主日礼拝

喜びと貧しさが溢れ出る

「喜びと貧しさが溢れ出る」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:ホセア書第11章1-11節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第8章1-7節
・ 讃美歌:7、196、516

 コリントの教会の人々は、信仰者同士が「わたしがあなた、あなたがわたし」であるということを、忘れていました。しかし、パウロの涙ながらの手紙を受け取り、悔い改めました。そして、コリントの人々は、自分の教会の兄弟姉妹の苦しみや喜びも本当に自分のものであるということを自覚しました。その悔い改めて変えられ始めているコリントの教会の人々に対して、パウロは、本日わたしたちに与えられた8章の最初の所で、このように言っています。1節、「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。」パウロは、コリントの人々に、他の教会に与えられた神様の恵みの出来事を知らせようとしました。パウロは、コリント教会の人々になお気づいてほしいことがあり、それをこのマケドニア州の諸教会に起きた神様の恵みの出来事を通して、コリント教会の人々にあることを気付かせようとしていたのです。何を気付かせようしていたのかは、後に置いておいて、わたしたちは、まず、マケドニア州の諸教会に何が起きたのか、どんな恵みの出来事が起きたのかを見ていきたいと思います。2節「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」マケドニアの教会の人々は、苦しみを伴う激しい試みにあっていました。そして、極度に貧しくなってしまっていたことも2節の言葉からわかります。当時マケドニアは、資源が豊かな国でそこに暮らしている人が、そこまで貧しい生活を強いられるような経済状況ではなかったそうですが、キリスト者となったマケドニアの人々は、クリスチャンであることで迫害され、生活もそして州に住む他の人々とから嫌厭され、生活も貧しい状況に追い込まれていたそうです。この同じ州に生きるものからの迫害、それに伴う苦しみが、本日書かれていた激しい試練であるのでしょう。しかし、パウロは、その苦しみや貧しさの中で、マケドニアの教会の人々は「喜びが満ち満ちて」、極度に貧しいのに、「人に惜しまず施すことができる豊かさに生きている」という、「驚くべき事実」を、コリントの人々に伝えました。「生活もままならないほどに困窮していて苦しんでいるのに、どうして喜ぶことができるのか。」「その上、自分が生きるのに精一杯のものがなぜ、他者に施しをすることができるのだろうか。」とコリントの人々は思ったでしょう。わたしたちもこの箇所を聞いた時に、そのような、疑問がまず出てきたのではないかと思います。

