11月19日(日)夕礼拝
説 教 「ダビデの罪」 牧師 藤掛順一
旧 約 サムエル記下第11章1-27節
新 約 マタイによる福音書第1章1-17節
ダビデが犯した罪の物語
本日ご一緒に読むのは旧約聖書、サムエル記下の第11章ですが、ここは大変ドラマチックな場面であり、登場人物の表情まで想像できるような生き生きとした描写になっています。下手な小説よりもずっと面白いところです。しかし語られている内容はまことに深刻な、どろどろとした、人間の罪です。しかも、神に選ばれ、愛され、イスラエルの王となったダビデ、常に神に導かれ、また神に寄り頼んで歩んだあのダビデが犯した罪が、まことに赤裸々に描かれているのです。
アンモン人との戦い
1節に、「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた」とあります。これが、このドラマの前提となっている設定です。「年が改まり、王たちが出陣する時期になった」というのは、「春になった」ということです。当時はどんなに激しい戦争でも、冬になると休戦となり、春になると戦いが再開されたのです。この時の戦いはアンモン人との戦いでした。その戦いの起こりは第10章に語られています。アンモン人が、ダビデの送った使節に侮辱を加えたのです。新しく王になったばかりのダビデなど恐れるに足りず、と思ったのでしょう。しかしダビデは断固たる態度で全軍を送り出し、アンモン人とアラム人の連合軍を打ち破りました。そして年が改まり、今度はアンモン人の首都ラバを包囲する戦いに臨んでいるのです。アンモン人の首都ラバは、現在のヨルダン王国の首都アンマンです。アンマンという地名は面白いのですぐに覚えられるのですが、それは聖書に出て来るアンモンから来ているのです。
このラバの包囲戦に、ダビデ自身は出撃せず、エルサレムに留まっていました。もはや勝敗の帰趨は明らかだったので、彼は戦いの全てを、軍の司令官ヨアブに委ねたのです。このヨアブは8章15節以下にあるダビデの重臣たちのリストの筆頭に出て来る人です。そのヨアブに戦さを任せてダビデはエルサレムに留まっていたのです。
バト・シェバと関係したダビデ
そんなある日の夕方、ダビデが王宮の屋上を散歩していると、ある家の庭で一人の女性が水浴びをしているのが見えたのです。その女性の美しさにダビデはすっかり参ってしまいました。調べさせてみると、その女性はバト・シェバといって、ヘト人ウリヤの妻でした。ヘト人ウリヤは、ダビデに仕える軍人です。23章8節以下には、ダビデの部下だった三十数人の勇士たちのリストの最後にこの人の名があります。ヘト人というのは、カナンの地の先住民の一つです。つまり彼はイスラエル人ではない、異民族の出身です。そういう人々が、ダビデの部下には何人もいたのです。今戦っているアンモン人の出身者すらいました。サウルに追われて逃げ回っていたダビデのもとに集まって来た部下たちはそのように多様な人々の集団だったのです。ウリヤもその一人だったのでしょう。彼はダビデの軍隊の中で名の知れた勇士であり、この時ヨアブの指揮下でラバの包囲戦に出陣していたのです。その部下の妻であるバト・シェバにダビデは恋をしてしまい、彼女を王宮に召し入れ、床を共にしてしまったのです。
これは部下の妻との不倫、姦淫の罪です。それだけでも勿論大変な罪ですが、さらにダビデの罪を大きなものとしているのは、彼が王としての権力によって、バト・シェバを呼び出して関係を持ったことです。つまりダビデは自分の権力を、欲望を遂げるために用いたのです。今ウリヤたちはダビデの命令によって、戦場で命がけで戦っています。その留守中に、その妻に手を出したのですから、これは彼を信頼して従っている家臣に対する甚しい裏切りです。ダビデがしたことは、このように何重もの意味で赦されない罪だったのです。
罪を隠蔽しようとするダビデ
この罪は、一度限りの過ちでは済まされませんでした。彼女は妊娠したのです。そこからダビデの罪はさらに深まっていきます。彼女の妊娠を聞いたダビデは、戦況を報告させるため、という口実でウリヤを急遽エルサレムに呼び返します。ダビデの意図は、ウリヤを家に帰らせ、妻と共に過ごさせることによって、バト・シェバの妊娠を夫によることだと、ウリヤ自身にも、世間の人々にも思わせることです。要するにダビデは、自分の罪を隠蔽し、ごまかそうとしたのです。8節に、ダビデがウリヤに「家に帰って足を洗うがよい」と言ったとあります。「ご苦労だった。奥さんの所に帰ってゆっくりくつろげ」ということです。しかもダビデはウリヤに贈り物をしています。妻と共に楽しむためのご馳走か何かでしょう。いつになく親切な、愛想のよいこの姿は、何か悪いことを隠している者の常です。
