主日礼拝

仲直りの知らせ

説教「仲直りの知らせ」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 イザヤ書第53章3-10節
新約聖書 コリントの信徒への手紙二第5章17-21節

仲直りは大切、でも難しい
 「仲直りの知らせ」という題でお話をします。「仲直り」、それは私たちの人生において、とても大事なことです。人間どうしが共に生きていく中で、思いがすれ違ってしまうことがどうしても起ります。そしてお互いに傷つけ合ってしまうことがあります。そのようにして関係が壊れてしまう、仲が悪くなってしまうのです。その壊れてしまった関係を修復して、良い関係を取り戻すことが仲直りです。仲直りができれば、以前よりももっと深い、より親密な関係を築くことができたりもします。でも仲直りができないと、お互いに顔も見たくないということがいつまでも続いて、いやな思いをし続けることになります。人生を喜んで前向きに生きていくためにも、仲直りはとても大切なのです。しかし私たちは、仲直りがいかに難しいか、をも体験しています。壊れてしまった関係を修復して、お互いに赦し合って、再び良い関係を築くことは簡単ではありません。それは国と国との間においても言えるわけで、ロシアとウクライナの間も、アメリカとイラン、またイスラエルとイランの間も、仲直りはとても困難であり、その中で戦いが続き、人々が命を失い、傷ついているのです。そういう意味でも仲直りは今この世界において必要なことであり、皆が切に求めていることです。しかし、それはとても難しいことで、願いながらも仲直りができない、という現実の中で世界は苦しんでいます。私たち一人ひとりも、そういう苦しみをかかえて生きているのではないでしょうか。

仲直りがテーマである聖書の箇所
 今日この礼拝でご一緒に読む聖書の箇所は、先ほど朗読された新約聖書コリントの信徒への手紙二の第5章17節以下です。ここには「仲直り」という言葉はありませんが、同じ意味の言葉があります。「和解」です。18節の後半から19節にかけて、その言葉が四回出て来ます。「神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです」。また20節の終わりにも、「神の和解を受け入れなさい」とあります。「和解」ということがこの箇所の中心的なテーマなのです。「和解」をやさしく言えば「仲直り」です。神さまが私たちに和解を、仲直りを与えて下さる、ということがここに語られているのです。

神との仲直りが人との仲直りの土台
 でもこの箇所を読んで、ここに語られているのは、私たちが切に求めているけれどもなかなか得ることができずに苦しんでいる、人と人との仲直り、それがひいては国と国との仲直りにも通じていくわけですが、そういう人間どうしの仲直りのことではないではないか、と感じている方がおられると思います。ここには、「神は私たちをご自分と和解させて下さった」と語られています。つまりここに語られているのは、神と私たちとの和解、仲直りということなのです。「神は世をご自分と和解させた」というのもそれと同じ意味です。私たちはもっぱら、人との和解、仲直りを見つめ、求めていますが、ここには、神との和解、仲直りのことが語られているのです。それは私たちが求めていることとは違う、私たちは神と仲直りがしたいわけではないし、そもそも神と喧嘩をしているつもりはない、と思うかもしれません。でも実は、この神さまとの仲直りということこそが、人と人との仲直りが実現するための土台なのです。聖書はそのことを私たちに告げています。今日はこの箇所から、そのことを皆さんとご一緒に考えてみたいのです。

神さまと喧嘩している私たち
 私たちは、神さまと仲直りをしなければなりません。つまり私たちは生まれつき、神さまと喧嘩をしているのです。そんな意識はないかもしれないけれども、実際そうなのです。私たちは基本的に、自分の命は自分のもの、自分の人生の主人は自分だ、と思って生きているのではないでしょうか。生まれつきの私たちにとってはそれが当たり前であり自然なことです。しかし聖書は、私たちに命と体を与え、いろいろな能力を与え、さらにはそれを活かす機会、チャンスを与えて私たちの人生を導いておられるのは神だ、と語っています。私たちは、神さまによって与えられた命を、神さまによって与えられた条件の下で生きているのです。そしてその私たちの命を、人生を、終わらせるのも神さまです。人生がいつどのような形で終わるのか、つまり自分がいつどのように死ぬのか、私たちはそれを自分で決めることはできません。それは神さまがお決めになることです。つまり私たちの命も人生も、本当は神さまのものです。命も体も、神さまから私たちに預けられているのであって、神さまがお求めになる時にはそれを神さまにお返ししなければならないのです。つまり、私たちの命と人生の主人は、実は私たちではなくて神さまなのです。そのことを認めようとせず、自分の命は自分のもの、自分の人生の主人は自分だと主張している私たちは、神さまに逆らっており、神さまとの良い関係を失っています。つまり神さまと喧嘩しているのです。

