「信仰のゆえに苦しむ人々の幸い」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ダニエル書 第3章13-18節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章10-12節
厳しい幸い
主日礼拝において、主イエス・キリストが語られた八つの幸いの教えを一つずつ読んで来て、本日がその最後、第八の幸いの教えです。これらの幸いの教えは、幸いになるための手立てを教えているのではない、ということを私たちは見て来ました。主イエスはご自分に従って生きる信仰者たちに、つまり私たちに、これらの八つの幸いを与えようとしておられるのです。これらの幸いを主イエスからいただいて生きるのが信仰者の歩みなのです。だとしたら、本日のこの第八の幸いは、大変厳しい幸いであると言わなければならないでしょう。この幸いだけはちょっとご免被りたいと思うようなことがここには語られています。
教会の歴史は迫害の歴史
「義のために迫害される人々は幸いである」と主イエスはおっしゃいました。迫害されることを幸いだと思う人など普通いないでしょう。けれどもこの教えは、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、信仰者たちに励ましと力を与えてきました。教会はその誕生と同時に様々な迫害の中に置かれたのです。ユダヤ人の指導者たちによって神を冒涜する者として断罪され、十字架につけられたイエスをキリスト、つまり救い主と信じたクリスチャンたちは、ユダヤ人たちから異端視され、会堂から、つまりユダヤ人の共同体から追い出されました。ルカによる福音書の6章22節には、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」とありますが、この「追い出され」という言葉はユダヤ人の共同体からの追放を意味しています。ユダヤ人で主イエスを信じた人々は、その信仰のゆえに同胞たちから村八分にされたのです。さらに少し時代が下ると、ローマ帝国による迫害が始まりました。暴君ネロと呼ばれる皇帝ネロが、ローマの町の火事の責任をクリスチャンになすりつけ、彼らを処刑することで人々の自分への不満をそらそうとしたと言われます。クリチャンたちは猛獣の餌食にされたり、松明替わりに焼かれたりしたのです。使徒ペトロやパウロが殉教したのもこの時だったと言われます。ネロによる迫害は一過性のものだったようですが、それから百年ほどすると、今度は組織的、持続的な迫害がなされるようになっていきます。クリスチャンであるということが分かっただけで処罰の対象になるという時代が始まったのです。その迫害の炎は燃え上がったり下火になったりしながら、4世紀の始めまで続きます。そして紀元313年、コンスタンティヌスという皇帝がキリスト教を公認したことによってようやく、ローマによる迫害は終わりました。キリスト教はおよそ三百年の迫害の期間を経て、ローマ帝国の中に確固たる位置をしめるようになっていったのです。迫害によって苦しみを受け、殺されていった人々を支え励まし慰めたのが、この第八の幸いの教えでした。信仰者たちは、義のために迫害される幸いを覚えつつ殉教していったのです。そのために、迫害されても迫害されても、キリスト教、教会は力が衰えるどころか、むしろ広がっていき、ついにはローマ帝国も、これを撲滅するのではなくて、帝国の統治のために利用することへと政策を転換をせざるを得なくなったのです。
しかし迫害の歴史はそこで終わったわけではありません。4世紀の終わりにはキリスト教はローマの国教となり、ヨーロッパの社会全体がキリスト教化していきましたが、それによって今度は、信仰の信念を貫いて生きようとする人々が、国家と一体になった教会によって迫害を受ける、ということが起っていきました。宗教改革の時代には、カトリックとプロテスタントの対立の中で、双方に多くの殉教者が出ました。例えばイギリスなどは、国王が替わる度に国がプロテスタントになったりカトリックになったりしたために、前の国王の時代には迫害する側だった人が、次の国王になると迫害される側になる、ということが起ったのです。そのように、信仰に忠実であろうとすることによって迫害を受け、多くの血が流された経験の中から、近代になって、いわゆる宗教的寛容、つまり、自分とは違う信仰の存在をお互いに認め合うという精神が生まれたのです。
