夕礼拝

主が選んだ器

2026年3月1日
説教題「主が選んだ器」

エレミヤ書 第1章4~10節
使徒言行録 第9章10~22節

自分の正しさに駆られて
 使徒言行録を読み進めて、前回から9章に入りました。9章の前半では「サウロの回心」と呼ばれる出来事が語られています。サウロとはパウロのことです。前回は、その出来事の前半部分1~9節に目を向けました。本日は、その続き10節以下に目を向けていきますが、その前に、前回の箇所を振り返っておきます。
 ステファノの殉教をきっかけとしてエルサレムの教会に対して大迫害が起こったにもかかわらず、キリスト教会はエルサレムを超えて、ユダヤとサマリアの全土に広がっていきました。9章から分かるのは、ダマスコにも教会があったことです。ダマスコは、現在のシリアの首都にあたります。そのダマスコの教会のメンバーであり、おそらく指導的立場にあったのが、本日の箇所に登場するアナニアです。しかしサウロにとって、このキリスト教会の拡大は由々しき事態でした。それで彼はキリスト者を見つけ出し、エルサレムに連行するためにダマスコに向かったのです。9章1節で、「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」と言われていたように、サウロはキリスト者を迫害し、殺そうとすらしていました。しかし彼は自分が間違ったことをしているとは思っていませんでした。むしろ自分は正しいことをしている、と思っていたのです。後にサウロ(パウロ)は当時の自分を振り返って、「熱心に神に仕えていた」(22:3)と語っています。キリスト者を迫害することが、神様に熱心に仕えることであり、神様のみ心にかなうことだ、と思っていたのです。サウロは、イスラエルの人たちが神様の民として生きるためには、つまり神様の救いにあずかり続けるためには、律法を厳格に守らなくてはならない、と信じていました。そのサウロにとって、律法を守ることによってではなく、ただ主イエス・キリストへの信仰によって救われる、とキリスト教会が宣べ伝えていることは、到底受け入れられるものではありませんでした。そのように宣べ伝える教会は、自分たちが神様の民であり続けることを脅かすものであり、滅ぼすべきものであったのです。それゆえサウロにとって、キリスト教に敵対し、キリスト者を迫害することは自分がなすべき正しいことでした。サウロは自分の正しさに駆られ、キリスト者を熱心に迫害していたのです。

復活の主イエスと出会う
 ところがダマスコに近づいたとき、突然、天からの光がサウロの周りを照らし、サウロは地面に倒れました。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞きました。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。このときサウロは、十字架で死なれ復活され、今も生きておられる主イエス・キリストに出会いました。同時に自分がキリスト者を迫害していたことは、主イエスを迫害していたこと、ほかならぬ神様に敵対していたことであったと気づいたのです。サウロは地面から起き上がり、目を開けましたが、何も見えませんでした。それでサウロに同行していた人たちが、彼の手を引いてダマスコに連れて行ったのです。前回の箇所の最後9節では、「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と言われていました。また本日の箇所の11節では、主がアナニアに向かって、「ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている」と語っています。サウロはダマスコにあるユダの家に連れて行かれ、そこで三日間、目が見えない中で、食べることも飲むこともなく、ただ祈り続けていたのです。

