説 教「異邦人の方へ」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第49章6-7節
新 約 使徒言行録第13章42-52節
次の安息日にも同じ福音を語ってほしい
「パウロの第一次伝道旅行」について語っている使徒言行録第13章を読み進めています。前回、ピシディア州のアンティオキアで、パウロが安息日にユダヤ人の会堂で語った説教を読みました。本日の箇所では、その説教を聞いた人たちの反応が語られています。冒頭42節にこのようにあります。「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」。説教を聞いた人たちは、次の安息日にも「同じこと」を話してほしいと頼んだのです。「同じこと」とは、16節から41節でパウロが語ったことです。神様がイスラエルの民の歴史を導いてきてくださったこと。そしてイスラエルの民に与えた約束を、ダビデの子孫から救い主イエスを送り、そのイエスを十字架につけて殺し、死から復活させることによって成就してくださったこと。この主イエスの十字架と復活によって、神の怒りと呪いを受けて滅びるしかなかった私たち罪人のために、罪の赦しが、つまり救いが実現したこと。私たちはただ主イエスを信じることによってこの救いにあずかり、復活の主イエスが朽ち果てることのない者とされたように、世の終わりに朽ち果てることのない者とされる約束を与えられること。パウロはアンティオキアの会堂でこのことを語りました。それは一言で言えば、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの良い知らせを語った、つまりキリストの福音を語ったということにほかなりません。パウロの説教を聞いた人たちは、次の安息日にも「同じこと」を、つまり同じ福音を語ってほしいと願ったのです。
そのように願ったのは、キリストの福音は難しくて、一回聞いただけではよく分からないから、もう一回聞きたい、ということであったのかもしれません。しかしそれだけではないと思います。パウロの説教を聞いた人たちは、たとえその内容を十分に理解できていなかったとしても、この福音こそが、自分たちを本当に生かすものだと感じ取ったのではないでしょうか。だから次の安息日に、違う話を聞きたいと願うのではなく、同じ福音を語ってほしいと願ったのです。
キリストの福音だけが私たちを本当に生かす
このことは、キリスト教会の礼拝の真理を捉えている、と思います。教会は誕生して以来、今に至るまで、毎週の日曜日の礼拝の説教で、「同じこと」を、同じ福音を繰り返し語ってきたのです。もちろんそれは、まったく同じ説教を語っているということではありません。説教は聖書の説き明かしであり、毎週、与えられる聖書箇所は異なりますから、その説き明かしである説教も、毎週、異なるものになります。しかしそうであっても、毎週の礼拝の説教で、同じ福音が、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの良い知らせが告げ知らされているのです。なぜでしょうか。それは、キリストの福音だけが私たちを本当に生かすからです。私たちは日曜日の礼拝からこの世へと遣わされていきます。そして平日の歩みの中で多くのストレスを抱え、身も心も擦り減らし、ボロボロになっています。それはキリスト者だけが感じていることではなく、多くの人が感じていることです。だからストレス解消のために美味しいものを食べに行ったり、飲み会に行ったり、推し活をしたり、自分へのご褒美を用意したりするのです。それらに意味がないとは思いません。きっとよい気分転換になるし、元気や励ましを与えられると思います。けれどもそれらでは決して解決できないことがあります。それは、それらは私たちに罪の赦しを与えることができない、ということです。私たちは日々の歩みの中で、罪を犯し続けています。神様を悲しませ、隣人を傷つけ、自分自身をも傷つけています。私たちは何よりも自分の罪のために身も心も擦り減らし、ボロボロになっているのです。その私たちに罪の赦しを与え、ボロボロになってしまった私たちに生きる力を与えることができるのは、礼拝で語られるキリストの福音しかありません。この福音だけが私たちに罪の赦しを与え、平日の歩みの中で、自分の罪のためにボロボロになってしまった私たちを新しく生かし、新しい週を歩む力を与えることができるのです。世の終わりに朽ち果てない者とされる希望を告げるキリストの福音だけが、人間の罪に溢れ、苦しみや悲しみ、困難や葛藤に直面する日々にあっても、絶望することのない歩みを私たちに与えることができるのです。
説教の中心は主イエスによる救い
