「主イエスに従う」 牧師 藤掛順一
詩編 第116編1~19節
マタイによる福音書 第8章18~22節
群衆たちを離れて向こう岸に行く
マタイによる福音書第8章18節には、「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。第8章のこれまで読んできた所には、主イエスが病気の人や悪霊に取りつかれた多くの人たちを癒したことが語られていました。その主イエスのもとに集まって来た群衆を見て主イエスは弟子たちに、向こう岸に行くようにお命じになった。つまり、この群衆たちから離れて別の場所へ行こうとされたのです。向こう岸とは、28節によればガリラヤ湖の東側の「ガダラ人の地方」です。そこは異邦人の地、つまり外国です。主イエスはご自分のもとに集まって来た多くの人々のもとを去って外国に行こうとしておられるのです。それは何故でしょうか。今せっかくご自分のもとに集まっている多くの人々にさらにみ言葉を語り、癒しの業を行えば、ますます多くの人々を集め、一大勢力をガリラヤで確立することができるでしょう。逆に今この群衆から離れてしまったら、せっかく盛り上がっている人々の熱が冷めてしまいます。だからこの時に向こう岸に行かなければならない理由など見当らないように思います。主イエスは何を考えておられたのでしょうか。
この群衆たちから離れたいと思っておられたのかもしれません。主イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語って伝道を始められました。その近づいている天の国、即ち神のご支配とは何かを、5〜7章の「山上の説教」においてお語りになりました。そしてその天の国、神のご支配の目に見える印として、様々な癒しのみ業をなさったのです。人々は主イエスが権威をもって語られたことに驚いてついてきました。主イエスの力による癒しを期待して集まって来た人々もいました。しかしその群衆たちは、主イエスが告げ知らせておられる天の国、神のご支配が分かってはいません。主イエスが求めておられる信仰を言い表したのは、重い皮膚病を患っていた人と、異邦人であるローマの百人隊長だけでした。主イエスを取り囲んでいる多くの群衆たちは結局、病気の癒しや苦しみからの解放という自分たちの願いの実現しか求めていないのです。そういう現実の中で、この群衆たちから離れたいと思われたのかもしれません。
本当に従う者を見極めるために
しかしこの「向こう岸に行く」ことには、ある積極的な意図も込められていたと思います。主イエスは、群衆から離れて湖に漕ぎ出すことによって、ご自分に本当に従って来る者を見極めようとされたのではないでしょうか。主イエスに本当に従っていくためには、主イエスの乗る舟に一緒に乗り込まなければなりません。つまりそこではもう群衆の一人としてなんとなくついて行く、というわけにはいかないのです。主イエスはそういう状況を作り出そうとされたのではないでしょうか。それは、群衆をふるいにかけるためです。別の言い方をすれば、ここには「私に本当に従って来る者はいないか」という招きがなされているのです。
律法学者の申し出
ある人がその招きに応えて名乗り出たことがここに語られています。それは「ある律法学者」でした。彼は「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったのです。つまり、私はあなたと共に舟に乗り込み、向こう岸に渡ります、ということです。彼はもはや群衆の一人でいることをやめて、主イエスに従って行こうとしているのです。この人が律法学者だったことは大きな意味を持っています。律法学者は、神がご自分の民イスラエルにお与えになった掟である律法を日々研究して、それを守って神の民として生きることを人々に教えていました。そういう人が主イエスに従って行くと言ったということは、主イエスの教えが律法に適うものであり、主イエスに従うことこそ律法を行って生きることだ、ということを、専門家である律法学者が認めた、ということです。律法学者が弟子たちに加わることは、今後の伝道のために大変大きなプラスになると思われるのです。
ところがこの律法学者の申し出に対する主イエスのお答えは、私たちを驚かせます。主イエスは、「よく言ってくれました。あなたのような人が加わってくれると有難い」とはおっしゃらなかった。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。この言葉は彼の申し出に対する肯定でも否定でもありませんが、しかし彼はこの言葉を聞いて、従っていくのをやめたのです。
