「主の言葉は滅びない」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; イザヤ書 第40章6-8節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第13章28-31節
・ 讃美歌 ; 50、305
いちじくの木
主イエスは、マルコによる福音書第13章で、最後の教えとして終わりの時についてお語りになりました。その中で、主イエスは、いちじくの木から学ぶようにとおっしゃいます。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」。いちじくというのは当時のイスラエルの人々にとって身近な植物でした。同じくイスラエルの人々にとって身近な植物であったオリーブが一年中葉をつけているのに対して、いちじくは冬になると枯れてしまったかのように葉を落とし、夏になると一転して青々とした葉を茂らせます。人々は、いちじくの木が徐々に葉をつけていく様を見て夏の訪れを感じたのです。日本にも、豊かな四季の変化があります。春には桜の花が咲き、夏には、木々の葉が青くなります。紅葉は秋の到来、落葉は冬の到来を告げます。日本に住むわたしたちも、植物の変化を見ることによって季節の変化を感じます。自然の変化が時を告げるしるしとなるのです。主イエスは、そのように、しっかりと時を悟るようにとおっしゃるのです。
終わりを知る
しかし、主イエスが時を悟れということを、わたしたちが自然の変化を見ながら毎年巡って来る季節を知るのと全く同じような感覚で捉えて良いかと言えば決してそうではありません。わたしたちを囲む自然は、地球が自ら自転しながら、太陽の周りを公転しているように、円環的なサイクルによって繰り返されていきます。繰り返し夏が来て冬が来るのです。その都度、木々は葉を茂らせては、葉を落とすのです。わたしたちはそのような自然の中で、季節の移り変わりを肌で感じ、時にそれを楽しみながら生きています。しかし、主イエスは、繰り返されるサイクルの中で今がどのような時季なのかを知るようにして時を悟れとおっしゃっているのではないのです。主イエスは、続けて、「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とおっしゃっています。「人の子」というのは終わりの日に来る救い主のことで、主イエスのことです。ここで、主イエスが「悟れ」とおっしゃっているのは主イエスが戸口に近づいていることです。主イエスが再び来られる世の終わりが近づいているというのです。つまり、ここで知らなくてはならないことは、始まりがあり、終わりがある、直線的な時間の流れの中で、終わりが近づいて来ているということなのです。主イエスが意識しているのは自然的・円環的な時間の流れというより直線的・歴史的な時間の流れなのです。そこでの出来事は繰り返さない一度限りのものになります。そのような歴史における終わりの時が近づいていることを悟れと言うのです。
円環的・自然的な世界観によって生きる時、人間は、繰り返される日常の中で、流れる時間に身を任せて歩むことになります。人生は、永遠の循環の中で意味をもたないものになり、この世も目的の無いはかないものになります。そのような世界観でいると、時に、その時だけの楽しみを追い求める享楽的な生き方や刹那的な生き方に陥ってしまいます。それに対して、聖書が語るのは、神の創造によるこの世の初めと、終末によるこの世の終わりがある、直線的、歴史的な世界観です。そのような世界観によって生きる時、人間は、終わりに備え、それを待ち望みつつ歩むようになるのです。
神の救いの歴史
しかし、ここで見つめられている歴史というのは、人間の歴史の進歩や発展とは異なります。人類の歴史は確かに直線的に捉えられます。科学技術や医療において日々進歩があり、様々な面で発達して来ました。しかし、わたしたち人間の愚かな行いや罪の結果として生まれる様々な悲劇は繰り返されていると言っても良いでしょう。どんなに技術が発展しても、人間の本質は変わっていない、歴史は繰り返すのだというように思えることがあります。人間の営み、人間の歴史の進歩は、罪の故に、過ぎ去り滅んでいくものなのです。ここで、主イエスがお語りになっているのは、人類の歴史ではなく、神様の救いの歴史です。この世を創造された主なる神様が人間を慈しみ、語りかけつつ進められる救いの歴史が見つめられているのです。常にイスラエルの民に御言葉を語りかける形で臨み、主イエス・キリストとして世に来られ、今、天に上られて聖霊という形でわたしたちに語りかけておられる主なる神が再び世に来られ、世を裁いた後に救いを完成される。そのような神様の救いの歴史が進められていること、そして、その完成が世に近づいていることが見つめられているのです。
様々な苦しみの中で