パウロもそのことをよく分かっていたはずです。というのもこの説教において、パウロは自分のことを一切語っていないからです。彼にはほかの人がなかなか経験できない劇的な回心の体験がありました。そのことを語ったほうが、分かりやすい説教になったはずですし、人々にも感動を与えたかもしれません。しかしパウロは自分の回心について一言も語っていません。それはパウロが、自分の体験が人々を生かすのではなく、主イエスの十字架と復活による救いこそが、キリストの福音こそが人々を本当に生かすことを弁えていたからです。ほかならぬパウロ自身がこの福音によって生かされていたからです。だからパウロは、イスラエルの民の歴史から語り始め、その民への約束の成就として、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを語ったのです。このことは、教会の礼拝の説教で何が語られるべきなのかをはっきりと示しています。それは、説教において個人的な経験を語ってはならない、ということではありません。そうではなくたとえ個人的な経験が語られても、説教において告げられることの中心は、主イエスの十字架と復活によって私たちの罪が赦され、救われたことにある、ということなのです。
福音への反発
けれども、私たちを本当に生かすキリストの福音が礼拝の説教で語られるとき、誰もがそれを受け入れるかというと、決してそうではありません。それはパウロの説教においても、そうでした。14節にこのようにあります。「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどく妬み、口汚く罵って、パウロの話すことに反対した」。「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」、というのは少々誇張されていると思います。しかし大切なことは、ピシディア州のアンティオキアは異邦人の町であり、その町の多くの人が集まったということは、多くの異邦人が主の言葉を聞こうとして集まって来たということです。ユダヤ人だけでなく、異邦人も福音を聞くために集まって来たのです。ところが集まって来た異邦人の群衆を見て、ユダヤ人は「ひどく妬み、口汚く罵って、パウロの話すことに反対し」ました。この「ユダヤ人」は、パウロの説教を聞いて、次の安息日にも同じ福音を話してくれるよう願った人たちとは、別の人たちなのでしょうか。どうもそうではないようです。パウロの説教を聞いて、好意的な反応を示し、次の安息日にも同じことを語ってほしいと願った人たちの多くが、次の安息日に集まって来た異邦人の群衆を見て、パウロの話すことに反対した、つまり神の言葉を拒み、キリストの福音を拒んだのです。このようにパウロの説教に対するユダヤ人の反応が、正反対と言ってよいほどに変わってしまったのはなぜなのでしょうか。「ユダヤ人はこの群衆を見てひどく妬み」と言われていました。つまりユダヤ人は、異邦人に対する「妬み」のゆえに、説教に対する反応を大きく変えたのです。これまでユダヤ人が会堂で礼拝をしていても、異邦人が集まってくることはほとんどなかったのかもしれません。それなのにパウロが会堂で説教を語ったら、多くの異邦人がその説教を聞こうとして集まって来ました。そのことに対してユダヤ人が妬みを抱いたとしても不思議ではないのです。
福音は誇りを打ち砕く
しかしそれだけではないでしょう。それ以上にパウロが語ったキリストの福音そのものが反発を引き起こしたのです。パウロは、38、39節で、「モーセの律法では義とされえなかったあらゆることから解放され、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」と語っていました。それは律法を守ることによってではなく、ただ主イエス・キリストを信じることによって義とされ救われる、ということにほかなりません。私たちは、律法を守らなくても、善い行いを積み重ねなくても、ただ主イエスを信じるだけで義とされ救われることに対して、なんて素晴らしいことだ、と思うかもしれません。きっとパウロの説教を聞いたユダヤ人たちも最初はそう思ったはずです。ところが一旦はそう思っても、律法を守ることに誇りを持っていたユダヤ人にとって、パウロが語ったことは、その誇りが傷つけられることであったのです。なぜならパウロは、「あなたがどんなに律法を守り、どんなに善い行いを積み重ねても、それによって義とされ救われるわけではない」と語ったに等しいからです。それだけではありません。主イエスを信じるだけで義とされ救われるということは、その救いに異邦人もあずかれる、ということになります。律法を知らず、それゆえ律法を守らずに生きている異邦人が、神の民ではないと、汚れていると思っていた異邦人が、ただ主イエスを信じるだけで義とされ救われてしまう。だからユダヤ人は、集まって来た異邦人の群衆を見て、ひどく妬んだのです。ただ主イエスを信じることによって義とされることは、自分たちは異邦人とは違うというユダヤ人の誇りを、律法を守り、善い行いを積み重ねているというユダヤ人の誇りを打ち砕くものでした。そのことに気づいたから、ユダヤ人は、パウロの話すことに反対し、神の言葉を、福音を拒んだのです。
