主日礼拝

何が平安を与えるのか

「何が平安を与えるのか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 出エジプト記 第32章1-6節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第10章1-13節
・ 讃美歌;17、467、528

 
聖餐―霊的な食物
 本日は8月の第一の主の日です。本日の礼拝において、聖餐が祝われます。聖餐は、礼拝の中で、信者たちが、小さなパンの一切れと、おちょこよりも小さいグラス一杯のぶどうジュースを共にいただく、という儀式です。この聖餐は何のために祝われるのでしょうか。この小さなパンと杯にはどんな意味があるのでしょうか。
 聖餐のパンの一切れと、一口にも満たないぶどうジュースでは、腹の足しにはなりません。聖餐は、肉体的に腹を満たしたり、渇きを癒すためのものではないのです。これは霊的な意味を持った食物です。聖餐は霊的な食物、飲み物なのです。本日の聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第10章の3、4節に、「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」とあります。この手紙を書いた使徒パウロがここで思い描いているのは、聖餐のパンと杯のことです。教会は聖餐において、霊的な食物を食べ、霊的な飲み物を飲みながら共に歩む群れである、ということが、ここでのパウロの教えの前提なのです。

先祖たちの食物と飲み物
 皆同じ霊的な食物を食べ、霊的な飲み物を飲んだと言われている「皆」とは、1節にある「わたしたちの先祖」のことです。パウロはここで、霊的な食物と霊的な飲み物を、先祖たちも食べ、飲んだと語っているのです。先祖たちというのは、イスラエルの民の先祖たち、旧約聖書の時代の、特に、モーセに率いられてエジプトの奴隷状態からの解放を体験した人々のことです。この手紙が宛てられたコリントの教会の人々は、大部分が、イスラエルの民、即ちユダヤ人ではない、いわゆる異邦人でしたが、信仰によって神様の民とされた教会の信者たちは、旧約聖書の時代の神の民であるイスラエルの歴史を引き継ぐ者であるゆえに、イスラエルの先祖たちのことが彼らの先祖とも呼ばれているのです。その先祖たちが、今日の聖餐に当たる霊的な食物と飲み物を食べ、飲んだ、とパウロは言っているのです。その食物とは、エジプトを脱出したイスラエルの人々が、荒れ野を旅する中で食物が尽きてしまった時に、神様によって与えられた天からのパンであるマナのことであり、飲み物とは、水がなくなってしまった時に、神様が岩から水を出すという奇跡によって飲ませて下さった水のことです。イスラエルの民が食べ、飲んだ天からのパンであるマナと岩から出た水が、教会において私たちがあずかる聖餐のパンと杯と重ね合わされているのです。

岩はキリスト
 4節後半には、「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と言われています。岩から奇跡によって湧き出た水のことが語られているわけですが、その岩が「自分たちに離れずについて来た」のだと言われているのです。これは、ユダヤ人たちの間の言い伝えに基づいていることのようです。出エジプトの物語を読んでいくと、荒れ野を旅する中で水がなくなり、人々がモーセに、「我々を渇きで殺すためにエジプトから連れ出したのか」とつめよる場面が度々出てきます。そのたびに、神様は岩から水をほとばしり出させる奇跡によって、民の渇きを癒して下さったのです。そこから、水の出る岩が、荒れ野を旅していくイスラエルの民の後に、離れずについて来た、という伝説が生まれました。パウロはここでそれを用いています。それは彼がその伝説を信じていたからと言うよりも、この話によって、イスラエルの民に起った出来事と教会における聖餐との同質性を語ることができるからです。「この岩こそキリストだったのです」という言葉がその鍵となります。イスラエルの民が渇きを癒され、命を救われた、その水がほとばしり出た岩は、聖餐におけるイエス・キリストと重なるのです。聖餐の杯に注がれるぶどう酒は、主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架の上で流して下さった血を象徴しています。その杯をいただくことによって、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みにあずかる、それが聖餐の杯の意味です。教会は、離れず共に歩んで下さっている主イエスによる救いの恵みを、聖餐において繰り返しいただき、それによって渇きを癒されつつ歩むのです。水の出る岩が離れずについて来たという伝説は、主イエス・キリストが、常に教会と共に歩んで下さり、救いの恵みを注いで下さることと重ね合わせることができるのです。このことによってパウロは、私たちが本日も共にあずかる聖餐に、出エジプトの民もまた、彼らなりの仕方であずかっていたのだ、ということを語ろうとしているのです。