深い絶望の中での祈り
 サウロの祈りは、どのような祈りであったのでしょうか。これまで自分がキリスト者を迫害してきたことは間違いだったから、もう二度とこんなことはしないよう心を入れ替えます、という反省の祈りだったのでしょうか。そうではないでしょう。なぜならサウロに起こった出来事は、反省して心を入れ替えれば、何とかなるというような生易しい出来事ではなかったからです。サウロは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という主イエスのお言葉を聞いて、これまで自分は神様を信じ、神様に熱心に仕えてきたつもりでいたけれど、実はむしろ神様と敵対していたということに気づかされました。自分の正しさに駆られて、神様と敵対していたことに、その自分の罪に気づかされたのです。サウロは祈り続ける中で、繰り返し「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という主イエスのお言葉を想い起こし、自分の罪に打ちのめされていたと思います。サウロの祈りは、自分の罪に打ちのめされた深い絶望の中での祈りであったのです。自分の罪を突きつけられたサウロは、自分が滅ぼされても仕方がない、と思わずにはいられなかったはずです。神様に敵対するという取り返しのつかない罪を犯した自分は赦されるはずがない、滅ぼされるしかないと思い、その絶望の中で祈っていたのです。しかしその絶望の中で、なお一縷の望みがありました。サウロ自身の内に望みがあったのではありません。赦される余地があったのではありません。ただ主イエスが、サウロにこう言ってくださっていたのです。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。主イエスはサウロに、「あなたは滅ぼされる」、と告げたのではありません。「あなたにはなすべきことがあるから、ダマスコの町に入って、そこでなすべきことを知らされるのを待ちなさい」と告げたのです。ここに一縷の望みがありました。サウロは、この主イエスの言葉をも繰り返し想い起こし、深い絶望の中で、なお、自分になすべきことがあるのなら、それを示してください、と祈っていたのではないでしょうか。滅ぼされるしかないはずの自分に、神様の憐れみによって、なおなすべきことがあるのなら、それを示してください、と祈っていたのです。12節に「アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」とあります。サウロは祈りの中で、この幻を与えられました。だから深い絶望の中でなお、アナニアがやって来て、自分の目を癒し、自分になすべきことを知らせるのを待ち望んでいたのです。サウロはこれまで慌ただしく動き回っていました。自分の正しさに駆られて、キリスト者を殺そうと意気込んで、キリスト者を捕まえるために熱心に動き回っていたのです。そのサウロが、復活の主イエスに出会い、目が見えなくなり、動き回ることができなくなった。復活の主イエスがサウロに出会って、サウロの動きを止めてくださり、サウロに祈るときを、また待つときを与えてくださったのです。

滅ぼされるべき者を救うために
 私たちもかつて神様に敵対して生きていました。もちろんそのことに気づいたのは、サウロがそうであったように、復活の主イエスが出会ってくださり、語りかけてくださったことによってです。私たちは聖霊によって教会の礼拝へと招かれ、そこで復活の主イエスに出会い、その語りかけを聞くことを通して、これまで自分が神様に背き、神様と敵対し、自分勝手に、自己中心的に生きてきたことに気づかされました。自分が滅ぼされるしかない者だと気づかされたのです。しかし同時に、その私たちを滅ぼすのではなく、むしろ救うために、独り子イエス・キリストが十字架に架かって死んでくださり、復活してくださったことをも知らされたのです。自分の正しさに駆られ、自己中心的に生き、神様に敵対している私たちが、聖霊によって、今も生きて働かれる復活の主イエスと出会い、自分の罪を突きつけられます。自分の罪に打ちのめされる深い絶望の中で、しかし私たちは、「あなたにはまだなすべきことがある」という復活の主イエスの語りかけを聞くのです。私たちは一人ひとり、異なる歩みの中で復活の主イエスと出会います。しかし根本的には私たち一人ひとりにも、サウロに起こったことが起こったのだし、これからも起こっていくのです。

教会の業
 サウロが祈りの中で示されたように、アナニアがやって来て、サウロの上に手を置いて、このように言いました。17節です。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。するとたちまち、サウロの目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになりました。そこでサウロは身を起こして、アナニアから洗礼を受けたのです。このことにサウロの回心が、単なる個人的な出来事ではないことが見つめられています。アナニアはダマスコの教会の指導者であり、教会の代表としてサウロのもとに遣わされた、と言うべきでしょう。そうであればアナニアの業は、教会の業です。サウロの回心の出来事は、復活の主イエスが出会い、語りかけてくださったことで完了したのではありません。教会の業である洗礼を受け、主イエスの十字架と復活による救いにあずかることが必要であったのです。同じように私たちの回心も、単なる個人的な出来事ではなく、教会の業である洗礼を受け、救いにあずかり、教会のメンバーとされる出来事です。サウロに起こったことが、確かに私たちにも起こっているのです。

目からうろこのようなものが落ち
 目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになった、と言われていました。「目から鱗が落ちる」という慣用句は、この出来事に由来します。この慣用句が「あることをきっかけとして、急にものごとの真相や本質が分かるようになる」ことを意味するように、サウロに起こったのは、単に見えなかった目が元どおり見えるようになったということではありません。かと言って彼の肉体の目が、今まで見えなかったものを見えるようになったわけでもありません。肉体の目は、確かに元どおり見えるようになったのです。しかし彼の心の目が見ているものは、まったく変わりました。これまで彼の心の目は、自分ばかりを見つめていました。神様を信じてはいても、神様を見つめるよりも、自分の正しさを見つめて、それを拠り所として生きていました。しかし今は、自分を見つめるのを止めて、復活の主イエスを見つめるようになったのです。赦されるはずのない、滅ぼされるべき自分を救うために、十字架で死なれ復活された主イエスを見つめ、主イエスが示してくださる自分のなすべきことのために生きようとしていたのです。それは、サウロの心の目が見ているものが、サウロの生き方が、いえサウロという存在そのものが180度転換したということにほかなりません。自分を見つめて生きていたのに、180度転換して、復活の主イエスを見つめて生きるようになったのです。復活の主イエスが出会って、語りかけてくださることによって、またアナニアというダマスコ教会の代表が派遣されることを通して、サウロにその転換、回心が起こったのです。