50節には、ユダヤ人に唆された、「神を崇める貴婦人たちや町の有力者たち」が、パウロとバルナバを迫害し、遂にはピシディア地方から二人を追い出したことが語られています。「貴婦人たちや町の有力者たち」は、おそらくユダヤ人ではなく異邦人です。ですからこの人たちは、律法によってではなく、ただ主イエスを信じることによって義とされるという福音を、喜んで受け入れてもよさそうなものです。しかしこの人たちにも誇るものがありました。「貴婦人」とは高い身分の女性であり、当然、多くの富を持っていました。「町の有力者たち」は、当然、それなりの権力を持っていました。自分の富や権力を誇っている人たちにとって、自分の富や権力とはまったく関係なく、ただ主イエスを信じることによって義とされ救われるというのは、受け入れがたいことであり、自分の誇りを打ち砕くものであったのです。だからこそこの人たちは、ユダヤ人に唆されると、パウロとバルナバを迫害し、追い出したのです。
神の恵みの下に生き続けるために
私たちはユダヤ人ではなく異邦人です。また多くの富や権力を持っているわけでもないでしょう。しかし私たちも、少しぐらいは自分の持っているモノや力が、あるいは自分の行いが、自分の頑張りや努力が、自分の救いに貢献できると思いたいのです。そのほうが自分の誇りを満足させることができるからです。しかし福音は、そのような私たちの誇りをズタズタにします。ただ主イエスを信じることによって義とされ救われるとは、私たちが何を持っていようが、どんなに頑張り努力しようが、自分の救いとは関係ない、ということだからです。確かに毎週の礼拝の説教で語られる福音によって、私たちは本当に生かされます。しかしそこには私たちの誇りが打ち砕かれることが必ず伴います。自分の誇りにしがみついたままならば、あのユダヤ人たちがパウロの話すことに反対したように、私たちも神の言葉を拒み、福音を拒むことになるのです。パウロは、43節の終わりで説教を聞いた人たちに、「神の恵みの下に生き続けるよう」勧めました。直訳すれば「神の恵みの下に留まり続ける」となります。それは、決して簡単なことではありません。神の恵みの下に留まり続け、生き続けるために、私たちは毎週の礼拝で語られる福音によって、絶えず自分の誇りを打ち砕かれ、自分の誇りを手放していかなくてはならないのです。
異邦人の方へ
それまでの態度とは一転して、パウロの説教に反対し、福音に反発したユダヤ人に対して、パウロとバルナバは「堂々と」、このように語りました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命にふさわしくない者にしている。そこで、私たちは異邦人の方へと向かいます」。主イエスの十字架と復活による救いの良い知らせを告げる神の言葉は、まずユダヤ人に語られました。なぜなら神様はイスラエルの民への約束の成就として、救い主イエスを送ってくださったからです。ところがユダヤ人は自分の誇りにしがみつき、神の言葉を、福音を拒みました。それは自分自身を永遠の命にふさわしくない者に、つまり救いにふさわしくない者にすることであったのです。それでパウロとバルナバは決定的な宣言をします。「私たちは異邦人の方へと向かいます」。このように宣言したからといって、パウロがユダヤ人に伝道しなくなったわけではありません。この後も、パウロの伝道の基本戦略は、「まずユダヤ人に」であり続けます。それでもこの宣言は、使徒言行録の著者ルカにとって、決定的な宣言であったに違いありません。復活の主イエスは弟子たちに、「あなたがたは……エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」と約束されました。「私たちは異邦人の方へと向かいます」というパウロたちの宣言は、彼らの伝道が、いよいよ地の果てまで主イエスの証人となる段階に入ったことを示しているのです。以後、パウロの伝道は、「まずユダヤ人に」という基本戦略は維持しつつも、「異邦人の方へ」と向かい、後戻りすることはないのです。
主の命令
しかしそれは、パウロとバルナバが、ユダヤ人に福音を語っても反発されたので、異邦人の方へ向かおうと決断したということではありません。ユダヤ人が福音を受け入れてくれないので、仕方なく異邦人の方へ向かった、という消極的な決断ではないのです。「私たちは異邦人の方へと向かいます」というこの宣言は、主の命令に基づくものです。47節でこのように言われています。「主は私たちにこう命じておられるからです。『私は、あなたを異邦人の光とし 地の果てにまで救いをもたらす者とした』」。ここでパウロは、共に読まれた旧約聖書イザヤ書49章6節を引用しています。そこでは、主なる神がご自分の僕を「諸国民の光とし、地の果てにまで」、主の救いをもたらす者とすることが預言されています。この預言は主イエス・キリストによって成就しました。それゆえ使徒言行録の前の巻であるルカによる福音書2章32節では、幼子イエスを抱いたシメオンが、やはりこのイザヤ書49章6節を引用して、この幼子イエスこそが「異邦人を照らす啓示の光」と語っていました。主イエス・キリストこそが異邦人の光なのです。ところがここでパウロは、このイザヤの預言を、自分たちにおいて成就した預言として引用しています。パウロたちが異邦人の光であり、地の果てにまで救いをもたらす者であることを見つめているのです。いえ、異邦人の光は、地の果てにまで救いをもたらす者は、主イエスのほかにはいません。その主イエスがパウロたちを、異邦人の光としてくださり、地の果てにまで救いをもたらす者としてくださった、と言うべきでしょう。パウロたち自身が光なのでも、救いを実現したのでもありません。そうではなく主イエスという異邦人の光を、主イエスによって実現した救いを、異邦人に届けることを通して、パウロは異邦人の光とされ、地の果てまでに救いをもたらす者とされたのです。
