夕礼拝

専門家の不幸

「専門家の不幸」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第7章21-26節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章45-54節
・ 讃美歌:298、506

そんなことをおっしゃれば
 本日の箇所の冒頭45節に「そこで、律法の専門家の一人が、『先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります』と言った」とあります。つまり前回の箇所37-44節で主イエスが話されたことを聞いた律法の専門家の一人が主イエスに「そんなことをおっしゃれば」と言ったのです。「そんなことをおっしゃれば」の「そんなこと」とは、主イエスがファリサイ派の人に対して言われた厳しい非難のことです。心の内には人から良く思われたいという強い欲が満ちていて人の目ばかりを気にしている。人から尊敬され、重んじられることを好み、神に栄光を帰するのでなく自分自身に栄光を帰そうとしている。そのようなファリサイ派の人たちは「不幸だ」と主イエスは言われたのです。

ファリサイ派と律法の専門家
 律法の専門家は「そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言いましたが、なぜ、主イエスがファリサイ派の人たちを非難したことが、律法の専門家を侮辱することになるのでしょうか。前回お話ししたことですが、ファリサイ派の人たちは、日々の生活の中でモーセの律法を厳密に守ることを重んじ、そのことを民衆に指導していました。しかし少し考えると分かるように、日常生活の中で律法を厳密に守ることは簡単なことではありません。日々色々なケースに直面する中で、個別のケースにおいてどの律法が関係しているのか分からないし、なにをどこまでしたら律法に違反するのかもなかなか判断できないからです。たとえば十戒の第四の戒めに「安息日には、いかなる仕事もしてはならない」とあります。しかし一日中、まったくなにもしないで過ごすことはできませんから、なにをどこまでしたら「いかなる仕事もしてはならない」という戒めに違反してしまうのか、ということが大きな問題となってきます。ファリサイ派の人たちが民衆を指導していく中で、当然、民衆から「こういう場合はどこまでなら律法を守っていることになるのか」というような質問が出たに違いありません。そのような質問に答えられるための知識をファリサイ派の人たちに提供していたのが律法の専門家でした。律法の専門家の知識と判断に基づいて、ファリサイ派の人たちは個別のケースにおいてどうすれば厳密に律法を守れるか教えることができたのです。つまり律法の専門家は、ファリサイ派の活動の理論的な裏づけを、根拠を提供していたことになります。このように両者は緊密な関係にあり、律法の専門家の多くはファリサイ派に属していたようです。ですから律法の専門家にとって、ファリサイ派の人たちの行いが非難されることは、間接的ではあっても自分たちが非難されていることと同じでした。彼らの行いの根拠である自分たちの律法の解釈への非難であり、自分たちへの侮辱にほかならなかったのです。

救われた者が感謝して生きるために
 そのように言う律法の専門家に対して、主イエスは46節でこのように言われています。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」。律法の専門家は、救われるために律法を厳密に守ることを求め、守らなくてはならない掟(規則)を積み上げていくことによって、人々に背負いきれない重荷を負わせていたのです。
 しかしそもそも十戒を中心とする律法は、救われるために守るべき掟なのではありません。かつてイスラエルの人たちはエジプトで奴隷とされ、大きな苦しみの中にありましたが、神は彼らの苦しみに目を注いでくださり、モーセを遣わして彼らをエジプトから救い出してくださいました。そのようにしてエジプトを脱出したイスラエルの人たちに、神は十戒を与えてくださったのです。出エジプト記20章に十戒が記されていますが、第一戒に先立って「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と、神がご自分のことを名乗られています。つまりこれに続く十戒は、イスラエルの人たちにとって単なる掟や規則などではなく、自分たちを救い出してくださった神からの語りかけであり、神の恵みのみ言葉です。イスラエルの人たちがエジプトから救い出してくださった神に感謝して生きるために十戒は与えられたのです。ですから本来、十戒を守って生きるとは、十戒を守ることによって救いを獲得しようと生きることではなく、すでに神が一方的な恵みによって救いを与えてくださったことに感謝し、十戒に導かれて生きることです。それは背負いきれない重荷を負って生きるようなものでは決してありません。その歩みには、戒律を無理して守るような堅苦しさではなく、救われたことへの感謝と喜びが満ちているはずなのです。