人の子には枕する所もない
「人の子」という言葉はここに初めて出てきますが、主イエスがご自分のことを言っておられる言葉です。主イエスは、「狐や空の鳥にはねぐらがあるが、私には、そして私に従って来る者たちには、枕する所もない。私に従って来るとは、そういう厳しい、つらい生活を送ることだ、あなたにはその覚悟があるのか」とおっしゃり、それを聞いて彼は「そんなつらいことならやめます」と言って去って行った。私たちはそのようにここを捉えがちなのではないでしょうか。しかしそれは違うと思います。この律法学者の、「あなたのおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という言葉には、主イエスに従おうとする彼の覚悟が感じられます。「たとえどんなつらいことがあっても」という思いがなければ、「どこへでも」などとは言わないでしょう。「つらいことならやめる」という程度の思いなら、それは群衆の一人に過ぎないということです。彼は相当の覚悟をもって主イエスに従って行こうとしたのです。しかし結局それができなかった。それは何故なのでしょうか。
自分をより高めるために
そもそも彼はなぜ主イエスに従って行こうとしたのでしょう。彼は律法学者でした。そのことから彼の思いを推測することができます。律法学者は、律法を厳格に守ることによって神の前により正しい、より清い者となり、救いにより相応しい者となろうとしていたのです。彼らの律法研究は、自分を高め、神の恵み、祝福を受けるに相応しい者となろう、という思いによってなされています。彼が主イエスに従って行こうとしたのも、そういう思いによってでしょう。彼は主イエスの教えを聞き、そのみ業を見て、この方に従っていけば、律法をより深く守るより良い神の民になれる、自分を向上させ、高めていくことができる、と思ったのです。彼はそのためにならつらい、苦しいことをも引き受ける覚悟を持っています。楽をして自分を高めることはできない。神の祝福を受けるに相応しい者となるためには努力が必要だし、苦しみを負うことも必要だ。そういう覚悟を持って彼は主イエスに従って行こうとしたのです。私たちが信仰をもって生きていこうとする時にもこれと同じ思いを抱くことがあるのではないでしょうか。神を信じ、主イエスに従って行くことによって、今より良い人間に、より清く正しい者になることができる。そのためには、多少の苦しみをも頑張って負って行こう。そのように思って信仰者となるとしたら、それはこの律法学者が主イエスに従って行こうとしたのと同じ思いです。そういう思いで従って行きますと言った律法学者に主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とおっしゃったのです。それは単に、「私に従ってくることはつらく苦しいことだぞ」ということではありません。律法学者は、主イエスに従っていけば、より良い生き方ができ、自分を今より高めることができると期待しているのに対して、主イエスは、私に従ってくる者は、狐や鳥より低くなるのだ、と言われたのです。それは、ただ苦しい生活をするということではありません。枕する所もないというのは、生活は苦しくても、神の祝福により相応しい者として生きているという自負を持って、誇り高く生きることができる、という話ではないのです。狐や鳥以下というのは、自分の中に自負や誇りなど持ちようがない、ということです。私に従って来る者はそのような道を歩むことになる、と主イエスは言われたのです。それで彼は、自分が期待しているのと違う、と失望して去って行ったのです。
これと同じことが私たちの信仰においてもしばしば起ります。自分を向上させ、より良い者になろう、という思いで神を、主イエスを信じ、従おうとしている信仰は、どこかで挫折するのです。立ち行かなくなるのです。主イエスが与えようとしておられる救いはそういうものではないことに気づかされて失望するからです。主イエスが私たちに与えようとしておられる救いとはどのようなものなのでしょうか。
狐や鳥は、しかし人間は
