夕礼拝

主の前で踊る

説教題「主の前で踊る」 牧師 藤掛順一

サムエル記下 第6章12~23節

使徒言行録 第3章1~10節

十戒を入れた神の箱

 私が夕礼拝の説教を担当する日には今、旧約聖書サムエル記下よりみ言葉に聞いています。サムエル記下に入ってこれまでに読んできたのは、ダビデが全イスラエルの王となったこと、そして、エブス人の町であったエルサレムを攻め取って、そこを王の町、即ち国の新しい首都と定めたことです。これによってエルサレムは「ダビデの町」となり、イスラエルの代々の王の都となったのです。そして先月読んだ6章1~11節には、ダビデがそのエルサレムに、神の箱を運び入れようとした、ということが語られていました。神の箱とは、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民が、主なる神に遣わされたモーセに導かれてエジプトを出て、荒れ野を旅していた時に、シナイ山において神から与えられた、十戒を記した二枚の石の板を納めた箱です。このシナイ山で主なる神はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。イスラエルが主なる神の民となり、主なる神がイスラエルの神となる、という契約です。そのようにして神の民となったイスラエルに与えられたのが十戒でした。ですから十戒は、主なる神によって救われたイスラエルの民が、主なる神の民としてどのように生きるべきかを語っているものです。それゆえに、十戒の冒頭の言葉、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」が大事なのです。主なる神によってエジプトの地、奴隷の家から救われ、神の民とされたイスラエルの民に、十戒は与えられたのです。

神との出会いの場

 その十戒を納めた箱が「神の箱」ですが、それは「契約の箱」とも呼ばれています。主なる神がイスラエルの民と契約を結んで下さったことの印がこの箱だからです。この箱の蓋の部分は「贖いの座」と呼ばれています。そこにはケルビムという、翼を広げた天使のような、あるいは怪物のようなものが一対、向かい合って両端に取り付けられており、その翼を広げたケルビムの間の贖いの座こそ、主なる神が民と出会い、語りかけて下さる場であるとされています。神の箱、契約の箱は、神が民と共に歩み、ご自身を現して下さる場でもあったのです。イスラエルの民はこの神の箱を担いで荒れ野を旅していき、約束の地カナンに定住してからは、それは長くシロという町の聖所に置かれていたのです。

戦場に持ち出された神の箱

 さてサムエル記下第6章で、ダビデはこの神の箱をエルサレムに運び入れようとしているわけですが、2節にあるように、この時神の箱はバアレ・ユダという所にありました。このバアレ・ユダはサムエル記上7章1節にある「キルヤト・エアリム」の別名だ考えられています。神の箱がキルヤト・エアリム(別名バアレ・ユダ)に置かれるようになったいきさつは、サムエル記上の4~6章に語られていました。イスラエルの民は、ペリシテ人との戦いにおいて、シロに安置されていた神の箱を戦場に担ぎ出したのです。そうすれば神の力が働いて戦いに勝てるだろうと思ったからです。ところが結果は無残な敗北で、神の箱自体もペリシテ人に奪われてしまいました。その神の箱が不思議な導きによってイスラエルに返されてきて、キルヤト・エアリムに置かれるようになったのですが、この出来事は、神の箱の持つ意味を教えています。神の箱は、先ほど申しましたように、確かに、主なる神が共にいて下さり、民が神と出会うことができる場です。しかしそれは、その箱の中に神がおられる、というものではないのです。戦場に神の箱を担ぎ出して、それで戦争に勝とうとしたイスラエルの民はその意味で決定的な間違いを犯しました。彼らは、神の箱を、何かのご神体が入っている御神輿のように考えてしまったのです。しかし神の箱の中にあるのは、ご神体ではなくて、十戒の石の板です。ということは、主なる神がその中におられるのではなくて、神が民と結んで下さった契約を覚え、その契約において与えられた十戒を民が守っていく、そういう神との交わり、関係こそが大切だということをこの箱は意味しているのです。民がその契約の恵みを覚えて主なる神を礼拝する時、そこに、神ご自身が共にいて下さり、民と出会い、語りかけて下さるのです。神の箱のそういう意味が見失われて、人々が神を担ぎ出して戦いのために利用しようとするする時には、それはただの重たい箱に過ぎないものとなり、戦場では足手纏いになるだけなのです。神の箱がペリシテ人に奪われてしまったという出来事はそういうことを教えているのです。

