説教「あなたの居場所」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第43章1-7節
新約聖書 ルカによる福音書第2章1-7節
クリスマスを迎えても喜べない
待降節(アドヴェント)第四の主の日の夕べを迎えました。主イエス・キリストの降誕日は25日ですけれども、25日が日曜日でなければ、その直前の日曜日に私たちの教会はクリスマス礼拝を守っています。本日の午前には主日礼拝がクリスマス礼拝として守られ、そこでは二名の方が洗礼を受けられ、その二名の方と共に聖餐にあずかりました。この夕礼拝でも、御子イエス・キリストの誕生を告げる聖書のみ言葉に聞き、聖餐にあずかります。そのことを通して私たちは御子の誕生を祝い、クリスマスの喜びに豊かにあずかりたいのです。
しかしクリスマスの喜びとは、一体、どのような喜びなのでしょうか。恋人と一緒に過ごす喜びでしょうか。気のおけない友人や仲間と楽しい時間を過ごす喜びでしょうか。イルミネーションに彩られた街で、美味しいディナーをいただいたり、プレゼントをもらったりあげたりする喜びでしょうか。そのような喜びがあってよいと思います。そのような喜びは、クリスマスの本当の喜びではない、と目くじら立てることはない、と私は思います。しかし、私たちが忘れてはならないことがあります。それは、このクリスマスに、そのような喜びをまったく喜べない方々がいる、喜びたくても喜べない方々がいる、ということです。
自分の居場所がない
クリスマスが近づき、世の中がクリスマスムード一色になる中で、特に思い起こされることがあります。それは、日本の社会で自ら命を絶つ方が決して少なくない、ということです。統計によれば日本の自殺者の数は20年前頃が最も多く、それから徐々に減ってきています。それでも年間20,000人もの方々が、つまり30分に一人が自ら命を絶っています。その要因は様々であり、複数の要因が重なり合うこともあります。しかし重要な要因の一つとして「孤立」があります。別の言い方をすれば、自分の居場所がない、ということです。クリスマスを迎えても孤立し、自分の居場所がなく、喜べない方がいらっしゃるに違いない。もしかしたらここに集っている私たちの中にもいるかもしれない。あるいはかつてそうであったかもしれないし、これからそうなるかもしれません。クリスマスの喜びは、孤立し、自分の居場所がない人たちには関係のないものなのでしょうか。そうではないはずです。そのことを、私たちは本日の箇所、ルカによる福音書2章1~7節が語る、御子イエスの誕生の出来事から示されていきたいと思います。最初のクリスマスに立ち合ったのは、むしろ自分の居場所がなかった人たちなのです。
皇帝アウグストゥスの勅令
冒頭1、2節にこのようにあります。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」。アウグストゥスはローマ帝国初代の皇帝で、紀元前27年から紀元後14年までその地位にあり、その強大な権力によって、「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」を築きました。当時のローマ帝国では、多くの人々はアウグストゥスこそが世界の主、救い主、神の子、と思っていたのです。このようにルカ福音書は主イエスの誕生を、当時のローマ帝国皇帝の命令から語り始めます。皇帝にとって帝国を統治し、パクス・ロマーナを維持するために、帝国の領土の住民登録を行うことは、当然のことであったでしょう。ユダヤにおいても税金を徴収するためには、住民を把握する必要がありました。強大な権力を支えるためには、安定的な財政基盤が必要なのは昔も今も変わらないのです。
すべての人に関わる世界史的な出来事
この箇所について、ルカ福音書の歴史記述は正確ではない、と指摘されることがあります。一つだけ取り上げるならば、キリニウスがシリア州の総督であったのは主イエスの誕生より後の時代で、そのときに住民登録をした記録は残っているけれど、それより以前に住民登録をした記録は残っていない、と指摘されます。そうなのかもしれません。しかし記録に残っていないことはすべてなかった、とまでは言えないでしょう。なによりルカ福音書は単に歴史を記述しようとしているのではなく、御子イエスの誕生を世界史の枠の中で語ろうとしています。御子イエスの誕生が、メシア(救い主)を待ち望んできたイスラエルの人たちだけに関わることではなく、すべての人に関わる世界史的な出来事であることを語ろうとしているのです。ルカ福音書の歴史記述について色々な議論があるとしても、当時、強大な権力によって皇帝アウグストゥスがパクス・ロマーナを築いていたことは紛れもない事実です。その時代に皇帝の勅令をきっかけにして、すべての人に関わる出来事が、誰にも知られることなく動き始めていたのです。
