主日礼拝

私たちは神の宮

「私たちは神の宮」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第27編1-14節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第3章16-23節
・ 讃美歌 ; 16、360、475、72(聖餐式)

 
 キリストの土台の上に
 コリントの信徒への手紙一の第3章16節に、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。この16節は15節の続きと言うよりも、むしろ9節の「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」との結びつきが強いと言えるでしょう。「あなたがたは神の建物である」という9節を言い直すようにして、「あなたがたは神の神殿である」と言われているのです。先週読んだ10節以下には、この神の建物あるいは神殿の土台は主イエス・キリストであることが語られていました。この手紙を書いた使徒パウロは、コリントにおいて、自分がその土台を、熟練した建築家のように据えたと言っています。それは先週も申しましたように、パウロの伝道によってコリント教会が誕生したことを言っています。パウロが宣べ伝え、土台として据えた主イエス・キリストは、十字架につけられたキリストです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストこそ、教会の、そしてそこに連なる私たちの人生の確固たる土台であり、私たちはその上に、神の建物、神殿として建て上げられていくのです。

教会は神殿  
 ところでこの16節は、「あなたがたは自分が神の神殿であることを知らないのですか」と訳されていますが、このように訳すと、私たち信仰者一人一人が神の神殿であると思ってしまうかもしれません。然し原文には「自分が」という単数の言葉はありません。「あなたがたは、あなたがたが神の神殿であり、神の霊があなたがたの内に住んでいることを知らないのか」というのが正確な訳です。神の神殿であるのは、信仰者個人ではなくて、「あなたがた」つまり信仰者の群れである教会です。教会こそが神の建物、神の神殿なのです。それは教会堂という建物のことではありません。教会とは建物ではなく、信仰者の群れです。信仰者の群れが神の神殿であるとパウロは言っているのです。それはどういうことなのでしょうか。

神殿は礼拝の場
 このことを正しく理解するためには、聖書における神殿の意味を知らなければなりません。私たちは神殿というと、例えば日本の神社などのように、本殿に何らかのご神体が祭られていて、神様がそこにおられると考えられている建物のことを想像します。しかしイスラエルの神殿はそういうものではありません。ソロモンが建てた最初の神殿の中心部分、至聖所と呼ばれる所には、契約の箱が安置され、その中には十戒の石の板が納められていました。しかしその箱や十戒の板は「ご神体」ではありません。それらを神として拝んだわけではないのです。そこは、主なる神様がご臨在下さり、そこで民と出会って下さる場所です。つまり神殿は神様の住まいではありません。天地を作られた主なる神様は、人間の作った神殿にお住まいにはならないのです。神様がおられるのは天です。地上の神殿は、天の神様がご自分の民と出会って下さる場所、民がそこで神様にお目にかかり、礼拝をすることができる場所なのです。どの宗教においても神殿は礼拝の場所ですが、聖書の教えにおいては、そこで礼拝ができるのは、神様がそこに住んでいるからではなくて、民がそこに集まって礼拝をする時に、そこに神様が臨んで下さるからなのです。聖書において神殿はそのように、神様の恵みによって礼拝が成り立つ場所なのです。信仰者の群れである教会が神の神殿であるということの意味も、そこから分かってきます。神様は、教会の礼拝に親しく臨んで下さり、民と出会って下さり、そのようにしてその集まりを真実の礼拝として成り立たせて下さるのです。教会は、神様によって礼拝の群れとして召し集められています。それゆえに、神の神殿なのです。その土台が十字架につけられた主イエス・キリストです。神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪の赦しのために身代わりとなって十字架にかかって死んで下さった、その救いのみ業によって、私たちは神様のみ前に出て礼拝をすることができるのです。またその礼拝の群れの内に宿り、働いているのが神の霊、聖霊です。聖霊なる神が私たちの内に宿り、導いて下さることによって、私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活を自分のための神の恵みとして信じ、神様を礼拝することができるのです。

神殿を壊すことへの警告
 教会は主イエス・キリストという土台の上に建てられた神の神殿である、そのことをあなたがたは知らないのか、とパウロは言っています。それは、このことをわきまえないで歩んでしまうことへの警告です。その警告は次の17節にはっきりと語られています。「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」。自分たちが神の神殿であることをわきまえずに歩むことによって、神の神殿を破壊してしまうようなことがあってはならないのです。それは私たちに対する警告でもあります。私たちも、主イエス・キリストという土台の上に、神の建物、神の神殿として建て上げられていきます。それは神様がして下さる恵みのみ業であると同時に、私たちに委ねられていることでもあります。先週の箇所にあったように、私たちが、様々な素材を用いて家を建てていくのです。しかし私たちはその建築において、神の神殿を建てるどころか、かえってそれを破壊するようなことをしてしまうことがあるのです。だから私たちは気をつけていなければなりません。神はご自分の神殿を破壊する者に対してお怒りになるのです。神様の怒りを招かないように、自分たちが神の神殿とされていることをしっかりわきまえ、その神殿を正しく建て上げていく努力をしていきたいのです。

