主日礼拝

主イエスの教えとみ業

説教題「主イエスの教えとみ業」
旧約聖書 イザヤ書第35章1-10節
新約聖書 マタイによる福音書第9章32-35節

主イエスのなさった数々の奇跡
 マタイによる福音書の8章と9章には、主イエス・キリストがなさった様々な奇跡がまとめて語られています。先ずそれをふりかえって見たいと思うのですが、8章の始めには、重い皮膚病を患っていた人の癒しが先ず語られていました。8章5節以下には、中風で寝込んでいた百人隊長の僕の癒しが、14節以下には、弟子のペトロのしゅうとめの熱病の癒し、そしてそこに連れられてきた多くの悪霊に取りつかれた人が皆癒されたことが語られていました。23節以下には、ガリラヤ湖の嵐を鎮めた奇跡が、28節以下には、ガダラ人の地方で、悪霊に取り付かれた二人の人から悪霊を追い出したことが語られていました。9章に入ると、友人たちによって床に寝かせたまま連れてこられた中風の人の癒しがあり、9節以下には徴税人マタイが主イエスの弟子になったことが語られていました。徴税人マタイが、「わたしに従いなさい」という一言で主イエスに従って行ったというのも、一種の奇跡であると言えるでしょう。18節以下には、十二年間出血が止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しと、死んでしまった少女を生き返らせる奇跡とがセットになって語られていました。27節以下には、二人の盲人の目を開く奇跡が、そして本日の32節以下には、悪霊に取りつかれて口が利けない人が癒されてものを言い始めた奇跡が語られています。このように8章9章には数多くの癒しのみ業、奇跡が語られています。その全体をまとめているのが、本日のところの35節です。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」、主イエスのみ業のまとめの部分を本日私たちは読むのです。

イザヤの預言の実現
 その数々の奇跡の最後に語られているのは、32節以下の、悪霊に取りつかれて口の利けない人の癒しです。33節には、それを見た人々の反応が語られています。「群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った」のです。この反応は、口の利けなかった人の癒しだけによって起ったものではないでしょう。「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」主イエスのみ業の全体に対する人々の反応がここに記されているのです。人々は主イエスの数々の奇跡を見て、驚嘆して「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言ったのです。まさに前代未聞のすばらしいみ業が、主イエスによってなされたのです。彼らはただ奇跡に驚いたのではありません。「イスラエルで」と言われていることに意味があるのです。イスラエルは主なる神に選ばれた神の民です。そのイスラエルにおいて、このようなすばらしいみ業が行われた。それは、本日共に読まれたイザヤ書第35章に預言されていた神の救いがいよいよ実現し始めたということです。その5、6節にこうあります。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。ここに語られている様々な癒しのみ業が、主イエスによって実現したのです。これらの癒しの最後が、「口の利けなかった人が喜び歌う」であることは、8章9章の一連の癒しの最後が、本日の箇所の、口の利けない人の癒しであることと重なっています。人々は主イエスの癒しのみ業に、このイザヤの預言の実現を見たのです。つまり主イエスによって、いよいよ、イザヤが預言した「そのとき」が来たことを感じたのです。「そのとき」とは、主なる神がイスラエルを救って下さる時、イザヤ書35章の最後の10節にある「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」ということが実現する時です。人々は、主イエスの数々の奇跡に、イザヤが預言した主なる神によるイスラエルの救いの始まりを感じたのです。

全く反対の反応
 しかしここには、全く別の反応もあったことが語られています。34節に、「しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った」とあります。主イエスが悪霊を追い出して癒しを行っているのは、自分が悪霊の頭だからだ、悪霊が主イエスの命令に従うのは、暴力団の親分の命令に子分が従っているようなものだ、と彼らは言ったのです。つまり、主イエスが行なっている癒しの奇跡は、神のみ業ではない、これはイザヤが預言した救いの実現ではない、ということです。これも、これまでに語られてきた主イエスのみ業全体に対する反応です。つまり主イエスの癒しのみ業を語る部分のしめくくりである本日の箇所には、そのみ業に対する正反対の二つの反応が記されているのです。

主イエスのみ業をどう受け止めるかが問われている
ここには、私たちの信仰にとってとても大事なことがいくつか示されています。第一は、主イエスの奇跡を実際に見たり体験すれば信じることができる、というものではない、ということです。私たちは、聖書に語られている様々な奇跡を読む時、ともすれば、「こんなことを実際に見たり体験したら、自分もイエス様を、神様を信じることができるのに」と思うことがあります。しかしそんなことはないのです。主イエスの奇跡を実際に見た人々が、このように全く正反対の反応を示しているのです。奇跡を見れば信仰が生まれるわけではありません。そしてここに教えられている第二のことは、この第一のこととつながっているのですが、要するに、主イエスのみ業をどう受け止めるかが私たち一人ひとりに問われている、ということです。ここに語られている正反対の反応の内、どちらに組するか、それは私たち次第なのです。群衆たちと共に、主イエスのみ業に、神の救いの実現を見るか、それともファリサイ派の人々のように、それは神のみ業ではないと拒否するか、そのことを私たちは問われているのです。この問いにどう答えるかによって、私たちは、信じる者になるか、信じない者になるか、どちらかに分けられるのです。ファリサイ派の人々に組して、主イエスのみ業が神によるものではないとして拒否するというのは、イエスは「悪霊の頭」だ、と考えることだけではありません。イエスは「超能力者」だったのだと考える人もいるかもしれません。あるいは、もともとこんな奇跡はなかったのであって、これらの話は、教会がイエスを神の子であると信じさせるためにでっちあげたものだ、と考える人もいます。そこまでは言わないとしても、イエスが救い主だと信じた人々の願望からこのような話が生まれたのだ、と考える人もいるでしょう。いずれにせよ、主イエスのみ業に神の救いを見るのではなくて、他の何かを見るなら、それはファリサイ派の人々に組していることなのです。