ところがウリヤは、忠実かつ実直な戦士でした。彼は家に帰ろうとせず、王宮の入口でダビデの家臣団と共に眠ったのです。彼の家は王宮の屋上から見えるくらいの、すぐ隣にあったにもかかわらずです。ダビデはそれを聞いていらいらします。翌日ウリヤに「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか」と言うとウリヤはこう答えました。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません」。「この石頭の朴念仁め」、とダビデは思ったことでしょう。自分の罪を隠蔽しようとするダビデの計画は外れてしまったのです。もっとも、別の読み方をする人もいます。ウリヤは、ダビデと妻とのことをうすうす感づいていたのだ、という読み方です。自分が急遽、大して用もないのに呼び戻された本当の理由に彼は気づいていたので家に帰らなかった。それは彼の、王であるダビデに対する精一杯の抵抗、抗議だった、と読むこともできるかもしれません。ダビデは、「もう一晩泊まっていけ」と言って、ウリヤのために宴席を設けます。しこたま飲ませて酔わせれば、この朴念仁もついふらふらと、ということがあるかもしれない、というわけです。しかしウリヤはその晩も、家に帰ることはありませんでした。
ウリヤ抹殺
ダビデは、罪を隠蔽して何事もなかったかのように見せかけることがもはや不可能でることを悟り、翌朝ヨアブにあてた書状をしたため、それをウリヤに托します。そこには、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていました。自分を殺せと書かれた命令書を携えて、ウリヤは戦場へと帰って行ったのです。司令官ヨアブはその書状を見て、ダビデの意図を悟り、それを忠実に実行します。敵の強力な戦士がいるところにウリヤを配置したのです。その戦いにおいてウリヤは戦死し、他にも戦死者が出ました。そうなることが分かりきっている無謀な作戦だったのです。ウリヤは、上官の命令には絶対服従という軍人としての律儀さでこの戦いに出て行ったのかもしれません。あるいは、先ほどのもう一つの読み方のように、ダビデと妻とのことを感づいており、自分がダビデにとってもはや邪魔な存在になっていることに絶望して、自ら命を絶つ思いで出て行ったのかもしれません。いずれにせよウリヤは死にました。それはダビデが殺したのです。ダビデは自分の罪を隠し切れないと知るや、ウリヤを抹殺することで自分の身を守ろうとしたのです。姦淫の罪を取り繕うために、忠実な部下を殺すというさらに大きな罪を重ねたのです。罪はこのように新たな罪を生み、ふくれあがっていきます。一つの嘘をつくと、それを隠すために第二第三の嘘をつかねばならなくなり、嘘がふくれ上がっていくのと同じです。しかもさらに罪深いのは、このウリヤ抹殺が、戦いで戦死した、という形を取り繕って行われたことです。そのダビデの罪の共犯者となったのはヨアブです。彼はダビデの意を汲んで、わざとウリヤを戦死させるような作戦を立てたのです。ヨアブはダビデの共犯者となることで、ダビデの弱みを握ったのだと言えるでしょう。自分をないがしろにしたらこの秘密をばらしますよ、とダビデを脅すネタを得たのです。実際彼はこのことによって、ダビデに対してある優位に立つことができたことが、18節以下を読むとわかります。ウリヤを始め何人かが戦死したこのたびの攻撃は失敗でした。あまりにも稚拙な作戦だったために敗北したのです。それは本来なら司令官の責任問題になるようなことです。しかしヨアブはこの戦闘の様子をダビデに報告する使者に、もし王が「何故そんな無謀な作戦を行ったのか」と怒るようなら、「王の僕ヘト人ウリヤも死にました」と言えと命じました。「ウリヤも死にました」ということを聞いたダビデは、「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ」と言います。