主日礼拝

私たちの国籍は天にある

2026年9月20日 召天者記念礼拝
説教題「私たちの国籍は天にある」

詩編 第23編1〜6節 
フィリピの信徒への手紙 第3章17〜21節

私たちの国籍は天にある
 本日の礼拝は召天者記念礼拝です。この教会において信仰者として生き、天に召された方々のことを覚えてこの礼拝を守っています。お手元に召天者の名簿をお配りしました。これは1999年以降の召天者の名簿です。これらの方々より以前に亡くなった方々も沢山おられ、その数はもう正確には分かりません。これまで数えきれない人々が、この教会において信仰者として歩み、そして主のみもとに召されていったのです。ここにお名前が記されている方々の地上における信仰者としての歩みは、一人ひとり皆違っています。若い頃に信仰を与えられ、洗礼を受けて、長く教会に連なって生きた人もいれば、人生の最後の時に洗礼にあずかり、地上における信仰者としての歩みはほんの数日だった人もいます。あるいは、長く教会の礼拝に集っていたけれども、ついに洗礼を受けるには至らずに亡くなり、しかしご家族の信仰によって教会で葬儀が行われた、という人もいます。あるいは、長く教会員として歩んで来たけれども、教会でご葬儀を行うことができなかった人もいます。そのように、これらの方々の地上における歩み、教会との関わりは、それぞれに大きく異なっています。それはそのまま、今この礼拝に集っている私たちの間の違いでもあります。私たちの信仰者としての歩みも、教会との関わりも、それぞれ皆違っています。特にこの礼拝には、召天者のご遺族をお招きしています。この教会のあるいは他の教会の教会員であるご遺族もおられますし、洗礼を受けてはおられないけれど熱心に教会の礼拝に通っているご遺族もおられます。また当教会の召天者記念礼拝は、そのように意図したわけではないのですが、ちょうど秋のお彼岸と重なる時期になっているので、教会へ行って亡くなった家族の供養をしようか、という思いで来られた方もおられるかもしれません。召天者の方々も、また今この礼拝に集っている私たちの思いも、そのように様々に違っているわけです。その私たち皆に、本日の聖書の箇所が語りかけていることがあります。それは20節の、「私たちの国籍は天にあります」ということです。様々に異なった人生を歩んで天に召された方々も、そして今まさに様々に異なった人生を歩んでいる私たちも、皆、天に国籍がある、そのことにおいて一つなのだ、と聖書は語っているのです。

国籍?
 私たちは普段国籍ということをあまり意識せずに生ているかもしれません。しかし海外旅行に行く時などはそれを意識させられるし、その恩恵を受けます。日本の国籍があれば、日本のパスポートを取ることができます。国籍によって便宜を受け、ある保護の下に置かれるのです。しかしもう一方で、今はもう国籍にこだわっているような時代ではない。グローバルな社会において、グローバルな企業に身を置いて、国籍などに関係なくビジネスを展開している、という方々もおられるでしょう。国籍にこだわるところには自国中心主義が生まれ、それが国と国との対立を煽り、深めていく、ということがあります。世界全体でそういう風潮が高まってきていることが、現在の大きな問題だと言えるでしょう。そういう批判を尻目に、今多くの国々で、外国人を排斥し、移民に対して不寛容な政策を掲げる政党が伸びてきています。先日もドイツのある州でそういう政党が第一党となったことが報じられていました。ナチス政権下のユダヤ人虐殺への反省から外国人に寛容な歩みをしてきたドイツや、あるいは元々移民によって成り立っている国であるアメリカにおいてもそういう動きが強まっているということは、この世界全体に大きな変化が起っているということです。元々移民をほとんど受け入れていない日本においてすら、外国人の脅威を声高に述べて、「日本人ファースト」を語る政党が伸びてきています。国籍にこだわり、国の独自性を守ろうとする動きが世界中で強まっているのです。その結果、外国から来て日本で働いている人たちのみでなく、元々長くこの国の社会の一員として生きてきた在日外国人の人たちに対する差別や偏見が深まっています。

国籍が天にあるとは
 このように国籍というのは、私たちを守り便宜を与える働きをする面と、人と人とを区別し分断を生じさせるという両方の面がある、なかなかやっかいなものです。だから聖書にも「私たちの国籍は」という言葉が出てくると、少し身構えてしまう、ということがあるかもしれません。しかし大事なことは、聖書がここで、「私たちの国籍は天にある」と言っていることです。私たちは皆、地上のどこかの国ではなくて天に国籍を持っているのです。
 勿論それは、天がパスポートを出してくれる、ということではありません。私たちはこの地上においては、確かにいろいろな国の国籍を持って生きています。日本の国籍を持たない人が日本で生活していると、「在日外国人」ということになり、「外国人登録」が必要となります。外国人登録は英語では「エイリアン レジストレーション」と言うのだ、と知った時には、「エイリアンなんだ」と驚きました。同じ人間でも国籍の違う人はエイリアンと呼ばれてしまう。まあこれは「エイリアン」という映画に引きずられた感覚であって、エイリアンは元々は「余所者」ぐらいの意味でしょう。しかし聖書が「私たちの国籍は天にある」と言っているのは、この地上には国籍が違う人がエイリアン、余所者と呼ばれる現実があるけれども、私たちにおいてはそういうことは何ら根本的な違いではない、そういうことを乗り越えて私たちは一つとされているのだ、ということです。根本的に連なり、属しているものにおいて一つとされるならば、地上におけるあらゆる違いを乗り越えて私たちは一つであることができる、と聖書は語っているのです。

