2026年3月15日
説教題「主よ、憐れみたまえ」
詩編 第57編1~12節
マタイによる福音書 第20章29~34節
受難週の前の最後の出来事
礼拝においてマタイによる福音書を読み進めて来て、20章の終わりに来ました。次の21章には、主イエスがエルサレムに入ったことが語られています。そこから、主イエスが捕えられて十字架につけられる、地上のご生涯の最後の一週間、いわゆる「受難週」が始まります。本日の箇所は、受難週が始まる前の最後の話です。今年は再来週3月29日の主の日からが受難週です。今年の受難週前の私の主日礼拝説教は本日が最後ですから、丁度よいタイミングでこの箇所が与えられたと思います。
目の見えない人の癒し
さてマタイ福音書とマルコ福音書は共に、主イエスがエルサレムに入る前、つまり受難週の前の最後のところに、目の見えない人の癒しの出来事を語っています。この出来事は主イエスの一行がエリコの町を出たところで起こりました。エリコは、エルサレムに上る旅路の最後の宿場です。主イエスと弟子たちはこのエリコから、いよいよエルサレムへと上って行こうとしていたのです。マルコ福音書のこの記事には、癒やされた人の名前が記されています。マタイでは、二人の人が癒やされたとなっています。このように多少の違いはあるものの、主イエスが十字架につけられて殺されるエルサレムに入る直前に、目の見えない人が癒されたことを、マタイ、マルコ福音書は共に語っているのです。ちなみにルカ福音書においては、最後の宿場であるエリコに入る時の話として目の見えない人の癒しの出来事が語られています。ですからマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書全てが、それぞれ特徴的な仕方でこのことを語っていると言うことができます。
大勢の群衆
さてエルサレムへと向かう主イエスに「大勢の群衆」が従ったとあります。主イエスの教えやみ業に感銘を受け、この方こそ来るべきメシア、救い主ではないか、という期待を抱いていた人々が大勢、主イエスと弟子たちについて来たのです。主イエスと彼らがエリコの町の門を出た時、そこに「二人の盲人が道端に座って」いました。道端に座って物乞いをしていたのです。当時の社会では、目の見えない人はそのようにして生きるしかありませんでした。その二人の盲人が、主イエスがお通りだと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び出しました。大勢の人々が通って行く、その中のどこに主イエスがおられるのかわからない彼らは、ひたすら大声で叫び続けたのです。「群衆は叱りつけて黙らせようとした」とあります。その群衆とは、今見たように、主イエスが救い主であると思ってついて来た人々です。その人々が、主イエスの救いを求めて叫んでいる人たちを黙らせようとしたのです。はっきり語られてはいませんが、おそらくこの「群衆」には主イエスの弟子たちも含まれていたのでしょう。「今先生は大事な働きのためにエルサレムに向うところなんだ。おまえたちに構っている暇はない、邪魔をするな」という思いが弟子たちにもあったことは確かだと思います。弟子たちも、群衆も、誰も受け止めてくれない中で、この二人の盲人は、主イエスに自分たちの声を聞き取ってもらおうと、必死に叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。
叫びを聞き取る主イエス
主イエスは彼らのその叫びを聞き、立ち止まって二人を呼び、そして彼らの願い通りにその目を開いて、見えるようにして下さいました。誰も相手にしなかった彼らの叫びを、主イエスだけが聞いて、それに応えて、救いのみ業を行なって下さったのです。けれどもこの話は、主イエスの憐れみ深いお姿を示して、私たちも主イエスと同じように、救いを求める人の叫びを無視したり聞き逃してしまわないように気をつけよう、という教訓を語ろうとしているのではありません。もしもそのように主イエスを模範として示そうとしていたなら、この話は、エリコの町を出た主イエスは、道端に座って物乞いをしている二人の盲人に気づき、すぐに彼らのところに歩み寄り、癒して下さった、という話だったはずです。苦しんでいる人々の存在にすぐに気づいて、彼らが救いを求めて叫び出す前に手を差し伸べてこそ、主イエスは人々の苦しみに本当に敏感な、憐れみ深い方だと言えるのです。彼らがあのような叫び声をあげたので彼らの存在に気付いた、というのでは、主イエスもまだ本当に敏感だったとは言えない、ということにもなります。つまりこの話が語ろうとしているのは、主イエスが人々の苦しみに敏感だったことではありません。彼ら二人の盲人が、主イエスに向かって、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び、人々に叱りつけられても、やかましい、邪魔だとののしられても、ひるまずに叫び続けた、その姿をこそ、この話は示そうとしているのです。
