2026年2月22日
説教題「平和な生活を送るため」(2) 副牧師 川嶋章弘
詩編 第67編1~8節
コリントの信徒への手紙一 第7章8~16節
結婚生活の具体的なケース
私が主日礼拝の説教を担当するときには、コリントの信徒への手紙一を読む進めていて、前回から7章に入りました。7章でパウロはコリント教会の人たちの質問に答える形で、キリスト者の結婚について語っています。前回は1~7節を中心に読みましたが、そこでは結婚ないし結婚生活についての基本が語られていた、と言ってよいでしょう。それに続く本日の箇所では、その基本を前提として、幾つかの具体的なケースが扱われています。具体的なケースを細々と論じているところに、パウロがコリント教会の人たちを丁寧に牧会している姿が窺えます。しかしその一方で、私たちにとって、個々のケースは自分に当てはまらないことも少なくありません。本日の箇所は、自分には当てはまらないから読み飛ばしてしまう、そのような箇所でもあるのではないでしょうか。
自分の家族がキリスト者でない
少し脱線しますが、先々週、泊りがけで行われた神奈川連合長老会青年修養会の主題は、「社会に生きるキリスト者~マイノリティーとして~」でした。大きなテーマでしたが、二回の分かち合いと全体会を通して、青年たちが日本の社会でキリスト者として生きる中で直面する悩みや課題を分かち合い、考えることができました。しかし考えてみれば、この主題は青年だけに関わることではありません。日本の社会に生きるキリスト者なら誰もが、マイノリティーとして生きる中で、ちょっとしたことから深刻なことまで、悩み葛藤しながら生きています。悩みや葛藤は多岐に亘りますが、その中の一つに、しかも大きなこととして、自分の家族がキリスト者でないことがあります。私たちの多くがこのことに悩み、心を痛めているのではないでしょうか。実は、本日の箇所はこのことを取り上げています。具体的には12節で「ある信者に信者でない妻がいて」と言われ、13節で「ある女に信者でない夫がいて」と言われているように、夫婦で妻だけ、あるいは夫だけがキリスト者の場合を取り上げているのです。もちろんこのケースに当てはまらない方もいます。しかしここで単に夫ないし妻がキリスト者でない場合だけでなく、自分の家族がキリスト者でない場合も見つめられていると受けとめるなら、私たちの多くは、ここで見つめられていることと関係があることになるのです。私たちは自分の家族が、大切な人がキリスト者でないことに悩み、心を痛めています。その私たちに、この箇所を通して神様が語りかけてくださっていることを受けとめていきたいのです。
今の状況に留まる
そのようなわけで、12節以下に目を向けていきたいと逸る気持ちもありますが、まずは、そのほかのケースについてパウロが語っていることを見ていきたいと思います。
本日の箇所の冒頭8節で、このように言われています。「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」。8、9節では、未婚者とやもめのケースについて取り上げられています。このケースについては25節以下で詳しく語られていますので、そこを読むときに扱うことにします。しかし前回の説教でお話ししたように、問題は、8節後半の「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」というパウロの言葉にあります。この言葉は、聖書協会共同訳では「私のようにしていられるなら、それがよいのです」と訳されています。つまりパウロは独身そのものを勧めているというより、「私のようにしている」ことを勧めているのです。もちろんこのときパウロは独身でしたから、「私のようにしている」とは具体的には独身を意味しました。しかしこの言葉で強調されているのは、「私のように留まっている」こと、今の状況に留まっていることです。パウロが本当に語りたいことは、自分の今の状況を神様が与えてくださった賜物として受けとめ、その状況に留まって、感謝して喜んで生きることなのです。7章全体を通して、パウロは一貫して今の状況に留まることを勧めています。そのように勧める理由については、次回以降、見ていきますが、とにかくここでパウロは独身を勧めているのではなく、自分と同じように今の状況に留まっていることを勧めているのです。
対等で平等な体を軽視しない結婚生活