背負いきれない重荷を負わせる
 ところが律法の専門家は、神の救いの恵みに感謝して生きるために律法が与えられたことが見えなくなっていました。律法を守ることが救いへの感謝ではなく、救いを得るための条件になってしまったのです。律法の専門家は律法についての知識を誰よりも持っていたはずです。聖書のどこになにが書かれていて、それがどのように解釈されてきたのか。そのようなことはすべて知っていました。それにもかかわらず、彼らは一番大切なことを見失っていたのです。聖書が告げている、救われた者が救いの恵みに感謝して喜んで生きてほしいという神のみ心を見失っていたのです。このことは私たちに大切なことを教えています。それは、私たちは聖書の知識を積み重ねることによって神のみ心を知るのではなく、聖書から神の語りかけを聞くことによって、神のみ心を示される、ということです。もちろん知識を得るのが間違っているのではありません。しかし私たちはしばしば自分の力で獲得した知識に頼って、神のみ心をないがしろにしてしまうのです。まさに律法の専門家は自分の知識に頼り、救いを得るための条件を人々に課すことによって、その人たちに背負いきれない重荷を負わせていたのです。

指一本も重荷に触れない
 しかも「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」と言われています。重荷に指一本も触れることがないとは、律法の専門家が、守らなければならない規則を人々に課すだけで、救いの恵みに感謝して生きるよう人々を導き、支え、励まそうとはしなかった、ということです。本来、救われて生きるとは、背負いきれない様々な重荷から解放されて生きることです。だから主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11:28)と言われました。主イエスのもとで主イエスを信じて生きるとき、重荷から解放されるのです。それは重荷がなくなってしまうことではありません。自分一人で自分の重荷を背負うのではなく、主イエスが共に背負ってくださるなら、私たちの重荷は背負いきれない重荷ではなくなる、ということなのです。しかし律法の専門家はそれとは正反対のことをしました。律法を厳密に守ることを人々に求め、救われるために守るべき規則を積み重ねていくことによって、背負いきれない重荷を負わせていたのです。

預言者たちを殺した
 47節で主イエスは律法の専門家に「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ」と言われています。律法の専門家の先祖が預言者たちを殺したと言われるのです。預言者とは神の言葉を預かって人々に語った人たちのことです。イスラエルの民の歴史において、神は度々、預言者を立ててご自分の民のもとへと遣わされました。しかしイスラエルの民は、しばしば神が遣わした預言者を受け入れようとせず、預言者が語る言葉を拒み、預言者を迫害したり殺したりしたのです。だから主イエスは49節で「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する』」と言われています。ここで主イエスが神の知恵の言葉として引用した言葉が、旧約聖書のどの箇所の言葉であるかははっきりしません。しかし関わりがありそうなのが、本日共に読まれた旧約聖書エレミヤ書7章21-26節です。22-23節にこのようにあります。「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る』」。イスラエルの人たちをエジプトから救い出されたとき、神は彼らに「わたしの声に聞き従え」と命じた、それだけを命じた、と言われています。イスラエルの民は、神によって救われた者として神の言葉を聞き、み心を示され、そのみ心に従って生きていくよう命じられたのです。そのように生きるところに「幸いが与えられる」と、神は約束してくださったのです。しかしイスラエルの民はそのように生きられませんでした。このことが24-26節でこのように語られています。「しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった」。主イエスは律法の専門家の先祖が預言者を殺したと言われたとき、イスラエルの民のこのような歩み、つまり預言者の語ったみ言葉に聞き従わず、耳を傾けず、逆に強情になって神に背いてきた歩みを見つめておられたのではないでしょうか。

