夕礼拝

虚しさの中で

「虚しさの中で」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ルツ記 第1章1-22節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第16章33節
・ 讃美歌:218、505

ルツ記の位置
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いていて、先月をもって士師記を終えました。本日からは次のルツ記に入ります。ルツ記はとても短い、また読みやすい物語です。旧約聖書の中で最もとっつきやすい書であると言えるでしょう。一人の心優しく美しい女性の物語です。どうぞ皆さん、ご自分でじっくり読んで下さい。
 ところで、士師記を終えて次のルツ記に入るというのは、今私たちが持っている聖書では何の不思議もないことです。しかし実は、元々のというか、ユダヤ人たちが伝えて来た旧約聖書の順番はそうはなっていないのです。ヘブライ語の旧約聖書では、士師記の次はルツ記ではなくてサムエル記です。ではルツ記はどこにあるのかというと、もっとずっと後の方にあります。ユダヤ人たちの間で伝えられてきた旧約聖書は三つの部分から成っています。第一の部分は、モーセ五書と呼ばれる、創世記から申命記までの五つです。この部分を「律法」と呼びます。第二の部分はヨシュア記、士師記、そしてルツ記はとばしてサムエル記、列王記、そして歴代誌から雅歌までをとばしてイザヤ書からマラキ書に至る預言書です。ただし哀歌とダニエル書は除きます。この第二の部分の全体を「預言者」と呼びます。そして今飛ばした残りのものが第三の部分で、これらは「その他の書」と分類されるのです。つまりルツ記は元々は第二の「預言者」の部分ではなくて、第三の「その他の書」に入れられていたのです。それが今日のような配列に変わったのは、紀元前1世紀頃に旧約聖書がギリシャ語に訳された時からでした。その時に、「律法、預言者、その他」という配列から、神の民イスラエルの歴史における「過去、現在、将来」という配列への転換が起ったのです。そこにおいてルツ記は士師記の後に置かれるようになりました。それは1章1節の冒頭に「士師が世を治めていたころ」とあることによってです。ルツ記は士師の時代の物語なのです。そしてこれはダビデ王の何代か前の先祖の話です。士師の時代からダビデ王に至る間の時代の話ですから、時系列で考えるなら士師記とサムエル記の間に置かれるのがふさわしいわけです。

申命記的歴史との違い
 しかし、ルツ記が元々は第三の「その他の書」に入れられていたことは、この書を読む上で大事な意味を持っています。それは、このルツ記と、これまで読んできた士師記やこの後のサムエル記、列王記などとは、基本的な思想が違うということです。士師記やその前のヨシュア記について読む中で申しましたが、これらの歴史書のことを「申命記的歴史書」と呼びます。ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記がそれに当ります。これらの書は同じ思想によって貫かれている、ひとつながりのものなのです。その思想とは、申命記に語られていた歴史理解です。つまり、イスラエルの民は主なる神に選ばれ、主と契約を結んだ神の民なのであり、その契約において与えられた律法に従って生きるべき民である。イスラエルが律法に従って歩むなら、主による祝福が与えられて民は繁栄し、平和が守られるが、律法をないがしろにして主に背き、他の神々、偶像を拝むようになるならば、主の怒りが臨み、国は衰退し、滅びていく、ということです。そういう歴史理解に基づいて、カナンの地に定住してから士師の時代、王国の成立、そしてバビロニアによる滅亡と捕囚までを描いていくのが申命記的歴史書です。しかしルツ記はそういう歴史理解とは違うものの考え方によって書かれています。そういう意味では、ルツ記が士師記とサムエル記の間にあることはある意味不自然なのです。この歴史観の違いが、ルツ記に、これまで読んできた士師の物語とは違う雰囲気を与えています。士師記とは違うルツ記独自のものの見方を感じ取っていくことが、ルツ記を読む上での課題であると言えるのです。

全てを失った悲しみ
 それではルツ記の内容に入っていきましょう。1章1節に「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ」とあります。ユダのベツレヘムと聞くと、少し聖書に親しんでいる人は、そこがダビデ王の出身地であり、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエス・キリストが誕生した町でもあることを思い起こします。ここに、この話がダビデ王と関係があることが暗示されているのです。
 モアブの野に移り住んだ人の名前はエリメレク、その妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンだったと2節にあります。この四人の家族が、飢饉によって故郷での生活が困難になり、外国であるモアブの地へと移住せざるを得なくなったのです。これは既に大きな苦しみです。エリメレクは、大きな志を立てて故郷を離れたのではありません。生活していけなくなってやむを得ず、何のつてもない外国に移住したのです。今で言えば難民のようなものです。そして移住した先の異国における苦しい生活の中で、エリメレクは妻と二人の息子を残して死にました。残されたナオミは女手一つで息子たちを育て、息子たちはそれぞれモアブの女性と結婚しました。嫁たちの名はオルパとルツでした。二人の息子がそれぞれ所帯を持ち、十年ほどそこに暮らしたと4節にあります。それは苦しい中でも平穏な日々だったのでしょう。しかしその平穏は失われました。二人の息子が相次いで亡くなったのです。こうしてナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された、と5節にあります。故郷を出た時には四人だったのが、三人が異国の土となり、一人になってしまった、ナオミの喪失感、全てを失った悲しみはどれほどだったでしょうか。二人の息子の家庭にはどちらにも子どもが与えられませんでした。一人でも孫が生まれていたら、その孫のために生きる力も湧いて来たことでしょう。しかしそれもない。この家はもうおしまい、将来に何の希望もない、それがナオミの陥った状況だったのです。