しかし、キリスト教的土壌のない異教の世界においてクリスチャンになった人々はなお迫害の下に置かれていました。日本においては江戸時代の初めからキリシタン禁制の時代が続き、その高札が撤去されたのは明治6年のことでした。その中で培われた、キリスト教を邪教とする意識は今日までも生き続けているところがあります。またその日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教しました。今日韓国のキリスト教は大変盛んですが、それは、殉教者たちの流した血が土台となっているからだと言うことができます。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会は盛んになっていくということが確かにあるのです。殉教者という言葉は英語でマーターと言いますが、それは「証人、証し人」という言葉でもあります。殉教こそ、信仰の最大の証しであり、一人の殉教者は十人の信者を生むと言われるのです。
わたしのために
このように、教会の歴史において、この第八の幸いによって支えられ、励まされ、慰められてきた多くの人々がおり、その人たちによって伝道が進展してきたことは確かです。しかし、過去にそういう人々がいたからといって、私たちが迫害を幸いと思えるわけではありません。主イエスもそのことをよく理解しておられたのだと思います。この最後の幸いの教えには、これまでの七つの幸いとは違って、つけ加えられている言葉があります。11、12節です。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。「幸いである」というだけでなく、「大いに喜びなさい」と主イエスは言っておられるのです。
ところでここに「わたしのために」とあることに注目したいと思います。10節は「義のために迫害される」でした。「義」のため、つまり正しいこと、正義を貫くために迫害を受ける者は幸いだ、と10節は読めるのです。しかし主イエスはそれを、「わたしのためにののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる」と言い替えておられます。「義のため」が「わたしのため」に言い換えられているのです。それは、主イエスに従い、主イエスの教えられたことを行うことこそが正しいこと、正義を行うことだ、ということでもありますが、それと同時にこの言い替えは、ここで見つめられている迫害は、自分が正義と信じることを貫くことによる迫害と言うよりも、主イエスを信じ、主イエスに従って生きるところに起る迫害だということを示していると言えるでしょう。この第八の幸いは、主イエスを信じる信仰をもって生きていくことによって苦しみを受けることの幸いなのです。そのことを「大いに喜びなさい」と主イエスは言っておられるのです。
日々、迫害を受けつつ生きている
私たちが生きている現在のこの社会には、表立っての迫害はありませんが、主イエスを信じて生きて行こうとする時、私たちは、ののしられたり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるようなことを日々体験します。例えば家族から「おまえそれでもクリスチャンかよ」などと言われたりします。その場合の「クリスチャン」には、みんな自分に都合のよいイメージを勝手に思い描いています。いつも穏やかで、忍耐強く、決して怒らない、みたいな。でも私たちはそんな完璧な聖人君子ではありません。いろいろな罪や弱さをかかえて生きています。私たちのそういう欠点や至らない所を取り上げて「クリスチャンのくせに」と批判したり、「クリスチャンなんてどうせあんなものさ」と揶揄することは簡単です。私たちは、イエス・キリストを信じているというだけで、みんなとは違う特別な人のように思われたり、そうであることを期待されて、悪口や批判を受けるのです。そしてそれは理由のないことではありません。イエス・キリストを信じて生きていくところには、確かに、信仰を持っていない人とは違う生き方が生まれるのです。信仰者には当たり前のことが、そうでない人には非常識だと思われるようなことがあるのです。それが最もはっきりしているのは、死についての捉え方でしょう。主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを信じている私たちは、死が全ての終わりではないことを知っています。死を恐れ、悲しむ思いは勿論私たちにもありますけれども、その死においても主イエスが共にいて下さること、そして主イエスを復活させて下さった父なる神が、私たちにも新しい命、復活の命を与えて下さることを信じて、そこに希望を置いているのです。