洗礼と聖餐
 聖餐に共にあずかる、と申しましたが、聖餐は、洗礼を受けた者だけがあずかることのできるものです。今共に礼拝を守っている皆さんの間に、この後聖餐が行われる時には、はっきりとした区別が生じるのです。洗礼を受けている人と、そうでない人の区別です。聖餐にあずかることができるのは、洗礼を受けている人のみであって、まだ洗礼を受けておられない方々は、信者たちがパンと杯をいただくのを見ているしかないのです。このことは、あるとまどいや、仲間はずれにされた、という思いを生むかもしれません。しかしそこで確認したいのは、最初に申しました聖餐の意味です。もしもこの聖餐が、それによって腹を満たし、渇きを癒すための食事であるならば、それは洗礼を受けていようといまいと同じように体験することができることですから、洗礼を受けている人しかあずかることができないという区別は、人を分け隔てする差別である、ということになるでしょう。しかし聖餐は、先ほど申しましたように、霊的な食物であり飲み物なのです。霊的というのは、言い換えれば信仰の事柄、信仰においてこそ意味のある事柄であるということです。それゆえにそれは、信仰を言い表して洗礼を受けることと切り離すことができないのです。主イエス・キリストによる救いを信じる信仰を言い表すことなしに聖餐にあずかっても、それは小さなパンの一切れを食べ、一口にも満たないぶどうジュースを飲むことにしかなりません。そんなものは腹の足しにならないし、信仰にとっても何ももたらさないのです。いやむしろ、よく分からないけれどもこれをいただくと何かいいことがあるのかも、というような迷信的、呪術的な思いを引き起こすという意味では、かえって信仰にとって害になってしまうのです。霊的な食物というのは、何か神秘的な力がそこに宿っていて、それをいただくと自動的に何かの力や、例えば病気の癒しなどが与えられる、というようなものでは全くありません。霊的な食物とは、先程も申しましたように、信仰においてのみ意味があり、信仰なしには何の意味もない食物、ということなのです。
 それゆえに、洗礼と聖餐とは切り離すことのできないセットとして考えるべきものです。パウロもそのことを本日の箇所において語っています。洗礼のことは1、2節の「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」という所に語られています。ここに「モーセに属する者となる洗礼を授けられ」とありますが、ここは文字通りに訳せば、「モーセへと浸された」となります。洗礼はもともとは、全身を水にどっぷりと浸す、という儀式でした。そのことによって私たちは、誰かに属する者になるのです。イスラエルの民は、「雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で」洗礼を授けられ、それによってモーセへと浸され、モーセに属する者となったのです。この雲というのは、エジプトを脱出した彼らの行く手を導いた雲の柱のことを、海というのは、エジプトの軍勢に追われ、前は海、後ろからはエジプト軍という絶体絶命の危機に瀕した時に、神様が海を二つに分けて道を与えて下さり、海の底の道を通って向こう岸に渡ることができた、後から追ってその道に入ってきたエジプト軍の上に海が返り、彼らは海の中で全滅してしまったというあの「葦の海の奇跡」のことを指しています。イスラエルの民はこれらの神様のみ業によって、エジプトの奴隷状態から解放され、救われたのです。そのことが、彼らの受けた洗礼だったと言われています。彼らはその洗礼によって、モーセに属する者、つまりモーセを通して与えられた救いにあずかる者とされたのです。そしてその洗礼にあずかった者たちが、天からのパンであるマナと、岩から出た水という霊的な食物と飲み物に養われつつ荒れ野を歩んでいったのです。つまりイスラエルの民においても、洗礼を受けた者が聖餐にあずかりつつ歩んだのです。私たちは、主イエス・キリストの教会における洗礼を受けることによって、イエス・キリストの中へと浸され、キリストに属する者、キリストによって成し遂げられた救いにあずかる者となります。そして、聖餐のパンと杯によって、やはり霊的な食物、飲み物に養われて歩むのです。このようにパウロはここで、イスラエルの民が体験したエジプトの奴隷状態からの救いと荒れ野の旅路を、洗礼を受けて主イエス・キリストの救いにあずかり、聖餐によって養われつつ歩む教会の姿と重ね合わせているのです。