信仰の決断に先立つ神の選び
48節にあるように、パウロたちの言葉を聞いて、異邦人たちは喜び、主の言葉を崇めました。それは、律法によってではなく、ただ主イエス・キリストを信じることによって義とされ救われるという福音を、喜びをもって受け入れ、信じたということにほかなりません。だから48節の後半では、「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と言われています。この人たちは、主イエス・キリストの十字架と復活が、ほかならぬ自分の救いのためであったと信じ、洗礼を受け、教会のメンバーとなったのです。
しかし「信仰に入った」の前に、「永遠の命を得るよう定められている人は皆」とあることを見過ごしてはなりません。「永遠の命を得る」とは、要するに救われるということです。ということは、救われるように定められている人がいるということになります。つまり神様はあらかじめ救われる人を定めておられるということになります。これは「神の選びの教え」と言われるものです。この教えは神様があらかじめ救われる人を定めておられるという冷たい教えのように思えます。確かに頭の中だけで、論理だけで考えるとそのように思えなくもありません。しかしパウロはここで、「永遠の命を得るように定められている」と語ることで、異邦人が福音を聞いて、主イエスの十字架と復活による救いを信じるよりも前に、神様の恵みの選びがあったことを見つめています。自分の信仰の決断に先立つ神の恵みの選びによって救われたことを見つめているのです。もしそうでなかったら、つまり私たちの信じるという決断に私たちの救いがかかっているとしたら、私たちにとってこれほど不安なことはありません。私たちの決断というのは、しっかりと決断したつもりでいても、苦しみや悲しみに直面するとしばしば揺らいでしまうものです。もし私たちの決断に私たちの救いがかかっているなら、決断が揺らぐ度に私たちの救いの確かさも揺らぐことになってしまうのです。しかし神様の恵みの選びが私たちの信じるという決断に先立つのであれば、私たちは自分の決断が揺らいでしまうときも不安になることはありません。神様の恵みの選びは決して揺らぐことはないからです。このように「永遠の命を得るように定められている」と語ることで、パウロは異邦人の、そして私たちの救いの根拠が、私たちの信仰の決断ではなく、それに先立つ神様の恵みの選びにこそあることを見つめているのです。それゆえこの「神の選びの教え」は決して冷たい教えではありません。神様の慰めに満ちた教えなのです。
集って来た異邦人も、私たちも救われるにまったく値しない者です。それにもかかわらず、まことに不思議なことに、神様は私たちを選んでくださり、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちを義として救ってくださいました。そのことを思うとき、私たちは神様の恵みによる選びがあった、としか言えないのです。
異邦人の光とされて
パウロの説教を好意的に受けとめたユダヤ人の多くは、結局、自分の誇りにしがみついて、神の言葉を拒み、福音を拒み、自らを救いに値しない者としてしまいました。私たちは、そうであってはなりません。私たちは毎週の礼拝で語られる同じキリストの福音によって、繰り返し自分の誇りを打ち砕かれます。そのことを通して私たちは、神様の恵みによる選びの中で、自分のいかなる功績にもよらず、ただ主イエスを信じる信仰によって義とされ救われたことに、感謝と喜びを持ってお応えして生きていく者とされていきます。その感謝と喜びは、困難に直面するときも失われるものではありません。だから52節にあるように、パウロとバルナバが追放された後も、その街に残った弟子たちは「喜びと聖霊に満たされ」続けていたのです。同じように私たちも、主イエスの十字架と復活による救いの恵みにお応えして、喜びと聖霊に満たされて歩んでいきます。そのとき私たちも、パウロがそうであったように、「異邦人の光」とされ、「地の果てにまで救いをもたらす者」とされるのです。私たちを救い、生かしている、主イエス・キリストという光を、その救いを、一人でも多くの方に届けていくために、私たちは用いられていくのです。不条理な苦しみの現実に溢れているこの世界にあって、教会こそが、私たちこそが、「異邦人の光」であり、「地の果てにまで救いをもたらす者」なのです。