そういう希望があるのとないのとでは、生き方に大きな違いが生まれます。最近でこそ世間においてもいわゆる「終活」、つまり自分の死に備えることが一般的になってきていますが、それは社会の高齢化によっておどうしても必要になってきたからであって、以前は、死のことなど考えるだけでも縁起が悪いと言われていました。しかし私たち信仰者はもともと、常に死と向き合い、それを超える希望を見つめて生きているのです。このことに代表されるように、信仰によって、ものの考え方や価値観が周囲の人々とは違って来るために、いろいろなすれ違いが起ります。信仰をもって生きるとは、そういうことを日々体験しつつ生きることなのです。
迫害を受けるのは当前のこと
主イエスはその私たちに、「あなたがたは幸いである」、「喜びなさい、大いに喜びなさい」とおっしゃいました。それはまず第一には、主イエスへの信仰のゆえに悪口を言われ、迫害を受けることを、とんでもないことと思ってはならない、ということです。私たちは、信仰者になって人々を愛して生きていけば、みんなに受け入れられ、認められ、さらには尊敬されるようにもなるはずだ、と心のどこかで思ってはいないでしょうか。そんなふうに思っていると、ののしられたり、身に覚えのない悪口を言われたりすることに耐えられないのです。「こんなはずではなかった」ということになり、「こんなことなら信仰なんて持たなければよかった」と思ってしまうのです。しかし主イエスはここで、信仰をもって生きる人は、人々からののしられたり、悪口を言われたりするのだ、それが当然なのだ、と言っておられるのです。
天における報いを信じて生きる
しかしそうだとしても、そのことをどうして喜べるのでしょうか。「喜びなさい、大いに喜びなさい」というのは、いったい何を喜べと言っておられるのでしょうか。「天には大きな報いがある」と主は言われました。「天に」とは、父なる神のみもとに、ということです。信仰のゆえに苦しみを受けるあなたがたには、父なる神のもとに大きな報いがある。その神による報いを見つめて、大いに喜びなさい、と主は言っておられるのです。そんなことでは喜べない、ともしも私たちが思うとしたら、それは私たちが、神ではなくこの世のこと、この世における幸せ、いわゆる現世利益しか見つめていない、ということです。神の報いではなくて、人間からの報い、人間に受け入れられ、認められることばかりを求めているということです。人に認められることを求めているから、ののしられたり、悪口を言われたりするとぺしゃんこになってしまうのです。しかし天を、神を見つめているなら、神が自分のことを見ていて下さり、知っていて下さればそれでよいのです。人は認めてくれなくても、神が報いて下さることを信じることができるのです。その報いがどんな形で与えられるかは分かりません。地上の生活の中で幸いを与えて下さるのかもしれないし、あるいは地上の生活を終えた後、神のみもとで祝福を与えて下さるのかもしれない、それは分からないけれども、いずれにせよ神が報いて下さることを信じて待ち望む、それが神を信じるということであり、そこに信仰に生きる者の喜び、幸いがあるのです。神からの報いではなく人の評価や賞賛を求めているところでは、この最後の幸いは得られないのです。
天の国はその人たちのものである
主イエスは、義のために迫害される人の幸いは、「天の国はその人たちのものである」ということだと言われました。それは第一の幸いの教え「心の貧しい人々は幸いである」において語られていたのと同じ幸いです。八つの幸いの教えの最初と最後において、「天の国はその人たちのものである」ということが見つめられているのです。これこそが、主イエスが私たちに与えようとしておられる幸いの根本です。主イエスは私たちに、天の国という幸いを与えようとしておられるのです。「天の国」とは、神のご支配です。神のご支配が私たちのものとなる。それは、私たちが天の国の王様になるということではありません。神のご支配が私たちの上に確立し、私たちがそのご支配の下で生きるようになるということです。それは先ほどの、天における報い、神の報いをこそ求める、というのと同じことです。神が報いて下さるとは、神が支配して下さっているということです。天における神の報いを信じて喜ぶというのは、神のご支配、天の国の実現を信じて待ち望むことなのです。だから「天には大きな報いがある」と、「天の国はその人たちのものである」は実は同じことなのです。
