説 教 「祝宴への招き」 牧師 藤掛順一
旧 約 イザヤ書第55章1-5節
新 約 マタイによる福音書第22章1-14節
祝宴への招き
主日礼拝においてマタイによる福音書を読み進めていて、本日から第22章に入ります。本日の箇所には、主イエス・キリストが語られた一つのたとえ話が記されています。ある王が、王子のために婚礼の祝宴を催し、そこに人々を招いたという話です。王が王子のために催す披露宴ですから、そこらのものとは格が違う、盛大で豪華な祝宴が催され、そこに人々が招かれたのです。「天の国はそれに似ている」と主イエスはおっしゃいました。天の国とは神のご支配という意味であり、それは言い換えれば神さまによる救い、ということです。つまりこの話は、神による救いとはこういうものだ、と語っているのです。宴会を催した王が神のことであり、そこに招かれた人々が私たち人間です。神による救いとは、神が盛大な祝宴を催して私たちを招待して下さる、ということであり、信仰とは、この神からの招きに応えて祝宴に連なることなのだ、とこの話は語っているのです。
信仰についてのイメージ
これは、私たちが信仰について普通に抱いているイメージとはかなり違うことなのではないでしょうか。私たちは、信仰というのは、自分の喜びや楽しみを追い求めることをやめて、神さまの命令に従って、何かの儀式を行ったり、困っている人を助けるというような良いことに励んで生きることだ、という印象を持っているのではないでしょうか。だから、信仰を持っている人は、真面目で立派だけれども融通がきかずに付き合いづらい、という目で周囲の人々から見られることがあります。世間の人たちからそう思われるだけでなく、私たちクリスチャン自身も、信仰者というのはそういうものだと思っていて、自分はそういうちゃんとした信仰者らしい生活ができていない、と引け目を感じたりもします。けれども主イエス・キリストはこのたとえ話で、信仰をもって生きるとは、喜ばしい宴会の席に招待されて、ご馳走にあずかることなのだと言っておられるのです。このたとえ話によって私たちは、あなたは信仰を、神さまを信じて生きることを、どのように感じているのか、と問われます。例えば今私たちはこのように礼拝に集っています。それは神さまを信じて生きるために欠かすことのできない大切なことですが、この礼拝をどのように受け止めているのかが問われているのです。せっかくの日曜日、本当はゆっくり寝ていたいのだけれど、信仰者として生きるためには、朝早くから教会に行って、牧師の難しい話を聞く、というつらい「おつとめ」をしなければならない、と受け止めているのか、それとも、神さまが毎週日曜日の朝に、私たちを喜ばしい祝宴へと招いて下さっている、神さまに招かれて自分は今喜ばしい宴会の席に連なっているのだ、と受け止めているのか、ということです。特に本日のこの礼拝では聖餐が行われます。聖餐は、神さまが私たちを招いて下さっている喜びの食事です。そこで実際にいただくのは、小さなパンの一切れと、一口のぶどう液ですから、それでお腹は満たされません。しかし聖餐にあずかることによって私たちは、神さまが、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現して下さった救いの恵みを体をもって味わうのです。つまり聖餐において私たちは、神さまが与えて下さるすばらしいご馳走をいただくのです。そのご馳走は、聖餐によってだけでなく、毎週聖書が読まれ、それに基づいて語られる神さまのみ言葉によって与えられています。礼拝に集うことはこのように、神さまに招かれて喜ばしい宴会の席に着き、ご馳走をいただくことなのです。そのことをこのたとえ話は語っているのです。
招きに応じない人々
しかしこのたとえ話には、王からの祝宴への招きに応じようとしない人々のことが語られています。当時の宴会は、前もって招待の通知をしておいて、宴会が始まろうという時にもう一度使いを送って、「準備が整いました、さあおいで下さい」と招く、というやり方だったようです。王はそのようにして、招いておいた人々のもとに家来たちを送り、「さあ、祝宴にお出でください」と告げさせたのです。ところが、招かれていた人々はそれを無視して、一人は畑に、一人は商売に出かけたのです。「今日は仕事が忙しくて、礼拝に行っている暇はありません」ということです。あるいはさらに6節には、「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった」とあります。