何をしてほしいのか
彼らの叫びを聞いて主イエスは、立ち止まって彼らを呼び、「何をしてほしいのか」と問われました。これは考えてみればおかしなことです。目が見えなくて物乞いをしている人が、「主よ、憐れんでください」と叫んでいるのです。その人たちに「何をしてほしいのか」などと問うのは、それこそ鈍感極まりないことだとも思えます。しかし主イエスは敢えて、「何をしてほしいのか」と彼らに問いかけたのです。
主イエスの問いに彼らは当然ながら「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えました。主イエスはこの願いを受けて、彼らの目に触れ、見えなかった目を見えるようにして下さいました。彼らが切に願い求めていた癒しの奇跡が起ったのです。彼らの喜びはいかばかりだったでしょうか。その喜びの中で彼らはどうしたか。最後の34節に一言、「イエスに従った」とあります。この一言こそ、この話が語ろうとしている最も大切なことだと言えます。願い通りに目を開かれた彼らは、主イエスに従ったのです。エルサレムへと歩んで行く主イエスについていったのです。このことから振り返って見たときに、主イエスが彼らに「何をしてほしいのか」と問うたことの意味が見えてきます。彼らが主イエスにしてほしかったこと、それは元々は、目が見えるようになることでした。目が見えるようになれば、もう物乞いをして生活をしなくてもよくなる、自分の力で働いて生活の糧を得ることができるようになり、家庭を持つこともできるようになる、人々とも普通に付き合うことができるようになる…、彼らはそのようにずっと願い続けてきたのでしょう。主イエスがお通りだと聞いて「わたしたちを憐れんでください」と叫んだのも、主イエスに「何をしてほしいのか」と問われて「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えたのも、そのように願っていたからです。しかし、主イエスがその願いをかなえて下さり、目が開かれて見えるようになった時、彼らが思ったのは、「これで願いがかなった。これからは人並みに仕事をして、家庭を持って、好きなことをして生きていける」ということではありませんでした。自分の切なる願いを受け止めて目を開けて下さり、暗闇から解放して光を与え、人間らしく生きる道を開いて下さったこの方と共にいたい、この方についていきたい、従っていきたい、と彼らは思ったのです。これは、「こんなに素晴らしい救いを与えて下さったのだから、その方に感謝して、従っていくべきだ」という思いではないでしょう。彼らは、「与えられた恵みに応えなければならない」という義務感によって主イエスに従ったのではありません。彼らは心から、主イエスに従っていきたいと思ったのです。つまり、主イエスによって癒されたことによって、彼らの願いが大きく変わったのです。いやそれは、願いが大きく変わったのではなくて、彼らが本当に願い求めていたことは何だったのかが明らかになった、ということなのではないでしょうか。目が見えるようになれば、あのこともこのこともできる、人並みの生活ができる、と彼らは思っていました。それが自分たちの心からの願いだと思っていたのです。しかし、主イエス・キリストがその願いの通りに目を開けて下さった時、彼らは、自分たちが本当に求めていたのは、この方との出会いだったことに気づいたのです。意識してはいなかったけれども、彼らが本当に願っていたのは、自分たちの苦しみを分かって下さり、救いを与えて下さる方と共に生きること、安心して従っていくことができる、恵みと憐れみに満ちた主を得ることだったのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という彼らの叫びに、彼らの心に秘められていたその願いが現われていた、と言えます。彼らは単に「助けて下さい、目が見えるようにして下さい」と願ったのではありません。「主よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。主が憐れんで下さることを、憐れみ深い主を、彼らは求めていたのです。主イエスが彼らに「何をしてほしいのか」と敢えて問うたのは、彼らの心の奥底にあるこの真実な願い求めを呼び覚ますためだったのです。