ここで、主イエスがそれを見たら終わりの時を悟れとお語りになる「これらのこと」とは何でしょうか。それは13節に入ってから主イエスがお語りなって来たことです。5節以下で主イエスは、様々な苦しみを列挙しています。偽預言者が人々を惑わす。戦争の騒ぎが聞こえてくる。民や国が敵対し合う。方々で地震や飢饉と言った自然災害が起こる。親子間、兄弟間で憎しみ合い、殺し合うと言うのです。そして、14節以下では、憎むべき破壊者が立ってはならない所に立った時、創造の初めから今までなく、今後も決してない程の苦難が来ると言われています。様々な苦しみが語られた後、人々が経験する世の苦しみの最たることは、神になろうとする人間の罪によって引き起こされることが見つめられていたのです。
しかし、ここで主イエスは、未来を予言して、これから様々な苦難があって、その後に、この世の終わりが来るとおっしゃっているのではありません。ここでの様々な苦しみは、主イエスがこの世を歩まれた時代の人々が経験していたことでした。そして、今を生きるわたしたちの周りでも、日々繰り返し、戦争や災害、憎悪による殺人と言ったことは起こっているのです。神の立つべき場所に人間が代わって立とうとする人間の罪の営みは続いているのです。ですから、何時の時代のどのような状況の中にあっても、主に従って歩む者は、その時々に直面する苦難の中で、世の終わりが近づいていることを悟らなければならないのです。
終わりを悟る
では、時を知る、終わり悟るとはどのようなことでしょうか。それは、わたしたちの周りで今起こっていることから将来を予想して生きるということとは違います。又、あと何年後に地球が滅びるだろうと予想して歩むことではありません。大きな苦難に直面する時、人々は、この世の滅亡、滅びを感じて世の終わりを意識します。様々な苦難の中で、この世の滅亡、滅び、更には自分自身の死を意識するのです。わたしたちは大抵、「終わりの時」と聞くと、わたしたちの地上の歩み、個人の歴史が死で終わるのと同じように、この世界、人類の歴史も滅亡で終わるのではないかと思います。それは、人間が、神から離れて歩もうとうとする根本的な罪に支配されていることによると言って良いでしょう。神から離れて歩む中で、罪による苦難に直面し、更には、罪の結果引き起こされる神からの裁き、滅びとしての死を感じざるを得ないのです。
しかし、主イエスがお語りになる、世の終わりの時を悟るとは、自分たちで想像し得る範囲での世の終わり思い描き、それを恐れ、絶望しつつ歩むことではありません。更には、神の裁きを強調し、終末の切迫をいたずらに恐れることでもありません。恐れの中で、それを回避し、あるいは和らげるために、人間の努力によって、世的なことから離れて祈りにだけに生きる厭世的な歩みをすることではないのです。
その歩みは、様々な災い、人間の罪による苦難が降りかかる時に、神の救いの歴史を信じて歩むということです。この世で、常にわたしたちを取り囲んでいる罪による苦しみの中でこそ、神の救いの御支配の到来を悟るのです。
人の子の接近
わたしたちは罪による滅びの恐れの中で、苦難と終わりの日を結びつけます。しかし、主イエスは、苦難が直接、終わりのしるしだと悟れとは仰っていません。主イエスは、苦難の中で人の子が近づいていることを悟れとおっしゃっているのです。様々な苦難が襲う時に、滅びとしての終わりを自分勝手に思い描くのではなく、神の救いが世に近づいているのを見失わずに、神の救いの御支配に目を留めなくてはならないというのです。確かに、主なる神が人間に身を傾けて、救いへと導こうとして下さっている。救いの完成に向けて、ご自身の救いの歴史を進めて下さっているということを悟ることが大切なのです。わたしたちが自分勝手に、終わりのしるしだと思いたくなる様々な苦難の先に、神が定めている世の終わり、救いの完成の到来があることを悟れと言うのです。ですから、わたしたちは、自分が置かれている状況の中で起こっている苦難を取り上げて、これが、世の終わりの苦難だとか、世界は滅びるのだと絶望することは出来ません。地上を生きる上で必ず、わたしたちを取り巻いている苦しみの中で、その先にある主なる神がもたらす終わりを見つめるのです。30節では、「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」とあります。この箇所は、そのような人間が直面する苦難が世の終わりなのではないことを示していると言って良いでしょう。わたしたちは、滅びを意識せざるを得ないような苦難の中で、尚その先にある真の終わりを見つめるのです。
わたしの言葉は決して滅びない
