副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第1編1-6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章24-28節
・ 讃美歌:
神の国は来ている
先週、私たちは、主イエスが神の指の働きによって、つまり神の力によって口を利けなくする悪霊を追い出された話を読みました。その癒しのみ業が、主イエス・キリストの十字架によるサタンの支配に対する勝利と、神のご支配の実現を指し示していたことを聞いたのです。神のご支配の完成は世の終わりを待たなければなりませんから、なお私たちが生きているこの世では神のご支配とサタンの支配のせめぎ合いが続いています。その只中にあって、この世界に満ちている多くの不条理な苦しみの現実を思うとき、私たちは神のご支配よりもサタンの支配のほうが力を持っているのではないかと思うことすらあります。しかし主イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」と言われました。それは、キリストの十字架においてすでに神のご支配の勝利が決定づけられていることを意味します。ですから私たちはサタンの力が猛威を振るっているように思える世にあっても、すでに実現した目に見えない神のご支配を信じて歩んでいくのです。「神の国はあなたたちのところに来ている」という主イエスのお言葉を信じて生きていくことこそ、なお続く神のご支配とサタンの支配の対立の只中で、私たちが主イエスに味方することなのです。
汚れた霊と悪霊
本日の箇所はその続きですが、その前半24-26節は、17節から続いている主イエスのお言葉です。先週の箇所で主イエスによって追い出された悪霊が、その後どうなったかが、この24-26節で語られていると読むこともできます。もっともよく読んでみると、本日の箇所では「悪霊」という言葉ではなく「汚れた霊」という言葉が使われています。日本語ではどちらも「霊」という言葉を使って訳していますが、原文では「霊」という言葉があるのは「汚れた霊」の方だけです。しかし言葉の違いより、それが何を意味しているかに目を向けるならば、ルカによる福音書において「悪霊」と「汚れた霊」は同じものを指しているのです。たとえばルカ福音書4章31-36節に「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」という小見出しのついた箇所があり、その35節では「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」と語られていますが、続く36節では「『…権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは』」という人々の言葉が語られています。つまり35節では「悪霊」と呼ばれていたのに、36節では「汚れた霊」と呼ばれているのです。このようにルカ福音書においては「汚れた霊」と「悪霊」はイコールですから、私たちは本日の箇所の「汚れた霊」を、先週の箇所の「悪霊」と同じと見なして良いのです。その「汚れた霊」ないし「悪霊」は、様々な仕方で私たちに働きかけ、私たちを神から引き離そうとします。別の言い方をすれば、神のご支配の下から引き離して、サタンの支配の下に入れようとするのです。
汚れた霊にとってのわが家
本日の箇所の冒頭24節にはこのようにあります。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う」。先週の箇所と結びつけて読むならば、「汚れた霊」は、自分で勝手にその人から出て行ったというより、主イエスによってその人から追い出されたのです。汚れた霊は追い出されると、砂漠をうろつき、休む場所を探しましたがどこにも見つかりませんでした。すると汚れた霊が「出て来たわが家に戻ろう」と言った、と主イエスは話されました。私たちのイメージでは、汚れた霊というのは砂漠や荒れ野を好むように思います。小説や映画などで魑魅魍魎が人気のない荒れ果てた場所で跋扈しているようなイメージです。ところが汚れた霊にとっての「わが家」とは、砂漠や荒れ野などではなく私たち人間の心の内だ、と主イエスは言われます。汚れた霊にとって私たちは居心地の良い「わが家」であり、のんびりくつろげる「休む場所」なのです。それは、私たちが自分を神から引き離そうとする汚れた霊を自分自身の内に住まわせやすいということであり、私たちが神と共に生きるよりも神から離れて生きようとする者だということです。『ハイデルベルク信仰問答』の問5の答に「わたしは神と自分の隣人を憎む方へと 生まれつき心が傾いている」とあります。「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」私たちは、神から私たちを引き離そうとする汚れた霊にとって最高の「わが家」であり最適な「休む場所」に違いないのです。