私たちを一つにしているもの、「天」
 私たちをそのように一つにしているものとは「天」です。私たちは皆、天に属し、天に連なっている、それが「天に国籍がある」ということです。そこに、いろいろな違いのある私たちを一つに結び合わせる絆があります。そもそも、本日覚えている召天者の方々と、今地上でこの礼拝を守っている私たちを結び合わせているのもこの「天」です。亡くなった方々を私たちは召天者と呼んでいます。天に召された方々、という意味です。それは「天」という場所に行った、ということではなくて、主イエス・キリストの父である神のもとに召され、その神のものとされ、その神のもとで平安を与えられて、神をほめたたえている、ということです。その方々と私たちを結び付けている絆は、私たちも同じ神のもとに招かれ、同じ神を礼拝している、ということです。召天者の方々は神のもとに迎えられて平安の内に神をほめたたえている、私たちもその神を今この地上において礼拝し、ほめたたえている、このことによって、召天者と私たちは一つとされているのです。召天者と私たちが一つとされているだけではありません。人間の間にある、国籍の違い、人種の違い、文化の違いなども含めたあらゆる違いが、このことによって乗り越えられて、私たちは主なる神のもとで一つとされているのです。

主イエスの再臨による救いの完成
 しかしこのことは、もう完成してしまっていることではありません。将来完成するのです。その将来とはいつか、それを20節の後半が語っています。「しかし、私たちの国籍は天にあります。」に続いて「そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます」と語られています。天とは、救い主イエス・キリストが今そこにおられ、将来そこから来られる所です。救い主イエス・キリストが十字架にかかって死んで、復活して、そして天に昇り、今は父なる神の右に座しておられる、その天が見つめられているのです。つまり天という言葉は、主イエス・キリストの十字架の死と、復活と、昇天(この場合は天に召されるではなくて天に昇る、と書くわけですが)という、神がイエス・キリストによって既に実現して下さった救いのみ業を指し示しているのです。「私たちの国籍は天にある」とは、私たちは皆、この主イエスの十字架と復活と昇天による救いにあずかり、その救いによって神のものとされている、ということを意味しているのです。そしてそれだけではありません。私たちは、その天から、主イエスが、救い主としてもう一度来られるのを待ち望んでいます。十字架の死と復活と昇天は既に実現した救いのみ業であり、私たちはその救いにあずかっているので、「私たちの国籍は天にあります」と言うことができます。しかし主イエスによる救いのみ業はそれで終わったわけではありません。まだ先があるのです。救いはまだ完成してはいないのです。その救いを完成させるために、主イエスは将来、もう一度この世に来て下さるのです。その時私たちはどうなるのか、それが21節です。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです」。主イエス・キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力、つまり全能の神の力をもってもう一度来られるのです。その再臨において、主イエスが父なる神の独り子でありまことの神であられることが、そしてその主イエスの万物に対するご支配が、全ての人に明らかになるのです。そして主イエスはその全能の力によて、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えて下さいます。「ご自身の栄光の体」それは主イエスご自身が復活して永遠の命を生きておられる体です。私たちの体は死に支配されており、いつか死んで葬られていきます。そして私たちも皆召天者となっていくのです。しかし主イエスがもう一度来て下さる時に、その私たちの「卑しい体」が、主イエスの復活の体と同じ栄光の体へと変えられます。つまり主なる神が、私たちを支配している死の力を滅ぼして、私たちをも、主イエスと同じように永遠の命を生きる者として下さるのです。その新しい命と体において、私たちは召天者の方々と、主のもとで再会し、共に主をほめたたえる者となります。その時には、天における召天者の方々の礼拝と、地上における私たちの礼拝が、一つとなるのです。私たちはこのことを待ち望んでいます。主イエスの十字架の死と復活と昇天によって既に実現した救いに感謝しつつ、その主イエスが将来もう一度来て下さることによってその救いが完成すること、私たち自身も復活して永遠の命を生きる者とされることを待ち望んでいるのです。「私たちの国籍は天にあります」というのはそういうことです。主イエスの十字架と復活と昇天によって既に実現している救いの恵みを喜びつつ、主イエスの再臨によって将来その救いが完成し、私たちにも復活と永遠の命が与えられることを待ち望んでいる。このことによって、様々な違いを持って生きている私たちが一つとされているのです。