神殿の建設のために
 ここで少し本日の聖書の言葉を離れて、私たちが、神の神殿である教会を建て上げるとはどのようなことなのかを考えたいと思います。先程申しましたように、教会は神様を礼拝する群れです。礼拝においてこそ、神の民の群れは神殿として建て上げられていくのです。その建設に私たちが携わるための第一のことは、主の日の礼拝に集うことです。毎週の礼拝に集うことにおいて、私たちは、神の神殿を建設しているのです。礼拝を休めば、その建設はそれだけ遅れます。もしも礼拝に出席しなくなってしまうとしたら、それは、神の神殿の建設の業を放棄することです。建設を放棄するとは、それを妨げること、破壊することです。神の神殿としての教会の建設は礼拝においてなされ、その破壊は、礼拝を重んじないことから始まるのです。勿論それは、病気や老いなどのためにどうしても礼拝に出席できない人が教会を破壊している、ということではありません。そのような人々は、礼拝を思いつつ祈ることでちゃんと神殿建設の業に参加しています。また、礼拝において、それらの人々のことを覚えてとりなしの祈りが捧げられることによって、この礼拝がそれらの人々の支えとなっていくのです。そしてそのとりなしの祈りの中から、先週も行われた「週日聖餐礼拝」のような、介助の奉仕者を募って普段出席できない方々をお招きする礼拝の営みなどがなされていくのです。神の神殿としての教会の建設の業はこのようにして、礼拝を中心としてなされていく、ということを私たちはしっかりと覚えておきたいのです。
 教会を神の神殿として建設していくために大切なもう一つのことをあげておきたいと思います。それは教会における会議です。本日も第一主日で、長老、執事の会議が行われます。長老の会議において、教会の建設の具体的な方向が定められていきます。また執事の会議において、教会における奉仕の業が整えられていきます。教会は、これらの会議の積み重ねによって、そして勿論その会議の決定に基づいて皆が一丸となって奉仕し、力を尽していくことによって建て上げられていきます。これらの会議を軽視することも、神の神殿の建設への妨げ、破壊なのです。

神殿を破壊するもの
 さて本日の箇所に戻りますが、パウロがここで見つめている神殿の破壊は、教会における内輪揉め、党派争いです。コリントの教会にそのようなことが起っていたのです。教会の人々が、ある人は「わたしはパウロにつく」、ある人は「わたしはアポロに」、ある人は「わたしはケファに」と言って党派を結び、お互いに対立し合っていたのです。パウロは1章10節以来ずっとこのことを念頭に置いてこの手紙を書いてきました。あなたがたは神の神殿であると言ったのも、教会の中での党派争いを戒め、神の神殿を破壊するつもりか、と警告するためだったのです。

自分を欺く
 このような党派争いは何故起るのでしょうか。その原因が18節以下に示されていきます。18節に「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」とあります。党派争いが起るのは、自分を欺いているからだとパウロは言うのです。自分を欺くとは、「自分はこの世で知恵のある者だと考えている」ということです。コリント教会における党派争いは、「自分を知恵ある者と考えている」ことが根本的原因だったのです。およそ、対立、争いの根本には必ずこの思いがあると言うことができます。「いや私は自分が知恵ある者だなどとは思っていない、むしろ全く知恵の足りない者だから、もっと知恵を得たい、求めたいと願っているのだ」という謙遜は無意味です。コリント教会の人々もそう考えていました。それで彼らは、知恵を与えてくれそうなある指導者と結びついていったのです。ある人はパウロに、ある人はアポロに、ある人はケファにです。どの人も立派な、大変優れた指導者でした。そういう人と結びついて知恵を得よう、より優れた者、より立派な信者になろうとしたのです。党派はそうして生まれました。そしていつしか、自分たちの方があのグループよりも優れた知恵を持っている、と誇り合うようになったのです。ですから、自分は知恵のない愚かな者です、と謙遜してさえいれば「自分を欺く」ことにならないということはありません。「知恵がないから知恵が欲しい」という思いと、「自分は知恵ある者だと誇る」という思いは、実は紙一重なのです。あるいはそれはコインの表と裏のようなものなのです。普段は表が見えていても、ひっくり返せば裏が表れる、それは実は一つのコインなのです。

