主日礼拝

神と隣人とを愛する

2026年8月9日
説教題「神と隣人を愛する」

申命記 第10章12~22節
マタイによる福音書 第22章34~40節

最も重要な掟
 マタイによる福音書第22章34節以下には、神さまが旧約聖書において、ご自分の民イスラエルにお与えになった律法の中で、最も重要な戒めは何か、という問いに対する主イエスの答えが語られています。主なる神の民として生きる者が、最も大切にするべきことは何なのか、についての主イエスの教えがここに語られているのです。
 最も重要な戒めは二つある、と主イエスはお語りになりました。第一は、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、これは申命記6章5節です。第二は、「隣人を自分のように愛しなさい」、これはレビ記19章18節です。第一は神さまを愛すること、第二は隣人を愛すること、と要約することができます。この二つが、旧約聖書の律法の中で最も大事な、要となる教えなのです。また40節には、「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」とあります。「律法と預言者」は、当時のユダヤ人たちにとっての「聖書」、私たちにとっては「旧約聖書」ですが、その全体を指す言い方です。この二つの戒めは、律法の中で最も大事であるだけでなく、旧約聖書の全体が、この二つの戒めにかかっているのです。

旧約の時代と新約の時代
しかし私たちは、律法を守ることによって救われる、と信じているわけではありません。私たちは、旧約聖書を土台としつつも、新約聖書に示されている、主イエス・キリストを信じる信仰に生きています。私たちの救いは、律法の戒めを守ることによってではなく、主イエス・キリストを救い主と信じることによって与えられるのです。このことを見失ったら、もはやキリスト教ではなくてユダヤ教になってしまいます。旧約聖書の律法には、いろいろな祭りを行ない、そこで動物を犠牲として献げることが命じられていますが、私たちキリスト教会はそういうことを全くしていません。そういう意味では律法を守っていない、その通りに行なっていないのです。でも神がそのことをお怒りになることはありません。神は独り子イエス・キリストを救い主として遣わして下さり、主イエスの十字架と復活による救いを確立して下さったのです。律法を守ることによって救われる、という時代は、主イエス・キリストによって終ったのです。私たちは、イエス・キリストによる救いの時代、新約聖書の時代を生きているのです。

律法を完成させる主イエス
この新しい時代には、旧約聖書はもういらないのでしょうか。そうではありません。主イエスは、このマタイ福音書の第5章17節で、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃいました。主イエスは、旧約聖書の教えを廃止しようとしておられるのではなくて、むしろそれを完成させようとしておられるのです。完成させる、ということには、前のものを受け継ぐという面と、新しくするという両方の面があります。旧約聖書の律法を受け継ぎつつ、それを完成するのが主イエスの教えなのです。このように、主イエスによって律法が、受け継がれつつ新しくなり、完成する。律法の中で最も重要なこの二つの戒めにおいて、まさにそのことが実現するのです。だから主イエスによる救いにおいても、この二つが最も重要な戒めとして位置づけられるのです。祭りや犠牲についての戒めはもはや受け継ぐ必要のないものですが、この二つの戒めは、主イエス・キリストによる救いにおいても受け継がれ、その救いにあずかる神の民の新しい生き方の根本となるのです。

律法的な読み方によって落ち込む私たち
 ここまで、旧約聖書と新約聖書の関係、あるいは律法と主イエスの教えの関係を見てきました。それは、受け継ぎつつ、新しくする、完成する、という関係でした。このことは、本日の箇所を正しく読むために必要な前提です。私たちは、主イエスがお語りになったこれらの「最も重要な戒め」を、ともすれば旧約聖書的に、律法的にのみ読んではいないでしょうか。つまり、この二つの重要な戒めを守り行うことによって救いが得られる、と受け止めてはいないでしょうか。それは旧約聖書的、律法的な読み方であって、新約聖書における主イエスの教えの正しい読み方ではありません。こういう読み方をしていくと、そこには、これらの戒めによって私たちが暗い気持ちになり、落ち込んでしまう、ということが起ります。主イエスは第一に、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と命じておられる。全身全霊をもって神さまを愛しなさい、と言っておられる。しかし私たちは、心と魂と思いの全てを尽くして神を愛しているだろうか。勿論神を愛していないわけではない、愛しているからこうして礼拝に集っているのです。しかし私たちの心には、神以外のいろいろなものへの愛もあります。心の全てが神への愛に満たされているわけではありません。教会学校の礼拝や、いろいろな集会の最初のところでよく、「この一週間、私たちは神さまのことを忘れて生きてきました」という神さまへのお詫びの祈りがなされることがありますが、そのように生きてきたということは、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして」神である主を愛しては来なかった、ということです。最も重要なこの第一の戒めを行うことができていない私たちが、どうして神の救いにあずかれるのでしょうか。この戒めを守り行うことによって救いが得られる、という旧約聖書的、律法的な読み方をしていたら、自分はとうてい救われることはできない、と暗い気持ちになり、絶望するしかないのです。

