【2026年7月奨励】「あなたは私の目に貴く、重んじられる。」

  • イザヤ書 第43章1-7節
今月の奨励

2026年7月1日 昼の聖書研究祈祷会
奨励「あなたは私の目に貴く、重んじられる。」(4節) 牧師 藤掛順一
旧約 イザヤ書第43章1-7節

あなたは私の目に貴く、重んじられる。
 イザヤ書第43章4節の1行目の、「あなたは私の目に貴く、重んじられる。」を7月の聖句としました。ここは主なる神の恵みを語っている大事な箇所です。これまでの新共同訳聖書では4節は「わたしの目にあなたは値高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする」となっていました。つまり4節全体が一つの文章として訳されていたのです。ところが聖書協会共同訳では、「あなたは私の目に貴く、重んじられる。」が独立した文となりました。原文においては4節は一つの文ですから、新共同訳の方が原文に忠実な訳し方をしていると言えます。しかし月間聖句としては、「わたしの目にあなたは値高く、貴く」ではおさまりが悪く、かといって4節全体では長すぎるので取り上げにくかったのです。「あなたは私の目に貴く、重んじられる。」が独立した文として訳されたことによって、これを月間聖句とすることができ、それによってこの昼の聖書研究祈祷会で取り上げることができるようになったことを喜んでいます。しかしこれは、どちらの訳が翻訳として良いか、ということとは別の話です。

 どのように訳すにせよ、ここには、主なる神が、「あなたは私の目に貴い存在だ」と宣言して下さっていることが語られています。「あなた」と呼びかけられているのは、1節に「ヤコブよ、あなたを創造された方/イスラエルよ、あなたを形づくられた方/主は今こう言われる」とあるように、イスラエルの民のことです。ヤコブはアブラハムの孫であるヤコブで、彼が主なる神から「イスラエル」という名を与えられ(創世記32章)、彼の子どもたちからイスラエルの十二の部族が生じていったので、イスラエルの民全体を代表する者とされています。主なる神はイスラエルの民に対して、「あなたは私の目に貴く、重んじられる」と言っておられるのです。それは二行目に「私はあなたを愛するゆえに」と語られているように、主なる神がイスラエルの民を愛しておられる、ということです。しかもそれは、「他の人たち、他の民族よりも」ということです。4節の後半に「人をあなたの代わりに/諸国の民をあなたの命の代わりに与える」と語られていることがそれを示しています。主は、イスラエルの民を愛しているゆえに、他の人、諸国の民をあなたの代わりに与える、と言っておられるのです。その意味は3節の後半にさらにはっきりと示されています。「私はエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代わりとする」。身代金とは、大切な人を救い出すために手放すお金、つまりその人を救うためには失ってもいい、という金です。4節の「あなたの代わりに与える」というのは、その身代金として与えるということです。イスラエルの民のためなら、エジプトも、クシュとセバも、手放してもいい、失ってもいい、と主は言っておられるのです。主は、それらの人々、民族よりも、イスラエルの民をこそ愛しており、大切に思っておられるのです。

えこひいきする神?
 私たちはこのことにあるとまどいや疑問を感じます。新約聖書の時代を生きており、主イエス・キリストによる救いにあずかり、キリストの体である教会に連なる者とされている私たちは、自分たち教会こそ、旧約の時代のイスラエルの民を受け継ぐ群れであると信じています。教会は主イエス・キリストによって結集された「新しい神の民」「新しいイスラエル」です。旧約の時代に主なる神がイスラエルの民をご自分の民として愛し、大切にして下さったように、主はは今や私たちをご自分の民として愛して下さっているのです。つまり「あなたは私の目に貴く、重んじられる。」というみ言葉を私たちは、自分に対して、教会に対して語られているみ言葉として感謝をもって読みます。しかしその神の愛が、今見たように、他の人々よりも自分たちを愛し、他の人々は失ってもいい、という愛だとしたら、それはどうなのだろうか、神さまはそんなふうに、ある人だけを愛し、他の人々は失ってもいいと考えておられるのだろうか、そんな「えこひいき」をするのは、神さまらしくないのではないか、そういうとまどい、疑問が湧いてくるのです。

 またこのことは、現在この世界で起っていることとの繋がりにおいても疑問やとまどいをもたらします。現在のイスラエル共和国はユダヤ人たちの国ですが、彼らが今していることは、まさにこの3、4節を自分たちのこととして受け止め、自分たちこそ神にとって貴い神の民であり、聖書において「カナンの地」と呼ばれているパレスチナの地は神が自分たちに与えて下さった領土であって、自分たちの安全のためには他の民族を犠牲にしてもよい、と思っているように感じられます。つまりこの箇所には、イスラエルがイランやレバノンを攻撃することを正当化するために利用されてしまいかねないことが語られているのです。それゆえに、主なる神の大いなる恵みを語っているこの箇所は、同時にとまどいや疑問をも生じさせるのです。

