主日礼拝

恵みの善い管理者

説教題「恵みの善い管理者」 副牧師 川嶋章弘

ホセア書 第11章1-9節
ペトロの手紙一 第4章7-11節

万物の終わりが迫っている
 「万物の終わりが迫っています」。ペトロの手紙一は、本日の箇所の冒頭でこのように告げています。「すべてのものの終わりがすぐそこまで近づいている」と言われているのです。しかし私たちはこのみ言葉をなかなか受け止めることができないのではないでしょうか。どう受け止めたら良いのか分からないのです。「万物の終わりが迫っています」に続いて、「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と言われています。こちらのほうがよく分かります。実際、そのように生きているかはともかくとして、キリスト者が思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈って生きるよう勧められていることは、私たちにとって納得できることだからです。そもそも思慮深くふるまい、身を慎んで生きるのは、キリスト教会に限らず、広くこの社会で望ましい生き方として受け止められていると思います。ですから思慮深くふるまいなさい、身を慎みなさいという勧めは、それだけを取り出せば、多くの人に当てはまる勧めとして、いわゆる道徳として読むことができるし、そのほうが分かりやすいのです。しかしこの手紙は、そのような道徳について語っているのでしょうか。そうではありません。なぜならこれらの勧めに先立って、これらの勧めの前提として、「万物の終わりが迫っています」と言われているからです。ですから私たちは万物の終わりが迫っていることを弁えずには、これらの勧めを本当に受け止めることはできないのです。

「終わり」を正しく意識することの難しさ
 しかし現代を生きる私たちにとって、すべてのものの終わりがすぐそこまで近づいていることを正しく意識するのはとても難しいことです。それには理由があると思います。一方で、「迫っている」とか「すぐそこまで近づいている」と言われても、その切迫感や近さに実感をなかなか持てません。すでにこの手紙が書かれた時代に、主イエスの昇天後すぐに「終わり」が来ると思っていた初代の教会の人たちは、主イエスの昇天から五、六十年を経てもなかなか「終わり」が来ないことに動揺していました。当時から、「終わりが迫っている」と言われていても、全然近づいていないように感じられていたのです。それから約2000年後を生きている私たちは、なおさらそのように思います。私たちは、いつかは「すべてのものの終わり」が起こると信じていても、それが自分とは関係のないはるか先のことのように思えるのです。だから「万物の終わりが迫っています」と言われても、その切迫感を受け止めることができないのです。その一方で、「世の終わり」とか「終わりの日」といった言葉は、キリスト教会だけでなく日常的にも使われていて、多くの場合、地球や宇宙が危機的な状況に直面することによって人類が滅亡する時として語られています。恐れと不安を煽るような「世の終わり」が語られているのです。この夏も厳しい暑さが続きましたが、このペースで地球温暖化が続くと地球の終わりが近いのではないか、と言われたりします。もちろんこのこと自体は真剣に受け止めなくてはなりません。しかし私たちはこのような終わりに対する感覚を、「万物の終わりが迫っています」の「終わり」にも当てはめてしまっているのではないでしょうか。そうであれば「終わり」とは、物ごとが悪い方向に進んで行った最終段階として起こる「終わり」であり、私たちに不安と恐れを与えるものでしかないのです。この社会で「終わり」、「世の終わり」、「終わりの日」といった言葉が日常的に使われているために、聖書が語っていることとは異なる「終わり」についてのイメージが、私たちにも影響を及ぼしているのです。それだけに私たちは、万物の終わりが迫っていることを正しく意識するのが難しい。私たちは一方で、万物の終わりが迫っていることの切迫感を受け止められずにいるし、その一方で「終わり」を、この世界が悪い方向に突き進んだ最終段階にある「終わり」として、漠然とした不安と恐れを抱いて受け止めているのです。