マケドニアの諸教会が試練があり貧しくなったことにより喜ぶことができた二つの理由
 なぜマケドニアの人々は、迫害され苦しみ貧しい状態になっているのに喜ぶことができたのか。その一つの理由は、迫害に遭い、苦しめられ、貧しくさせられる中で、イエス様の歩まれた十字架への苦難の道を、言い換えれば救いに与り永遠の命を与えられる道を、自分たちも歩み始めることができていると実感できたからでありましょう。苦しみを通して、わたしたちは、イエス様と一つとなっていることを強く知ることになります。パウロは、かつてキリスト者を迫害していた時に、眩しい光のなかで復活のイエス様の声を聞きました。その時イエス様はパウロに「サウロ、サウロなぜ私を迫害するのか」と言いました。パウロは、イエス様を信じる者たちを迫害してはいましたが、イエス様を直接迫害はしていません。しかし、イエス様の中では、イエス様を信じる者は、御自身と同じになっている。それはイエス様はそれほどまでに、わたしたちと一つになってくださっているということです。わたしたちの負う痛みも苦しみをも、イエス様は本当に御自身の痛みとしてくださります。マケドニアの人々は、自分たちが迫害されていて貧しくなっている時、誰もが自分を見捨てていると思っていた時、イエス様だけは、その自分の苦しみを知ってくださっている、イエス様がひとつになっていてくださっているという恵みと慰めを強く実感することできたのでしょう。彼らは、ただこの苦しみをイエス様が共にしてくださっていることだけではなく、この苦しみこそが、自分が神様のこどもとして、しっかり歩みを始めている証拠でもあると思うことができました。イエス様の歩まれた苦難の道を辿る時、わたしたちは、イエス様の救いの御業の大きさを知ることできるのです。イエス様は、わたしたちが味わっている苦しみとは比べ物にならないほどの肉に苦しみを受け、神の子が罪人のようにされるという究極の貧しさを味わわれ、そこまでしてわたしたちを救ってくださったのです。その憐れみの深さ、恵みの大きさを、わたしたちは、わたしたちの小さな苦しみや迫害を通して、実感させられるのです。それを、マケドニアの人々は味わっていったのでしょう。恵みの大きさ、憐れみの深さを本当に実感することができたので、彼らは、喜びが満ちあふれていたのです。
 もう一つ、彼らが恵みを実感し、喜びにあふれていたのには理由があります。それは彼らの貧しさと関係があります。彼らは、貧しいからこそ、持っていないからこそ、神様から頂いている恵みを、恵みとして本当に実感することできたのです。これは、わたしたちが空腹な時こそ、食べるものが美味しいということと似ていると思います。彼らは、迫害という試練の中におかれ、貧しい状況に追い込まれました。それは先ほどのたとえとあわせれば、お腹がぺっこぺこの状態させられているとうことです。その中で、彼らは神様に日々命を支えられていること、苦しみ先に希望があることを強く実感していったのです。彼らは、自分では解決することのできない苦しみや飢えの中にいた時に、何度もそこから救い出されるという経験をしたことでしょう。苦しみの中でこそ、神様に祈ること、求めることが真剣になっていたことでしょう。そのように、わたしたちもまた、貧しい時に、苦しい時にこそ、自分ではどうにもならない弱さを感じた時こそ、神様の恵みを強く実感できるのです。
 マケドニアの人々は、自分たちの生活が、神様の恵みによって改善されたということもあったのではないかと思います。日々の糧が支えられ、まともな生活ができるようにもなった。例えれば、彼らもはやガリガリではなく、ある程度肉付きがよくなったのということです。しかし、彼らは、それ以上自分たちが太ることを望まず、「今自分たちが回復するために十分すぎるほどの恵みを頂いたし、今も続けて与えられているから、今度はその恵みを、同じようにガリガリであるような人に、分け与えたい」と思ったのです。それが、2節の「人に惜しまず施しをする」ということです。彼らは、ただ善意でもって、貧しい人に施しをしたのではないでしょう。彼らは自分たちが今生きていけているのは、神様が今もわたしたちに惜しまず、ご自分の富や糧を分け与えてくださっているからだと知っていたから、他者に施しをすることができたのです。これはわたしたちにとっても忘れてはいけない大切なことです。今わたしたちが食べているのも、住む場所、着ている服、自分の命も人生も、神様が富をさいて惜しまず与えてくださっているという事実をわたしたちは忘れてはなりません。その事実を忘れてしまうと、わたしたちは、自分の財産や持ち物、時間、すべて、自分のもの、自分で獲得したものと勘違いし、それらが失われないように必死で守ることだけに固執して生きるものとなってしまいます。マケドニアの人々は、人に惜しまず施したのは、根本には失ってもマタ神様がまたわたしたちを必ず支えてくださるから大丈夫だという確信があったからです。しかし、さらに、もう一つの動機があります。それは、分け与えることが、自分たちの恵みになるということです。それは4、5節から見ることができます。マケドニアの人々は、4節、5節にかかれてあるように、パウロに対して、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させて欲しいと言いました。ここで、聖なる者たちと語られているのは、エルサレム教会の貧しいユダヤ人キリスト者のことです。その者たちを助けるための、「慈善の業」。この「慈善」という言葉は、「交わり」という意味を持つ言葉でもあり、また贈り物という言葉です。これは、募金や献金と訳されることもあります。今日は、献金という意味で取りたいと思います。また奉仕というのは、「ディアコノス」、いまの執事を意味する言葉と一緒で、「仕える」ということです。さらに、この慈善の「業」の「業」という言葉はこの「奉仕」にもかかっているのですが、訳されている言葉の原語は、「恵み」を表す「カリス」という言葉です。これをふまえて4節を、訳し直しますと、「彼らは、聖なる者たちを助けるための献金と奉仕の恵みに参加させて欲しいとしきりにわたしたちに願いでたのです。」となります。彼らにとって、他者に対して、兄弟姉妹に対して、献金することや仕えること、つまり自分自身を献げることが、彼らにとって恵みだったということです。なぜ、それらのことが、恵みだったのかと言えば、それは、先ほど来の身体の例えで言えば、「彼らが不健康なほどに太らないため」そして「神様から恵みを美味しく喜びをもっていただくため」です。マケドニア教会の人々は、お金も、そして自分自身の時間や労力もですが、それらを他者に献げることで、自分の内に不必要に富や恵みを貯めこまないようにしていたのです。献げることが、彼らにとっても益だったのです。