汚れた霊が「出て来たわが家に戻ろう」と言った、という主イエスのお言葉は、私たち自身の罪を私たちに突きつける厳しい言葉でもあります。主イエスは、「あなたたちは汚れた霊に『わが家』と呼ばれるような存在なのだ」、「汚れた霊がくつろげるほど、あなたたちは神から引き離されてしまう存在なのだ」と言われているのです。神に従うよりも神に背いてばかり、神のみ心に目を向けるよりも、自分の喜びや悲しみに心を奪われてばかりいる私たちの罪が突きつけられているのです。
神のご支配の下に入れられている
口を利けなくする悪霊に取りつかれた人は、自分自身の力でその悪霊を追い出したのではありませんでした。あるいはなにか善いことをしたから、主イエスは悪霊を追い出されたのでもありません。ただ主イエスが一方的に神の指の働きによって悪霊を追い出してくださったのです。私たちは自分の力で汚れた霊を自分から追い出すことはできません。言い換えるならば、私たちは自分の力でサタンの支配から抜け出すことはできないのです。21節に「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である」とありました。先週、この「強い人」とはサタンであり、私たちはサタンが武装して守っている屋敷の中のサタンの持ち物である、ということを見ました。私たちをサタンの持ち物から解放することができるのはサタンより強い者しかいません。このことが22節で「しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」と言われていたのです。サタンよりもっと強い者である主イエス・キリストが、その十字架と復活によってサタンの支配に打ち勝ってくださり、私たちをサタンから奪い取って神のご支配の下に入れてくださったのです。
頑張って掃除して、見栄え良く飾る
さて、主イエスの十字架と復活によってサタンの支配から救い出され、神のご支配の下に入れられた私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか。神の一方的な恵みによって救われた私たちの歩みとは、どのようなものなのでしょうか。25節には「そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた」とあります。主イエスによって追い出された汚れた霊が、もともと住んでいた人の内に、「わが家」に戻ってみると、その家は掃除され整えられていたのです。汚れた霊を追い出してもらった人は、その汚れた霊が戻ってこないように、汚れた霊に「わが家」とか「休む場所」と思われて寄りつかれないように、自分の心の内を頑張って掃除しました。清く正しく生きようと努力したのです。家は掃除されていただけでなく、「整えられて」もいました。「整えられていた」とは、家が片付けられていたということです。しかしこの言葉には、そのほかにも「飾られていた」という意味があります。装飾(デコレーション)を施されるという意味の「飾られる」です。ルカ福音書の21章5節に「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」とありますが、この「見事な石と奉納物で飾られている」の「飾られている」がこの言葉です。汚れた霊を追い出してもらった人は、自分なりに自分の心の内を飾ってみたのです。「見事な石と奉納物」で飾ることはできないとしても、人の目を引くような、たとえば知識やスキルを身に着けることによって、つまり自分がなにかを持つことによって自分の心の内を飾ったのです。
神の一方的な恵みによって救われた私たちも、自分の力で頑張って清く正しく生きようとすることがあるのではないでしょうか。自分の心の内をいつもチェックして、少しでも汚れているところがあれば掃除しようとします。あるいは自分の弱さや欠けを隠そうとして、知識や教養を身に着けて自分を飾ろうとします。私たちはクリスチャンとして敬虔に生きなくてはと思うことがあり、自分の弱さや欠けを見せずに生きなくてはと思うことがあるのです。「クリスチャンなのにそんなことをするの?」とか、「そんなことを言うの?」と思われたり、言われたりしたくないから、カッコよく見せようとして自分を飾ってしまうのです。しかし私たちは自分の力で頑張れば、本当に多少なりとも清く正しく歩むことができ、見栄え良く自分を飾って生きることができるのでしょうか。
より悪い七つの霊を連れて来る