バビロン捕囚の現実の中で
 このことについては、1節の冒頭に「しかし」とあることに注目しなければなりません。新共同訳は「ヤコブよ」と始まっており、この言葉はありませんでした。しかし原文においては、1節冒頭に、その前の文との繋がりを示す言葉があるのです。多くの英語訳はこれを「But now」と訳しています。つまり「しかし今や」です。43章はこの言葉によって42章の終わりと繋がっているのです。「しかし」という言葉を訳すことで、読む人にその繋がりを意識させているという点で、ここは聖書協会共同訳の方が良い訳だと言えると思います。では、42章の終わりには何が語られていたのでしょうか。42章の22節に「しかし、この民は略奪され、奪い取られ/皆罠の穴に落ち、獄屋に閉じ込められた。彼らは餌食となったが、助け出す者はなく/奪い取られたが、『返してやれ』と言う者もない」とあります。イスラエルの民が敵の餌食となって略奪され、奪い取られ、助け出す者がいない、という悲惨な状態に陥っていることが語られています。それは「バビロン捕囚」の現実を言っているのでしょう。どうしてそのようなことが起ったのか。それを語っているのが24、25節です。「ヤコブを略奪者に渡し/イスラエルをかすめ取る者に渡したのは誰か。それは主ではないか。この方に対して我々は罪を犯し/その道を歩むことを望まず/その教えに聞き従わなかった。そこで主は燃えるような怒りと激しい戦火を浴びせられた。火が周囲を焼き尽くしても、悟る者はなく/自分に燃え移っても、心に留める者はなかった」。イスラエルの民が敵に略奪されたのは、彼らが主なる神に対して罪を犯し、その教えに聞き従わなかったからです。そのために主は激しくお怒りになり、彼らを略奪者の手に渡したのです。それでイスラエルの人々は国を滅ぼされ、遠くバビロニアに捕囚として連れて行かれているのです。それは、彼らが主なる神に従わず、その律法を守らず、他の神々、偶像の神々を拝み、主が求めておられる正義を行わなかったことに対する主なる神の怒りによることです。自分たちの罪に対する主の裁きの中にあって、なお彼らは悟らず、主のみ心を心に留めず、悔い改めようとしていません。そのことは、42章18〜20節から分かります。20節に「あなたは多くのことを見ながら、従わず/耳を開きながら、聞くことはない」とあります。主による裁きの苦しみの中にありながら、悔い改めようとしないイスラエルの民の姿が42章の最後のところに語られているのです。

しかし、ヤコブよ
 43章はこのことを受けて、「しかし、ヤコブよ」と言っているのです。あなたがたは、主なる神に背き、罪を犯し、主の怒りを受け、敵に滅ぼされて略奪され、国も土地も奪い取られ、助け出す者もない苦境に陥っている。主なる神があなたがたに対して怒り、あなたがたを敵の手に引き渡したのだ。しかし、それにもかかわらず、主なる神こそが、あなたを創造し、形づくられた方だ。その主は今こう言われる。「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」。つまり主なる神は、あなたがたをご自分のもの、ご自分の民だと宣言しておられるのだ。そして主はさらに「私は主、あなたの神/イスラエルの聖なる者、あなたの救い主」とも言っておられる。つまり主はご自分があなたがたイスラエルの民の神だと宣言して下さっている。そして、「あなたは私の目に貴く、重んじられる。私はあなたを愛するゆえに/人をあなたの代わりに/諸国の民をあなたの命の代わりに与える」と言っておられる。つまり、主なる神にとってあなたがたは、他のどの民よりも貴い、価値のある、大切な存在なのだ、ということをこの43章は告げているのです。