招きに応じないだけでなく、王から遣わされた家来たちを侮辱し、殺してしまったのです。それは彼らが、この王が、そしてその使いの者たちが、自分の生活を脅かそうとしている、と感じたということでしょう。この人たちは、王からの招待を喜んでいないのです。それは彼らが、この王を自分の王として認めておらず、自分が王となって生きているからです。自分が王となって生きている者にとっては、自分を招こうとする王は邪魔です。自分が王として生きているのに、そこに介入してきて、それを妨げ、脅かそうとするものです。私たちも、神からの招待、礼拝への招きをそのように受け止めていることはないでしょうか。礼拝になど行っていたら自分のやりたいことができない、神を信じて生きるようとすると、自分が自分の思い通りに生きようとすることが妨げられる、そのように思っている者にとっては、礼拝はつらい義務、「おつとめ」のように感じられるのです。王の招待を喜ばず、何だかんだと理由をつけてそれに応じなかった人々の姿は、そういう私たちの姿なのではないでしょうか。そしてそのような思いからさらに生じるのは、自分はいろいろなことを犠牲にして毎週礼拝を守っている、そのことを何かすごく立派なことをしているかのように誇り、礼拝を休みがちな人たちを、あの人たちは信仰者としての義務をちゃんと果たしていないと裁く、ということです。礼拝が「おつとめ」のように感じられていると、そういうことが起こるのです。
新たな者たちが招かれる
さてこのたとえ話には、招待されていたのにそれに応じず、王の家来を殺した人々に対して、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った、とあります。そして王は、町の四つ辻に家来たちを遣わして、「見かけた者は誰でも」祝宴に連れて来るように命じたのです。そのようにして、最初に招かれていたのとは別の人々が、この祝宴にあずかりました。このことは、21章の33節以下に語られていた「ぶどう園と農夫のたとえ」と重なります。あの話においても、主人を主人と思わず、その息子を殺してぶどう園を自分たちのものにしてしまおうとした農夫たちは滅ぼされて、他の、主人を敬う農夫たちにぶどう園が貸し与えられていく、ということが語られていました。そのように、もともと神の恵みを受けていたはずの者たちが、その恵みを失い、別の人々にその恵みが与えられていく、ということがこれらのたとえ話に語られているのです。その、「もともと神の恵みを受けていたはずの者たち」というのは、21章45節によれば、祭司長たちやファリサイ派の人々です。つまり当時のユダヤ人の宗教的指導者たちです。彼らは神の民であるユダヤ人の指導者として、神がお遣わしになった独り子主イエスを率先してお迎えすべき人々でしたが、主イエスを受け入れるどころかむしろ敵対し、抹殺しようとしているのです。本日の話において、彼らが侮辱して殺した王の家来は主イエスのことを指していると言えます。そのような者たちは神によって捨てられ、新たな者たちにぶどう園は貸し与えられ、新たな者たちが神の祝宴へと招かれていく、ということがこれらの話において語られているのです。
見かけた者は誰でも
それでは、祭司長やファリサイ派の人々に代って、新しくぶどう園を貸し与えられ、神の祝宴に招かれた人たちとはどういう人々なのでしょうか。本日のたとえ話はそのことに焦点を当てて語られています。王は9節で、「四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい」と言いました。10節には、「それで、その僕たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった」とあります。王は、王子の婚礼の祝宴を、何としても一杯にしたいのです。祝宴に空席があるのは寂しいことです。礼拝に空席があるのも同じです。神さまは、この礼拝堂が一杯になることを望んでおられるのです。そのために神さまは、「見かけた者は誰でも引っ張って来い」と家来たちに命じたのです。その結果、「善人も悪人も皆」集められて、宴席は一杯になったのです。それが、私たちのこの礼拝です。ここに集まっている者たちを見回してみれば、善人も悪人もいる。みんな善人のような顔をしていますが、ひと皮むけば、どうしてどうして、罪をごまんと抱えている者たちではないですか。講壇の上で平気な顔で説教などしているのが一番の悪人かもしれません。とにかく言えることは、私たちがこうして礼拝に集い、神さまの祝宴にあずかっているのは、私たちがもともと招かれるのに相応しい、立派な者だったからではないということです。