神をも隣人をも中途半端にしか愛せない私たち
主イエスは第二に、「隣人を自分のように愛しなさい」とお命じになりました。以前の口語訳聖書では、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」となっていました。こちらの方が意味がはっきりしていて良い訳だと思いますが、私たちは、自分を愛するように隣人を愛しているでしょうか。隣人を愛そうとしてはいるけれども、でもどうしたって、自分のことが第一になってしまうのではないでしょうか。「自分を愛するように」ですから、主イエスは自分を愛してはいけない、と言っておられるわけではありません。自分自身を愛し、大切にすることができなければ、隣人のことも本当に愛し、大切にすることはできません。今のこの社会は、能力やスキル、眼に見える実績によって評価され、判断され、ランクづけされることが多くなっていて、自分のことを愛することが困難な時代です。その中で、自己肯定感を持てずに苦しんでいる人が多いのです。そのような私たちに、神さまは、主イエス・キリストを通して、「私はあなたを愛している」「あなたは私にとって大切な存在だ」と宣言して下さっています。この神の愛を知ることによってこそ、私たちは自分を愛し、大切にすることができるようになる。そしてそれによってこそ、隣人をも愛し、大切にすることができるようになるのです。神は独り子イエス・キリストによってそのような恵みを私たちに与えて下さっています。しかしその恵みを受けて歩んでいる私たちは、自分を愛し、大切にするのと同じように隣人を愛し、大切にしているでしょうか。しばしば私たちは、自分を愛し、自分が自己肯定感を保つことに精一杯で、隣人を自分のように愛することはできていないのが現実ではないでしょうか。神を愛することにおいて中途半端である私たちは、隣人を愛することにおいても中途半端なのです。神の戒めを守り行うことによって救われるのだとしたら、最も重要な二つの戒めのどちらも中途半端にしか守れない自分はとうてい救われるはずはない、と暗い気持ちになるのです。

神と隣人を憎んでしまう悲惨さ
 このような旧約聖書的、律法的な読み方も一方では大事です。私たちが信仰の学びのために用いている「ハイデルベルク信仰問答」は、その問四の、神の律法は我々に何を求めていますか、という問いへの答えにおいて、本日の箇所の二つの戒めをあげています。そして問五では、「あなたは、これらすべてのことを完全に行うことができますか」という問いに対して「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと、生まれつき心が傾いているからです」と答えています。これらの問答を中心とする、この信仰問答の第一部のタイトルは「人間の悲惨さについて」です。つまりこれらの二つの戒めによって、それを行うことができない私たちの罪と悲惨さが浮き彫りになるのです。先ほどは、神をも隣人をも中途半端にしか愛せないのが私たちの現実だと申しましたが、「ハイデルベルク信仰問答」は、私たちは生れつき、神と隣人を憎む方へと心が傾いている、と言っています。私たちが心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして神を愛していないのは、実は神を憎んでいるからなのです。隣人を自分のように愛していないのは、実は隣人を憎んでいるからなのです。自分の中には、神と隣人とを憎む心がある、ということを、この二つの戒めは私たちに示すのです。そのようにこの二つの戒めによって、私たちの罪と悲惨さが明らかになる、ということは確かにあるのです。