警告
 パウロがこのように、教会の洗礼と聖餐を、旧約聖書の、出エジプトの民に与えられた恵みと重ね合わせているのは何のためなのでしょうか。洗礼や聖餐は出エジプトの出来事にまで遡る由緒正しいものだと強調することによってその権威を高めようということでしょうか。そうではありません。むしろ逆です。パウロが語ろうとしていることは5節に示されているのです。「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」。彼は、このことを語るために1~4節を語ってきたのです。出エジプトの民は、私たちと同じように、洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ歩んでいた、ところが、彼らの大部分は、神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまった、洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ歩んだ者たちの多くが、このように滅ぼされてしまい、救いにあずかることができなかった、その事実をパウロは指摘しているのです。そして次の6節にはこうあります。「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」。パウロがこれらのことを指摘するのは、今、洗礼を受けた信仰者として聖餐にあずかりつつ生きている私たちを戒めるためです。洗礼を受け、礼拝を守り、聖餐にあずかっているから、もう私たちは救われている、もう大丈夫、安心なのだ、ということはない、同じように洗礼を受け、聖餐にあずかっていたイスラエルの民が、しかし御心に適わず、滅ぼされてしまったという事実があるのだ、とパウロは私たちに警告しているのです。
 彼らは悪をむさぼった、と6節に言われています。その悪とは何だったのでしょうか。それが7節以下に語られていきます。7節「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」。これが、本日共に読まれた、出エジプト記第32章の事柄です。モーセがシナイ山で、主なる神様から十戒を授かっている間、麓で待っていた民は、モーセの帰りが遅いので、どうかなってしまったのだろうと思い、自分たちを導いてくれる神様を造ってほしい、とアロンに詰め寄り、アロンは金の小牛の像を造った、民はその偶像を神として拝み、その前で「座って飲み食いし、立って踊り狂った」のです。これは要するにお祭りをした、ということです。自分たちをエジプトの奴隷の苦しみから解放し、自由を与えて下さったまことの神様を忘れて、自分勝手な神を造り、その神の祭りをする、偶像というのは、そのように人間が自分の思いで神を造り出し、自分のために用いようとする所に生まれるのです。またこのことは、イスラエルの民が、指導者モーセのことばかりを見つめていて、モーセを立てた神様ご自身を見つめていなかった、ということでもあります。目に見える人間しか見つめることができず、その人を用いておられる神様に目を向けないでいると、その人がいなくなった時にどうしてよいか分からなくなり、目に見える神様を造り出してそれに頼ろうとすることが起るのです。また8節には、イスラエルの民が「みだらなこと」をしたと語られています。これは民数記の25章に書かれていることで、単に性的な不道徳行為をしたというのではなくて、モアブの娘たちの影響を受けてその神々を礼拝するようになったという、これも主なる神様に背き、偶像を拝むようになったことを言っています。また9節には、「キリストを試みた」とあります。これはやはり民数記の21章で、神様の与えて下さった天からのパン、マナに民が不平を言った時のことです。「試みる」というのは、神様の恵みを与えられているのに、その恵みと力を疑い、不平不満を言うことです。マナに不平を言ったことが「キリストを試みた」と言われているのは、このことが昔の話ではなくて、今の私たちの事柄として見つめられているということです。主イエス・キリストの恵みと導きを与えられている私たちが、その恵みを疑い、不平不満を言い、もっと良いものを与えてくれないならもう信じることをやめる、などと言い出すなら、それはまさにキリストを試みることなのです。
 出エジプトの民は、洗礼を受け、聖餐にあずかっていたけれども、このような悪をむさぼったために滅ぼされてしまいました。それは私たちへの警告だ、と言っているのが11節です。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」。時の終わりとは、この世の終わり、神様が全ての者を裁き、この世を終わらせられる終末です。私たちはその終わりに直面している、それは、主イエス・キリストが来られたことによってです。「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスのみ言葉はそのことを示しています。神様がその独り子主イエスを遣わされたことによって、この世の終わりが始まり、神様の裁きの時が近づいているのです。それゆえに私たちはこの警告を真剣に聞かなければならないのです。悪をむさぼって、せっかくの救いの恵みから落ちてしまうことがないように気をつけなければならないのです。12節には「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」とあります。今は立っていても、次の瞬間には倒れてしまうかもしれない、だからいつも油断せずに、自分自身に気をつけていなければならない、洗礼を受けているからといって、聖餐にあずかっているからといって、決して「もう倒れてしまうことはない」などと安心していることはできないのです。