救いの完成としての終わり
 しかしここで告げられている「万物の終わり」は、そのようなものではありません。「万物の終わり」とは、救いの完成なのです。すべてのものの終わりとは、すべてのものが悪い方向に突き進んで行った先にある最終段階ではなく、むしろ救いの最終段階、救いの完成なのです。ですから万物の終わりが迫っていることを正しく意識するとは、この救いの完成を意識して生きることにほかならないのです。そのために私たちはどうしたら良いのでしょうか。将来の救いの完成について色々と思い浮かべてみるのがよいのでしょうか。そういうこともあるかもしれません。しかし私たちが本当になすべきことは将来に目を向けるよりも、むしろキリストの十字架による救いに目を向けることなのです。いつ救いの完成が起こるのかとか、あるいは「終わり」がなかなか来ないとか、そのようなことをあれこれ考えて生きるのではなく、キリストの十字架による救いをより徹底的に意識して生きるのです。不思議に思えるかもしれませんが、将来の救いの完成に対する意識は、すでに起こったキリストの十字架による救いを意識することによってより確かなものとなるのです。

終わりの始まりと終わりの終わりの間
 「万物の終わりが迫っている」は、「万物の終わりがすでに来ている(来た)」とも訳せます。どちらの訳も大切なことを見つめています。なぜなら両方の訳を通して、救いの実現を意識することが、救いの完成を意識することと切り離せないことが示されるからです。一方でキリストの十字架による救いの実現は、「万物の終わりが来た」ことにほかなりません。その一方ですでに救いが実現し、「万物の終わりが来た」にもかかわらず、その救いはまだ完成していないのです。キリストの十字架による救いは、将来の救いの完成を私たちに約束しています。十字架による救いは救いの完成の始まり、万物の終わりの始まりなのです。ですから私たちは救いの完成の始まりと、その終わりの間を生きていることになる。終わりの始まりと、終わりの終わりの間を生きているのです。終わりの始まりと、終わりの終わりの間を、すでに実現した救いが将来完成することを信じ、それを待ち望みつつ生きているのです。そのように生きるのが、万物の終わりが迫っていることを正しく意識して生きることにほかならないのです。

よく考えて判断し、責任を持って生きる
 そのように生きる私たちに与えられている勧めが、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」です。「思慮深くふるまう」とは、思慮分別があること、つまり物事をよく考えて判断することです。また「身を慎んで」と訳されている言葉は、もともと「酔わない、酔っていない」という意味ですから、「身を慎む」とは酔わずに、しらふで生きることです。それはお酒を飲ますに生きるということではなく、物事に対して責任を持って生きることにほかなりません。将来の救いの完成を待ち望みつつ生きるとは、自分が生きている今に無関心になり、直面している物事に対してよく考えて判断するのを止めてしまったり、責任を放棄してしまったりすることではありません。それでは、本当に救いの完成を待ち望みつつ生きていることにはならないのです。終わりの始まりと終わりの終わりの間に生かされていることに、救いの実現と救いの完成の間に生かされていることにしっかり立つなら、私たちは救いの完成に向かっている今を、万物の終わりが迫っている今を、決して疎かにすることはできません。すでに救われた者として、救いの完成を見つめつつ生きる私たちは、それぞれの人生において直面する様々な物事に対して、よく考えて判断し、責任を持って生きるのです。そのためには祈ることが欠かせません。だから「よく祈りなさい」と言われています。私たちは何事においても神が御心を示してくださると信じ、神に祈り、神と語り合います。その中でこそ、私たちはよく考えて判断し、責任を持って生きていくことができるのです。