わたしにつまずかない人は幸である
 主イエスのみ業に神の救いを見るか否か、という問いの前に立たされた人のことが、この福音書の11章に語られています。これから読む所の先取りになりますが、そこを見ておきたいと思います。11章2節以下です。そこには、洗礼者ヨハネが、獄中から人を遣わして主イエスに質問をしたことが語られています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という質問です。ヨハネ自身が予告していた「来るべき方」、つまり救い主はあなた、イエスなのか、それともそうではないのか、という問いです。この問いに対して主イエスは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいました。ここにも、8章9章に語られている主イエスの癒しのみ業が並べられています。主イエスはヨハネにこれらのみ業を示して、あなたはこれらの私の業をどう受け止めるのか、と逆に問われたのです。この問いが、私たち一人ひとりにも投げかけられています。「わたしにつまずかない人は幸いである」というみ言葉は、私たちに向けても語られているのです。

御国の福音を宣べ伝え
 この主イエスの問いかけにどう答えるかによって、私たちは、信じる者となるか、信じない者となるか、二つに分けられると申しました。そこにはどんな違いが生じていくのでしょうか。主イエスのみ業に神の救いを見るのと、そうでないのでは、私たちの歩みはどのように違ってくるのでしょうか。そのことを、先ほどの35節から読み取ることができると思うのです。35節をもう一度読みます。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。これは8章9章の癒しのみ業のまとめだと先ほど申しました。「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という所は確かにそうです。しかしここには「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」とも語られています。つまり主イエスが町々村々で教えを語られたこともここには見つめられているのです。そして実はこの35節と対になっている文章が、ずっと以前に読んだ所にありました。それは4章23節です。そこにはこうありました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。9章35節とほとんど同じことがここに語られていたのです。この4章23節と9章35節は対になっていると言えます。そしてこれはマタイ福音書によく出て来る書き方なのですが、このように対になっている二つの節が枠となって、あるいは額縁のようになって、それに挟まれた部分が一つのまとまりであることが示され、またこの額縁がその中で語られていることのまとめとなっているのです。つまり、この二つの節に挟まれている5章~9章が一つのまとまりであり、その内容のまとめがこの二つの節なのです。5章~9章は明らかに二つの部分に分けられます。5章~7章は、いわゆる「山上の説教」と呼ばれる、主イエスの教えを語っている部分です。そして8章9章は、これまで見てきたように、主イエスのみ業を語っている部分です。そういう二つの部分からなる5章~9章の内容のまとめが、あの二つの節なのです。つまり、本日の35節で言えば、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」が、5章~7章の「山上の説教」を指しており、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」が、8章9章を指しているのです。つまり35節は、8章9章における主イエスのみ業のまとめであるだけでなく、5章~7章の山上の説教における主イエスの教えのまとめでもあるのです。そして4章23節と9章35節という額縁によって、山上の説教における主イエスの教えと、8章9章の主イエスの奇跡のみ業とが一つのまとまりを持った絵であることが示されているのです。

あなたがたの天の父
35節は、主イエスが「御国の福音」を宣べ伝えた、と語っています。山上の説教の全体が「御国の福音」と呼ばれているのです。「御国」とは神の国であり、それは神のご支配という意味です。マタイはそれを「天の国」と言っています。それがまさに山上の説教の中心的なテーマでした。山上の説教の最初の教えは5章3節の「こころの貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」です。山上の説教は、天の国、神のご支配があなたたちに与えられるのだと告げ知らせていたのです。その神のご支配は、主イエスによってこそ実現します。主イエスは、旧約聖書の教えである律法や預言者を完成するために来られた方であり、律法学者たちのように律法の権威によってではなく、ご自身が権威を持っておられる方として、律法を完成させる教えを、言い換えれば主なる神が律法によってご自分の民に本当に求めておられることは何かを告げ知らせたのです。その主イエスが山上の説教において何度も繰り返し語られたのは、「あなたがたの天の父」という言葉でした。神はあなたがたの天の父であられる、あなたがたを、父として愛し、養い、守り、導いていて下さる。父である神はあなたがたが願い求める前から、あなたがたに必要なものをちゃんとご存じであり、必要な時にそれを与えて下さる。だからその父なる神に信頼して、何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むことなく歩みなさい、と教えられたのです。山上の説教の中心は「主の祈り」です。言葉数多く祈らなければ聞いてくれない、何度もしつこく祈り求めなければ動いてくれない、そんな疎遠な神しか知らない異邦人たちの祈りとは違って、あなたがたは、「天におられるわたしたちの父よ」と祈ることができる。その父なる神が、自分のことを子として愛していて下さり、本当に必要なものを必要な時に与えて下さることを知っているのだから、あなたがたは、自分のことをいろいろ願うより前に、「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が行われますように」と祈ることができる。そのように祈って天の父なる神と共に生きなさい、と主イエスは教えて下さったのです。本来、神を「父よ」と呼ぶことができるのは、独り子であられる主イエスお一人だけです。しかしその主イエスが、人間となってこの世に来て下さり、十字架の死と復活による救いを実現して下さり、その救いへと私たちを招いて下さって、「私の父はあなたがたの天の父でもある、あなたがたも私と共にこの父を、天の父と呼んで祈ることができる。この神の子として生きることができる」と教えて下さったのです。これが「御国の福音」です。この福音、救いの知らせ、喜びの知らせを、主イエスは私たちに告げ、もたらして下さったのです。