緊張と不安?
 しかしそうであるならば、私たちの信仰は、すこぶる緊張に満ちた、そして常にその緊張を維持していかなければならない、とても疲れる信仰だ、ということになるのではないでしょうか。洗礼を受けたからといって、聖餐にあずかっているからといって、少しも安心はできない、いつその恵みから落ちて滅びに陥ってしまうかもしれないのだとしたら、そこには信仰の喜びなどはないし、信仰による平安もない、あるのは緊張と不安のみ、ということになるのではないでしょうか。パウロはここで、そういうことを教えようとしているのでしょうか。そうではありません。もしそうなら、パウロの教えは福音とは言えないでしょう。福音とは、喜びの知らせという意味です。それは喜びをもたらし、平安を与えるはずのものです。緊張と不安しか与えないような教えを福音とは言いません。ですからもし私たちがこのパウロの教えを、これでは緊張と不安しか得られない、と思ってしまうなら、それはどこか読み方が間違っているのだと思うべきです。どこに間違いがあるのでしょうか。その間違いの根っこは、先ほどの偶像礼拝と同じであると思います。偶像礼拝は、人間が自分の勝手な思いで神様を造り出すことでした。つまり自分で神様のことを勝手に思い描いてしまうのです。同じことがここでも起っています。つまり私たちが、神様はみ心に適わない人間に対して怒り、滅ぼす厳しい方だから、そのご機嫌を損なわないようにいつも緊張して、びくびくしていなければならないのだ、と思ってしまう時、私たちは偶像礼拝の場合と同じように、神様のお姿を自分で勝手に思い描いてしまっているのです。しかしパウロがここで語り、示している神様の本当のお姿は、そのようなものではありません。13節まで読み進めることによってそれがはっきりと分かるのです。13節には「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあります。これが、パウロが語っている神様の本当のお姿です。ここには、神様が私たちを試練に遭わせると語られています。神様は、私たち人間に利用されるような方ではありません。甘い顔ばかりしている方ではありません。時として私たちに、試練をお与えになるのです。試練とは要するに苦しみ、悲しみです。どうしてこんな目に遭わなければならないのか、神様の恵みなどいったいどこにあるのか、と思わずにはおれないような現実です。そういう厳しい現実に直面する時、私たちはしばしば、神様に不平不満を言い、逆らい、自分の思い通りになる偶像を求めていってしまうのです。しかしその苦しみの現実は、神様からの試練です。試練は、神様が私たちを鍛え導き成長させるために与えておられるものです。つまり試練の背後には、神様の愛が、私たちのことを大切に思っていて下さるみ心があるのです。そしてそのみ心のゆえに、神様は、私たちを「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださ」るのです。試練は、私たちを滅ぼすためのものではありません。試練には必ず、逃れる道が備えられているのです。試練も、そこから逃れる道も、共に神様が与えて下さるのです。生けるまことの神様は、私たちに対してこのような愛をもって臨んで下さる方なのだとパウロは語っているのです。緊張と不安だけをもたらす厳しい神というのもまた、人間が造り出した偶像の一つなのです。