愛する者を鍛える主
 ですから、43章冒頭の「しかし」がとても重要なのです。「あなたは私の目に貴く、重んじられる」という恵みの宣言は、何の前提もないところに語られているのではありません。イスラエルの民は主なる神に対して罪を犯し、神の怒りを受け、苦しみに陥っているのです。神に愛されているどころか、神は自分たちを見放し、見捨ててしまった、と思わずにはおれないような事態の中に彼らはいるのです。そして彼らはそれでもなお悔い改めて神に立ち帰ろうとしていないのです。そのイスラエルの民に、主なる神は、「それでもなお、あなたは私のもの、私の民だ。私の目に貴い者だ。私はあなたを愛しており、他のどの民よりも大事に思っている。だからこそ、あなたの罪に対して怒り、あなたを敵の手に引き渡したのだ。その私の思いに気づいてほしい、そして、悔い改めて私のもとに戻ってきてほしい」、と語りかけておられるのです。イザヤ書43章に語られているのはそういう神の思いです。つまりここには、ヘブライ人への手紙第12章5〜8節と同じことが語られているのです。そこにはこう語られています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主によって懲らしめられても弱り果ててはならない。主は愛する者を鍛え/子として受け入れる者を皆鞭打たれるからである。あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」。主なる神はイスラエルの民を「えこひいき」しているのではありません。またこの43章は、イスラエル(ユダヤ人)は神の民なのだから、自分たちの国を守るために他の国を攻撃して人々を犠牲にすることを神は許しておられる、などということを言っているのではありません。主なる神は、確かにイスラエルをご自分の民として愛しておられます。しかしそれゆえにこそ、親が子を鍛えるように、彼らを厳しくお裁きになるのです。それは、そのことを通して、イスラエルの民が本当にご自分の子として歩むため、つまり彼らが本当に神の民となるためなのです。

相応しくない私たちが神の民とされる
 私たちを「新しい神の民」「新しいイスラエル」として下さった神の思いもそれと同じです。神は私たちを選んでご自分の民として下さいました。それは私たちが選ばれるのに相応しい清く正しく立派な者だからではありません。私たちにはそのような相応しさは何一つないのに、神はただ恵みによって、多くの人々の中から私たちを選んでご自分の民として下さったのです。それは、神が私たちをえこひいきして下さっているようにも感じられます。ある意味ではその通りです。でもそれは、私たちに何か特権が与えらているとか、他の人々の上に立つ者とされているというようなことではありません。神は私たちを本当にご自分の子としようとしておられるのです。私たちが本当に神の民として生きることを願っておられるのです。そのために神は、他の人々に増して私たちを厳しくお裁きになるのです。私たちをご自分の愛する子として鍛えるために、時として懲らしめを与えたり、鞭打ったりなさるのです。このような主の鍛錬をしっかり受けることによって、全く相応しくないのに選ばれて神の民とされた私たちが、主なる神の民として相応しい者へと変えられていくのです。それは、私たちが相応しい者となることによって神の民とされる、ということではありません。何の相応しさもない私たち、むしろ神に懲らしめられ、裁かれてばかりの私たちに、神は、「しかしそれでも、あなたは私の目に貴く、重んじられる」と語りかけて下さっているのです。その恵みの中で私たちは、新しい神の民、新しいイスラエルとされていくのです。

神が犠牲にして下さったのは独り子の命
 しかしそれでも、「私はエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代わりとする」という3節や、「私はあなたを愛するゆえに/人をあなたの代わりに/諸国の民をあなたの命の代わりに与える」という4節の言葉に私たちはひっかかりを感じるかもしれません。それはある意味で旧約聖書の限界だと言えるでしょう。しかし私たちは、新約聖書をも与えられています。新約には、神が私たちを愛するゆえに、私たちの身代金として、私たちの代わりに何を与えて下さったのか、が語られています。それはエジプトでも、クシュとセバでもありませんでした。つまり神は私たちのために「諸国の民」をではなくて、ご自身の独り子、主イエス・キリストを与えて下さったのです。主イエスが、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪を赦されて、神の子とされたのです。神が私たちの救いのために支払って下さった身代金は、主イエス・キリストの命だったのです。「あなたは私の目に貴く、重んじられる」というイザヤ書のみ言葉は、神がその独り子主イエスを私たちの救い主として遣わして下さったことを指し示しています。つまり私たちはこのみ言葉を、「あなたは私にとって、独り子を十字架の死に渡しても惜しくないほどに貴い者だ。私はそれほどまでにあなたを大切に思っている」という神の宣言として読むのです。しかもこの宣言は、罪にまみれており、それによる悲惨な出来事を味わい、罪に対する神の怒り、裁きを受けていながら、なお神に立ち帰ろうとしない、そういう私たちに対して、「しかし、それでもなお」告げられているのです。この神の宣言を聞くことによって私たちは、5節の「恐れるな。私はあなたと共にいる」というみ言葉を聞くことができるし、7節の「私の栄光のために創造し/形づくり、私が造り上げた者」というみ言葉は自分のことだと知ることができるのです。そしてその恵みの中で、新しい神の民、新しいイスラエルとして生きていくことができるのです。
 

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