心を込めて愛し合う
 「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と勧められているのに続いて、8節でこのように言われています。「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」。万物の終わりが迫っていることを意識して生きる私たちが、何よりもまずなすべきことは、心を込めて愛し合うことである、と言われているのです。「心を込めて愛し合う」とは、本気で愛し合う、真剣に愛し合うことです。これまでこの手紙は、多くの場合、小アジアのキリスト者とキリスト者でない人たちとの関係を見つめていました。とりわけ迫害の中で、自分の周りにいるキリスト者でない人たちとどのように関わるのかが語られていました。しかしここでは、キリスト者同士の関係が見つめられています。洗礼を受け救いに与り、教会のメンバーとなった私たちは一人で生きるのではなく、ほかのメンバーと交わりを持って、関わりを持って生きていきます。その関わりにおいて、何よりもまず互いに心を込めて、本気で、真剣に愛し合うことが求められているのです。「心を込めて愛し合いなさい」と言われると、その時だけ、あるいはその都度、心を込めて愛することが見つめられているように思えます。しかしある人は、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」を、「何よりもお互いの愛をずっと保ちなさい」と訳しました。互いの愛をずっと保つことが、心を込めて、本気で、真剣に愛することなのです。両方の訳を生かせば、「何よりもまず、互いに心を込めて愛し合うことをずっと保ちなさい」となります。その時だけ、その都度、心を込めて相手を愛するというのではない。ずっとお互いの愛を保ち続けるのです。その時だけでも相手を愛するというのは簡単なことではありませんが、ずっと保ち続けるのはより困難なことであるに違いないのです。
互いの愛をずっと保ち続けることは、互いの関わりをずっと保ち続けることでもあります。それは必ずしも、一緒に時間を過ごし、話をするような関わりを保ち続けることではないでしょう。そのような関わりを持てないこともあるのです。しかしそうであっても、関わりを持ち続けるとは、とてもシンプルに言えば、相手を無視しないということです。相手をいないものとしないということです。さらに踏み込んで言えば、相手のことを覚えて執り成し祈り続けることです。キリスト者同士の関わりにおいても、互いの関係が悪くなってしまうときがあります。距離を取らざるを得ないときがあります。しかしそのようなときも、互いに相手を無視せず、相手をいないものとせず、相手のために執り成し祈り続けることによって、互いの関わりをずっと保ち続け、互いの愛をずっと保ち続けるのです。

愛は多くの罪を覆う
 私たちが心を込めて愛し合うことが、つまり互いの愛をずっと保ち続けることが、9節では「不平を言わずにもてなし合いなさい」と言い換えられ、10節の終わりでは「賜物を生かして互いに仕えなさい」と言い換えられています。私たちキリスト者の交わりは、互いに愛し合い、もてなし合い、仕え合う交わりなのです。私たちがそのように生きるのは何故なのでしょうか。そのように生きるとき何が起こるのでしょうか。8節の終わりでこのように言われています。「愛は多くの罪を覆うからです」。「愛は多くの罪を覆う」。私たちがしっかりと受け止めたいみ言葉です。受け止めなくてはならないみ言葉です。私たちは教会における交わりの中でどうしてもほかの人の罪が気になってしまいます。それはある面ではあたり前のことでもあります。なぜなら相手と関わりを持とうとするからこそ、相手の罪にも気づくからです。関わりを持とうとしなければ、相手の罪に気づくこともありません。相手との関わりが深くなればなるほど、私たちは互いに相手の罪に気づくし、相手の罪が気になってしまうのです。そのとき私たちはしばしば相手の罪を裁いて終わりにしかねません。あんなことをするのはおかしい、こんなことをするのは間違っている、と言って終わりにしかねないのです。しかしみ言葉は、「愛は多くの罪を覆う」と告げている。私たちの愛が互いの罪を覆う、と告げているのです。それは、相手の罪をなかったことにすることではありません。大目に見ることでもありません。そうではなく、私たちの愛が相手の罪を覆うとは、私たちが相手の罪を赦すことです。相手を愛するとは、相手の罪を赦すことであり、私たちが互いに愛し合うとは、なによりも互いに赦し合うことなのです。愛が罪を覆うというみ言葉は、このことを告げています。教会の中で、私たちの罪によって、あるいは弱さや欠けによって色々な問題が起こります。そのとき私たちは互いに愛し合い、赦し合う中で、互いの弱さを支え合い、欠けを補い合っていくのです。「不平を言わずにもてなし合い」、「賜物を生かして互いに仕え」ていくのです。