神と喧嘩することによって何が起っているか
 神さまと喧嘩していることによって、私たちには何が起っているのでしょうか。先ほど申しましたように、私たちの命も、人生のいろいろな条件も、神さまが与えて下さったものです。神さまが私たち一人ひとりに、「あなたはこのような者として生きなさい」とおっしゃって、命を与え、人生の様々な条件を与えて下さっているのです。神さまとの間に良い関係があるなら、私たちはそこに、神さまの自分への愛と恵みを見つめることができます。そして神さまが与えて下さった命と人生を、喜んで生きることができます。神さまが愛のみ心によって自分に命を与え、人生を導いて下さっていると信じているからです。つまり神さまとの間に良い関係があるというのは、神さまが自分を愛して下さっていることを信じ、見つめている、ということです。そのことを見失ってしまうことが、神さまとの良い関係を失うことなのです。そのことは私たちが、自分の命は自分のもの、人生の主人は自分だと思って生きていることによって生じています。自分が主人となって生きようとする時、私たちは、神さまが自分を愛しておられることを見失うのです。そして自分に与えられている人生のいろいろな条件に不平不満を抱くようになるのです。例えば、こんな体ではなくて、もっと健康で頑強で見た目もいい体が欲しかった、もっと能力や才能がある者として生まれたかった、もっと幸せな家庭環境の中で生まれ育ちたかった、というような思いです。つまり、神さまが「あなたはこのような者として生きなさい」とおっしゃっていることを喜べず、受け入れることができなくなるのです。その思いは、他の人と自分とを見比べることによってさらに募ります。あの人にはあんな健康で元気な体や整った容姿が与えられているのに、この人にはあんなに素晴らしい能力や才能があるのに、あの人はあんな恵まれた家庭環境で育っているのに、それに比べて自分は…、という思いです。神さまが「あなたはこのような者として生きなさい」と言って与えて下さった人生の条件は人それぞれみんな違っています。神さまと良い関係をもって生きていれば、その違いは神さまがそれぞれに与えて下さっている恵みとして受け止めることができます。しかし自分の命は自分のもの、人生の主人は自分だと思っていると、その違いは、神の不公平、神が他の人をえこひいきして自分には良いものを与えてくれていない、と感じられて、神に不満を抱き、文句を言うようになります。つまり神さまと喧嘩するようになるのです。そこでは私たちは、自分が自分であることを喜べず、不平不満を抱いて、人生が思い通りにならないことをいつも嘆きながら生きるようになります。喜んで積極的に生きることができなくなります。神さまと喧嘩していることによって、私たちにそういうことが起っているのです。

死への恐れに支配されている私たち
 そして先ほど見たように、神さまはお定めになっている時に、「あなたの人生はここまで」とおっしゃって、それを終わらせられます。私たちは人生の終わりを自分で決めることはできません。人生は思い通りにならない、その最たるものが死です。自分はまだまだ生きてやりたいことがあるのに、神さまが自分の人生を終わらせる、ということが起るのです。神さまとの間に良い関係があるならば、つまり神が自分を愛して下さっていることが分かっているならば、私たちはその時にも、神さまが預けて下さった命を神さまにお返しすることができます。命が終わることにおいても神さまの愛は失われていないことを知っているからです。しかし、命は自分のものであり人生の主人は自分だと思っているなら、死は、得体の知れない力によって自分の命が奪われることです。それをするのが神だとしたらそれは、自分の人生への神の不当な介入です。そして、神だか何だか知らないが得体の知れない力がいつ自分の命を奪っていくか分からない、と恐れ、びくびくしながら生きることになるのです。生まれつきの私たちは誰もが皆、自分の命は自分のものだと思い、人生の主人は自分だと思っている、それによって私たちは神と喧嘩している、と申しました。神と喧嘩していることによって私たちは、死への恐れに支配されてしまっているのです。

