊に取りつかれたあの女性は、「この人たちは…救いの道を宣べ伝えているのです」と叫びましたが、この「救いの道」が、「受け入れることも、行うことも許されない風習」なのかもしれません。しかし、むしろここで彼らが言ったことは、いわば言いがかりであって、パウロとシラスを捕らえ、高官たちの前に引き出した、本当の理由ではなかった、と言うべきでしょう。本当の理由、それは、「金儲けの望みがなくなってしまったこと」、自分たちの利益が失われたことにあったのです。彼らはキリスト教信仰に敵対したのではなく、自分たちの利益が失われたことに怒り、二人を捕らえたのです。
利益さえ得られれば何をしてもよい
彼らの生き方は、利益さえ得られれば何をしてもよい、という生き方であったと言えるでしょう。彼らにとって最も大切であったのは、自分たちが利益を得ることでした。利益を脅かされなければ、パウロたちを捕らえることはなかったはずです。しかし自分たちの利益が脅かされると、彼らは激しい怒りに駆られ、極めて攻撃的になったのです。彼らはパウロとシラスが「私たちの町を混乱させております」と言っていますが、これは正しくありません。デマと言ってよい。町が混乱したのではなく、自分たちが利益を失っただけなのに、自分たちの身に起こったことを、あたかもフィリピの町全体で起こったことであるかのように誇張して伝えているからです。個人的な経験を、町全体の経験にすり替えることで、人々の不安や怒りを煽りやすくなります。実際、22節にあるように、群衆も一緒になってパウロとシラスを責め立てたのです。
もちろん利益を求めることそれ自体が間違っているのではありません。個人であれ国家であれ、あるいは会社であればなおのこと、自らの利益を求める必要があります。しかし利益を得ることがすべてになってしまうなら、何でも利益や効率で測ってしまうなら、私たち人間は、また国家や会社は、自らの利益が失われるときに、怒りに駆られ、極めて攻撃的になることを、この箇所は見つめているのです。また主人たちは、女性から「占いの霊」が追い出されとき、彼女が苦しみから解放されたことを喜ぶことはありませんでした。むしろ「占いの力」を失った彼女はもう必要ない、用済みだと考えたはずです。私たちはこのような「人を人と思わない態度」に憤りを感じます。しかし利益や効率がすべてならば、彼らの行動はむしろ当たり前ということになります。利益を生み出さないのであれば必要ない、と考えて当然なのです。利益さえ得られれば何をしてもよい、という生き方には、利益を失うことに対する激しい攻撃と共に、「人を人と思わない態度」も生じてくるのです。そしてこのことは、私たちにとって決して他人事ではないでしょう。いわゆる「新自由主義」と呼ばれる思想を極端に推し進めれば、この世界で、自分の利益を守るために他者を攻撃することが、人を人と思わない振る舞いが起こってくるに違いありません。いえ、すでに起こっているのです。共に読まれた旧約聖書ホセア書4章1節以下で、預言者ホセアは当時の北王国イスラエルの社会を告発して、「呪いと偽り、殺人と盗み、そして姦淫がはびこり 流血に流血が続いている」と告げています。それは、まさに今、私たちの世界で起こっていることではないでしょうか。
むさぼり
このような利益さえ得られれば何をしてもよい、という生き方の根本に何があるのでしょうか。それは、「むさぼり」ではないでしょうか。「もっともっと欲しい」という思いがあるのです。しかしキリスト教は、キリストの福音は、むさぼりからの解放を告げています。あの女性は、パウロたちが「救いの道を宣べ伝えている」と言いました。使徒言行録において、「救いの道」とは、救いに至る道のことではありません。「救いの道」とはキリスト教のことであり、神の一方的な恵みによって救われた者の生き方のことであり、キリストの十字架と復活によって救われた者の生き方のことです。パウロたちは、キリストの十字架と復活による救いを宣べ伝え、またその十字架と復活によって救われた者の生き方を宣べ伝えていたのです。
私たちは神の一方的な恵みによって救われました。その私たちに、救われた者の生き方の指針として、道しるべとして、神が私たちに与えてくださったのが「十戒」です。その最後の戒め、第十の戒めは、「隣人の家を欲してはならない」ですが、この「欲してはならない」は、「むさぼってはならない」という意味です。そしてこの「むさぼり」こそが、十戒の後半で、戒められていたことの根本にあることです。十戒の後半に、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人について偽りの証言をしてはならない」とあります。その根本にむさぼりがある。なぜなら、むさぼりによって、私たちは心の中で人を殺し、人を人と思わなくなるからです。むさぼりによって、私たちは自分や他人の結婚関係を破壊し、また人を盗む、つまり人を自分の思い通りに支配しようとするからです。むさぼりによって、私たちは隣人について根拠のない噂や悪口を流すからです。けれどもキリストの十字架と復活によって救われた者は、このむさぼりから解放されて生きます。ですからキリスト者は、利益さえ得られれば何をしてもよい、という生き方と対抗して生きることになるのです。その意味で、あの高官たちの、「私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習を宣伝している」という言いがかりは、実は正しかったことになります。むさぼりから解放されたキリスト者の生き方は、何でも利益や効率で測る者には、受け入れられない生き方に違いないのです。
むさぼりからの解放
むさぼりからの解放はどこで与えられるのでしょうか。預言者ホセアは先ほどの箇所で、イスラエルの人たちを告発して、「この地には真実も慈しもなく 神を知ることもないからだ」と告げています。「神を知ることがない」とき、社会から真実と慈しみが失われ、社会には「呪いと偽り、殺人と盗み、そして姦淫がはびこり 流血に流血が続いて」いくのです。そうであるならば、私たちは神を知ることによってこそ、むさぼりから解放されます。私たちは自分の頑張りや努力で我慢したり、節制したりすることによってむさぼりから解放されるのではありません。そうではなく神を知ることによって、むさぼりから解放されるのです。そして神を知ることができるのは、主イエス・キリストのご生涯、とりわけその十字架の死と復活を通してです。神が私たちのために、その独り子を十字架につけてくださった。それほどまでに神が私たちを愛し、大切にしてくださっている。このキリストの十字架と復活に示された神の大きな恵み、計り知れない愛を知り、受けとめることによってこそ、私たちはむさぼりから、「もっともっと欲しい」という思いから解放され、神の恵みが自分に十分に与えられていることに感謝して、喜んで生きていくことができるのです。
本日はこの後、聖餐にあずかります。私たちは何よりも、聖餐においてキリストの体と血とにあずかるとき、私たちのために独り子を十字架につけてくださった神の大きな恵みと計り知れない愛を味わいます。神の恵みが自分に十分に与えられていることに気づかされ、様々なむさぼりからの解放を与えられるのです。
このようにして、神の恵みに満たされ、その恵みに感謝して生きる私たちは、利益さえ得られれば何をしてもよい、という生き方に対抗して生きていきます。もちろん利益を求めなくてはならないことも少なくありません。しかしそれでもそれがすべてではない。すべてを利益や効率で測るのではない。私たちの教会は、私たち一人ひとりは、神の恵みのご支配を信じ、悪霊の力の助けを拒み、神の豊かな恵みに満たされ、むさぼりから解放されて、地道に歩んでいくのです。神の救いの恵みに感謝して、神を愛し、隣人を愛して歩んでいくのです。その私たちの歩みそのものが、この社会でキリストを証しし、「救いの道」を宣べ伝えていくことになるのです。