26節にはこのようにあります。「そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」。戻ってきた汚れた霊は、「わが家」と思っていた家がかつてとは違い、きれいに掃除され整えられているのを見ました。もはや居心地の良いくつろげる場所ではなくなってしまっていたのです。汚れた霊は、「これでは自分の居場所にはならないから別の居場所を探そう」と思ってくれたり、「こんなに頑張って敬虔に生きているなら、弱さや欠けを見せずに生きているなら、自分の入り込む余地はないから諦めよう」と思ってくれたりしたのでしょうか。主イエスはそうではないと話されました。自分一人の力ではその人の心の内に入っていくことができなかった汚れた霊は、一旦出かけて行くと、「自分よりも悪いほかの七つの霊」を連れて戻ってきたのです。すると七つの霊は、たちまちその人の内に入り込み、住み着いてしまいました。頑張って掃除したり整えたりしても、自分の力や頑張りでは太刀打ちできない、より大きな力を持った「より悪い七つの霊」に襲われてしまえばひとたまりもなかったのです。
私たちがクリスチャンとして敬虔に生きようとしても、弱さや欠けを見せずに生きようとしても、そのような私たちの決意や頑張りは、神から引き離そうとする大きな力の前にはまったく無力です。主イエスによる救いに与り、燃えるような決意をして敬虔に生きようと歩み始めても、困難に直面した途端に神に信頼することができなくなってしまったり、様々な誘惑によって神から引き離されてしまったりするのです。自分の力で信仰生活を維持しようと思っても私たちはたちまち挫折してしまうのです。
前よりも悪くなる
26節の主イエスのお言葉は、自分の力で頑張ってみたけれど失敗してしまった、ということだけを見つめているのではありません。敬虔に生きようと頑張り、弱さや欠けを見せないように飾ってみたけれどうまくいかなかった、ということだけを見つめているのではないのです。主イエスはこのように話されています。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」。「前よりも悪くなる」とは、先週の箇所であれば、悪霊を追い出してもらったときより悪くなってしまうということです。私たち自身のことを考えるならば、主イエスによる救いに与ったときより悪くなってしまうということです。ペトロの手紙二2章20節でも「前よりも悪くなる」ことについてこのように言われています。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」。これらの箇所では、洗礼を受けて教会員になった方が、教会から離れてしまうことが見つめられている、と受けとめることもできます。私たちは教会員が教会から離れてしまうことに深く心を痛め、悲しみを覚えます。なんとか戻ってきてほしいと願います。同時にその方々を教会に呼び戻すことの難しさも痛感します。しばしば教会は敷居が高くて初めての方が入りにくいと言われます。あるいはなかなか洗礼に導くことができないとも言われます。しかし教会から離れてしまった方が、教会に戻ってくることの難しさはそれ以上のものがあるのではないでしょうか。私たちはその方々が聖霊のお働きによって再び教会に戻ってくることをただ祈り求め続けるしかないのです。
掃除の仕方が悪かったのか、飾りが足りなかったのか
教会から離れてしまう理由はそれぞれに異なりますから十把一絡げにして語ることは慎まなくてはなりません。しかし私たちの信仰の歩みにおいて、なぜ「前よりも悪くなる」ということが起こるのでしょうか。なぜ主イエスによる救いに与り神のご支配に入れられたのに、再び神から引き離されてしまうことが起こるのでしょうか。家の掃除の仕方が悪かったのか。もっと丁寧に、もっと頻繁に掃除をすれば良かったのか。家の飾りが足りなかったのか。もっとたくさん飾りを付ければよかったのか。自分の力が足りなかったから、頑張りや努力が足りなかったから敬虔に生きることができなくなり、見栄えの良い知識やスキルをたくさん身につけられなかったから、自分の弱さや欠けを隠すことができなくなったということなのか。主イエスは信仰生活における努力や頑張りが足りないと、私たちは前よりも悪くなってしまいかねないと警告されているのでしょうか。
自分自身が自分の人生の主人となっている
そうではありません。むしろそうやって自分の力で頑張って敬虔に生きようとし、知識や教養やスキルで自分を飾って、自分の弱さや欠けを隠そうとすることが、そもそも間違っている、と言われているのです。「クリスチャンなのにそんなことをするの?」とか「クリスチャンなのにそんなことを言うの?」と思われたり言われたりしないよう頑張って自分を飾ろうとすることが、そもそも間違っているのです。頑張ったり努力したりすることが間違っていると言うなんて、ひどいことを言うと思われるかもしれません。けれども自分の力で頑張ったり努力したりしてなんとかしようとすることは、結局、自分の人生の主人を自分自身としている、ということにほかならないのです。主イエスによる救いに与り、神のご支配の下に入れられて生きるとは、自分の人生の主人が自分ではなく神になるということです。それなのに再び自分の人生の主人を自分自身として、自分の力や頑張りで信仰生活を維持しようとするなら、そんなことは不可能であるだけでなく、実は、神のご支配の下に生きることから自分自身が引き離されてしまっているのです。主イエスは私たちに「あなたたちは汚れた霊に『わが家』と呼ばれるような存在なのだ」、「汚れた霊がくつろげるほど、あなたたちは神から引き離されてしまう存在なのだ」と言われました。私たちはそのような本当に弱い、欠けのある者であり、救われてもなお罪を犯し続け、神に従うよりも神に背き、神と共に生きるより神から離れようとする者です。そのような私たちが自分の人生の主人であろうとするならば、たちまち神から引き離されてしまうに違いないのです。