他の人との良い関係も失われていく
 神さまと喧嘩しているということは、神さまが自分を愛して下さっていることを見失っている、ということです。そのために私たちは、自分が自分であることを喜び、受け入れることができずに、不平不満を感じています。自分が自分であることを喜び受け入れることができずに不平不満を感じている者が、他の人のことを喜び受け入れることができるはずはありません。自分に対して不平不満を感じている者は、他の人に対しても不平不満を感じるのです。人生の主人は自分だと思っている私たちは、人生が自分の思い通りにならないことに苛立ち、不平不満を覚えます。それは、他の人が自分の思い通りにならないことに苛立ち、不平不満を覚える、ということでもあります。そのようにして、他の人との良い関係が失われ、仲違いが起るのです。人生の主人は自分だと思っている者どうしが共に歩もうとする時に、お互いの、自分の思い通りにしたい、という思いがぶつかり合うのです。つまり私たちは、自分の命は自分のもの、人生の主人は自分だ、という思いによって、神さまとだけでなく、他の人とも、良い関係を失い、喧嘩しながら生きているのです。仲直りが難しいのも、自分の人生の主人は自分だ、自分の思い通りにしたい、という私たちの思いがとても強いからです。お互いがその思いを抜け出すことができないから、仲直り、和解することができないのです。

神との和解こそ人との和解の土台
 このように、私たちが、神さまとの良い関係を失い、喧嘩していることと、人との間の良い関係を失い、喧嘩していることとは結びついています。ということは、神さまと仲直りすることと、人と仲直りすることも結びついているのです。そして根っこにあるのは、神さまとの関係がどうなっているかです。人生の主人は自分だ、というのは、神さまが人生の主人であるとは認めない、ということです。神さまとの良い関係を失わせるその思いが、人との良い関係をも破壊していくのです。ですから、神さまと和解し、仲直りすること、神さまとの良い関係を回復することこそが、人との和解、仲直りが実現していくための土台なのです。

神と仲直りするとは
 神さまと仲直りするというのはどういうことなのでしょうか。繰り返し申しているように、神さまとの間に良い関係があるというのは、神さまが自分を愛して下さっていることが分かる、ということです。そのことが本当に分かれば、私たちは、神さまが「あなたはこのような者として生きなさい」と与えて下さっている人生の条件を受け入れて、その中で喜んで生きることができます。神さまが自分の人生を終わらせられる、その死においても、自分を愛して下さっている神さまに、命をお返しすることができます。人生が自分の思い通りにならない、という現実の中でも、神さまが最も良いことをして下さるのだと信じて、希望をもって生きることができるのです。自分の人生の主人は自分だ、という思いによって神さまと喧嘩している生まれつきの私たちが、神さまが自分を本当に愛して下さっていることを示され、それを信じて、その神さまをこそ、自分の命と人生の主として受け入れること、それが、神さまと仲直りすることです。そういう仲直り、和解を、神さまが私たちに与えて下さったのだ、ということを本日の聖書の言葉は告げているのです。

神の独り子イエス・キリストによって実現した和解
 その和解は、神の独り子であるイエス・キリストによって既に実現しています。「神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ」とか「神はキリストにあって世をご自分と和解させ」と言われているのはそのことです。神さまは、ご自分の独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わして下さることによって、私たちを愛して下さっていることを示して下さいました。それはどのような愛なのか、そのことが最後の21節に語られています。「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです」。「罪を知らない方」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは、何の罪もない神の子でした。父なる神は、そのキリストを、私たちのために罪となさったのです。それは、キリストが私たちの罪を全て背負って、私たちに代って十字架の死刑を受けて下さった、ということです。私たちは、人生の主人は自分だと主張して、神に背き、喧嘩を売っている、つまり神に敵対している罪人です。その私たちの罪を代って背負って、神の子であるイエス・キリストが死んで下さったのです。神はそのようにして私たちを赦して下さり、私たちと仲直りして下さったのです。私たちの方はあいかわらず、人生の主人は自分だと主張して神に喧嘩を売っているのに、神さまは、もう喧嘩は終わり、私はあなたがたを愛しており、赦している、と宣言して下さっているのです。独り子イエス・キリストの十字架の死によって、神はそういう和解を実現して下さいました。神がご自分の独り子の命をも与えて下さるほどに私たちを愛して下さっている、そういう驚くべき愛が、イエス・キリストの十字架の死によって示されたのです。