ナザレで暮らす二人
それは、帝国の片隅で動き始めました。ガリラヤの田舎町ナザレで暮らしていたヨセフは、この皇帝の命令によって、自分の祖先の町であるユダヤのベツレヘムに行かなくてはならなくなりました。ヨセフが「ダビデの家に属し、その血筋であったので」(4節)、ダビデの町ベツレヘムで住民登録しなくてはならなくなったのです。このときヨセフの婚約者マリアは聖霊によって身ごもっていました。当時のユダヤの社会では、婚約は法的には夫婦となることを意味しましたが、婚約の期間は性的な関係を持つことはなかったので、マリアの妊娠は、当初ヨセフに大きな葛藤をもたらしました。マリアが自分以外の男性と関係を持ち、子どもを身ごもったとしか思えなかったからです。このことがほかの人に知られれば、マリアは姦通の罪によって裁かれる可能性もありました。それを望まなかったヨセフは、ひそかに離婚しようとしたのです。しかしそのとき天使がヨセフに、マリアは聖霊によって身ごもったのだから、恐れずマリアを迎え入れなさい、と告げました。ヨセフはこの天使の言葉を信じ、マリアを迎え入れました。マリアも自分を受け入れてくれたヨセフに信頼し、二人はナザレで暮らしていたのです。このときマリアは10代であったようです。10代で初めての妊娠ですから、大変なことがたくさんあったはずです。しかしマリアとヨセフは助け合い、支え合いながら、出産に備えてナザレで暮らしていたのです。
ナザレに居場所がない二人
ところが皇帝アウグストゥスの勅令は、そのような二人の生活を一変させ、人生の計画の変更をもたらしました。ヨセフには、住民登録をしない、という選択肢はありません。皇帝の勅令に背けるはずがなかったからです。しかし住民登録をするためには、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで行かなくてはなりません。その距離110キロメートルほど。大人の足で4~5日かかります。そうなるとナザレを10日ほど空けなくてはなりません。当時の住民登録は、家長が代表して行えば良かったようですから、マリアが一緒に行く必要はありませんでした。しかし5節では、このように言われています。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」。なぜヨセフとマリアは一緒にベツレヘムへ向かったのでしょうか。片時も離れたくなかった、というような甘い話ではありません。マリアは身ごもっていたし、ベツレヘムに着くと出産していますから、すでに臨月だったはずです。マリアとお腹の子の安全を考えるなら、マリアと一緒にベツレヘムへ行くのは避けたいことでした。普通ならヨセフが不在の間にマリアが出産することになっても、安心して出産できるように、二人の実家を頼るはずです。たとえ実家を頼れなかったとしても、小さな町ですから、ご近所の人たちを頼れたはずです。しかしどちらの選択肢もヨセフとマリアにはなかったようです。聖書はその理由を何も語っていません。しかし想像することはできます。二人がナザレで、家族にも、ほかの人たちにも頼ることができなかったのは、マリアの妊娠が周囲の人たちから疑いの目で見られていたからだと思います。村の人たちは婚約期間中にマリアが妊娠したことに気づいていたはずです。当然、マリアの姦通を疑い、姦通の罪を犯したかもしれないマリアと、そのマリアを受け入れたヨセフと関わろうとしませんでした。ヨセフとマリアは、ナザレで孤立していたのです。それでも二人は力を合わせて、支え合いながら、これまで出産に備えつつ暮らしていました。しかしヨセフがベツレヘムに行かなくてはならなくなった。かといってマリアだけがナザレに残るわけにもいきません。ヨセフがいない間にマリアが出産することになっても、誰も助けてくれないかもしれないからです。それどころか姦通の罪を問われるかもしれません。それでヨセフとマリアは一緒にベツレヘムへ向かうことを決断しました。当時の旅は、今と比べて危険が伴いました。しかも臨月のマリアには、歩くにしてもロバに乗るにしても大きな負担です。それでも二人は、ベツレヘムに向かうしかなかった。ナザレに二人の居場所がなかったからです。
社会に居場所がない私たち
この二人の姿に、この社会に自分の居場所がないように思える私たちの姿を見ることができるのではないでしょうか。二人がナザレに居場所がなかったように、私たちも家庭や学校や職場に自分の居場所がないように感じることがあります。家族がいても、家族との関係が壊れてしまっていて、家庭の中で孤立してしまうことがあります。学校で仲が良かった人との関係が壊れて孤立することがあり、多くの人に囲まれていても孤立することがあります。職場で、生き馬の目を抜くような環境の中で、同僚に心を許すことができず、むしろ上司や同僚の視線に怯え、孤立してしまうことがあります。せめて学校と家庭、職場と家庭のどちらかに自分の居場所があればよいのですが、そうでないこともあります。そのようなとき私たちは、この社会に自分の居場所がないように感じずにはいられないのです。