憐れみの主を求めて
「主よ、私たちを憐れんでください」。それは私たち一人ひとりが心の中に抱いている願いでもあります。私たちは、それぞれ様々な悩みや苦しみ悲しみをかかえて生きています。この盲人たちが「目が見えるようになりたい」と願っていたように、私たちも自分が負っている苦しみ、悲しみ、問題の解決、そこからの救いを切に願い求めています。けれども、はっきり意識してはいなくても、実は私たちにとっての本当の問題は、憐れみに満ちた主を見失っていることなのではないでしょうか。私たちのことを本当に愛して、養い、守り、導いて下さる、その方に従っていけば本当に生きることができる、そういう主人を見出せていないことが、私たちの最大の問題なのではないでしょうか。20章の始めのところに語られていた「ぶどう園の労働者のたとえ」を思い出します。夜明けにだけでなく、昼間にも、夕方になってもなお人々を雇い入れて、彼ら全てに、生きていくために必要な一デナリオンを与えてくれる、あの気前のよい、恵みに満ちた主人と出会うことができず、町の広場で所在なくたむろしている、それが私たちの現実なのではないでしょうか。私たちにとって本当に必要なのは、あの主人と出会うことなのです。あの主人のぶどう園に雇い入れられることなのです。この二人の盲人はこの出来事によって、まさにあのぶどう園の主人である主イエスと出会ったのです。そして主イエスのぶどう園で働く者となったのです。彼らがイエスに従っていったというのはそういうことです。同じことが私たちにも起ります。様々な悩みや苦しみ悲しみをかかえて、そこからの救いを願い求めている私たちが、恵みと憐れみに満ちた主イエスに出会うことによって、主イエスに従う者、主イエスのぶどう園で働く者となるのです。それが、信仰者になること、救いにあずかることなのです。
栄光を求めるか、主の憐れみを求めるか
この二人の盲人のように、主イエス・キリストの憐れみをひたすら叫び求めることが信仰であり、そこにこそ救いがあります。憐れみを求めるなどという惨めったらしいことは嫌だ、私は人に憐れまれるほど落ちぶれてはいない、と思う人がいるとすれば、それは自分自身のことが分かっていない、見えていないのです。私たちはみんな、この二人の盲人と同じです。見るべきものが見えていない。自分がどれほど罪と汚れまた弱さに満ちた者であるか、神を侮り、ないがしろにしており、隣人をどれほど傷つけ、悲しませ、苦しめているか、そういうことに気づいていないのです。実際に目が見えずに物乞いをして生きなければならなかったこの二人の方が、自分の惨めさをよりはっきりと知っていたと言えるでしょう。私たちの方が彼らよりマシだということは全くないのです。
ところが私たちは、主イエスの憐れみを求めるよりも、栄光を求めようとします。憐れみを必要としている自分を自覚するのではなく、自分は少しはマシだと思いたがり、そして今よりもっとマシな者になろうとします。信仰もそのための手段にしてしまうのです。先週読んだ20節以下に語られていたのはそういう話です。主イエスの弟子であったゼベダイの二人の息子たちが、正確にはその母がですが、他の弟子たちをさしおいて、主イエスの栄光に共にあずかる者となることを願ったのです。主イエスは彼らに21節で、「何が望みか」とおっしゃいました。これは本日の箇所の32節の「何をしてほしいのか」と同じ言葉です。つまり先週の箇所と本日の箇所には、主イエスに「あなたがたの願いは何か、何をしてほしいのか」と問われた二組の人々の話が並べられているのです。マタイが盲人の数を二人にしているのは、ゼベダイの子ら二人と数を合わせ、二つの話を対にするためだったのではないかとも思われます。どちらも、主イエスから「あなたがたの願いは何か」と問われたのです。その問いに、主イエスの弟子、信仰者だったぜべダイの子らは、栄光にあずかることを求め、道端の物乞いだった盲人たちは、憐れみを求めました。どちらが適切な求めだったのかは明らかです。私たちが主イエスに願い求めていくべきことは、栄光にあずかることではなくて、憐れみ深い主と共に生きることなのです。主イエスに、「より栄光ある者にして下さい」と願うのではなくて、「主よ、憐れんでください」と願うことこそが信仰なのです。
主の憐れみを求める者となれ