人生と和解して生きる
 神がイエス・キリストによって実現して下さり、宣言して下さった和解を信じて受け入れることによって、私たちは、神との良い関係を回復されます。神が自分を愛して下さっていることを信じて生きることができるようになるのです。そこでは私たちは、神が「あなたはこのような者として生きなさい」と与えて下さった自分の人生を喜んで生きることができるようになります。自分に与えられている条件を人と比べるのではなくて、神が愛のみ心によって自分の人生を導いて下さっていることに信頼して生きることができるようになるのです。そして神が自分の人生を終わらせる、その死においても、自分のために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった主イエス・キリストを見つめつつ、命を神さまにお返しすることができる、つまり死への恐れから解放されるのです。神さまと和解し、仲直りして生きるとはそういうことです。それによって私たちは、思い通りにならないことの多い自分の人生と和解することができるのです。

和解の使者として
 そしてこの和解は、私たちが喜んで積極的に生きることができるようになる、ということで終わるものではありません。本日の箇所には、神が私たちと和解して下さったことによって、私たちに「和解の務め」を授けて下さった、と語られています。「和解の言葉」を委ねて下さった、とも語られています。つまり、神と和解して、仲直りして生きる私たちは、その和解を、他の人にももたらしていく者とされるのです。20節にはこう語られています。「こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい」。キリストによって神との和解、仲直りを与えられた私たちは、その和解、仲直りを他の人にももたらしていくキリストの使者となるのです。私たちが、キリストによって神の大いなる愛を示されて、神と和解し、自分の命と人生の主人は自分ではなくて神であることを受け入れて、神が預けて下さった命と人生を喜んで生きるようになる、つまり自分の人生と和解して生きていくことによって、その和解が、他の人たちにも及んでいくのです。神と和解し、仲直りすることによってこそ、人生と和解して、喜んで生きることができるのだし、死においても、神の愛を見失うことなく、神から預けられた命を神にお返しすることができる、つまり死への恐れから解放される、そういう仲直りの知らせ、それによって与えられる救いの知らせが、私を生かすだけでなく、他の人にも伝わっていき、他の人をも生かしていくのです。

キリストにあって新しくされて
 この神との和解、仲直りこそが、人間どうしの和解、仲直りの土台です。神は、何の罪もない独り子イエス・キリストを、私たちのために罪となさり、主イエスはその神のみ心に従って、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。神がそれほどに自分を愛して下さっていることを知る時に私たちは、自分の命と人生の主人は自分ではなくて神であることを受け入れることができます。そして、神が自分に与えて下さっている人生を喜んで生きる者となることができます。自分が自分であることを受け入れ、喜び、また他の人が他の人であることを受け入れ、喜ぶことができるようにもなるのです。神が自分を愛し、赦して下さっているように、自分も人を愛し、赦して生きる者となることができるのです。17節に「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」とあります。イエス・キリストによる救いにあずかることによって、私たちはこのように新しくされていくのです。人と人との和解、仲直りは、このキリストによる新しさの中でこそ本当に実現していきます。それは人間の力によってなし得るものではない、とても難しいことであることは事実ですが、神さまは、独り子イエス・キリストの十字架と、そして復活によって、既に私たちと和解して下さり、仲直りして、私たちを新しく生かして下さっているのです。私たちは毎週日曜日の教会の礼拝において、聖書を通して、この仲直りの知らせを聞いています。そのことを生活のベースとすることによって、私たちも、仲直りに生きる者として新しくされていくのです。

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