ベツレヘムにも居場所がない二人
ナザレに居場所のなかった二人が、6日ほどの危険な旅をして、ベツレヘムに着いたとき、そこに二人の居場所はあったのでしょうか。そうではありませんでした。6~7節でこのように言われています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。二人は無事にベツレヘムに着きましが、そこでマリアはいよいよ産気づきます。しかし「宿屋には彼らの泊まる場所」がありませんでした。原文には「泊まる」という言葉はありません。「宿屋には彼らの場所がなかった」と言われているだけです。それは、宿屋にはマリアが出産できる場所がなかった、ということでしょう。だからマリアは家畜小屋で、「初めての子を産み」ました。生まれた子を、用意していた産着にくるんで、「飼い葉桶に寝かせた」のです。家畜小屋は、人が子どもを産む場所ではありません。そこに、ベツレヘムにおいても孤立し、自分の居場所がない二人の姿を見ることができます。ヨセフとマリアはナザレだけでなく、ベツレヘムにも自分の居場所がなかったのです。しかしナザレにもベツレヘムにも、つまりこの社会に自分の居場所がない二人によって、御子イエスは誕生しました。この二人によって、世界の片隅で、しかも家畜小屋で、誰にも知られずに、すべての人に関わる世界史的な出来事が起こったのです。
この世に居場所がない御子イエス
けれどもこの出来事において、本当にこの世に居場所がなかったのは、お生まれになった御子イエス、その方です。御子イエスは「飼い葉桶」に寝かされました。「飼い葉桶」とは、家畜の飼料、家畜の餌を入れるところです。家畜はそこに首を突っ込んで餌を食べます。ですから「飼い葉桶」は家畜のよだれにまみれ、汚れていたに違いありません。そこに御子イエスは寝かされた。そこにしか居場所がなかったからです。この世に御子イエスの居場所がなかったからです。それは、この世が、私たち人間が御子イエスを拒み、排除したということにほかなりません。そのようにして飼い葉桶に寝かされた御子イエスが、十字架で死なれました。飼い葉桶の先には十字架があります。家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた御子イエスは、私たち人間によって拒まれ、排除されて、ついに十字架につけられて殺されたのです。
御子イエスを拒む私たちのために
私たちは確かに、家庭や学校や職場で孤立し、この社会に自分の居場所がない、と感じることがあります。そのために本当につらく、苦しく、悲しい思いをします。しかしそのように自分の居場所がないと感じている私たち自身が、実は私たちに本当の居場所を与える方を拒んでいるのではないでしょうか。たとえこの社会に自分の居場所がないように思えても、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされ、十字架で死なれた御子イエスによって私たちに与えられる本当の居場所があります。しかし私たちは、その御子イエスを拒みます。何故でしょうか。自分が自分の人生の主人でありたいからです。自分の人生を自分で握りしめていたいからです。御子イエスを受け入れるとは、それまでの生き方から180度転換することです。自分が自分の人生の主人であることをやめて、御子イエスを自分の人生の主人として生き始めることです。それは、自分の人生を御子イエスに明け渡し、委ねることにほかなりません。しかし私たちは、それができません。自分が自分の人生の主人であり続けようとするのです。それが、私たちの罪にほかならないのです。
しかし御子イエスは、そのような私たちのために、この世に居場所のない者として生まれてくださり、十字架で死んでくださいました。御子イエスは、ご自分を受け入れる者のためではなく、ご自分を拒み、十字架につける者のために、つまり私たちのために、家畜小屋で生まれてくださり、十字架で死んでくださり、私たちの罪を赦して、私たちに本当の居場所を与えてくださったのです。
本当の居場所
御子イエスによって私たちに与えられている本当の居場所、それはどのような居場所なのでしょうか。それが、共に読まれた旧約聖書イザヤ書43章1節以下で見つめられています。3、4節でこのように言われています。「わたしは主、あなたの神 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする」。「エジプト」とか「クシュ」とか「セバ」は国の名前です。それらの国々を代償として、神様は私たちを救ってくださる、と告げられています。いえ、国々を代償としてくださったどころではありません。神様は独り子イエスの命を代償としてまで、私たちを救ってくださったのです。神様が私たちを愛してくださっているからです。神様の目に私たちは価高く、貴いからです。御子イエスを拒み、この世から排除し、自分の人生からも排除しようとする私たちを、なお神様は愛してくださり、「わたしの目にあなたは価高い、貴い」とおっしゃってくださり、御子イエスの十字架と復活によって救ってくださったのです。