先週の説教では触れませんでしたが、主イエスは26節以下でゼべダイの子らに、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」とおっしゃいました。そして28節で、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」とおっしゃいました。つまり主イエスが、皆に仕える者、皆の僕になりなさいとおっしゃったのは、これからエルサレムに上って十字架にかかって死ぬことによって、自分の命を献げて人々に仕えようとしている私に従って歩みなさい、ということです。今よりマシな者、より栄光ある者となることを願い求めていたゼべダイの子らに、主イエスは、主の憐れみをこそ求め、憐れみ深い主と共に生きる者となることをこそ求めなさいとおっしゃったのです。それを受けて本日の箇所には、主の憐れみを切に求めた二人の盲人のことが語られているのです。
さらにここには、主イエスに従っていけば今より立派な者となり、より栄光ある歩みができると思っていた群衆たちのことが語られています。彼らは、主イエスに従うこと、つまり信仰によって、自分がより善い者、より立派な、栄光ある者となれると期待していたのです。しかしその彼らは、あの盲人たちを叱りつけて黙らせようとしました。今よりマシな者、より栄光ある者となることを求めている者たちは、自分の惨めさ、罪、苦しみ悲しみの中で「主よ、憐れんでください」と叫び求める真実な信仰を抑えつけ、妨げる者となってしまうのです。
主イエスの憐れみ
信仰とは、自分が今よりマシな者となって栄光にあずかろうとすることではなくて、自分の惨めさを認めて、主イエス・キリストの憐れみをひたすらに願い求めることです。その願いに応えて、主イエスは救いを与えて下さいます。マルコとルカにおいては、この盲人の癒しの場面に、「あなたの信仰があなたを救った」という主イエスのお言葉が語られています。しかしマタイにはそれがありません。逆にマタイにあってマルコとルカにないのは、34節の「イエスが深く憐れんで」という言葉です。マルコとルカは、ひたすら主イエスの憐れみを求めた盲人の信仰を見つめ、その信仰によって救いが与えられたことを語っているのに対して、マタイは、主イエスの憐れみによって救いが与えられたことを見つめているのです。信仰とは、主イエスの憐れみをひたすら願い求めることです。しかし私たちがそのように憐れみを求めることができるのは、主イエスが、本当に深い憐れみをもって私たちを救って下さるからです。「イエスが深く憐れんで」の「憐れむ」は、盲人たちが「憐れんで下さい」と叫んだ「憐れむ」とは違う言葉です。「憐れんで下さい」の方は、普通に「かわいそうに思う」という言葉ですが、主イエスが「深く憐れんだ」という言葉は、もともとは内臓という言葉から来ており、内臓がゆり動かされるような憐れみ、より日本語的に言えば、はらわたがよじれるような憐れみを表しています。それは主イエスの私たちへの憐れみを語る時にのみ用いられる特別な言葉であり、具体的には、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さるという憐れみを指しています。主イエスは今、その憐れみのみ心によってエルサレムへと進んでおられるのです。そしてその道の途上で、憐れみを求める二人の人を癒し、ご自身の深い憐れみの内に置いて下さったのです。その憐れみを受けた彼らは、主イエスに従っていった。それは、この主イエスの憐れみの内に留まり、主イエスと共に生きる者となったということです。そのことこそが救いです。主イエスのもとを離れては、この救いはありません。だから彼らは主イエスに従って行ったのです。
キリエ・エレイソン
信仰とは、主イエス・キリストの憐れみをひたすら求めつつ生きることです。「主よ、憐れみたまえ」という祈りは、新約聖書の言葉であるギリシャ語で「キリエ・エレイソン」です。本日の礼拝の始めの聖歌隊の奉唱でもそれが歌われました。神のみ前に出て礼拝をささげる私たちの基本的な姿勢をこの祈りが表しています。「主よ、憐れみたまえ」、「キリエ・エレイソン」、そう祈らずには一日たりとも生きることができないのが私たちの、またこの世界の現実です。しかし私たちとこの世界の悲惨さ、罪を、私たち以上にはっきりと見すえ、それらを全て背負って十字架の苦しみと死への道を歩み、その深い憐れみを私たちのために注ぎ切って下さった主イエス・キリストがおられるのです。この主イエスの憐れみのゆえに、私たちも「主よ、憐れみたまえ」「キリエ・エレイソン」と心から叫び求めつつ、主イエスに従って、主イエスと共に生きていくことができるのです。