2026年8月2日 夕礼拝
説教題「天地の主である神」
列王記下 第19章1〜37節
使徒言行録 第17章22〜31節
ヒゼキヤ王
私が夕礼拝の説教を担当する日には今、旧約聖書列王記下からみ言葉に聞いています。前回は5月に第18章を読みました。18章から20章にかけてには、南王国ユダの王ヒゼキヤの治世のことが語られています。ヒゼキヤは、偶像礼拝を徹底的に退けて、主なる神のみを礼拝することに潔癖だったので、18章5節以下にはこう語られていました。「ユダの王の中で、ヒゼキヤのようにイスラエルの神、主を頼りとしていた者は後にも先にもいなかった。主に固く結び付き、付き従って離れることなく、主がモーセに命じられた戒めを守った」。
アッシリアの侵略
しかしこのヒゼキヤの治世の間に、同じイスラエルの民の国である北王国イスラエルが、アッシリアによって滅ぼされました。そしてアッシリアはさらに南王国ユダをも飲み込もうとして攻めて来たのです。18、19章はアッシリアによるユダ王国侵略の顛末を語っており、本日読む第19章はその後半です。
アッシリア王は大軍を送ってエルサレムを包囲し、降伏を求めてきました。アッシリア王の使者であるラブ・シャケがヒゼキヤとエルサレムの人々に語った言葉が18章の後半にあります。18章33節以下を読みます。「諸国民の神々は、アッシリアの王の手から自分の国を救い出したか。ハマトやアルパドの神はどこにいたのか。セファルワイムやヘナやアワの神はどこにいたのか。それらの神々はサマリアを私の手から救い出したか。その国々の神のうち、どの神が自分の国を私の手から救い出したのか。主はエルサレムを私の手から救い出すことができるとでも言うのか」。これまで多くの国々が、アッシリアに抵抗したけれども、ことごとく滅ぼされた。それぞれの国がそれぞれの神を信じ、依り頼んでいたが、どの神も、自分の民をアッシリアから救うことはできなかった。お前たちは主なる神に頼り、主が自分たちを救ってくれると期待しているが、そんなことは無駄だ。他の神々と同様に、主なる神だってアッシリアにかなうはずはない。そう言ってラブ・シャケは降伏を迫ったのです。
主なる神に祈ったヒゼキヤ
この危機に直面してヒゼキヤはどうしたでしょうか。19章1節に、「ヒゼキヤ王はこれを聞くと、衣を引き裂き、粗布をまとって主の神殿に行った」とあります。この危機の中で彼が先ずしたことは、神殿に行って主なる神のみ前に出ることでした。それは祈るためです。この後、アッシリア王からのさらなる脅しの手紙を受け取ったヒゼキヤが、それを持って主の神殿に行き、祈ったことが14節以下にも語られています。ヒゼキヤは、この未曾有の危機の中で、先ず第一に、主なる神のみ前に出て救いを求めて祈ったのです。それと同時に、2節にはこうあります。「また、宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、および祭司の長老たちにも粗布をまとわせ、預言者であるアモツの子イザヤのもとに遣わした」。ヒゼキヤは、自らが神殿で祈ると共に、重臣たちを預言者イザヤのもとに遣わしたのです。イザヤはまさにこの時期に、ユダ王国において主なる神のみ言葉を語る預言者として活動していました。その時期にユダ王国が体験した最大の危機がこのアッシリアによるエルサレム包囲でした。なのでこの出来事はイザヤ書にも語られています。イザヤ書36、37章は、列王記下の18、19章とほぼ同じ記述なのです。
衣を引き裂き、粗布をまとって
さてヒゼキヤはイザヤのもとに遣わした重臣たちにこう言わせています。4節です「生ける神を罵るために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことでしょう。あなたの神、主は、お聞きになったそ言葉をとがめられるでしょうが、あなたはここに残っている者たちのために祈りを献げてください」。ヒゼキヤは預言者イザヤにも、危機の中にあるこの民のために主なる神に祈りを献げるように求めたのです。しかし彼らは単に助けを求めて主に祈ったのではありません。ヒゼキヤは「衣を引き裂き、粗布をまとって」とあり、重臣たちにも「粗布をまとわせ」とあります。これは、深い嘆き悲しみの表現であると共に、自らの罪を悲しみ、悔いることの表現でもあります。主なる神がご自分の民として選び、愛し、導いてきて下さったイスラエルの民の中で、北王国イスラエルは既にアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダも今こうして危機にさらされている。アッシリアの王は勝ち誇って、主なる神など自分に勝てるはずはないと罵っている。主なる神の民である自分たちのゆえに、主なる神が侮られているのです。これらのことは、自分たちが神の民としてしっかり歩むことができていないからだ。ヒゼキヤは自分たちのそういう罪を自覚しており、そのことを深く悲しみ、悔いているのです。主イエス・キリストのもとに集められて新しい神の民とされている私たちも、同じような罪に陥ってはいないでしょうか。神の民である私たちのふがいなさのゆえに、世の人々が、主なる神のことを侮っており、その栄光が傷つけられている、ということが起こってはいないでしょうか。私たちもヒゼキヤと同じように、衣を引き裂き、粗布をまとって、自らの罪を悲しみ、悔いて祈るべきなのです。