預言者の墓を建てている
 続く48節では「こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである」とも言われています。律法の専門家は預言者たちを記念してそのお墓を建てていたのだと思います。神に立てられ遣わされ、その時代の人たちに神の言葉を語った預言者たちの業績を称えて彼らのお墓を建てていたのです。律法の専門家は、自分たちが預言者を受け入れず殺した人たちと同じだとはまったく思っていなかったはずです。むしろ自分たちは、人々に受け入れられず殺されてきた預言者たちを尊敬している、預言者側に立っていると思っていたのです。しかし主イエスはそうではないと言われます。律法の専門家は、彼らの先祖が預言者を殺したのと同じことをしていると言われたのです。彼らの先祖であるイスラエルの民が、預言者が語ったみ言葉に聞き従わず、耳を傾けず、強情になって神に背いてきたように、律法の専門家も、神の言葉を表面的にしか聞こうとせず、神のみ心を見失い、そのみ心に従って生きようとしていない、と言われたのです。それは、預言者を受け入れず殺した人たちと同じことをしていることにほかなりません。彼らは預言者側ではなく、預言者を殺してきた彼らの先祖側に立っているのです。そのような彼らが預言者の墓を建てていることには、大いなる矛盾と欺きがあります。彼らが本当に神の言葉を語った預言者を記念し、その業績を称えるならば、彼ら自身がなによりも神の言葉に聞き従い、耳を傾けなければならないはずです。しかし彼らは神の言葉を聞き、そのみ心を示され、それに従うのではなく、自分の知識に頼って生きていました。それによって救いの恵みに感謝して喜んで生きていくための道しるべである律法を、それを守れるかどうかに絶えずビクビクしなくてはならない救いの条件としてしまい、背負いきれない重荷としてしまったのです。彼らは預言者を記念して墓を建てているにもかかわらず、預言者たちを殺した人たちと同じように生きている。ここに律法の専門家の不幸があり、矛盾と欺きがあるのです。
 52節でも同じことが見つめられています。主イエスは「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」と言われています。どこに入るのかが明らかにされていませんが、11章20節で「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われていました。ですから律法の専門家は、神の言葉に聞き従わず自分自身が神の国に入ろうとしないだけでなく、神の国に入れられて喜んで生きていけるよう導く恵みのみ言葉を、背負いきれない重荷としてしまうことによって、人々が神の国に入っていくのを妨げている、と言われているのです。

アベルの血からゼカルヤの血まで
 主イエスは50-51節でこのように言われています。「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」。主イエスは「天地創造の時から流されたすべての預言者の血」と言われ、その血は、「アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ」と言われます。創世記4章には、最初の人間アダムとその妻エバに与えられたカインとアベルの兄弟の物語があり、兄カインが弟アベルを殺したことが語られています。この出来事は人類最初の殺人事件でした。アベルは預言者とは言えないかもしれません。しかしここで主イエスはかなり広い意味で預言者という言葉を使っているのだと思います。カインとアベルの物語の中で、「主はアベルとその献げ物に目を留められた」(4章4節)とありますが、神が目を留められたアベルが殺され、その血が流されたことに、広い意味での預言者が流した血を見ているのではないでしょうか。一方ゼカルヤは、歴代誌下24章20-22節に登場する祭司ヨヤダの子で、ユダの王ヨアシュの時代に、主なる神を捨て、偶像に仕えようとした王とユダの高官たちを神に立ち帰らせるために、聖霊によって神の言葉を語りました。しかし王の命令によってゼカルヤは主の神殿の庭で殺されたのです。主イエスが「天地創造の時から流されたすべての預言者の血」と言われ、その血がアベルの血からゼカルヤの血に及ぶと言われるとき、主イエスが見つめておられるのは、旧約聖書全体において流された、広い意味での預言者の血ではないかと思います。いや、ゼカルヤの後の時代にも殺された預言者はいるではないか、と思われるかもしれません。確かにその通りです。しかし私たちの聖書では旧約聖書がマラキ書で終わっているのに対し、ヘブライ語聖書では歴代誌下で終わっているのです。つまりアベルの血からゼカルヤの血まで及ぶとは、ヘブライ語聖書では創世記から歴代誌まで及ぶということであり、それは旧約聖書全体を意味していることにほかならないのです。先ほどお読みしたエレミヤ書7章25節には「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした」とありました。つまりここでは出エジプトの出来事より後のことが見つめられている。別の言い方をすれば、イスラエルの民の歴史が見つめられているのです。なぜなら出エジプトの救いのみ業に与った者たちがイスラエルの民となったからです。しかしアベルの血からゼカルヤの血まで及ぶと言われるとき、そこで見つめられているのは、イスラエルの民の歴史を越えた人類の歴史ではないでしょうか。神がご自分に似せてお造りくださった人間が、神に背き、神が立て遣わした者たちを受け入れず殺してきた、その人類の罪の歴史が見つめられているのです。創世記から歴代誌に至る旧約(ヘブライ語)聖書全体は、イスラエルの民の歴史だけでなく、主イエス・キリストが来られるまでの人類の歴史全体を見つめているのです。