「心の貧しい人々」に天の国が与えられるのは、自分の心の中には何の豊かさもないから、自分の力に頼ることができず、ただ神の恵みに依り頼むしかない、そういう人々を、神がみ手の内に置いて支配して下さり、恵みを、報いを与えて下さることによってです。義のために迫害されている人々も、その「心の貧しい人々」と同じです。迫害の苦しみによって私たちは、自分が持っているつもりだった豊かさや力を打ち砕かれます。迫害というのは、神に敵対する力が目に見える仕方で自分を支配しており、それを自分の力ではどうすることもできない、という現実です。だから自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。その私たちを、神がみ手の内に置いて支配して下さり、報いを与えて下さるのです。それが、「天の国はその人たちのものである」ということです。「心の貧しい人々」も、「義のために迫害されている人々」も、自分の力で現実をどうすることもできない。そのような人々に、神が天の国を与え、ご自分のご支配の下に置いて下さることを主イエスは約束して下さっているのです。
主イエスの苦しみと死を体験する
主イエスは、「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」とも言われました。私たちはこのお言葉を、過去の信仰者たちも同じように迫害を受け、それに耐えて信仰を守り通したのだから、あなたがたも頑張れ、と言われているのだと思ってしまうことが多いと思います。しかし、過去に迫害に耐えた人々のことを見つめたからといって私たちが大いに喜んで自分も迫害に耐えて生きることができるようになることはないでしょう。私たちが本当に見つめるべきなのは、預言者の中の預言者として来られた主イエス・キリストです。主イエスは、私たちのために人間となってこの世を生きて下さった神の独り子です。その主イエスが、ののしられ、迫害され、まさに身に覚えないことであらゆる悪口を浴びせられ、そして十字架につけられて殺されたのです。私たちはその主イエスの十字架の苦しみと死によって、救われたのです。その私たちが、迫害を受け、ののしられたり悪口を浴びせられるとしたら、それは私たちが主イエスの後に従い、主イエスと共に生きているということです。主イエスが私たちの救いのために苦しみを受け、死んで下さった、その主イエスの苦しみと死を、私たちも自分の苦しみにおいて味わい、それをわずかながら体験しているのです。そのことを通して私たちは、主イエスが実現して下さった救いをこの身をもって味わい、体験していくことができるのです。またその体験を通して、父なる神が、死に勝利して主イエスを復活させて下さることによって実現して下さった天の国、神のご支配をも体験していくことができるのです。「天の国はその人たちのものである」という幸いが、そこに実現していくのです。
主イエスが与えて下さる幸いの中で
先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所、ダニエル書第3章の17、18節には、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人が、ネブカドネツァル王に対して、迫害と殉教の死を恐れず堂々と語った言葉が記されています。そこを、新しい聖書協会共同訳で読んでみます。「私たちが仕える神は、私たちを救い出すことができます。火の燃える炉の中から、また、王様、あなたの手から、救い出してくださいます。たとえそうでなくとも、王様、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません」。このすばらしい信仰の証しを私たちは、特別に信仰の強い人だから語れた言葉だと思ってしまいがちです。しかし自分が頑張って強い信仰を持てばこのように語れるのではありません。私たちは、少し悪口を言われたりしただけですぐに心萎えてしまう弱い者です。しかし、主イエスが私たちのために受けて下さった苦しみと死を見つめて、その主イエスの十字架と復活によって救いを実現して下さった父なる神のご支配を待ち望み、神からの報いをこそ願い求めていくなら、そこに、「天の国はその人たちのものである」という幸いが神から与えられるのです。この世界と私たちを本当に支配しておられるのは主イエスの父である神なのだと信じる信仰が与えられるのです。その幸いにあずかることの中でこそ私たちも、あの三人が語ったのと同じように語ることができるようになる。そのことを信じて、主イエスに従って歩んで行きたいのです。