ナオミとルツ、ベツレヘムに帰る
 全てを失った悲しみ、虚しさの中で、ナオミは故郷に帰る決心をします。「主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いた」と6節にあります。つまりイスラエルの地の飢饉は去り、再び食物がとれるようになっていたのです。もはやモアブの地に留まっている理由はない、悲しい思い出ばかりのこの地を去って故郷に帰ろうとしたのです。その時問題となるのは、二人の嫁たちのことです。自分は故郷のベツレヘムに帰る、しかしモアブ出身の嫁たちにはそこは逆に外国であり、見ず知らずの地です。夫が一緒ならともかく、やもめとなった嫁たちを連れて行くのは可哀想だとナオミは思いました。彼女は嫁たちに「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように」と言いました。それに対して二人の嫁たちは「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります」と言いました。その二人にナオミが語った11節以下のことには少し説明が必要でしょう。律法には、兄が子をもうけずに死んだ場合、弟が兄嫁と結婚して子孫を残す義務があると定められていました。その家の家系を絶やさないためです。しかし今の場合、あなたがたと結婚できる息子はもういない。私がこれから再婚して新たに子を生むことなどあり得ないし、たとえあったとしてもその子が成長するまであなたがたを待たせるわけにはいかない、ということです。だからあなたがたを嫁という立場から解放する、それぞれ実家に帰って新しい嫁ぎ先を見つけて幸せになりなさい、とナオミは言ったのです。彼女は嫁たちがこれまで息子たちと自分によく尽くしてくれたことを感謝し、主なる神の祝福を祈っています。全てを失った絶望の中でも、ナオミはこのような優しさを失っていないのです。
 ナオミのこの言葉によって、オルパは、別れを惜しみつつ実家に帰って行きました。しかしもう一人の嫁ルツは、ナオミのもとを離れようとしませんでした。16、17節のルツの言葉は感動的です。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください」。こうして、夫と二人の息子を失ったナオミと、やもめとなった嫁のルツは、共にベツレヘムへと帰って来たのです。

姑と嫁?
 ところで、ルツ記のこの部分を読む時に私たちはしばしば間違いを犯します。この話は、ナオミとルツという、姑と嫁の物語です。姑と嫁の関係というのはいつの時代にもなかなか難しいものです。そこにおける教訓や教えをこの話から得ようとしてしまうというのが、ルツ記を読む時に私たちがしばしば陥る間違いです。例えば、ルツは夫が死んでも、自分の出身の民を捨てて姑にどこまでも従った、嫁たる者は姑にこのように仕えるべきだ、ということをここから読み取ることは全く間違った読み方なのです。そのように読むなら、嫁たちを解放して去らせようとしたナオミのあり方をこそ姑は見倣うべきだ、という読み方もできます。そうなると、姑である人はこの話を読んで、ルツはなんと良い嫁だろうか、それに比べてうちの嫁は…と思い、嫁である人は、ナオミはなんと良い姑だろうか、それに比べてうちの姑は…と思うということになって、お互いの関係がますます悪くなる、ということにもなりかねません。私たちはルツ記から姑と嫁の関係についての教訓を得ようとすることはやめなければならないのです。ルツ記はそういうことを語ろうとしているのではありません。オルパは悪い嫁でルツは良い嫁だとか、姑たる者ナオミのようであるべきだとか、そういう読み方を止めることが、ルツ記を正しく読むためには必要なのです。