ウザの死

 その神の箱を、ダビデは自分の町エルサレムに運び上げようとしました。しかしその時に、恐ろしい出来事が起ったことが、先月の所、6章1~11節に語られていました。神の箱を載せた車を引いていた牛がよろめいて箱が落ちそうになったのを、ウザという人が手を伸ばして支えたのです。するとウザは神の怒りに打たれてその場で死んでしまいました。この出来事によって恐れを覚えたダビデは、神の箱をエルサレムに運び上げることを一旦やめにしました。神の箱はオベド・エドムという人の家に運び込まれたのです。このウザの出来事の意味について、先月の説教でお話しましたが、そのポイントは、神の箱を自分の町エルサレムに運び入れようとしたダビデの思いの中に、かつてそれを戦場に持ち出した人々と同じ思いが働いていたのではなかったか、ということです。それまではユダ族の王だったダビデが、イスラエル全体の王となり、新しい首都を定めて、もともと部族連合体であった国を束ねていこうとしている、その時に彼は、イスラエル諸部族を一つとする精神的支柱が欲しかったのです。そこで彼は神の箱に目をつけました。神の箱を王の町エルサレムに置くことによって、エルサレムをイスラエルの宗教的、精神的な中心として、それによって自分の王国を安定させよう、という思いがダビデの中には確かにあったと思うのです。それは、神の箱を戦場に持ち出してそれによって勝利を得ようとするのと基本的に同じことです。ウザの出来事は、そういうダビデの思いに対する神からの警告だったと言えるでしょう。神の箱を、自分の目的のために利用しようとする時、神はそれに対してお怒りになるのです。ダビデはその神の怒りを感じ取ったので、神の箱をエルサレムに運び上げることをやめたのです。

オベド・エドムへの祝福

 しかしそれから三か月が経って、ダビデは再び、神の箱をエルサレムに運び入れました。それが本日の箇所です。この三か月の間にどのような変化が起ったのでしょうか。それが11節に語られています。「三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された」。神の箱が急遽運び込まれたオベド・エドムの家に、主なる神の祝福が与えられたのです。具体的にどのようなことかは分かりませんが、誰の目にもはっきりと分かる仕方で、この家庭は神の祝福を受けたのです。そのことを聞いたダビデは、神の箱をエルサレムに運び上げることにしたのです。12節「神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた」。

ダビデが悟ったこと

 このダビデの心境の変化はどういうことなのでしょうか。三か月前のウザの出来事によって、神の箱を自分の目的のために利用しようという思いを、ダビデは打ち砕かれたのです。それでは、神がオベド・エドムの家を祝福された、ということにダビデは何を見たのでしょうか。ダビデはこのことによって悟ったのだと思います。神の箱は、もともと、主なる神の祝福の印なのだということをです。神の箱は、先ほど申しましたように、主なる神がイスラエルの民と契約を結び、彼らをご自分の民として下さり、イスラエルの神となって下さった、その恵みを覚えるためのものです。その契約の恵みを覚え、神の民として生きるために与えられた十戒を大切に守りつつ神を礼拝する、そこに、神が共にいて下さり、出会って下さる、そのための場が神の箱です。ですから、神の箱が自分たちの間にある、ということは、自分たちが神の民とされており、神を礼拝することができ、神と共に歩むことができる、という祝福の印なのです。その神の祝福を喜ぶことこそ、神の箱を迎え入れることの意味です。しかしその神の祝福を喜び感謝するのではなく、それを自分のために利用しようとする時、その祝福は失われ、神の箱はかえって神の怒りをもたらすものとなってしまう、これまでイスラエルの民が、そしてダビデ自身も犯してきたのはそういう過ちだったのです。そのことに気づいた時、ダビデはもはや何の不安も恐れもなく、神の箱をエルサレムに迎えることができるようになったのです。