専門家の不幸
 律法の専門家の不幸が語られてきました。「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」。「自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てている」。「自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」。律法の専門家の不幸とは、彼らが自分は専門家であると思っているところにあるのではないでしょうか。自分は専門家で、ほかの人が持ち得ない知識を持っていると思い、その専門知識に頼ろうとすることに専門家の不幸があるのです。もちろんここでは律法の専門家について言われているのであって、どんな分野の専門家も同じように不幸だと言われているのではありません。律法の専門家とは聖書の専門家であり、神の救いについての専門家です。ところが自分の持っている知識を頼みとしている限り、神の救いは決して分からないのです。それどころか自分の知識を頼みとするなら、神が与えてくださっている恵みのみ言葉である律法を、背負いきれない重荷にしてしまうのです。神の救いについての本当の専門家は、自分の知識によっては救われないことを、自分が掟を守ることによって救いを得られないことを知っている者です。しかし自分の力で得た知識が、専門家であることの自負が、彼らの心を頑なにするのです。そのことによって、神の言葉に聞き、み心を示され、それに従って生きるのではなく、自分の力と知識を頼みとして生きようとしてしまうのです。

私たちは小さな専門家
 私たちは律法の専門家と言えるほどの知識があるわけではありません。しかし私たちの誰もが小さな律法の専門家になりがちです。救われるのに自分の力や知識はなんの役にも立たないと言われてしまうと、心を頑なにし、うなじを固くし、強情になって、自分自身を神に明け渡すことができなくなります。律法の専門家と同じように、私たちも神の言葉に聞き、み心を示され、それに従って生きるのではなく、自分の力や知識を頼りとして、自分とほかの人を比べて、ほかの人を批判したり裁いたりして生きてしまいます。そのような小さな専門家になるとき、私たちもほかの人たちに背負いきれない重荷を負わせ、その人たちが神の国に入るのを妨げているのです。律法の専門家が大きな矛盾と欺きを抱えて預言者たちの墓を建てたように、私たちも自覚しないままに同じことをしているかもしれません。自分の知識に基づいて正しいことをしているように思っていても、実は、神の言葉に聞き従っていないことがあるのです。

主イエスが血の責任を負われた
 主イエスは、人間が神に背き、神が立て遣わした者たちを受け入れず殺してきた、その人類の罪の歴史において流された預言者の血の責任は、「今の時代の者たち」に問われると言われました。「今の時代の者たち」とは、主イエスが来てくださった時代に生きている人たちのことです。主イエスが来てくださったのに、神の国がすでに来ているのに、主イエスを信じず、神の国に入れられて生きようとしない「今の時代の者たち」に、天地創造から今に至るまで流されたすべての預言者の血の責任が問われるのです。まことに厳しいお言葉です。小さな専門家になりがちな私たちにも突きつけられているお言葉です。しかしこの血の責任を負ってくださったのは、主イエスを信じず、神の国に生きようとしない「今の時代の者たち」ではありませんでした。驚くべきことに、ほかならぬ主イエスご自身がこの血の責任を負って、十字架で苦しみを受けられ死なれたのです。主イエスのファリサイ派と律法の専門家への厳しいお言葉が、彼らに主イエスに対する激しい敵意を抱かせたと53節にあります。この激しい敵意こそ主イエスを十字架へと向かわせるのです。その十字架において主イエスは、人間の罪のために流された血の責任をすべて担ってくださり、私たちを救ってくださいました。この主イエスの救いの恵みの下で、すでに私たちは生かされています。なお私たちは小さな専門家になってしまうこともしばしばです。神の言葉に聞き従わず、自分の力や知識を頼みとしてほかの人を批判したり裁いたりしてしまうこともあります。しかし私たちはもう、流されたすべての預言者の血の責任を問われることはありません。だから私たちは救いの恵みに感謝し、神の言葉に聞き、み心を示され、それに従って生きていくことができるのです。その歩みにこそ本当の幸いが与えられるのです。ほかならぬ主イエス・キリストが、私たち人間の罪によって流された血の責任をすべて負われ、十字架でご自分の血を流して死んでくださったことに目を向けつつ、私たちは来週の棕櫚の主日に向かって、受難週に向かって歩みを進めていきたいのです。

関連記事

TOP