主が選んだ器
 自分を見つめて生きていたのに、180度転換して、復活の主イエスを見つめて生きるようになったサウロを一言で言い表す言葉が、本日の箇所にあります。15節で主はアナニアにこのように言われました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。主イエスは、サウロは「わたしが選んだ器である」と言われます。「主が選んだ器」こそ、180度転換したサウロを一言で言い表す言葉です。器というのは、器そのものに価値があるのではありません。誰がその器を使い、何をその器に入れるのかが肝心です。世の中では高価な器を飾っておくこともありますが、それでは器本来の役割を果たしているとは言えないでしょう。主イエスがサウロという器を選んでくださり、その器にイエスの名を入れて、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに、イエスの名を届けるために、運ぶために用いてくださる、と言われているのです。しかしそれはサウロという器が選ばれるに値したからではありません。サウロという器は、滅ぼされても仕方のない、壊されても仕方のない器でありました。それにもかかわらず復活の主イエスは、サウロという器を壊すことなく、救いの良い知らせを運ぶために選び、用いてくださるのです。器は、自分で自分を運ぶことができません。サウロは自分の行きたいところに福音を運ぶのではありません。主イエスが示してくださるところに福音を運んでいきます。たとえ王の前に立たされるとしても、主が選んだ器であるサウロは、主が遣わすところへと福音を運んでいくのです。

主イエスの名のために
 主イエスは「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」をサウロに示す、とも言われました。使徒言行録がこれから語っていくように、確かにサウロ(パウロ)は多くの苦しみを受けます。しかしそれは、自分の罪の重みに苦しむということではありません。そうではなく「わたしの名のために」、つまり「主イエスの名のために」苦しむのです。サウロは確かに神様と敵対していた自分の罪に打ちのめされ、深い絶望を味わいました。けれども取り返しのつかない、赦されるはずのない自分の罪の重みに苦しみながら伝道したのではありません。なぜなら主イエスの十字架によって赦されない罪はないからです。サウロの取り返しのつかない罪も、主イエスの十字架によって赦されました。サウロは、その計り知れない救いの恵みの中で、「主が選んだ器」として、主に用いられたのです。その歩みの中で、サウロは主イエスの名のために苦しみを受けます。それは、主イエスの苦しみの一端を担うことであったのです。

かつてと今
 主が選んだ器として主に用いられたサウロの最初の働きが19節の後半から語られています。サウロは、再び目が見るようになると、洗礼を受け、食事をして元気を取り戻しました。その後、数日の間は、ダマスコ教会のメンバーと共に過ごしましたが、すぐにダマスコのあちこちの会堂に、主イエスの名を運びました。「イエス様こそ神の子です」「イエス様こそメシア、救い主です」と宣べ伝えたのです。かつてサウロは休むことなくキリスト者を迫害していました。今、そのサウロが休むことなく主イエスを宣べ伝え始めたのです。かつてキリスト者を迫害することに熱心であったサウロが、今は主イエスを宣べ伝えることに熱心であるように思えるのです。しかしそのようにサウロの熱心の対象が変わったに過ぎないと受けとめるなら、私たちはサウロの回心が分かっていません。サウロに起こったことは、熱心の対象が変わった、情熱を注ぐ対象が変わったというようなことではまったくありません。かつてサウロは自分の正しさに駆られて活動的に動いていました。しかし今はそうではない。活動的に動いているように見えて、実は運ばれているに過ぎません。サウロ自身が動き回っているのではなく、主イエスが示してくださるところへ福音を運んでいるだけなのです。サウロが活動的に動いているように見えるとしたら、それは、復活の主イエスが今も生きて働かれているから、聖霊が働いているからにほかなりません。地の果てに至るまで救いを届けたいという復活の主イエスの強いご意志こそが、サウロをあちこちへと遣わしているのです。かつてサウロは、自分のために生きていました。神様のために生きているようで、自分の正しさに駆られ、それを拠り所として生きていました。しかし今はそうではない。自分のために生きるのではなく、主イエスによって選ばれ、用いられる、「主が選んだ器」として生きているのです。サウロの熱心は、もはや自分の正しさに駆られた熱心ではありません。そうではなく主イエスが選んでくださり、用いてくださったことにお応えする熱心です。それは熱心の対象が変わったということではなく、180度の転換が起こり、まったく新しく生き始めたということなのです。