「恐れるな」「見よ」
ヒゼキヤが預言者であるイザヤにも祈ることを求めたのは、イザヤがその祈りの中で主なる神のみ言葉を示され、それを伝えてくれることを願ってのことです。この危機の中でヒゼキヤは、主のみ言葉を求めたのです。イザヤも、この危機の中で既に祈っており、主の言葉を受けていました。それを使いの者たちに伝えたのが6節以下です。イザヤはこう言いました。「あなたがたの主君にこのように伝えなさい。『主はこう言われる。アッシリアの王の家臣たちが私を冒涜する言葉を聞いても、恐れるな。見ているがよい。私が王に霊を送り込むと、彼は噂を聞いて自分の国へ引き返す。そこで私は剣にかけて彼を殺す。』」。これが、主なる神がイザヤを通してヒゼキヤに語ったみ言葉です。その中心は、「恐れるな」と「見ているがよい」という二つの言葉です。アッシリアの王とその家臣たちが勝ち誇って、主なる神を冒涜している現実を前にしても「恐れるな」と主は言っておられるのです。そして主は「見ているがよい」と言って、主がなそうとしておられることをお告げになりました。これから起ることが語られているので「見ているがよい」と訳されていますが、これは文字通りには「見よ」という言葉です。例えばイザヤ書の43章19節に「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている」とありますが、この「見よ」が「見ているがよい」と同じ言葉です。つまりイザヤは、「恐れるな、主がなさることを見よ」と告げたのです。恐れて、慌てふためいて、何とかしなければと焦って動き回るのではなくて、静まって、主のなさるみ業を見なさい。この危機に際して主がヒゼキヤに告げたのはそういうことだったのです。
人の手で造られたものにすぎない神々
主はここで、アッシリアの王がある噂を聞いて自分の国に引き返し、そこで死ぬ、とお告げになりました。8節以下には、アッシリアの王のもとに、クシュの王ティルハカの挙兵の知らせが来たことが語られています。しかしその噂を聞いても、王は引き返すことはなく、さらに脅しをかけて降伏を求める手紙を送ってきました。事態はますます悪くなっていったのです。ヒゼキヤはその手紙を持って神殿に行き、主の前にそれを広げて祈りました。その祈りにおいて彼はこう言っています。17節以下です。「主よ、確かにそうです。アッシリアの王たちは諸国民とその国土を荒廃させました。彼らはそれらの神々を火に投げ込みました。しかし、それらは神ではなく、木や石であり、人の手で造られたものにすぎないので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ、どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地上のすべての王国は、あなただけが神、主であることを知るようになるでしょう」。
アッシリア王の手紙には、諸国民の神々は誰も、アッシリアから自分の民を守ることはできなかったと語られています。「主よ、確かにそうです」とヒゼキヤが言っているのはそのことです。しかし彼は、アッシリアがそれらの神々を火に投げ込み、国々を滅ぼすことができたのは、その神々が木や石であり、人の手で造られたものに過ぎなかったからだ、と言っています。しかし主なる神は、人間が造った神ではなくて、生けるまことの神であり、この世界と人間をお造りになった方です。ヒゼキヤはその主なる神に救いを求め、主こそがまことの神であられることを示して下さい、と祈り願ったのです。
主なる神のご計画、ご支配
また20節以下には、イザヤがヒゼキヤに伝えた主の言葉が記されています。主はヒゼキヤの祈りに応えて新たなみ言葉をお語りになったのです。このみ言葉は20節から34節まで続くとても長いもので、この主のみ言葉が19章の中心だと言うことができます。21節に「主がアッシリアの王について告げた言葉はこうである」とあるように、これはアッシリアの王に対して語られたもので、「あなた」というのはアッシリアの王のことです。22節に「あなたは誰を罵り、侮ったのか。誰に向かって大声を上げ、高慢な目つきをしたのか。イスラエルの聖なる方に対してではなかったか」とあります。アッシリアの王が罵り、侮り、高慢なことを言っているのは、イスラエルの神である主に対してです。その罵りの言葉が23、24節に記されています。自分は多くの戦車を率いて諸国に攻め込み、国々を滅ぼし、支配した、と彼は言っています。