私たちは、町の通りをただ歩いていたのです。自分の人生の主人は自分だと思いながら、でも自分の思い通りにならないことに苛立ちながら、日々自分の生活のことであくせくし、神のことなど思わず、隣人よりも自分を大事にして生きていたのです。そのような私たちが、ある時、神から遣わされた救い主イエス・キリストと出会って、あるいは主イエスから遣わされてその招きを伝えてくれた人と出会って、この宴席へと、礼拝へと、半ば強引に連れて来られたのです。神さまは、「誰でもいいからみんな連れて来い」とお命じになりました。だから私たちもここに来ることができたのです。神さまの祝宴に連なることなど考えられなかった私たちが、誰でもいいから来なさい、という神さまの招きによってここにいるのです。本日読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書55章の1節以下にも、神さまのそのような招きが語られています。「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずにぶどう酒と乳を買え」。金を持っていなくていい、私が、ただであなたがたに、水やぶどう酒や乳を与える、と言って神さまは私たちを招いて下さっているのです。神さまを礼拝するとは、この招きにあずかってみ前に出ることなのです。
婚礼の礼服
ところがこのたとえ話には、さらにもう一つ、私たちにとって不可解な、またつまずきを覚えるようなことが語られています。11節以下です。王が入って来て客を見回すと、そこに礼服を着ていない者が一人いた。その人は結局この祝宴から追い出されてしまったのです。これはどういうことなのでしょうか。見かけた者は誰でもと言っていたのです。だから善人も悪人も皆集められて来たのです。この祝宴にあずかるのに、何の資格も、相応しさもいらないということだったのではないのでしょうか。だいたい、町の通りから連れて来られたのですから、礼服など着ているわけがないではないか、とも思います。このことについてはこんな説明がなされます。王が催すこの宴会のための礼服は、王自身が用意していたのであって、客は来て、王の準備している礼服に着替えて宴席につくのだ、だから誰でも皆礼服を着てこの席につくことができた。ところがこの人だけは、王が用意した礼服を着ようとしなかったのだ。なるほどそういうことなのかもしれません。しかしこういうたとえ話であまり細かい説明をする必要はないと思います。大事なことは、誰でもいいからと集められた人々が皆、礼服を着ていたのに、この人だけはそれを着ていなかったということです。つまりこの人も、礼服を着ようと思えば着ることができたのに、それをせずに宴席についたのです。そのことが、宴席の主人である王にとがめられ、彼は追い出されたのです。
礼服とは何か
このことは、神さまの祝宴にあずかるのに、何の資格も相応しさもいらないけれども、しかしそこには、私たちの側で整えなければならない最低限の備えというものがある、ということを教えています。「礼服」が象徴しているその備えとは何なのでしょうか。ただ神さまの恵みによる招きによって礼拝に集っている私たちが、整えなければならない最低限の備えとは何なのでしょうか。「礼服を着る」というのは、この祝宴を催した王を敬う思いの現れだと言えるでしょう。この祝宴を開き、全く相応しくない、招きにあずかる資格など全くない自分を、喜びの宴にあずからせ、ご馳走して下さる、その王である神さまに感謝し、神さまを敬う思い、それこそがこの「礼服」に象徴されている、私たちが整えなければならない最低限の備えなのです。それは、何か立派な行いをして神の招待に相応しい者になる、ということではありません。求められているのは、神さまの招きを感謝して受けることです。最初に招かれていた人々に欠けていたのはまさにそのことでした。彼らは、自分を招いて下さった方を王として敬っていなかったのです。招きに感謝する思いがないのです。むしろ、こんな招きは迷惑だと思っているのです。俺は自分の好きなようにしたいのに、こんな招きに応じていたら、やりたいこともやれない、自由に生きられない、と思っているのです。礼服を着ていなかったこの人も、それと同じように、招いてくれた王を敬っていないのです。私たちが着るべき礼服とは、神さまが無条件で、ただで、全く相応しくない罪人である自分を、招いて下さり、祝宴にあずからせて下さる、そのことを覚え、感謝し、神さまを敬うことです。自分は今その礼服を着てこの礼拝の場にいるだろうか、そのことを私たち一人一人が自分に問うてみることを、このたとえ話は求めているのです。