私たちは神の愛に覆われている
 しかし私たちはここで立ち止まらざるを得ません。そんなことはできない、と思わざるを得ません。自分自身のことを考えれば、自分がどれだけ隣人を愛せなかっただろうか、どれだけ隣人の罪を赦せず、裁いてしまっただろうか、と思うのです。それどころか私たちは人を愛することにおいてすら罪を犯してしまいます。そのような私たちの愛が罪を覆うとは、とても言えないのではないだろうか。罪を覆うどころか罪を増し加えてしまってはいないだろうか、と思うのです。私たちは隣人を愛したい、赦したいと願っています。けれどもなかなか愛することも、赦すこともできない自分の姿を突きつけられて、私たちは途方に暮れてしまっているのです。そうであるならば私たちはどうしたら良いのでしょうか。本日の箇所の冒頭で告げられていたことに思いを向ける必要があります。万物の終わりが迫っていることを意識し、自分たちが救いの完成の始まりと、その終わりの間に生きていることを意識するのです。キリストの十字架による救いの出来事は、神の愛が私たちの罪を覆った出来事です。救いの完成の始まりと、その終わりの間に生きているとは、キリストの十字架によって示された神の愛に覆われて生きていることなのです。私たちは頭の天辺から足の爪先まで、神の愛に覆われているのです。共に読まれた旧約聖書ホセア書11章は神の愛について語っています。その中で、主なる神はこのように言われます。「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか…わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない」。神は、罪によって滅びかけている私たちに、「見捨てることができない」と言ってくださり、私たちを罪から救うために激しく心を動かしてくださり、憐れみに胸を焼いてくださり、独り子を十字架に架けてくださったのです。この神の愛によって覆われていないところはありません。私たちが「終わり」を意識して生きるとは、私たちの罪が、私たちのすべてがこの神の愛に覆われていることを意識して生きることにほかならないのです。自分の罪や弱さや欠けに打ちのめされるのではなく、その自分の罪や弱さや欠けが、すでに神の愛に覆われていることを信じて生きるのです。そのように生きる中で、私たちは互いに愛し合い、赦し合う者へと変えられていきます。なかなか変われない自分に対してもどかしく思うことがあるかもしれません。しかしそのもどかしさを抱えつつ、私たちは、私たちの頭の天辺から足の爪先まで覆ってくださっている神の愛にこそ心を向けたいのです。

恵みの善い管理者
 キリストの十字架による救いおいて、神の恵みは決定的に私たちに与えられました。しかしその恵みは、私たちにそれぞれ異なる賜物が与えられている、ということにも現れています。10節でこのように言われています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。賜物と訳された言葉は、元々のギリシャ語では「カリスマ」という言葉です。私たちは日常的に「カリスマ」という言葉を耳にしています。「あの人はカリスマがある」とか「あの人はカリスマ〇〇だ」というようにです。その場合、それらの言葉は、特別な人に対する言葉であり、私たちの多くは自分がカリスマを持っているとは思いません。しかしみ言葉は、すべての人に賜物が、すべての人にカリスマが与えられている、と告げています。「賜物を授かっている」と言われていますから、賜物(カリスマ)は、自分で獲得するものではなく神が恵みによって与えてくださるものです。そして神は特別な人にだけ賜物を与えるのではなく、私たち一人ひとりに賜物を与えてくださっているのです。私たち一人ひとりが神から賜物を与えられた「神のさまざまな恵みの善い管理者」なのです。普通であれば、誰もが管理者になることはありません。限られた人だけが管理者になるのです。しかし神の恵みは限られた人が管理するのではありません。すべてのキリスト者が、神の恵みの善い管理者です。だから私たちは神の恵みの善い管理者として、神の恵みによって一人ひとりに与えられた賜物を善く管理し、よく用いていきます。それぞれに与えられている賜物を生かして互いに仕え合っていくのです。11節では「語る者」と「奉仕をする人」について語られていますが、「奉仕をする人」についてこのように言われています。「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」。私たちは自分の時間と思いを割いて奉仕をします。それは本当に尊いことです。しかしそのような私たちの奉仕の源にあるのは、私たちの力や持っている物、頑張りや努力ではありません。神が私たちに与えてくださっている力、神の力なのです。神が恵みによって与えてくださっている賜物こそ、私たちの奉仕の動力源なのです。

神に栄光を帰して生きる
 この箇所の終わりでこのように言われています。「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」。私たちが救いの完成の始まりと、その終わりの間で、キリストの十字架によって示された神の愛に覆われて、互いに愛し合い、赦し合い、もてなし合い、賜物を生かして仕え合うのは、すべてのことにおいて神に栄光を帰するためです。頭の天辺から足の爪先まで神の愛に覆われた私たちは、その愛の中で、その愛に感謝して、すべてのことにおいて神に栄光を帰して生きていくのです。
「ただ神にのみ栄光あれ」と祈りつつ、キリストの赦しの恵みの中で、互いの罪を覆い合い、互いの弱さや欠けを補い合い、救いの完成を待ち望みつつ歩んでいこうではありませんか。

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