部下の失敗に寛大な王を装っていますが、実際は、ダビデとヨアブの、王と家臣の立場は逆転してしまっているのです。「剣があればだれかが餌食になる」、それは、「戦争なんだから、戦死者が出るのは仕方がない」ということです。しかしそれは何という欺瞞でしょうか。ダビデがウリヤを殺させたのです。それを「戦争なんだから仕方がない」ということにしようとするダビデの罪は、単なる人殺しよりもさらにさらに深いものです。ウリヤが戦死し、その喪の期間が終わると、ダビデはバト・シェバを王宮に連れてきて妻にします。最初からそうしようと思っていたわけではないにせよ、結果的には彼は、部下を殺してその妻を奪ったのです。
両者の罪であるはずなのに
さてここまではもっぱら、ダビデの罪を見てきたわけですが、相手であるバト・シェバはどうだったのでしょうか。姦淫の罪には必ず相手があり、二人で共に犯すものです。バト・シェバも、夫ウリヤを裏切る罪を犯したのです。王であるダビデに無理強いされて仕方なかった、と言えるかもしれません。けれども、必ずしもそれだけではなかったようにも思えるのです。彼女は、王宮の屋上から丸見えのところで水浴びをしていた、それは、始めからダビデ王の気を引こうという思いがあったのではないか、と言う人もいます。ダビデに召し出されて関係を迫られた時にも、断固として拒み通すこともできたのではないだろうか、それをしなかったのは、彼女の心の中にも、自分が王の目に留まったことを喜ぶ思いがあったからではないのか、とも思われます。そして彼女は妊娠したことを知ると、「子を宿しました」とダビデに告げました。それは「あなたどうするの、責任とって頂戴よ」ということです。そこに、バト・シェバのしたたかさを見ることができるかもしれません。極端なことを言えば、この話の真相は、バト・シェバが、ただの軍人である夫を捨て、王であるダビデに鞍替えした、ということだったのかもしれないのです。勿論、たとえそうだったとしても、ダビデの罪が消えるわけではありません。言い訳が立つわけでもありません。彼がしたことはやはり言い逃れのできない大きな罪です。しかしそれは両者が共に犯している罪なのだということを私たちは知っておかなければならないと思います。そしてそれを前提とした上で、聖書がこれをもっぱらダビデ王の罪として描いていることに注目したいと思います。出来事そのものは二人に共通する罪です。しかしもっぱら見つめられているのは、ダビデの罪、神に選ばれて王となったあのダビデが犯した大きな罪なのです。
信仰も歯止めにならない罪の恐しさ
そもそもダビデはどうしてこんな罪を犯してしまったのでしょうか。その答えは簡単であると同時に深い謎です。簡単だというのは、美しい女性に欲望を抱くのは、多くの男性にとって身に覚えがあることだからです。「英雄色を好む」などと言われるわけで、ダビデもそうだった、というのは簡単な、わかりやすいことです。しかし他方、そういう欲望を抱くことと、実際にそれを行動に移すことの間には大きな隔たりがあることも確かだと思うのです。思いを抱いても、それを実行することを妨げるいろいろな要素があるはずです。一般的には、理性とか良心とか倫理感がその働きをします。人の妻とそんなことをしてはいけない、ということは誰でも分かっています。その人が自分の部下であり、自分の命令によって戦場に赴いているならなおさらです。その留守の間にこんなことをするのがいかに卑劣なことであるか、ダビデはよく分かっていたはずです。しかしそういうことが全く歯止めにならずに、彼はこの罪を実行してしまったのです。
歯止めになったはずのものはそれだけではありません。何よりも、このダビデは、神を信じている人でした。羊の群れの番をしていた少年だった彼を、主なる神が選んで下さり、イスラエルの王として下さった、その神の恵みを深く体験してきたのです。そのことへの感謝を、彼は忘れてしまっていたはずはありません。そしてこの主なる神のみ心に従って歩もうという思いを、彼は捨て去っていたわけではないはずです。そしてこの主なる神が、十戒において、姦淫してはならない、隣人の家をむさぼってはならない、さらには殺してはならないと命じておられることを、彼はよく知っていたのです。要するに彼は、神を信じている信仰者だったのです。