愚かな者になれ
 知恵を求め、知恵ある者となって自分を誇ろうとする思いこそが、神の神殿を破壊する元凶です。それではどうすればよいのか。「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」とパウロは勧めています。本当に知恵のある者となるためには、愚かな者にならなければならないと言うのです。それは、人間の知恵から見れば愚かなことの中にこそ、神の知恵、本当の知恵があるからです。そのことはこの手紙において既に何度も繰り返し語られてきました。代表的な箇所は1章18節以下です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。ここに示されているように、この愚かさは、十字架につけられたキリストの愚かさです。キリストの十字架は、人間の知恵から見れば愚かなものに見えるのです。キリストの十字架の死を自分のための救いの業と信じるなどということはまことに愚かなことに思われるのです。なぜなら、それを信じることによって自分が向上したり、立派になるわけではないからです。むしろそれを信じることは、自分がどうしようもない罪人であることを認め、キリストの十字架の死によらなければその罪が赦されないと認めることなのです。「愚かな者になりなさい」というのは、このことを受け入れなさい、ということです。人間の知恵はそれを好みません。十字架につけられたキリストではなく、もっと自分を向上させてくれるようなキリストを信じた方がいい、キリストを模範にして、その教えに従って努力していくことで自分が次第に立派になっていくことができるという信仰の方がよい、それが、人間の知恵の考えることなのです。コリント教会の人々も、そういうキリストを求めました。そのために十字架につけられたキリストを見失ってしまったのです。するとそこに、党派争いが生まれたのです。十字架のキリストにのみ依り頼んで愚かな者になるのではなく、賢い、知恵ある者となろうとしたところに、神の神殿を破壊する仲間割れ、党派争いが生じて来たのです。

すべてはあなたがたのもの
 パウロは19節で、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだ」と言っています。人間が努力して、自分を向上させ、立派な者、知恵ある者となっていこうとすることは、神様の前では愚かなことなのです。それは何故でしょうか。そんな努力をしたって、どうせたかが知れている、人間はいくらがんばったところで、本当に知恵ある者などにはなれないのだ、ということでしょうか。そうではありません。21節以下を読むことによって、パウロが何を考えているのかがわかります。そこに「だれも人間を誇ってはなりません」という教えに続いて、「すべてはあなたがたのものです」と言われています。コリント教会の人々は、パウロとかアポロとかケファという人間の指導者との結びつきを誇っていました。パウロはそのように人間を誇っている彼らに、「そんな誇りには何の意味もない、おまえたちには誇るべきものなどないのだ」と言うのではなくて、「すべてはあなたがたのものだ」と言うのです。22節には「パウロもアポロもケファも」と言われていきます。つまり、あなたがたはある一人の指導者との関係を誇り、他の指導者につく者と対立し合っているが、あなたがたにはそれらの指導者の全員が、いやさらには全てのものが与えられているのだ、というのです。信仰者には、すべてのものが与えられている。それは、全てのものが自分の自由になる所有物となっているということではありません。この言葉の意味を最もよく表しているのは、ローマの信徒への手紙第8章28節であると言えます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。イエス・キリストを信じ、教会に連なっている信仰者には、苦しみや嘆きも含めて全てのことが、益となるように共に働く、それが、すべてのものが与えられているということです。パウロやアポロやケファという、それぞれに違った賜物を与えられている指導者たちの内の誰か一人だけが自分の益となるのではなくて、みんながあなたがたの信仰の益となっている、それなのに、与えられているもののほんの一部だけをとりだしてきて、それを誇ることに意味があるか、とパウロは言っているのです。つまりパウロは、この世の知恵を誇り、人間を誇っている者の誇りを打ち砕くのではなくて、実はあなたがたにはもっともっと大きな恵みが与えられているのだ、ということを示そうとしているのです。あなたがたにはすべてが与えられている。それは、神様が、主イエス・キリストの十字架の死と復活とによって、あなたがたを完全な恵みの内に入れて下さっているということです。先程読んだローマの信徒への手紙第8章の先の方、37節以下を読んでみたいと思います。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。こういう恵みがあなたがたには与えられている。この恵みを見つめるならば、あなたがたが求め、また誇っているこの世の知恵、ある指導者と結びついて、自分がより高く、立派なものになっていこうとすることなどは、何ほどのこともないではないか、主イエス・キリストを信じる信仰によって、神の建物、神殿である教会に加えられている者は、自分が努力してよい者、立派な者になるよりも前に、この世の何者によっても引き離されることのない神様の全き恵みの内に入れられているのだ、とパウロは言っているのです。

あなたがたはキリストのもの
 一切はあなたがたのもの、というこの恵みは、23節の「あなたがたはキリストのもの」ということと表裏一体です。私たちが主イエス・キリストのものとなる時に、万事が益となるという恵みが与えられるのです。私たちが受ける洗礼はそれを表しています。洗礼を受けることによって、私たちは主イエス・キリストのものとなるのです。それによって、「一切はあなたがたのもの」という恵みの内に生かされていくのです。そしてそのキリストは神のものです。神から遣わされた独り子なる救い主です。私たちは、このキリストのものとなることによって、神のもの、神の民となるのです。そして十字架につけられ、復活されたイエス・キリストという土台の上に、神の建物、神殿として建て上げられていくのです。主イエス・キリストのものとされた民の群れである教会は神の宮、神殿です。そこに連なって生きる者の幸いが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第27編に歌われています。その4~6節を読みます。

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り
 主を仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。
 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう」

 神の宮、神殿に連なる者とされている私たちは、このような幸いの中にいるのです。この幸いを味わうために、聖餐の食卓が備えられているのです。私たちのちっぽけな誇りが、人間のこざかしい知恵が、この幸いを破壊してしまうことがないように、「すべてはあなたがたのもの」と言って下さる主の恵みの内にしっかりと留まって歩み続けたいのです。

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