創立記念

父と子と教会

「父と子と教会」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-8節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第14章1-11節
・ 讃美歌:

父なる神と独り子主イエスを信じる
 先週に続いて、ヨハネよる福音書第14章1-11節をご一緒に読みたいと思います。ここは、主イエスが最後の晩餐において弟子たちにお語りになったみ言葉です。この晩餐の後、主イエスは捕えられ、翌日には十字架につけられるのです。それによって主イエスは、この世から父なる神のみもとに帰ろうとしておられます。弟子たちはこの後、主イエスが去って行き、おられなくなったこの世を生きていくことになるのです。その弟子たちのために主イエスは1節で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とおっしゃいました。主イエスが目に見える仕方で共にいて下さることがなくなることによって、弟子たちはいろいろなことによって心を騒がせられていきます。私たちも、主イエスが父のもとへと去った後の世界を生きています。だから私たちも今、主イエスのお姿をこの目で見ることができません。そのために、主イエスが今も生きて共にいて下さることをはっきり確信することができず、この世のいろいろなことによって心を騒がせられています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」という主イエスのお言葉はそういう私たちへの語りかけでもあるのです。
 「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と主イエスはおっしゃいました。主イエスをお遣わしになった父なる神を信じ、その独り子である私を信じなさい、とおっしゃったのです。私たちの信仰は、父なる神と独り子主イエスの両方を信じる信仰です。父なる神と主イエスの連携によって私たちの救いは実現しているのです。そこにはさらに聖霊なる神のお働きもあります。父と子と聖霊の、いわば連携プレーによって、私たちの救いは実現しているのです。本日の箇所には、父なる神と独り子主イエスとの連携のことが主に語られています。「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」というのは、父なる神と主イエスの連携によって与えられる救いを信じなさい、ということです。その信仰によってこそ、私たちは心を騒がされずに生きることができるのです。

父なる神と主イエスとの連携による救い
 父なる神と主イエスとはどのように連携して私たちに救いを与えて下さっているのでしょうか。神の独り子であられる主イエスは、父なる神のもとから遣わされて、人間としてこの世を歩まれました。そして十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦して下さり、私たちが神による新しい命、永遠の命にあずかることができるようにして下さいました。父なる神のみ心による救いを、主イエスが実現して下さったのです。その主イエスが父のもとに行かれたことによって、私たちは今、主イエスのお姿を見ることのできないこの世を生きています。父なる神のみ心による救いが主イエスによって実現したと言われても、その救いは目に見えないですから、疑おうと思えばいくらでも疑えるのです。しかし主イエスはここで、あなたがたが私を見ることができないのは、私が今父なる神のもとで、あなたがたを迎えるための備えをしているからだ、時が来たら、私は父のもとから戻って来て、あなたがたを迎え、私と共に父なる神のもとで永遠の命を生きる者とする、と言っておられます。つまり今ははっきり見えていない救いが、主イエスが戻ってきて下さることによって見えるものとなり完成するのです。その救いの完成も、父なる神と主イエスとの連携によって実現するのです。6節で主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました。主イエスにこそ私たちの救いがある、という宣言ですが、それに続いて「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言っておられます。父なる神のもとで、そのみ心による救いにあずかるためのただ一つの道は主イエスなのです。主イエスを信じることによってこそ私たちは、父なる神と主イエスとの連携によって与えられる救いにあずかることができるのです。

主イエスを知っている者は父をも知っている
 このように、主イエスを信じることと父なる神を信じることは分かち難く結び合っています。7節には「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」とあります。主イエスを知ることによって父なる神をも知ることができる。そのことが今からあなたがたに起る、いや、実は既に起っており、あなたがたは既に父を見ているのだ、ということです。「今から」というのは、今まさに起ろうとしている主イエスの十字架の死と復活によって、ということでしょう。十字架と復活によって弟子たちは、主イエスこそが救い主であられることをはっきりと知るのです。それによって、父なる神をもはっきりと知ることになるのです。しかし同時に主イエスはここで、あなたがたは既に父を見ている、とも言っておられます。私に従っている弟子であるあなたがたは、私を見たことによって既に父なる神を見ているのだ、ということです。

わたしを見た者は父を見たのだ
 するとフイリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。「既に父を見ている」とおっしゃるけれども、私たちはまだ父なる神を見ることはできていません、御父を私たちに示して下さい、ということです。それに対して主イエスはこうおっしゃいました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」。神の独り子であられる主イエスを見た者は、父なる神を見たのです。主イエスと出会った者は、主イエスを遣わして下さった父なる神と既に出会っているのです。私たちは、主イエスとは別に父なる神のことをあれこれイメージする必要はないのです。いやむしろ主イエスと切り離して父なる神のお姿をイメージすることは間違っているのです。父なる神は、独り子主イエスによる救いを与えて下さった神です。そのように、父なる神と独り子主イエスは切り離すことのできない関係にあるのです。

主イエスは父の内に、父は主イエスの内に
 10節には、この主イエスと父なる神の関係が、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と表現されています。それは11節にも繰り返されています。主イエスと父なる神は、お互いがお互いの内にいる、という関係なのです。それは10節後半によれば、「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」ということです。主イエスのお言葉は、主イエスの内におられる父なる神のお言葉でもあり、主イエスのなさる業は、父なる神のみ業でもあるのです。そのように主イエスと父なる神は一体なのです。だから「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言うことができるのです。先程は、主イエスと父なる神の連携によって私たちの救いが実現していると申しましたが、「連携」という言い方は正確ではありません。主イエスと父なる神は、お互いがお互いの内にいると言えるほどにまさに一体となって、私たちの救いを実現して下さっているのです。