続く9節も誤解しやすい箇所です。こう言われています。「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」。このように言われると、結婚は消極的な意味しか持っていないように思えます。情欲に身を焦がさないために、いわば必要悪として結婚しなさい、と言われているように思えるのです。しかしそのように受けとめるのは間違っているということも、前回の説教でお話ししました。聖書全体は、結婚が神様の祝福のもとにあることを語っているからです。前回の箇所でパウロはむしろ、この聖書の結婚観に立って、基本的に結婚を勧めていました。そうなると1節にある「男は女には触れない方がよい」という言葉がよく分からなくなるわけですが、これも前回お話ししたように、この言葉はパウロの言葉としてではなく、コリント教会の人たちの言葉として読むほうが良いと思います。コリント教会の中に、体を軽視する誤った信仰理解があり、「男は女に触れない方がよい」と言って、結婚に対して、またパートナーに触れること、つまり性的な関係を持つことに対して否定的な人たちがいました。それに対してパウロは、むしろ結婚を勧め、しかも夫婦が完全に対等で平等な、体を軽視しない、心と体がばらばらでない結婚生活を送るよう語ったのです。
結婚は神の導きによるもの
10節の冒頭に「更に、既婚者に命じます」とあり、10、11節では既婚者の場合が取り上げられています。10、11節も文章が込み入っていて、かえって分かりにくいところがあります。その核となるのは、10節で「妻は夫と別れてはいけない」と言われ、11節で「夫は妻を離縁してはいけない」と言われていることです。つまりパウロは、妻も夫も相手を離縁してはならない、と言っているのです。10節の後半には、「こう命じるのは、わたしではなく、主です」とあり、パウロは主イエスがこのことを命じられたと言っています。それは、マルコによる福音書10章1~12節で主イエスがお語りになったことを念頭に置いているのでしょう。ファリサイ派の人たちは、律法には離縁状を書けば離婚することができると書いてあると言いました。それに対して主イエスは、神様のみ心が最初からそうであったのではなく、人間の弱さや欠けや罪のゆえに、神様がそれを認めてくださったのだと語り、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われました。結婚は、神様が結び合わせてくださったもの、神様の導きによるものです。そのことをないがしろにして、自分勝手に離婚することを戒められたのです。パウロがこの主イエスのお言葉に基づいて語ったのは、コリント教会の中にも自分勝手に離婚しようとしていた人たちがいたからでしょう。先ほど見た、体を軽視し、「男は女に触れない方がよい」と考える人たちの中には、それなら離婚した方がよい、と考える人たちもいたのです。しかしそれは自分勝手な振る舞いであり、神様のみ心を、神様の導きをないがしろにしているのです。
神の導きを信じて生きる
確かに私たちには弱さや欠けや罪があり、やむを得ず離婚をすることもあります。しかし主イエスが私たちに根本的に求めておられるのは、自分勝手に生きるのではなく、神様のみ心を求め、そのみ心に従って生きることです。そうであればこのことは離婚だけに、既婚者だけに関わることではなく、すべてのキリスト者に関わることです。自分勝手に生きようとする私たちに、主イエスは、またパウロも神様のみ心を重んじ、それを信じて生きなさいと語っているのです。私たちは自分の好きなように生きるとき、自分が自由に、伸び伸びと生きることができるように思っています。しかしそれは大きな勘違いです。自分の好きなように生きるというのは、すべてが自分にかかっているということです。そうであるなら私たちの人生は、不安と恐れに満ちたものになるのです。私たちは、私たちのために独り子イエス・キリストを十字架に架けるほどに私たちを愛し、大切にしてくださる神様の導きを信じて生きるときにこそ、本当に安心して生きることができます。本当に自由に、伸び伸びと生きることができるのです。
キリスト教が異教社会に広がる中で
さて、いよいよ12節以下に目を向けていきます。10、11節では夫婦が共にキリスト者である場合について語られていました。それに対して12節以下では、夫婦の片方がキリスト者である場合について語られています。キリスト教が異教社会に伝わったとき、それまで異教を信じていた夫婦の一方だけがキリスト教を信じ、教会のメンバーになることがありました。あるいはキリスト者となった後に、キリスト者でない人と結婚することもあり得ました。いずれにしてもコリント教会において、夫婦の一方だけがキリスト者という状況が生まれたのです。そのことと関連して、12節で、「主ではなくわたしが言うのですが」と言われていることにも注目したいと思います。これは先ほどの10節の「こう命じるのは、わたしではなく、主です」の裏返しですが、主イエスは、キリスト者とキリスト者でない人との結婚生活については、何もお語りになりませんでした。そのことを弁えてパウロは、主イエスの教えとは区別して、「主ではなくわたしが言うのですが」と言っているのです。しかしそれは、パウロの教えが主イエスの教えに劣るということではありません。パウロは復活の主イエスに出会い、神様の召しによって使徒とされました。その使徒としての権威によって、ここでパウロは語っているのです。