苦しめる者から苦しみを受ける者へ
 このことは、サウロの具体的な生き方に結実します。かつて自分の正しさに駆られていたとき、サウロの熱心がもたらしたのは、キリスト者を激しく迫害することでした。捕らえて連行しようと、それどころか殺そうとすらして、キリスト者を迫害し傷つけたのです。しかし今、サウロの熱心がもたらすのは、主イエスの名のために自分自身が苦しみを受けることです。自分の正しさに駆られた熱心は、隣人を傷つけます。たとえ神様を信じていてもです。いえ、神様を信じている人が自分の正しさに駆られるとき、最も酷いことをするのです。しかし主イエスが選び、用いてくださったことにお応えする熱心は、隣人を傷つけることはありません。むしろ自分自身が苦しみを受けます。主イエスの名のために、主イエスの苦しみの一端を担うのです。

敵対する者を兄弟と呼ぶ者へ
 本日の箇所で、「主が選んだ器」であるのはサウロだけではありません。アナニアもまた主が選んだ器である、と言うべきでしょう。アナニアは幻の中で主から、サウロのところに行きなさいと言われたとき、反論しました。13節です。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」。アナニアの言っていることは、もっともなことです。アナニアにとって、サウロはキリスト教会とキリスト者に対して極めて酷いことをした迫害者であり、赦しがたい人物であったのです。加えてサウロのところに行けば、アナニア自身も捕らえられてしまう危険もありました。アナニアにとって、この主のお言葉は受け入れられない、従えないものであったのです。しかし主は、そのアナニアに、サウロは主が選んだ器であり、主が人々に福音を届けるために用いる、と伝えました。それを聞いたアナニアはもはや反論しませんでした。自分の主張を押し通すのではなく、主のお言葉に従って、サウロのもとへ向かったのです。このことにおいてアナニアも主が選んだ器であり、サウロに洗礼を授け、なすべきことを伝えるために用いられたのです。アナニアが、「主が選んだ器」として生きることにおいて起こったことがあります。それが、キリスト教会の迫害者であり、赦しがたい人物であるサウロに向かって、「兄弟サウル」と呼びかけたことです。自分たちに敵対し、迫害していた者を、「兄弟」と呼びかけたのです。自分の主張を押し通そうとしていたら、サウロを「兄弟」と呼ぶことなどできるはずがありません。しかし「主が選んだ器」として、主に用いられる中で、自分たちに敵対する者を赦し、「兄弟」と呼ぶことへと導かれたのです。

福音を届けるための器
 主が選んだ器であるのは、サウロとアナニアだけでもありません。私たち一人ひとりが主によって選ばれた器です。私たちに選ばれるに値するものがあったのではありません。むしろ私たちは神様に敵対していたのであり、赦されるはずのない者、滅ぼされても仕方のない者でした。しかし神様はその私たちを滅ぼすのではなく、御子イエス・キリストの十字架と復活によって救ってくださいました。洗礼を受け、その救いにあずかった私たちは、主が選んだ器として、主が用いてくださる器として生かされています。それぞれが置かれている状況は違っても、私たちは周囲の人々に主イエスの名を運ぶための器として、福音を届けるための器として用いられているのです。そのように主に用いられる中で、私たちは自分の正しさに駆られて隣人を傷つけるのではなく、むしろ主イエスの名のために苦しみを受ける者へと変えられていきます。自分に敵対する者に「きょうだい」と呼びかける者へと変えられていくのです。私たち自身はすぐに壊れてしまう弱く脆い器でしかありません。しかし神様はそのような弱く脆い器である私たちを用いてくださいます。その器に、キリストの福音という宝を入れてくださるのです。私たちはこの宝を、一人でも多くの方々に運ぶために用いられていくのです。

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