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」、という言葉をもう一度味わい直したいと思います。主イエスは私たちに、狐や空の鳥を見よ、と言っておられるのです。「空の鳥を見よ」という教えは山上の説教にもありました。6章26節以下です。そこで主イエスは何を見つめさせようとしておられたのでしょうか。それは、天の父なる神が空の鳥たちを養って下さっていること、です。鳥たちは、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないが、天の父なる神は彼らをちゃんと養って下さっているのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」というみ言葉もそのことを見つめさせようとしています。狐も鳥も、他の動物たちも皆、自分のねぐらを持っている、それは自分の力で努力して生きているということではなくて、神が彼らにねぐらを与え、養い、守っていて下さるのです。それに対して、「人の子には枕する所もない」。「人の子」とは先ほど申したように主イエスがご自分のことを言っておられる言葉ですが、元々の旧約聖書においては、単純に人間を意味する言葉でした。その意味でとるならば、ここには、狐や鳥という動物たちにはねぐらがあるが、人間には枕する所もない、と言われていることになります。それは、動物たちは神の養いと守りの内に置かれているが、人間はそうではないということです。山上の説教に語られていたことにおいては、空の鳥は神によって養われ、野の花は神によって美しく装われているのに、あなたがた人間たちは、何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩んでいる、ということです。様々な思い悩み、不安、心配によって、安心して眠ることができない、という人間の現実が、「人の子には枕する所もない」というみ言葉によって見つめられているのです。
天の父なる神を見失うと
何故人間はそのように思い悩み、枕する所もない状態に陥っているのでしょうか。それは、神が天の父として養い、守って下さっていることを見失っているからです。天の父である神の愛を見失っているから、「何を食べようか何を飲もうか何を着ようか」と思い悩むのです。それは、自分で自分の人生を、生活を、どう築き、維持していくか、という思い悩みです。天の父である神の養いを見失ってしまったら、人は自分で自分を養わなければなりません。自分で自分を生かし、人生を充実させていかなければならないのです。あの律法学者が、自分をより良い者として高めるために主イエスに従おうとしたのも、そういう思いによってだったと言えるでしょう。彼は自分で自分を高め、向上させることによって人生の支えを、安心を得ようとしているのです。主イエスに従っていく信仰もそのための手段としているのです。しかしそれは、「何を食べようか何を飲もうか何を着ようか」と思い悩んでいるのと同じことです。信仰によって自分を高め、向上させていこうとすることは、神の父としての養いを見失っている人間の思い悩みの一種でしかないのです。そこには本当の平安や安心はありません。むしろそのような思い悩みの中で人は、枕する所を失うのです。安心を失い、いつも不安に満たされていくのです。「人の子には枕する所もない」は、自分で自分を生かし、人生を充実させようとすることによってかえって平安を失っている私たちの現実を指摘している言葉でもあるのです。
枕する所もない私たちと共に歩んで下さる主イエス
しかしそれだけではありません。「人の子」という言葉は、もともとは人間を意味する言葉でしたが、旧約聖書の中でそれは、来るべき救い主を意味する言葉となりました。だから主イエスはそれを、ご自分のことを指す言葉としてお用いになったのです。私こそ、あなたがたが待ち望んでいる人の子、救い主だ、という主イエスの宣言がそこにはあるのです。その人の子、救い主である主イエスには、枕する所もない。それは、神の独り子である主イエスが、天の父なる神の愛を見失って、思い悩みに陥り、枕する所もなくなっている私たちのところに来て下さり、その私たちの思い悩み、不安、苦しみを背負って下さるということです。先週読んだ17節には、主イエスがなさった癒しのみ業は、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」という預言の成就だったことが語られていました。「人の子には枕する所もない」という言葉も、それと同じことを語っているのです。枕する所もなく、思い悩みに満たされて安心して眠ることもできない私たちのところに、救い主イエス・キリストが来て下さり、私たちの苦しみを担って下さり、枕する所もない私たちと共に歩んで下さるのです。主イエスに従うとは、この主イエスと共に生きることです。それによってこそ、天の父なる神の愛と恵み、養いと導きの下で生きることができるのです。それは、自分で自分を高め、向上させ、より良い人間になることとは違います。信仰によってより良い人間になろうとしても、その歩みは挫折します。何故ならそれは人間の力による人間の業でしかないないからです。主イエスが与えて下さる救いは、神の力による神の業です。自分で自分を良い者とすることができない罪人である私たちのところに、神の独り子であられる主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現して、神の子として下さったのです。ここに、天の父である神の愛があることを信じることが信仰です。主イエスに従うとは、この信仰に生きることです。そこにこそ、思い悩みから解放されて、天の父なる神の養いの下で、安心して眠ることができる歩みがあるのです。