終わりを待ち望む歩み、時を悟る歩みとは、わたしたちは、繰り返され過ぎ去って行く時間の中で、その場限りの喜びを求めて享楽的な歩みをするのでもなく、反対に、自分で想像する世の終わり、裁きによる滅びをいたずらに恐れて、厭世的な歩みをすることでもありません。世にあって、常に、主の救いの歴史が進められていることに目を向ける歩みなのです。そのような歩みを支える御言葉が31節で語られています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とあります。ここには、わたしたちの世界が滅びること、わたしたちの営みは過ぎ去っていくことが見つめられています。しかし、そのような中にあっても、決して滅びないものがあるのです。「わたしの言葉」とは、神の言葉のことです。新約聖書に記されている主イエスがお語りになった一つ一つの言葉はもちろん、この神の言葉に含まれますが、これは、それらを含め、聖書全体を通して神が人間に語りかけておられる言葉を指しているのです。本日、読まれました旧約聖書、イザヤ書第40章にも神の言葉が永遠であることが記されています。8節には次のようにあります「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。草花は枯れて行きます。ただ草花だけではない、6節で「肉なる者は皆、草に等しい」と言われ、更に7節で「この民は草に等しい」と言われているように、わたしたち人間の命、人間の営み、この世のすべては滅びて行くのです。しかし、その中で神の言葉は永遠に立つのです。神の言葉が人間の歴史を貫いて語られているのです。この神の言葉が語られるのを聞きそれに生かされて行くことがキリストを信じる者の歩みなのです。
神の言葉という時、ただ聖書に記録された文言を思い浮かべるだけでは不十分です。そこで、神が語っておられること人間に語りかけておられるという事実が見つめられなくてはなりません。「わたしの言葉」、神の言葉というのは、神がわたしたちに身を向けて語りかけておられる、愛をもって関わろうとして下さるという事実、神の行為に目を向けることが大切なのです。
主イエスの苦しみを見る
この神の言葉が最もはっきりと示されているのが、主イエス・キリストの十字架の出来事です。十字架によって、この世での様々な苦難の根本にある人間の罪に対する裁きを、神は御子、主イエスに負わせました。罪人に対する神の裁きが、神の一人子主イエスに下されているのです。それは、わたしたちが受けなければならなかった真の苦しみ、滅びです。主イエスの十字架の死、苦しみこそ、わたしたちの経験するはずであった本当の苦難、滅亡なのです。主イエスは、その人間の罪による死を、十字架においてお一人で負って下さり、更には、復活によってその死に打ち勝って下さったのです。わたしたちの罪の苦しみ、滅びの苦しみは、このことによって取り除かれているのです。そして、この救いに与った者は、主イエスと共に滅びを越えた永遠の命に与って生き始めるのです。十字架によって、わたしたちの罪が贖われているが故に、主が再び来られる世の終わりの裁きの時は、恐れるべきものではないのです。このことを告げる御言葉こそ、世を貫いて、滅びることなく語られて行くのです。そして、この御言葉に聞きつつ歩む時、この世で続いていく苦難の中にあって、その苦難の中でこそ、「人の子が戸口に近づいている」ことを悟ることが出来るのです。
主イエスの十字架においてこそ、わたしたちが経験しなくてはならない、本当の苦難、罪の裁きとしての滅びが起こっている。それ故、わたしたちは主イエスの十字架を仰ぐ時にこそ、主の救いがこの地上で行われており、その完成が近づいて来ていることを知らされるのです。その救いに与りつつ歩む歩みは、その場限りの楽しみを求める享楽的な歩みをするのでも、自らの罪の裁きとしての滅びをいたずらに恐れて世を避けて歩むのでもなく、世の直中で、真の救い、主の救いの歴史の完成が接近していること受け入れて、希望を持って待ちつつ歩むのです。そのような終わりを待ち望む歩みとは、繰り返し十字架の御業を示される中で、起こることなのです。
聖餐の食卓から
本日、共に聖餐に与ります。マルコによる福音書は第13章で、主イエスが終わりについてお語りになったすぐ後に、十字架に付けられていく過程で、弟子たちと共に囲まれた最後の食卓を記しています。この主イエスの最後の食卓にわたしたちが与る聖餐の起源があります。これは、主イエスの十字架の贖いと復活を記念するためのものです。わたしたちは、地上の歩みの中で、この主イエスの十字架を思い起こす出来事に繰り返し与っていくのです。
わたしたちの世は季節が巡って行くように進んでいきます。わたしたちの日常の歩み、愚かな過ちを繰り返す人間の歴史も続いていきます。しかし、そのような中にあって、主なる神による救いの歴史が到来しているのです。どのような時代であっても、どのような苦しみの中でも、神が語りかけている、神の救いの歴史が始まっているのです。わたしたちは聖餐に繰り返し与る中で、そのことを知らされて行くのです。聖餐に与りつつ、主イエスの十字架と復活、そして、救いの約束を思い起こし、終わりを待ち望む希望をもって歩み出したいと思います。