その御子イエスによる救いにあずかって生きる私たちに与えられている神様の約束が、5節冒頭にあります。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」。2節でもこのように約束されています。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない」。神様は私たちに、「わたしはあなたと共にいる」と言われます。神様が共にいてくださる。これこそ御子イエスによって与えられている私たちの本当の居場所です。私たちの人生には多くの苦難があります。孤立してこの社会に自分の居場所がないように思えるときもあります。しかし苦難の中にあっても、孤立しているように思えるときも、神様が共にいてくださるから、私たちは恐れなくてよいのです。たとえ大河の中を通るような困難に直面するときも、神様が共にいてくださるから、私たちはその困難にのみ込まれてしまうことがありません。私たちの困難を、苦しみや悲しみを、神様が、御子イエスが共に担ってくださるからです。たとえ火の中を歩むような、死の力に脅かされるようなときも、神様が共にいてくださるから、私たちはその死の力によって滅ぼされることはありません。この地上の生涯で死を迎えても、その先で、神様が私たちを復活させ永遠の命にあずからせてくださるからです。
1節に、神様が御子イエスによって私たちに宣言してくださっている、大切な言葉があります。「あなたはわたしのもの」。私たちは神様のものとされています。この世に居場所を持たず、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた御子イエスが、十字架と復活によって私たちに与えてくださったのは、「私たちが神様のものとされている」、ということにほかなりません。私たちが神様のものとされたこと。それが私たちの本当の居場所、決して失われることのない居場所です。私たちが自分で自分の居場所を作ったのではありません。神様が御子イエスによって、私たちをご自分のものとしてくださり、私たちに本当の居場所を与えてくださったのです。神様のもとされ、神様と共に生きる。ここに私たちの本当の居場所があります。ここにクリスマスを迎えても孤立していて、この社会に自分の居場所がないように思えるすべての人の本当の居場所があるのです。そのために御子イエスはお生まれくださった。決してアウグストゥスが与えることのできないものを私たちに与えるために、お生まれくださったのです。
神と共に生きる人たちと共に
神様のものとされ、神様と共に生きるとき、私たちは自分と神様だけの関係に生きるのではありません。自分と同じように神様のものとされ、神様と共に生きる人たちと共に生きます。マリアとヨセフは、確かにナザレでもベツレヘムでも孤立していました。皇帝の勅令という抗うことのできない力によって、人生の計画を変更して、旅に出なければなりませんでした。しかし二人は、本当は孤立していたわけでも、居場所がなかったわけでもありません。二人で一緒にいたからではなく、二人の中心にマリアのお腹の中の御子イエスがいたからです。御子イエスと共に旅するマリアとヨセフの姿こそ、教会の原型です。私たちは一人で旅をするのではありません。御子イエスによって神様のものとされた教会の仲間と共に歩んでいくのです。その歩みに神様が共にいてくださり、抗うことのできない力で計画を変更しなければならないようなときも、先行きの見えない旅に出かけるときも、私たちを導き、支え、守ってくださるのです。
あなたの居場所
これから聖餐にあずかります。この聖餐こそ、私たちの本当の居場所です。聖餐において私たちは、御子イエスの十字架と復活による救いによって、私たちが神様のものとされ、神様と共に生かされていることを体全体で味わうことができるからです。本日の主日礼拝で洗礼を受けたお二人は、教会のメンバーとされ、この聖餐にあずかりつつ生きる者とされました。本当の居場所を与えられたのです。
ここに本当の居場所があります。ここにあなたの居場所があります。ここにだけ、どのような苦難の中にあっても決して失われない、あなたの居場所があるのです。ほかならぬあなたに、この本当の居場所を与えるために、御子イエスは家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされ、十字架で死なれたのです。