それはヒゼキヤに送られたあの手紙に記されている通りです。しかし25節で主なる神は、そのことがどうして起ったのか、なぜそれが可能だったのか、を語っておられます。「あなたは聞かなかったのか。はるか昔から、私がそれをなし/いにしえの日から、私がそれを計り/今、私がそれを果たしたことを。こうしてあなたは城壁に囲まれた町を破壊し/瓦礫の山にした」。アッシリアの王が城壁に囲まれた町を破壊し、瓦礫の山にしたことは、わたし、つまり主なる神が、いにしえの日から計画しておられたことであり、主なる神ご自身が今その計画を実行なさったのだ。つまり彼が諸国を征服し、支配したのは、主なる神のみ心によることなのだ、と主は告げておられるのです。また27節で主は「あなたが座るのも、出るのも、入るのも/私は知っている。私に対して、あなたが怒りに震えているのも」と言っておられます。アッシリア王がしていることも、主なる神に対して怒りに震えて敵対しているその思いも全て、主なる神は知っておられる。つまり彼の行動も思いも全て、主なる神のご支配の下にあるのです。そして28節にはこうあります。「あなたが怒りに震え/あなたが高ぶるのが私の耳に届いたので/私はあなたの鼻に鉤をかけ/あなたの口にくつわをはめ/あなたを元来た道に引き戻す」。怒り狂って暴れている動物の鼻に鉤をかけ、口にくつわをはめて無理やり引っ張っていくように、主はアッシリア王を、元来た道い引き戻す、つまり退却させるのです。
イスラエルの民への、回復のしるし
29節からは、語られている相手が変わっています。ここでの「あなた」はイスラエルの民です。主はイスラエルの民にこういうしるしをお与えになるのです。「今年は自然に実った穀物を食べ/二年目は自生したものを食べ/三年目は種を蒔いて刈り入れ/ぶどう畑を作ってその実りを食べよ」。このしるしが語っているのは、アッシリアの攻撃によって国土が荒れ果てても、その退却によって再び平穏な日々が与えられ、そして三年のうちに回復がもたらされる、ということです。主がアッシリア王を元来た道に引き戻して下さることによって、ユダ王国は救われ、30節にあるように「ユダの家に残り、難を逃れた者は/再び根を下ろし、上に実をつける」ようになるのです。32節以下には、これらのことがまとめられています。アッシリアの王が「この都に入ることはなく/彼がこの都に矢を射ることも/盾をかざして立ち向かうことも/この都に向かって塁を築くこともない。彼は元来た道を引き返し/この都に入ることはないー主の仰せ。私のため、また私の僕ダビデのため/私はこの都を守り、これを救う」。これが主なる神のなさるみ業です。恐れることなく、主なる神がなさるこのみ業を見なさい、と主はヒゼキヤに告げたのです。そして35節以下に、この主のみ業が実現したことが語られています。主の使いがアッシリアの陣営で、一晩の内に十八万五千人を撃ち殺したのです。そのためにアッシリア王は退却せざるを得なくなり、国に帰り、そこで息子たちによって殺されたのです。
18、19章の中心的な主題
私たちはこの大きな奇跡について、実際には何があったのか、疫病でも起ったのだろうか、などと興味を抱いたり、あるいは、一晩で十八万五千人を虐殺するなんてあまりにもひどい、と眉をひそめたりします。しかし、18、19章全体の中でこの奇跡そのものが持っている意味や役割はごく小さいものです。勿論この奇跡によってユダ王国はアッシリアの侵略から救われたのですが、そのことは最後にちょこっと語られているに過ぎません。つまり18、19章が語ろうとしていることの中心は、この奇跡ではないのです。繰り返し語られているのは、アッシリア王の傲慢な脅しの言葉であり、それを受けたヒゼキヤの祈りであり、そしてイザヤが告げた主の言葉です。アッシリアの王は、どの国の神々も自分に勝つことはできなかった。主なる神だって同じだ、と豪語しました。ヒゼキヤはそれを聞いて、アッシリアの王が諸国を滅ぼしてその神々を火に投げ込むことができたのは、それらが神ではなく木や石であり、人間が造ったものだからだ。しかし主なる神は、まことの神であられ、この世界の全てと人間とを造り、支配しておられる方だ。その主がみ業を行って下さって、ご自分こそ神であることを示して下さるように、と祈り願ったのです。またイザヤは、アッシリア王がしていることの全てを主なる神は知っておられ、それらは全て主のご計画の実現なのだ、と語りました。つまり、この世の権力を握っている者がどんなに驕り高ぶって、主なる神など何の力もない、と侮ったとしても、この世界を本当に支配しておられるのは主なる神なのであって、主のみ心こそが最終的に実現するのだ、とイザヤは告げたのです。アッシリア王が主を侮って語った言葉と、ヒゼキヤの祈り、そしてイザヤが告げた主の言葉、そのどちらが真実なのか、つまりこの世界を本当に支配しているのは誰なのか、そこで起こる様々な出来事は誰の思いと計画によってなされているのか、そのことこそがこの18、19章が語ろうとしている中心的な主題なのです。