神の真実
 試練と共に逃れる道をも備えて下さる神様のことを一言で言い表したのが、「神は真実な方です」という言葉です。神は真実であるとは、神が、ご自分の言葉、約束をどこまでも固く守り、それに忠実であって下さるということです。私たち人間の側の神様に対する姿勢や態度は、うつろいやすい、ちょっとしたことでコロコロと変わっていってしまう、真実でないものです。しかし私たちがどのように不真実な者であっても、神様は私たちに対して真実であり続けて下さるのです。そのことは、神様の独り子イエス・キリストにおいて示されています。神様は私たちへの救いの約束を果たすために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さるようにして下さったのです。ご自分の独り子を十字架にかけて下さるほどまでに、神様は私たちに対して真実であられるのです。それが、神様の本当のお姿です。主イエス・キリストによって示され、与えられているこの神様の真実こそが、私たちを救い、また支えるのです。私たちは、自分の力で神様の御心に適う者となり、自分の足で倒れてしまわないようにいつも気をつけていることで救いを獲得するのではないのです。信仰とは、神様の真実に支えられて生きることです。「神は真実な方です」という信仰こそが、私たちにまことの平安を与えるのです。そこには、緊張と不安ではなくて、神様の真実に信頼して、肩の力を抜いて、本当の意味でリラックスして、安心して生きる人生が与えられるのです。

神の真実から目を離すな
 それでは何故あの出エジプトの民のことが語られたのでしょうか。それは、彼らの頑張りが足りなかったために御心に適うことができずに滅びてしまった、ということを語るためではありません。彼らは、神様の真実を見失ってしまったのです。苦しみの中で、それを神様からの試練として受け止めることができずに、神様が備えて下さっている逃れる道を求めるのではなくて、自分の思いで勝手な神を造り上げ、自分で自分を救おうとしたのです。そのために彼らは、まことの平安を見いだすことができずに、倒れてしまったのです。私たちが、この先祖たちの姿から聞き取るべき警告はこれです。つまり、主イエス・キリストによって示され、与えられている神様の真実を常に見つめ、それに依り頼むことによってこそ、私たちは御心に適う者であることができ、立ち続けることができるのです。しかし神様の真実を見失い、自分の力で頑張って立ち続けなければ、と思ってしまう時に、私たちは自分の思いを神とし、偶像を造って拝む者となってしまうのです。様々な試練に満ちた信仰の生活の中で私たちが心していなければならないことは、自分の足で、自分の力で立ち続けようとすることではなくて、主イエス・キリストによって示されている神様の真実から目を離さずにいることなのです。

洗礼と聖餐の恵み
 洗礼と聖餐のことも、そこからもう一度考えていくことができます。洗礼を受けている、聖餐にあずかっている、ということが私たちの救いを保証するのではありません。洗礼や聖餐が平安を与えるのではないのです。私たちの救いを保証し、本当の平安を与えてくれるのは、神の真実です。洗礼と聖餐は、この神の真実を証しし、私たちをそれにあずからせるものなのです。洗礼において私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活にあずかり、罪に支配された古い自分が死んで、神様の恵みによって生きる新しい自分へと生まれ変わるのです。そして聖餐において、私たちの罪の赦しのために十字架の上で裂かれたキリストの体と、流されたその血とにあずかるのです。つまり、私たちを救って下さる神様の真実を味わい、体験するのです。洗礼や聖餐が私たちを救うのではありません。しかし私たちは、洗礼を受け、聖餐にあずかって生きることによって、主イエス・キリストによって示され、与えられた神様の私たちへの真実を深く体験し、それによって与えられる平安の内に生きることができるのです。

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