愛を語りながら憎しみに生きる悲惨さ
このことは別の角度からも見つめることができます。主イエスのこの教えは、一人の律法の専門家の、「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」という問いへの答えとして語られたのです。これは一見、真摯な問いです。しかし35節にはこの問いが、「イエスを試そうとして」なされたと語られています。彼はイエスのことをテストしてやろう、と思っているのです。「律法の中でどの戒めが最も重要か」ということは当時の律法学者たちの間で議論されており、最も重要なのはあの二つの戒めだということも語られていました。つまり彼は主イエスがこの問いに正しく答えることができるかどうかを試そうとしているのです。彼の心にあるのは、神の律法を正しく理解しようとする真剣な思いでも、神と隣人を誠実に愛そうという思いでもありません。あるのは主イエスへの敵意と憎しみです。「神を愛し、隣人を愛しなさい」という愛の命令を、憎しみのために利用しているのです。愛の戒めを語りながら憎しみに生きているのです。主イエスはその問いに正しくお答えになりました。それによって主イエスは逆に問いかけておられるのです。「神を愛し、隣人を愛することこそが律法の中心であることをあなたがたはよく知っている。それではあなたがたは、神と隣人を愛して生きているのか」。主イエスのこの問いによって、彼らの、愛を語りながら憎しみに生きている醜い、罪に満ちた悲惨な姿が明らかになっているのです。それは私たちのことでもあるでしょう。この二つの最も重要な戒めによって、私たちがいかに、神と隣人への愛から遠く離れて生きているかが明らかになるのです。

主イエスの教えの正しい読み方
 このようにこの二つの戒めは、私たちの罪とそれによる悲惨さを明らかにする、という働きをします。けれども、それだけで終わってしまったら、それはこのみ言葉を旧約聖書的、律法的にしか読んでいない、ということです。主イエスは先ほど申しましたように、この二つの戒めを通して、律法を完成させようとしておられるのです。つまり、主イエス・キリストのもとに集められ、その救いにあずかる信仰者たちにおいて、この二つの戒めが新しく受け止められ、生き方の根本に位置づけられることを示そうとしておられるのです。私たちが、自分の罪とその悲惨さに絶望して暗く落ち込んでしまうことから解放されて、明るく生き生きと、神と隣人を愛して生きる者となることこそ、主イエスがこの教えをお語りになった目的なのです。そのことへと道が開かれていくような読み方こそ、この二つの戒めの正しい読み方なのです。

私たちの決意や努力によってではなく
 そのような読み方はどうすればできるのでしょうか。私たちがこの二つの戒めを、神の命令として受け止め、固い決意をもって、神と隣人を愛する努力をしていけばそれは可能になるのでしょうか。そのように努力することは無益ではありませんが、しかしそれによって私たちが明るく生き生きと、神と隣人を愛して生きていくようになることはないでしょう。むしろそこでは、いくら頑張っても、これらの戒めを中途半端にしか行うことができない自分の悲惨さをますます思い知らされていくだけでしょう。あるいは逆に、自分は頑張ってある程度神と隣人を愛することができるようになった、と思い、そのことを自分の手柄として誇るようになり、他の人のことを、「あの人は神と隣人への愛が足りない」と裁いて批判するようになるかもしれません。それはこの律法学者と同じように、愛の教えによって人を裁き、批判する、ということです。そういうことが起るのは、神と隣人を本当に愛してはおらず、神の戒めを守っている自分の手柄を誇っている、ということです。このように、自分の決意や努力によって、神と隣人を愛する者となろうとするところには、暗く落ち込むにせよ、人を裁くにせよ、本当に明るく生き生きと、神と隣人を愛して生きることは起らないのです。それが罪人である私たちの真実であり、そこに私たちの悲惨さがあるのです。