招きにふさわしいのは
最初に招かれていた人々は、神の祝宴に連なることができませんでした。招きを重んじることなく、それに応えようとしなかったからです。その人々は、「ふさわしくなかった」と8節に言われています。神さまに招かれているのに、その招きを感謝して受けようとしない人は、招きにふさわしくないのです。それで神は、もっとふさわしい人を招きました。それが、通りを歩いている、善人も悪人も含んだ普通の人々です。彼らは、自分が王の婚宴に招かれるなどとは思ってもいません。そんな身分ではないし、それに相応しい立派さはどこにもないのです。しかし神さまの目から見たら、そういう人々の方がご自分の祝宴に連なるのにふさわしいのです。なぜならその人々は、神さまに招かれたことを、驚きと喜びと感謝をもって受け止めるからです。そして招かれたことを大事にするからです。神さまの祝宴への招きを驚きと喜びと感謝をもって受け、それに応える人こそが、招きにふさわしいのです。神さまの招きへの驚きと喜びと感謝を失って、自分が招かれるのは当然だと思ったり、あるいはこんな招きは迷惑だと思ってそれに応えようとしないなら、私たちはふさわしくない者となります。礼服を着ていない者としてこの祝宴から追い出されてしまうのです。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」というみ言葉によってこの話は締めくくられています。これは今教会に連なり、礼拝を守っている私たちへの警告のみ言葉です。教会に招かれ、礼拝を守るようになったからといって、それだけでそのまま、神の国の祝宴にあずかることが保証されているわけではありません。神の国の祝宴にあずかるには、礼服が必要なのです。それはお金で買えるものでもなければ、良い行いを積み重ねることによって手に入れることができるものでもありません。神さまの招きを、本当に有り難いこととして感謝して、その招きを大切にすることこそがその礼服なのです。
聖餐の祝宴
神さまが私たちを、喜ばしい祝宴へと招いて、ご馳走にあずからせて下さる、そのことを私たちが具体的に体験するために備えられているのが、本日共にあずかる聖餐です。聖餐において私たちがいただくパンと杯は、主イエス・キリストが私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった、その裂かれた体と流された血を表しています。何の相応しさもない、むしろ罪にまみれている私たちが、神さまの祝宴にあずかることができるのは、神の独り子である主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったからなのです。聖餐にあずかることによって私たちは、神さまの招きが、独り子の命をも犠牲にすることによって与えられた、本当に有り難いものであることを味わい、体験するのです。それだけではありません。神さまが備えて下さっている恵みの食卓である聖餐は、復活して天に昇り、今は父なる神の右に坐しておられる主イエス・キリストが、この世の終わりにもう一度来て下さり、それによって神さまのご支配があらわになり、私たちも、主イエスの復活と永遠の命にあずかって、復活して永遠に主と共に生きる者とされる、その救いの完成において神が催して下さる神の国での盛大な祝宴の先取りでもあります。私たちは聖餐において、肉体の死を越えた世の終わりに神さまが約束して下さっている神の国における祝宴の喜びを、前もって、ほんの少しだけ、味わうのです。それによって私たちは、死んでしまったら終わりではない、その先に約束されている復活と永遠の命への希望を新たにされ、それを待ち望んでいく者とされるのです。つまり聖餐は、神さまが今私たちを祝宴へと招いて下さっていることの目に見えるしるしであるだけでなく、将来、世の終わりの救いの完成において神さまが催して下さる喜びの宴会への招待でもあるのです。私たちのこの世における歩みは、人間の罪と弱さに満ちており、多くの苦しみや悲しみがあります。その中で私たちは礼拝へと招かれ、神さまのみ言葉を聞き、聖餐にあずかることによって、何の相応しさもない私たちが神さまの喜ばしい祝宴に招かれていることを味わい、体験すると共に、神さまが、肉体の死の先に与えて下さる復活と永遠の命へと招いて下さっていることをも知らされるのです。この神さまの招きを、驚いて、喜んで、感謝して受けることが、私たちの信仰なのです。