バト・シェバへの欲情につき動かされていく時に、このことは神のみ心に適わない、神がお怒りになることだ、ということを彼は分かっていたに違いない。しかし、その信仰が何の歯止めにもならなかった。彼はずるずると罪に陥り、気が着けばそれにどっぷりとはまり込んで取り返しのつかないことになっていたのです。このことは本当に不可解な、謎です。ダビデほどの信仰者であっても、このように罪に陥るのです。それはもはや、「私たちはダビデのような罪を犯さないように気をつけましょう」ではすまない、恐しい、不気味な現実です。ダビデほどの信仰者でも罪に陥ったのです。神を信じている、信仰者である、ということが何の役にも立たないくらい、私たちを捕えようとしている罪の力は大きく強いのです。それは姦淫の罪のみではないでしょう。様々な罪への欲望が、私たちを虜にしようとしているのです。その罪の力を決して軽く見てはなりません。神を信じて、神に従おうと努力していれば罪に陥らないですむ、などという甘いものではないのです。あのダビデ王がこのような罪を犯したのです。それは、「まさかあの人が」という出来事です。聖書はそのことによって私たちに、私たちを陥れようとしている罪の力が、神を信じて生きている人をも捕えていく、いかに恐しいものであるかを教えているのです。
主イエスの系図において
11章の終わりに、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」とあります。ダビデの罪を、主なる神は決して見過ごしにはなさいませんでした。そのことが次の12章に語られています。そこは次回に読みたいと思います。本日は、共に読まれた新約聖書の箇所を見つめていきたいのです。マタイによる福音書の冒頭のところの、主イエス・キリストの系図です。その中に、本日のこのダビデの罪のことが語られているのです。6節に「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。ダビデ王の後継ぎとなったのはソロモンでした。ソロモンはバト・シェバの産んだ子だったのです。しかしそれは、本日の11章27節に「彼女は男の子を産んだ」と語られている、その子ではありません。ソロモンは、バト・シェバがダビデの正式の妻となってから生まれた子です。しかしこの系図は、ソロモンの母は「ウリヤの妻」であると言っています。ダビデは部下のウリヤから妻を奪った、その罪を、わざとこの系図に書き記しているのです。1節にはこの系図のタイトルがこう語られています。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。主イエス・キリストは、アブラハムの子孫であるダビデの子孫としてお生まれになりました。アブラハムと並んでダビデが、主イエス・キリストの先祖として大事な人物なのです。そのダビデは「ウリヤの妻」によって主イエスの先祖となったのだ、とこの系図は語っています。ダビデが欲望に捕えられて犯した、あの決して赦され得ない大きな罪によって、主イエス・キリストはダビデの子孫としてお生まれになったのです。それは、主イエスが私たち人間の罪を、信仰者をも容赦なく飲み込んでいく不気味な罪の力を、ご自分の身に引き受けて下さり、それを背負って十字架の苦しみと死へのご生涯を歩み、ご自分の命を犠牲にして、その罪の赦しを実現て下さるためでした。主イエスがダビデ王の子孫としてお生まれになることを神が預言しておられ、それが実現したことを聖書は語っています。それは、主イエスが家柄のよい生まれだったことを語るためではありません。ダビデすらも犯した深い罪を背負って主イエスが十字架にかかって死んで下さったのだ、ということを聖書は見つめているのです。私たちが罪の力から救われるのは、ダビデのような罪を犯さないように努力することによってではなくて、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストによる赦しによってです。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」という主イエスの系図は、ダビデの罪を見つめると共に、主イエスがその罪の赦しのためにこの世に生まれて下さったことを語り示しているのです。