主イエスの再臨を待ち望む
 さてこのように本日の箇所には、主イエスと父なる神が一体となって私たちの救いを実現して下さっていることが語られています。その救いは、主イエスの十字架の死と復活によって既に実現しています。しかし主イエスが父のもとに行かれ、そのお姿をこの目で見ることができない今は、その救いはまだ目に見えるものとはなっていません。それが目に見える仕方で完成するのは、主イエスが戻って来られる時です。父なる神のもとに行かれた主イエスが、戻って来て、私たちを父のもとに迎えて下さり、主イエスと共に永遠の命を生きる者として下さるのです。それは基本的には、主イエスがもう一度この世に来られる、いわゆる「再臨」の時であり、それによってこの世が終わる「終末」の時です。この世の終わりに主イエスがもう一度来て下さり、父なる神のご支配が目に見えるものとなり、神の国が完成する、その時に、主イエスと父なる神とが一体となって実現して下さった私たちの救いが目に見える仕方で完成するのです。その終わりの日の救いの完成を信じて待ち望みつつ生きることが私たちの信仰なのです。

再臨による救いの先取り
 けれどもヨハネによる福音書において、主イエスが戻って来ることは、この世の終わりの主イエスの再臨のこととしてのみ語られているわけではありません。この後のところの14章18、19節に主イエスのこういうみ言葉が語られています。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。主イエスがここで「あなたがたのところに戻って来る」と言っておられるのは、この世の終わりの再臨のことだけではありません。「世はもうわたしを見なくなる」、つまり主イエスのお姿をこの目で見ることのできないこの世の歩みの中で、しかし「あなたがたはわたしを見る」ということが起るのです。つまり弟子たちが、信仰者が、戻って来て共にいて下さる主イエスを信仰の目ではっきり見るようになるのです。それによって、この世の歩みの中で、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」という救いが実現するのです。つまり、この世を生きている私たちが、主イエスの復活の命によって新しく生かされるということが実現するのです。このようにヨハネ福音書は、主イエスが戻って来られるのはこの世の終わりにおいてであることを見つめつつ、それ以前の、この世における歩みの中でも、主イエスが戻って来て共にいて下さることを体験することができることを語っているのです。言い替えれば、この世の終わりの主イエスの再臨によって完成する救いを、この世の歩みの中で先取りして体験することができる、と言っているのです。そのことを実現して下さるのが聖霊なる神です。そのことがこの後のところに語られています。それは次回以降のお楽しみということになりますが、父なる神と主イエスとが一体となって実現し、世の終わりの主イエスの再臨において完成すると約束して下さっている救いを、聖霊なる神が、私たちのこの世の歩みの中で先取りして体験させて下さり、主イエスの復活の命によって生かして下さる、ということをヨハネ福音書は語っているのです。

聖霊の働く場である教会
 この聖霊のお働きを私たちが体験し、主イエスの復活の命によって生かされることが起る場が教会です。教会は、聖霊のお働きによって生まれ、聖霊によって今も導かれています。聖霊のお働きは教会の中だけに限定されているわけではありませんが、しかし教会においてこそ私たちは、聖霊のお働きを確かに受けるのです。それによって、父なる神のもとに行かれた主イエスが戻って来て共にいて下さり、私たちを新たに生かして下さることを体験するのです。私たちは本日もそのことを体験します。11時30分からの礼拝において、一人の高校生の姉妹が洗礼を受けて群れに加えられます。聖霊のお働きによってその姉妹は、「わたしはあなたをみなしごにはしておかない。あなたのところに戻ってきて共にいる」という主イエスのお言葉を聞いたのです。洗礼において姉妹を主イエスと父なる神による救いにあずからせ、主イエスの復活の命によって新しく生かして下さるのも聖霊です。一人の姉妹が聖霊によって新しく生まれ変わり、キリストの体である教会に加えられることが、本日の礼拝において起るのです。洗礼を受けて教会に連なる信仰者となった者は皆そのことを体験しています。聖霊が自分に働きかけ、父なる神と主イエス・キリストが一体となって実現して下さった救いにあずからせ、主イエスの復活の命によって新しく生かし、キリストの体の一部として下さったことを体験しているのです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」という主イエスの約束は、この世の終わりに主イエスがもう一度来て下さる時にこそ最終的に実現します。しかし私たちは、教会において、聖霊の力によって、この救いを先取りして味わうのです。この世の歩みにおいて私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。しかし私たちは、主イエスが戻って来て下さり、私たちを復活の命によって新しく生かして下さることを、教会において、聖霊の力によって体験しつつ生きているのです。

教会創立記念日
 本日は、この教会の創立146周年の記念の日です。1874年、明治7年のまさに9月13日に、七名の人々が洗礼を受け、十八名によってこの教会が誕生したのです。この人々は聖霊のお働きによって、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」という主イエスの約束を先取りして体験したのです。その日から今日まで、多くの人々がこの教会においてその体験を与えられてきました。十字架と復活によって救いを実現して下さった主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって共にいて下さり、主イエスの復活の命によって新しく生かして下さることを体験してきたのです。そしてその体験によって支えられて、世の終わりの主イエスの再臨において完成する救いを信じて待ち望む信仰に生きてきたのです。その聖霊が今、私たちに与えられています。私たちは聖霊によってこの礼拝へと集められ、世の終わりに主イエスの再臨によって完成する救いを先取りして体験しているのです。私たちの信仰は、父なる神を信じ、その独り子主イエス・キリストを信じ、聖霊なる神を信じる信仰です。父と子が一体となって実現して下さった救いに、聖霊のお働きによって、教会においてあずかる喜びを体験しつつ、その救いが世の終わりに完成することを信じて待ち望みつつ生きることにこそ、教会の創立146周年を喜び祝うことの意味があるのです。

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