主イエスのもとに留まる厳しさ
主イエスに従って生きることは、枕する所もないような困難な苦しい道を頑張って歩むことではありません。しかしだからといって私たちは、信仰に生きることは楽なことだ、と安心してしまうわけにはいきません。21節以下には、弟子の一人が主イエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったとあります。主イエスはそれに対して、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とお答えになりました。要するに、父親の葬式を出すことよりも、主イエスに従うことの方が大事だ、それを第一とせよ、と言われたのです。ここに、主イエスに従う信仰の厳しさが示されています。主イエスに従う信仰とは、自分で自分を高め、頑張ってより良い者となることではなくて、主イエスによる天の父なる神の愛を受け、その中で歩むことです。それならそれは楽なことだ、と思ったら大きな間違いです。天の父である神の愛を受け、その中で生きるためには、主イエスのもとに留まらなければなりません。私たちのために枕する所もない者として歩み、十字架の苦しみと死を負って下さった主イエスのもとに、しっかり留り続けなければならないのです。そのことは、親の葬式を出すことよりも大事だ、と言われています。親を丁重に葬ることは、どこの世界でも、人間としての最低の、また最も大事な義務とされています。それよりも主イエスのもとに留まることを大事にせよというこの教えは、まことに厳しいものであり、つまずきに満ちたものでもあります。私たちは、信仰のこの厳しさをしっかりと受け止めなければなりません。主イエスを信じる信仰の厳しさは、自分で自分を高め、向上させていく修行の厳しさではなくて、私たちを本当に生かす主イエスの恵みのもとに、何をおいても留まることの厳しさなのです。それが主イエスに従うということであり、それがなければ、私たちはいつまでたっても群衆の一人で終ってしまうのです。
命と希望と慰めのある葬り
主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。それはどういうことでしょうか。主イエスのもとに留まることにこそ、命があるのです。それ以外のところ、自分で自分を高め、より良い者となろうとしているところにはまことの命はありません。主イエスのもとに留まっていなければ、私たちは本当に生きているとは言えない、死んでいるのです。ですから、主イエスのもとに留まることをやめて親の葬式を行っても、それは、死んでいる者が死者を葬っていることにしかなりません。そこに支配しているのは死です。その葬りに命と希望はないのです。しかし私たちが、主イエス・キリストのもとに留まっており、それゆえに天の父である神の愛の内に留まっており、即ちまことの命のもとに留まっているならば、その私たちが行う葬りは、命の支配の下にある。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスの恵みの下にあり、主イエスを復活させて下さった父なる神の愛の下にあるのです。つまり私たちは、主イエスのもとに留まっていることによってこそ、命と希望と慰めのある葬りをすることができるのです。主イエスのこの教えは、信仰者は親の葬式を出してはならない、などということではありません。教会も、ちゃんとお葬式を行うのです。そこには、主イエス・キリストの十字架の死と復活の恵みがあり、父なる神が主イエスと共に私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるという希望があります。私たちがそのようなお葬式を行うことができるのは、主イエスのもとに留まっているからです。その信仰の厳しさをしっかりと受け止めている所でこそ、命と希望と慰めのある葬りをすることができる。つまり、肉体の死によっても失われない希望に生きることができるのです。