喜び祝って

 彼は「喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた」とあります。この「喜び祝って」ということこそ、11節までと12節以下との決定的な違いです。11節までにおいては、神の箱をエルサレムに運び上げることの基調にあるのは喜びや祝いではありません。1節にあるように、ダビデは軍の精鋭三万を集めて、その厳重な護衛のもとに神の箱を運び入れようとしました。そこにあるのはぴりぴりと張り詰めた緊張感です。5節には、神の箱の行列の前で楽器が演奏され、音楽が奏でられたということですが、その音楽はおそらく荘重な、張り詰めた、一部の隙も赦されないようなものだったのではないでしょうか。そのような中で、あのウザの出来事が起ったのです。牛がよろめいたのも、この行列の緊張感に耐え切れなくなったのかもしれません。ウザも、神の箱に粗相があってはならない、という緊張感と責任感から、手を伸ばして支えたのです。人間が神を自分の目的のために利用しようとする時、そこにはこのような緊張感、荘重さ、厳粛さが生まれるのです。宗教の世界にしばしば見られる荘厳さや厳粛さというのは、そのように、人間が神を自分の目的のために利用しようとしていることの現れだと言えるのではないでしょうか。しかし12節以降の行列の基調にあるのは、緊張感や荘厳さではなくて、喜びと祝いです。14節と15節の、ダビデと人々の姿にそれが現れています。「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた」。ダビデは力の限り踊り回りました。喜びを全身で表現したのです。それは11節までのところでは考えられなかった姿です。軍の精鋭3万を率いて神の箱を守って運び上げようとしたダビデの姿は、将軍としての姿、軍事的、政治的指導者、王としての姿です。しかし今ダビデは、そのような姿をしていません。麻のエフォドを着けていたとあります。エフォドというのは、祭司の着る祭服です。つまりダビデは今、王や将軍としてではなく、祭司としての姿で踊り回っているのです。祭司とは、神への礼拝を司る者です。ダビデは今、礼拝する者として、礼拝の喜びを全身で表して踊り回っているのです。それこそが、神の箱を迎えるのに最もふさわしい姿です。神の箱は、イスラエルの民に、神を礼拝することができる恵み、礼拝において神にお目にかかり、み言葉をいただき、神の民として生きることができる恵みの印として与えられたのです。この恵みを人間が自分のために利用しようとするなら、それに対しては神はお怒りになります。しかしこの恵み、神を礼拝する恵みを喜びと感謝をもって受ける者には、神は豊かな祝福を与えて下さるのです。

礼拝の喜びを分かち合う

 ダビデは、主の前で力の限り喜び踊りました。16節の表現によれば、主の御前で跳ね踊ったのです。これはもはや、優雅な、上品な踊りではありません。跳ね回るような、踊り狂うと言った方がよいような、そういう踊りによってダビデは、神の箱を迎える喜びを表したのです。そして神の箱を天幕に安置すると、彼は神に犠牲を献げました。17~19節「人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った」。ここには、全ての人々と喜びを分かち合うダビデの姿が描かれています。神の箱によって示されている、神の契約の恵み、神を礼拝することができる喜び、神と共に生きることができる喜びを、彼はイスラエルの全ての人と分かち合っているのです。