少し見方を変えれば、このことはキリスト教が異教社会に広がるにつれて新しい状況に直面し、いわば応用問題に直面し、それに対応していく必要があった、ということでもあります。使徒パウロはキリストの福音に堅く立ちつつ、その新しい状況に、応用問題に向かい合ったのです。このことは私たちの教会に示唆を与えます。それは、私たちの教会も、現代の日本という状況に、かなり難しい応用問題に、キリストの福音に堅く立ちつつ向かい合っていかなくてはならないということです。その意味でも私たちは、パウロが語っていることに目を向ける必要があるのです。
信仰のゆえに離婚してはならない
夫婦の一方がキリスト者である場合について、パウロはまず、原則を語っています。その原則とは、信仰のゆえに離婚してはならない、ということです。12節では、「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない」と言われ、13節では、「ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」と言われています。キリスト者が、自分の信仰とパートナーの信仰が異なるからといって離婚してはならないということです。コリント教会の中には、かつては異教を信じていた夫婦の一方だけがキリスト者となった人たちがいました。その人たちは、自分の信仰とパートナーの信仰が違うために離婚したほうが良いのではないか、と悩んでいたのだと思います。パウロはそのような人たちに、「離婚してはいけない」と言います。それは、その結婚と結婚生活を大切にしなさい、ということにほかなりません。今の状況を神様が与えてくださった賜物として受けとめ、その結婚生活を大切にしなさい、と語っているのです。しかもキリスト者でないパートナーが、「一緒に生活を続けたいと思っている場合」と言われています。それは、そのパートナーがキリスト者である自分の信仰を認めて、一緒に生活を続けたいと思っているということです。そうであればなおさらキリスト者は、自分とパートナーの信仰が違うからといって離婚するのではなく、今の結婚生活を大切にして、そのパートナーと向かい合って共に生きていくのです。
信仰の上に結婚がある
この原則に対して、15節の前半では例外が語られています。「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません」。ここでキリスト者でないパートナーが離れていく理由は語られていませんが、この箇所の文脈から考えて、キリスト者でないパートナーが自分の信仰を否定する場合でしょう。自分の信仰を否定し離れていくなら、そのときは去るにまかせなさい、と言われているのです。ここで見つめられているのは、結婚の上に信仰があるのではなく、信仰の上に結婚があるということです。「こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られていません」というのは、このことを意味しています。私たちは結婚のために信仰を捨てるのではない。というより信仰は捨てられない。私たちは信仰を持ったり捨てたりすることができるわけではありません。なぜなら信仰は、神様が恵みによって選んでくださった私たちに与えてくださったものだからです。だから私たちにとって、信仰こそが結婚の土台なのであって、その逆ではないのです。
原則と例外
しかし15節前半は、あくまで例外について述べています。このことを弁えていないと15節後半を間違えて読むことになります。15節後半に、「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」とありますが、これを15節前半に、つまり例外に結びつけて、「平和」とは離婚した状態と読まれることがあります。「信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせ」、離婚して、さばさばした状態で生活するのが、「平和な生活を送る」ことだと言われるのです。しかしそれは間違った読み方です。15節後半は、15節前半の例外に結びつけるのではなく、14節までの原則に結びつけて読まなくてはなりません。その原則とは、夫婦の一方だけがキリスト者である場合も、その結婚生活を大切にして守りなさい、ということにほかならないのです。
聖なる者とされている
そしてそのように結婚生活を大切にする積極的な理由が、14節に語られています。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」。信者でない夫ないし妻は、信者である妻ないし夫のゆえに聖なる者とされているのです。しかしそれは、キリスト者の妻ないし夫の清さや正しさや立派さが、キリスト者でない夫ないし妻に移っていく、伝染していくというようなことでは決してありません。キリスト者が「聖なる者」であるとは、清く、正しく、立派であることではないからです。そうではなく「聖なる者」とは、神様が取り分けてくださった者という意味です。別の言い方をするなら、神様の御手の内にある者、神様の導きのもとにある者なのです。