主イエスの深い憐れみ
 主イエスの癒しのみ業は、この「御国の福音」を目に見える仕方で表すものとしてなされたのです。主イエスの数々の奇跡は、神の子としての力を示して人々を従わせるためになされたのではありません。様々な病気や患いによって、苦しみや悲しみにうちひしがれ、力を失い、立ち上がることができずにいる人々を、主イエスは深く憐れんで下さったのです。本日は35節までを読みましたが、次の36節にそのことが語られています。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。その深い憐れみのみ心を示すために、主イエスは癒しのみ業をなさったのです。主イエスは、苦しみ悲しみの中にある者に、神があなたがたの天の父となって下さったという御国の福音を告げ知らせ、その天の父なる神の憐れみを具体的に現すために、癒しのみ業を行って下さったのです。

大きな違い
35節が私たちに示しているのは、主イエスの癒しのみ業に神の救いを見ることは、主イエスの教えに「御国の福音」を聞くことと一つだ、ということです。主イエスは「御国の福音」を告げ知らせると共に、癒しのみ業を行って下さることによって、私たちに対する神の深い憐れみのみ心を示して下さったのです。私たちに問われているのは、このことを信じて生きるのか、それともそれを信じないで生きるのか、ということです。そこには大きな違いが生じます。私たちの天の父となって下さり、父として愛して下さっている神に、「天の父よ」と呼びかけて祈りつつ生きるのか、そういう天の父の存在を否定して生きるのか、という違いです。様々な困難があり、苦しみや悲しみのある人生を、「天の父よ」と祈りつつ、父として愛して下さっている神に委ねて生きることができることは、まことに幸いなことです。天の父なる神を知らないで生きるならば、人生の全てのことは自分の力によって何とかしなければならないことになります。「御国の福音」を信じて生きるのとそうでないのとでは、その歩みは天と地ほどに違うものとなるのです。

御国の福音を聞き、み業を体験して生きる
私たちは毎週の礼拝において、「御国の福音」を聞いています。それを聞きつつ生きている私たちは、ありとあらゆる病気や患いを癒されたという主イエスのみ業をも体験していくのです。それは、病気になっても治るとか、死んだ者が生き返るというような奇跡が起こるということでは必ずしもありません。しかし、苦しみ悲しみの中で力を失っている者が、主イエスの恵みによって慰められ、力づけられ、起き上がって自分の足で立って歩くことができるようになる、ということが起こるのです。心の目がふさがれていた者が、信仰の目を開かれ、神の愛と憐れみを見つめて生きるようになるということが起こるのです。心に重くのしかかっている苦しみのゆえに言葉を失ってしまっている者が、神の恵みに感謝し、神をほめたたえる新しい言葉を与えられる、ということが起こるのです。自らの罪の中に座り込んで心を閉ざしていた者が、「わたしに従いなさい」という主イエスの招きを受けて立ち上り、主イエスに従う者となることが起こるのです。そのようにして、私たち一人一人も、主イエスによる癒しのみ業、奇跡を体験していくのです。また主イエスは、私たちの先頭に立って舟に乗り込み、漕ぎ出されます。私たちは、その主イエスに従って舟に乗り込み、信仰の船旅に出るのです。その舟は嵐に襲われ、沈みそうになります。けれども、共に乗り込んでおられる主イエスは、その嵐を鎮めて下さるのです。8章9章に語られている主イエスのみ業の一つ一つが、そのようにして私たち自身の信仰の体験となっていきます。私たちはこれらの奇跡を、自分自身のことして体験していくことができるのです。そういう幸いな歩みは、御国の福音を聞くことから始まります。主イエス・キリストの父なる神が、独り子主イエスの十字架の死と復活によって、私たちの天の父となって下さった、その福音を聞いて信じることによって、私たちの歩みは、主イエスのすばらしいみ業、奇跡を自らも体験していく歩みとなるのです。

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