喜びを分かち合おうとしない者

しかしダビデの妻であったミカルだけは、その喜びを共に分かち合おうとはしませんでした。彼女は、16節にあるように、主の御前で跳ね踊るダビデを見て、心の内にさげすんだのです。また20節で彼女はこう言っています。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように」。ここからわかることは、ダビデのあの踊りは、あられもない姿での踊りだったということです。彼は麻のエフォドを着けて踊ったと先ほどありましたが、それはひょっとすると、裸の上にそれだけを身につけて踊ったのかもしれません。いずれにしても、激しく跳ね踊っている中で、ダビデは普通は人前で露わにしない裸をさらしたのです。そういうダビデの姿を見て、ミカルはさげすみ、「今日のイスラエルの王はなんとご立派でしたこと」と皮肉を言ったのです。このミカルは、サウル王の娘です。王女として、お上品に育てられたということがあったのかもしれません。しかしいずれにしても、神の箱を迎える喜びに踊り狂うダビデの姿は、王としての威厳や品位などかなぐり捨てたものだったのです。

神の選びの恵みを喜ぶ

 ミカルの言葉に対してダビデはこう答えました。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう」。これは、神の箱を迎えることの本当の意味と、その喜びに目覚めた人の言葉です。主なる神が、「お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった」、その神の選びの恵みをダビデは見つめています。主なる神が、サウルやその一族の誰でもなく、ダビデを、イスラエルの王として立てて下さったのです。ダビデは、父エッサイの末っ子であり、サムエルがその息子たちに会いたいと訪ねて来た時に、息子たちの数にも入れられていなかった者だったのです。そのダビデを神は選んで下さり、その後の様々な紆余曲折の中で、常に共にいて導いて下さり、今イスラエルの王として下さったのです。その神の恵みと、イスラエルに神の箱が与えられていることとは、実は同じ恵みです。神の箱は、神が多くの民の中から、最も貧弱な民だったイスラエルを選んで下さり、その民を導いて奴隷の苦しみから救って下さり、ご自分の民として契約を結んで下さり、約束の地を与えて下さった、その恵みの印であり、この神の選びの恵みによって、今自分たちは神を礼拝することができる、この神の民として生きることができる、その喜びが、祝福が与えられていることを示しているのです。その大いなる恵みの神のみ前で喜び踊る、それがダビデの、そして神の民イスラエルの信仰なのです。

主の前で喜び踊りつつ生きる私たち

 本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録第3章には、ペトロとヨハネとが、エルサレムの神殿の「美しい門」のところで、生まれながら足の不自由だった人を癒したという出来事が記されています。ペトロはこの人にこう語ったのです「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると彼はたちまち、踊り上がって立ち、歩き回ったり踊ったりして神を賛美しました。私たちに与えられているのは、この、ナザレの人イエス・キリストの名による救いです。神の独り子イエス・キリストが、人となってこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して罪の赦しと新しい命の恵みを与えて下さっているのです。この主イエスによって私たちは、神の選びの恵みを確信し、神を礼拝し、神と共に生きる喜びを与えられているのです。主イエス・キリストこそ、私たちにとっての神の箱、贖いの座、神の臨在の場です。この主イエスによって、私たちは、様々な悩みや苦しみから、自らの罪とそのもたらした結果から、そして病や死の苦しみの中から、立ち上がることができるのです。そして踊り回ってその喜びを表していくことができるのです。この喜びと感謝の踊りこそ私たちの信仰です。私たちは、神の箱の前で、主イエス・キリストの救いの恵みの前で、喜び踊ります。その喜びの踊りは、世の人々からは軽蔑され、卑しめられるようなことかもしれません。信仰に生きることは、決して、世の人々から尊敬されたり、あの人は立派な人だと思われることではないのです。恥かしげもなく何をおかしななことを、と思われることもあるでしょう。何が楽しくて毎週日曜日に礼拝になんか行くのか、と思われるでしょう。しかし私たちはここで、この礼拝において、何のとりえも、立派さも、正しさも持ち合わせていない私たちを選んで下さり、神の民として下さった主イエス・キリストの父なる神の語りかけを受け、その神と共に生きる者とされるのです。そしてこの主なる神のみ前で、喜び踊りつつ生きていくのです。

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