主イエス・キリストご自身に目を向ける
 それではどうすればよいのでしょうか。その答えは、これらの戒めの言葉だけを見つめていても得られません。私たちは、これをお語りになった主イエス・キリストご自身に目を向けなければならないのです。この二つの戒めは、それを主イエス・キリストがお語りになった、ということにこそ意味があるのです。言い換えれば、旧約聖書の律法であるこれらの戒めは、主イエスがそれをお語りになったことによって、新しい意味を与えられているのです。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、それは確かに申命記の戒めですが、それをお語りになった主イエスは、神が、私たちのための救い主としてこの世に遣わして下さった独り子であり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。十字架の死へと向かう主イエスの最後の一週間の歩みの中でこのみ言葉は語られたのです。つまりこのみ言葉の背後には、主なる神が、心や魂や思いのみでなく、独り子の命まで尽くして、私たちを愛して下さっているという事実があるのです。「あなたの神である主を愛しなさい」と主イエスがお語りになった時、それは、独り子主イエスの命をも与えて私たちの神となって下さり、私たちを主イエスと共に神の子として下さった、その神の愛に応えてあなたも神を愛して生きなさい、ということなのです。本来神を「父」と呼ぶことができるのは、神の独り子である主イエスだけです。しかし神がその主イエスの命をも与えて下さって、私たちを神の子として下さったので、私たちも、神を「天の父よ」と呼んで、つまり神を天の父として愛して、天の父である神に祈りつつ生きるのです。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めは、主イエスによって、このような信仰への勧めとして私たちに与えられているのです。

善いサマリア人
 「隣人を自分のように愛しなさい」、これも確かにレビ記の戒めですが、しかしこれをお語りになった主イエスは、先ずご自身がこの通りのことを私たちのためにして下さったのです。ルカによる福音書第10章の、あの「善いサマリア人」の話を思い起こすことができます。追い剥ぎに襲われて瀕死の状態で倒れている人を、同胞であり、神に仕える者である祭司やレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎて行きましたが、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人が介抱してくれました。そのサマリア人こそ主イエス・キリストです。生れつき神と隣人を憎む方へと心が傾いており、つまり神の敵である私たちのために、主イエスはご自分の命を犠牲にして、救いを与えて下さったのです。主イエスが、敵である私たちの隣人となって、愛して下さったのです。だから私たちも、隣人となって人を愛していくのです。

神の愛の中で戒めは完成される
 律法の中で最も重要なこの二つの戒めは、このように主イエス・キリストによって、もはや単なる戒めではなくなりました。つまりこの戒めを守って神と隣人を愛することができれば神の救いを得ることができるが、それを実行できなければ救われない、というものではもはやなくなったのです。私たちは、「ハイデルベルク信仰問答」が語っているように、これらの戒めを行なうことができず、神と隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている罪人です。しかしその私たちのために神は、独り子主イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦して、新しい命の約束を与えて下さいました。私たちが神と隣人を愛するよりも前に、神が私たちを徹底的に愛し下さり、私たちの隣人となって下さり、天の父となって下さったのです。この神の愛を受けて歩む私たちは、自分の罪によって暗く落ち込んでいくのではなくて、罪を赦された者として、明るく生き生きと、神を愛し、隣人を愛して生きていくのです。それが私たちに与えられている信仰の生活です。そのようにして、これらの二つの戒めは主イエスを信じる私たちにおいて完成されていくのです。

厳しい戒めから、喜ばしい勧めへ
 私たちは、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」という二つの戒めを行っていきます。それによって救いを得るためでもなければ、それをしないと救われないからでもありません。主イエス・キリストが、ご自分の命を与えて下さったほどに私たちを愛して下さっているから、感謝して、喜んで、その愛に応えていくのです。その歩みにおいては、神と隣人をどれくらい愛することができたか、とか、人と比べてどちらの方が神と隣人を愛することができているか、などということはもはや問題ではありません。また、自分を愛しているのと同じくらいに隣人を愛することができているだろうか、と悩む必要もありません。自分はこんなにダメな、愛に乏しい、罪深い者だけれども、神さまが、主イエスが、「私はあなたを愛している。あなたは私にとって大切な者だ」と言って下さっているのです。だから私たちは、自分を大いに愛し、大切にして生きることができます。そして、神さまが同じように大切に思い、愛して下さっている隣人を愛し、大切にしていくことができるのです。律法の中で最も重要な二つの戒めは、主イエス・キリストがそれを語って下さったことによって、もはや私たちを縛りつける厳しい戒めではなく、神の愛の中で喜んで、明るく、生き生きと、積極的に愛に生きることへの勧めとなっているのです。

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