しかも神様は、私たちが善い行いや立派な行いをしたから、私たちを取り分け、聖なる者としてくださったのではありません。むしろ神様に背いてばかりいたのに、一方的な恵みによって私たちをキリストの十字架と復活による救いにあずからせ、聖なる者としてくださり、その御手の内に置いてくださったのです。つまりここでパウロは、夫婦の片方だけがキリスト者である場合に、そのキリスト者のゆえに、キリスト者でないパートナーも「聖なる者」とされている、神様の御手の内にあり、導きのもとにある、と宣言しているのです。それは、キリスト者である妻ないし夫が、キリスト者でない夫ないし妻に頑張って伝道すれば、その夫ないし妻も「聖なる者」とされるということではありません。そうではなく夫婦の片方がキリスト者であるだけで、相手も「聖なる者」とされているということなのです。
マイノリティーの積極的な意味
このことは日本に生きるキリスト者である私たちにとって、まことに大きな慰めであり励ましです。私たちは自分の夫や妻が、自分の家族がキリスト者でないことに悩み、心を痛めています。その私たちに、このみ言葉は、家族の中に一人でもキリスト者がいることの幸いを告げているのです。私たちはたとえ家族の中で自分だけがキリスト者であったとしても、その自分の存在によって、ほかの家族が神様の御手の内に、神様の導きのもとに置かれていると信じて良いのです。 青年修養会の主題は「社会に生きるキリスト者~マイノリティーとして~」でした。「マイノリティー」という言葉にはネガティブな印象があると思います。しかし本日の箇所から示されるのは、私たちキリスト者が日本の社会でマイノリティーであることには積極的な意味があり、積極的な役割があるというこです。家庭の中で、あるいは学校や職場においても、マイノリティーであったとしても、私たちキリスト者がそこにいることには大きな意味が、積極的な意味がある。その私たちの存在によって夫ないし妻が、ほかの家族が、あるいは友人や同僚が神様の御手の内にあるからです。それはもちろん私たちの手柄ではまったくありません。私たちは神様の一方的な恵みにより救われ、「聖なる者」とされました。その私たちを用いて、神様は私たちの家族を、大切な人たちを、神様の導きのもとに置いてくださるのです。
15節の後半にあったように、神様は私たちを平和な生活を送るために召してくださいました。その平和とは、主イエス・キリストの十字架によって実現した、神様と私たちとの間の平和です。私たちの罪によって破壊されていた神様と私たちとの関係が、御子キリストの十字架による罪の赦しによって回復され、神様と私たちとの間に平和が実現したのです。このキリストによって与えられた平和の内に生きる私たちの存在によって、神様は私たちの家族を、神様の御手の内に置いてくださり、この平和の内に生きるよう招いてくださっているのです。
家族への伝道
しかしだからと言って、私たちは夫や妻に、家族に、大切な人に伝道しなくて良いということではありません。本日の箇所の終わりでこう言われています。「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」。これは、自分の力に頼って家族へ伝道しようとすることへの戒めとしても読めます。家族に何とかして伝道しようとして、力が入ってしまう私たちに、「あなたが救いを与えるのではなく、神様が救いを与えるのだ」と語っているのです。しかし16節は別の訳し方もあります。ある英訳聖書ではこう訳されています。「妻よ、あなたは自分でも知らないうちに、夫を救うことになるかもしれません。夫よ、あなたは自分でも知らないうちに、妻を救うことになるかもしれません」。この訳においても、私たち自身がキリスト者でない妻や夫に救いを与えることができる、と言われているのではありません。救いは御子イエス・キリストとの出会いによって、聖霊の働きによって、父なる神様によって与えられます。しかしそのことにおいて、神様は私たちを用いてくださる。私たちは知らないうちに神様に用いられることがあるのです。このことに信頼して、すでに家族も神様の導きのもとにあることを信じ、私たちは家族に伝道していきます。自分の力に頼り、自分が何とかしなくてはならないと力むのではなく、あるいは自分が何かをしても意味がないとあきらめるのでもなく、神様に委ねつつ、できることをしていくのです。
この礼拝の後、2月定期教会総会が行われ、その中で私たちの教会の「宣教基本方針」の改定が議されます。その改定案の「6.伝道と牧会」にこのような一文があります。「また自分の家族への信仰の継承、家族伝道のために祈り、行動しよう。家族伝道の最大の機会は自分自身の葬儀である」。家族伝道の最大の機会が自分の葬儀であるのは、自分の人生のすべてが神様の御手の内にあり、神様の導きのもとにあったことが証しされるからです。この神様の御手の内に、神様の導きのもとに、私たちの家族がすでに入れられていることを信じ、私たちは家族のためにこれからも祈り続け、できることをしていくのです。