恵みを流すことが大事
 わたしたちにも、神様は十分に恵みや富、日々の糧を与えてくださっています。しかし、わたしたちが自分の内に富を貯めこむ時、神様の恵みがわからなくなるという現実があります。コリントの教会も、恵みを十分に、溢れるほど受け取っていました。その事実をパウロは7節で指摘しています。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」コリント教会の人々は、信仰も与えられ、しっかりとしたみ言葉もいつも聞くことができ、学びもすることができ知恵も与えられ、熱心になることができる動機も、そして愛するパウロからの愛も、神様からの愛も十分に与えられ、富んでいたのです。この点は、わたしたち指路教会もおなじでありましょう。コリントの人々は、その富と恵みを隣人に、特に、それを持っていない他者に、受け流すことを、できていなかったのです。コリントの教会の人は、エルサレム教会への献金を自ら始めていたのですが、全然それは進んでいなかった。エルサレム教会への献金ができていないという現実で、受けた恵みを隣人や貧しい人たちに受け渡すことができておらず自分たちの内に溜め込んでいるという事実が顕になっていたのです。わたしたちはどうでしょうか。教会としてということよりも、わたしたち一人ひとり、個人として、恵みが与えられるだけになっていて、その恵みが他者に流されていていっているでしょうか。わたすことで、自分が貧しくなるほどになっているでしょうか。
 わたしたちが、富や恵みをただ蓄えているのは、わたしたちの信仰においても不健康なのです。常に満腹の状態であるのならば、三度の食事は美味しいでしょうか?わたしも、少しダイエットして痩せなくてはいけない身なのですが、よく間食をしてしまうことがあります。最近は、お腹が空いているというわけではないのに、口が寂しいからと言う理由や、またはストレスかもしれませんが、よく間食をしてしまいます。それで間食をして三度のご飯もしっかり食べるので体重が減るどころか増えるのですが、そのことが語りたいのではなく、間食をしてしまうと、三度の食事をそんなに求めなくなる。その三度の食事のありがたみがなくなる。作ってくれている友美さんへの感謝も薄くなる。なおかつ運動も全然していませんから、カロリーも消費されず、どんどん太る。そしてご飯を食べる自分に罪悪感抱くという悪循環。
 自分が空腹になるように身体を動かすことも大事で、また、自分で勝手に間食して、腹を満たすということをしないということが大事なのです。これは、信仰の事柄も一緒なのです。わたしたちが、神様からの富や恵みを受けるだけで蓄えるというのは、わたしたち食べるだけ食べて、なにも動かず、働かず、カロリーを消費しない状態と同じです。そうすると、太って不健康というだけでなく、神様から頂いている恵みのありがたさ、尊さがわからなくなってくる。信仰の場面で、わたしたちがお腹を空かせるために運動するということは、それは他者にその恵みを与えること、受け流していくということなのです。
 わたしたちは、自分が頂いているたくさんの恵みを他者に渡していると、他から見れば私たちは貧しく、痩せて見えるかもしれません。しかし、それは健康的に痩せているのです。いつも空腹かもしれないですが、神様からの恵みを本当に、しっかりと味わうことができる状態になるのです。パウロはこの喜びの状態は、この手紙の6章10節で既に語っています。「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」わたしたちを支えてくださっているのは、すべてのものを所有されている神様です。その神様がわたしたちにすべてのものを賜ってくださるのです。そのことをロマ書8章32節で確信をもってパウロが言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」と。神様は、御子をあたえてくださったのですから、わたしたちがこの世で生きるに必要なものをすべて与えてくださらないことがあるでしょうか。わたしたちが、惜しまず他者にほどこしても、主が必ず与えてくださる。この真実を受け止め、それを信じる信仰をわたしたちは今思い起こし胸に刻まなければいけません。
 わたしたちは、あらゆる富を与えてくださる神様に支えられています。「与えられた恵みを自分の内に留めたままにせず、隣人に与えなさい」と今日神様はわたしたちにお伝えくださっています。わたしたちは与えられている者を、他者に渡す時、貧しくなります。しかし、貧しくなるからこそ、今与えられている恵みを本当に実感し、喜ぶことができるのです。その時、極度の貧しさにあっても、神様の豊かさに支えられていることで、苦しみや貧しさに勝る喜びがわたしたちの内から溢れ出てくるのです。神様から与えられている恵みを自分に溜め込み、無駄にしてはなりません。わたしたちは、他者に恵みを受け渡し、貧しいようですが、多くの人を富ませ、悲しんでいるようで、常に喜ぶことができるのです。

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