主イエスに住んでいただく
私たちは悪霊を追い出してもらった自分の家に、自分が主人として君臨するのではなく、主イエス・キリストを主人としてお迎えして、住んでいただく必要があります。私たちが主イエスによる救いに与り、神のご支配の下で生きるとは、自分の心の内に主イエス・キリストに住み続けていただくことなのです。エフェソの信徒への手紙3章16-17節にこのようにあります。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」。信仰によって自分自身の心の内にキリストを住まわせることによって、サタンよりももっと強い主イエス・キリストが、神から引き離そうとする力から私たちを守ってくださいます。主イエスが自分の心の内に主人として住み続けてくださることによって、私たちは自分の力で敬虔に生きようとしたり、自分を見栄え良く飾って自分の弱さや欠けを隠すことからも自由にされます。自分の力で敬虔に生きるのではなく、私たちの心の内に住んでいてくださる主イエスが、私たちを主イエスに従う者へと変えていってくださるのです。私たちの弱さや欠けを知り尽くしてくださっている主イエスが心の内に住んで、共にいて支え守ってくださるなら、私たちは人の目を気にして、見栄え良く飾って弱さや欠けを隠そうとする必要はないのです。
神の言葉を聞いて守る
主イエスに私たちの心の内に住んでいただくためには、どうしたら良いのでしょうか。このことが27-28節で語られています。27節である女性が主イエスに「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と「声高らかに言った」のに対して、28節で主イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われています。主イエスの母マリアが幸いであることは、母マリア自身が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」(1:48)と賛美していました。確かに母マリアは幸いな者であります。しかしもっと幸いな者がいるのです。それが「神の言葉を聞き、それを守る人である」と、主イエスは言われます。神の言葉を守るとは、神の掟を守るということに留まりません。この「守る」と訳された言葉には、「保つ」とか「保護する」という意味があります。ルカ福音書の降誕物語において「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(2:8)と語られていますが、「番をしていた」と訳されている言葉もこの言葉です。私たちが神の言葉を聞いて守るとは、聞いた神の言葉を自分の内に保ち続けることです。羊の群れの番をするように、与えられたみ言葉から目を離さず、そのみ言葉と共に生きることです。共にお読みした旧約聖書詩編1編2-3節にはこのようにあります。「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない」。私たちは神の言葉を愛し、昼も夜も口ずさみます。それが、神の言葉を聞き、それを守るということにほかなりません。そのようにして神の言葉を聞き、それを守る私たちの心の内に主イエスが必ず住んでくださるのです。「流れのほとりに植えられた木」が「ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない」ように、神の言葉を保ち続け、主イエスが自分の内に住んでいてくださることによって、私たちも主イエスに従う者へ変えられるという実を結ぶのです。自分の力や頑張りではなく神の言葉に根ざしているからこそ、しおれてしまうことのない生き生きとした信仰が与えられ続けるのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって救われ、神のご支配に入れられている私たちは、その救いの良い知らせを告げる神の言葉を聞き続け、それをしっかり保ち続けます。そのことによって主イエス・キリストは確かに私たちの心の内に住み続けてくださり、私たちの人生の主人となってくださり、いついかなるときも私たちを導き、支え、守っていてくださるのです。主イエス・キリストが私たちの主人として心の内に住み続けてくださる人生こそ、まことに幸いな人生なのです。