主がわたしを悩ませ
 さてナオミはルツと共に故郷のベツレヘムに帰って来ました。すると「町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけて」来たと19節にあります。ひさしぶりに会った故郷の人々が歓迎してくれたのです。しかしナオミは、故郷の人々と再会を喜び合うような心境ではありません。全てを失った絶望の内に、将来への何の希望もなく、ただ帰って来たのです。そういう彼女の思いが20節以下に語られています。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」。ナオミという名は「快い」という意味でした。口語訳聖書では「楽しみ」と訳されていました。この子の人生が快い、楽しみ多い幸福なものとなるようにとの願いを込めて親がつけた名前です。日本語にすればさしずめ、今の朝ドラの主人公の「福子」というところでしょうか。しかし今ナオミはその名前を返上したいと思っています。自分の人生は快いものではなかった、楽しいものではなかった。ベツレヘムを出た時は、飢饉で食い詰めてはいたが、それでも夫があり、二人の息子がいて自分は満たされていた。この家族のために苦しみを乗り越えようという希望があった。しかしそれら全てが失われた。今自分には何も残っていない。自分はうつろだ、空っぽだ、虚しい、希望のよすがもない、こんな自分がどうしてナオミだろうか、むしろ私の名はマラ、「苦い」(口語訳では「苦しみ」)であるべきだ。彼女の口からはこういう苦しみの言葉しか出て来ないのです。しかも彼女は、自分をこのような苦しみ、うつろな虚しさに陥れたのは誰であるかをはっきりと語っています。それは主なる神です。「出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせた」、「全能者がわたしをひどい目に遭わせた」、「主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされた」、夫の死も、息子たちに子どもが授からず死んでしまったことも、全ては主なる神のみ業だ。主が自分から大切なものを全て奪い去った。この虚しさ、絶望は主から来ているのだ。彼女はそのように語ることを躊躇しません。「そんなこと言うもんじゃないよ」とたしなめる信心深い友人がいたかもしれませんが、彼女は聞かないのです。「主なる神が自分をこんな目に遭わせた。主のおかげで自分の人生は虚しいものになった」、それは、ヨブ記の主人公ヨブの思いと重なるものです。私がいったい何をしたと言うのか、私は家族のために一生懸命に生きてきただけだ、自分勝手なわがままを通そうとしたことはない。そのことは彼女の嫁たちに対する優しさからも分かります。ナオミは本当に心の優しい、よくできた人だったのです。その自分がなぜこのような苦しみ、絶望、虚しさを味わわなければならないのか、ナオミの心には、主なる神に対するこのような不満、抗議の思いが渦巻いているのです。

ルツが傍らにいる
 けれども、ナオミがこの絶望、虚しさの中で忘れていることが一つあります。それは、ルツが今彼女と共にいる、ということです。ナオミは「出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせた」と言っています。出て行く時は四人だったが、今自分は一人ぼっちだ、空っぽで何もない、と言っているのです。しかしそうではない。今はルツが彼女の傍らにいるのです。ルツは、「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです」と言っています。彼女はナオミに付いて来いと言われたのではありません。嫁としての義務感で仕方なく共にいるのでもありません。ルツは心から、ナオミと共にいたいと思っているのです。ルツがこのような思いで今ここにいることはそれ自体が一つの奇跡です。つまりそれは主なる神のみ業であり、主がナオミに与えて下さっている恵みなのです。主なる神が、全てを失って絶望の内にあるナオミの傍らに、ルツを、自らの意志でどこまでも彼女と共にいる者として置いて下さった。ルツ記第1章はそのことを語っているのです。

主イエス・キリストの恵み
 そしてこのことは、主なる神が私たちに、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、主イエスがご自身の恵みのみ心によって私たちの傍らにいて下さる、という恵みと重なります。ルツはナオミに、あなたの行く所へはどこへでも行きますと言いました。主イエス・キリストも、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言って下さいました。私たちがどこにいても、どんな時にも、共にいて下さるのです。私たちもナオミと同じように、自分は一人ぼっちだ、誰も共にいてくれる人がいない、自分の人生はうつろで虚しい、と思ってしまうことがあります。しかしそのような時にも、主イエス・キリストは必ず私たちの傍らにいて下さるのです。ルツは、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言いました。あなたのものを全てわたしのものとします、あなたと全てを共有します、と言ったのです。主イエス・キリストも、私たちのものを全て、私たちの苦しみや悲しみ、そして罪や弱さまでも、ご自分のものとし、私たちと共有して下さいます。そしてそのことによって、今度はご自分が持っておられる神の子としての全ての恵みを私たちと共有し、私たちのものとして下さるのです。私たちはこの主イエスと一つとされることによって、神に「父よ」と呼び掛け祈ることができる者とされています。天の父なる神の子として生きる祝福を主イエスが私たちと共有して下さり、私たちにも与えて下さっているのです。ルツは「あなたの死ぬ所でわたしも死ぬ」と言いました。主イエスも、罪人である私たちが本来死ななければならない十字架にかかって死んで下さいました。私たちが死ぬべき所で主イエスが私たちに代って死んで下さったことによって、私たちは新しく生かされているのです。

刈り入れへの希望
 虚しさ、絶望の中で、自分は全てを失った、自分の人生は苦しみでしかない、全能者である主がわたしをひどい目に遭わせた、と言っているナオミの傍らに、主なる神はルツを置いて下さいました。そこから、素晴しい恵みの実りが生まれていったのです。1章の最後のところに「二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった」とあります。これは、これから与えられていく豊かな実り、収穫を暗示している文章です。この刈り入れのさ中に、ルツにある出会いが与えられ、彼女たちの人生に新しい祝福された道が開かれていったのです。私たちも、喪失の苦しみ、虚しさ、絶望の中で孤独を感じ、自分の人生は苦しみでしかないと思ってしまうことがあります。しかもその苦しみを与えたのは主なる神だ、と神に不平不満を言うこともあります。しかしその私たちの傍らに、主イエス・キリストが共にいて下さるのです。主イエスは、先程共に読んだ新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第16章33節にあったように、「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言って下さっています。この主イエスが私たちと共にいて下さるのですから、私たちは、たとえ全てを失う絶望に陥ったとしても、その虚しさの中からなお新しい刈り入れへの希望の道が開かれていくと信じることができるのです。

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