バビロン捕囚の現実の中で
19章の最後のあの奇跡による救いは、主なる神こそがこの世界を支配しておられ、この世の全ての出来事は主のみ心によって実現していることを示しています。しかしこれによって、世界を本当に支配しているのは誰なのか、という問題の決着が着いたわけではありません。列王記が書かれ、読まれた時、人々はまさにその問いのまっただ中に置かれていたのです。列王記は、バビロニアによるユダ王国の滅亡とバビロン捕囚までを描いています。つまりこれが書かれた時、ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れ去られていたのです。主なる神が救ってくれるなどというのは幻想だ、というアッシリア王の言葉は、バビロニアの王によって現実となり、彼らは今まさにそのことを体験しているのです。だから彼らはまさに今、主なる神は本当にこの世界を造り、今も支配しておられるのか、むしろ人間の権力の方が力があり、主なる神もそれに打ち勝つことはできないのではないか、という深刻な問いの中にいるのです。そしてそれは私たちも同じでしょう。この世の目に見える現実のどこに、主なる神のご支配があるのか、という問いを、私たちも覚えずにはおれないのです。
生き残った者
列王記は、あるいはイザヤは、アッシリアやバビロニアによって国が滅ぼされ、多くの者が命を失い、絶望に陥っている現実を見つめています。主なる神に依り頼んでいれば国が滅びることはない、などということはないことを見つめているのです。しかし彼らはそこになお、主なる神のみ業がなされていることを見つめています。イスラエルの民の中に、わずかに生き残った者たちがおり、主なる神が彼らを用いて、神の民を新たに再建していって下さることを見つめているのです。29節に語られていたあの3年での回復のしるしは、30節にあるように「ユダの家に残り、難を逃れた者は/再び根を下ろし、上に実をつける」という仕方で実現するのです。そのことが31節には、「エルサレムから生き残った者が/シオンの山から難を逃れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成し遂げられる」と語られています。また4節において、ヒゼキヤはイザヤに「あなたはここに残っている者たちのために祈りを献げてください」と言っています。「ここに残っている者たち」って誰のことだろうと不思議に思いますが、これは31節の「生き残った者」と同じ言葉です。これも、バビロン捕囚の現実を見つめつつ語られている言葉だと言えるでしょう。この世の現実において、人間の王や権力者が力をもって支配し、その下で苦しみ悲しみ絶望が生じることが起こる。しかしそこには、神によって残された者、生き残った者がおり、神はその者たちを通してみ心を行い、ご自分こそこの世界を造り、最終的に支配しておられる方であることを示して下さる。万軍の主の熱情がそのことを必ず成し遂げて下さる、そういう希望を、列王記は、そしてイザヤ書は見つめているのです。
主イエスの十字架と復活を宣べ伝えることによって
主なる神こそが天地の主なる神であられ、全ての出来事を支配しておられることを、パウロも、アテネで語りました。そのことが先ほど共に朗読した使徒言行録第17章22節以下に語られています。このパウロの説教には、旧約聖書に語られていることとは根本的に違う新しさがあります。それは31節に「先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」とあることです。お選びになった一人の方、つまり主イエス・キリストによって神は、この世界を正しく裁く日を、つまり神のご支配が最終的に明らかになる日を定めて下さったのです。この世の目に見える現実だけを見つめていても、主なる神のご支配は見えてきません。苦しみや悲しみの中で絶望していくだけです。しかし神はその現実の中に、独り子イエス・キリストを送り、その十字架の死と復活とによって、私たちの救いを実現し、ご自分のご支配を示して下さったのです。この主イエス・キリストのもとに集められた新しい神の民である教会こそ、神がその熱情によって残して下さっている者たちです。私たちは、神のご支配をこの世に示すことができるような力ある者ではありません。むしろ神のみ栄を汚してしまうことの方が多い者です。しかし私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と、神がその主イエスを復活させて下さったことを宣べ伝えていくことによって、主イエスの父である神こそがこの世界の全てを造り、支配しておられ、そのご支配は最終的に必ず明らかになり、完成することを、世の人々に証ししていくのです。