救いへの招きが与えられている
 先ほど私は、召天者の方々にも、またこの礼拝に集っているご遺族を含めた全ての人々にも、聖書は、「私たちの国籍は天にある」と語りかけているのだ、と申しました。それは本当かな、と思った人もいるでしょう。「私たちの国籍は天にある」というのは、洗礼を受けてクリスチャンとなった人だけに言えることなのではないだろうか。私たちが覚えている召天者の方々の中にも、教会で葬儀が行われたけれども洗礼は受けておられなかった方々がいます。またここに集っているご遺族の中にも、洗礼を受けておられない方々がいます。それらの方々をも含めて「私たちの国籍は天にある」と言うことは果たしてできるのだろうか。それらの方々からしたら、「いや自分は天の国籍など得た覚えはない」ということになるのではないだろうか。「国籍が天にある」ということを、何かの権利や資格を得ている、というふうに捉えるなら、そういう疑問が生じてきます。しかし今見てきたように、ここに語られている天の国籍は、権利や資格のようなものではありません。それは主イエスがこの地上を生きて下さったことによって既に実現している救いの恵みにあずかっている、ということです。そしてその救いは、まだ完成していないのです。それが完成するのは、世の終わりに主イエスがもう一度来て下さる時です。主イエスによって既に実現している救いにあずかった者たちが、世の終わりにそれが完成することを待ち望んでいる、それが「天の国籍」です。ということは、「天の国籍」を与えられているというのは、何かの権利や資格がもう与えられているということではありません。与えられているのは、神さまからの、救いへの招きです。「私は独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架と復活と昇天とによってあなたがたの救いの土台を据え、そして将来、キリストの再臨によってその救いを完成しようとしている。その救いの完成に、あなたがたをあずからせたいと願っている。そのためにあなたがたを私のもとに招いているのだ。私のこの招きに応えて、天の国籍を持つ者としてこの世を歩み、そして終わりの日に、私が独り子イエスに与えた復活と永遠の命にあなたがたもあずかってほしい」、神はそのように私たちに語りかけておられるのです。その語りかけは、既に洗礼を受けている者だけでなく、全ての者に等しく与えられています。この礼拝に集っている私たち皆を神は、主イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天によって既に実現し、主イエスの再臨によって完成する救いへと招いておられるのです。

神の招きに応えるために
 つまり「あなたがたの国籍は天にある」というのは、救いへのパスポートが与えられているということではなくて、神が私たちを救いへと招いて下さっている、ということです。私たちは、その招きにしっかり応えていきたいのです。そこにこそ、本当に喜ばしい人生が与えられていくのです。そのことが本日の箇所の前半、17節以下に語られています。この手紙を書いたパウロは17節で「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい」と勧めています。それは、神の招きに応えようとしていない者が多い中で、この手紙を読む人々が神の招きにしっかり応えていくように、という勧めです。神の招きに応えようとしない者はどのように生きているか、それが18節に語られています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです」。キリストの十字架の敵として歩んでいる、それはつまり、キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって私たちの罪を赦し、神の子として下さっている、その救いを受け入れず、自分の罪を認めようとせず、自分はキリストによる罪の赦しなどなしにやっていける、と思っているということです。彼らは、神がキリストによって与えて下さっている救いへの招きに応えようとせず、そんな救いは必要ない、と拒んでいるのです。そのように生きている者は、19節で、「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません」と言われています。キリストによる罪の赦しなどはいらない、そんなものなしに生きていける。それはつまり、自分の力で人生十分にやっていける、ということであり、自分の人生の主人は自分だ、ということです。「腹を神とし」というのはそういうことでしょう。自分の腹、思い、考えを中心として、それによって生きている、神のみ言葉、み心に聞き従うのではなくて、自分の思いを神としているのです。それは、「恥ずべきものを誇りとし」ていることであり、「彼らの行き着くところは滅びです」とパウロは言っています。「自分の腹」、人間の思いや考えってそんなに大層なものですか、それによって人生本当に生きていくことができるのですか、いざという時に、自分の人生の主人は自分だ、ということが本当にあなたを支え生かすことができるのですか、ということです。「いざという時」の中心は、死が迫って来た時です。死において私たちは、自分が自分の主人であることはもうできません。また自分の腹、思い、考えを通すこともできません。死において私たちは、自分の命も、人生も、実は全てが自分のものではなくて、神から預けられたもの、神にお返ししなければならないものであることをはっきりと示されるのです。だからそこで、自分が主人であろうとし、自分の思いや考えを中心として歩もうとすることは、恥ずべきもの、役に立たないものを誇りとしていることであり、それは滅びに至る愚かな歩みなのです。

地上のことしか考えていない
 その愚かさの中心にあるのは、「地上のことしか考えていない」ということです。地上を生きる人生のことだけを考えて生きるなら、自分が主人となって生きることも出来るかもしれません。自分の思いや考えを神としてそれを貫くことも、能力と努力次第ではできるかもしれません。そのためには人との競争に常に打ち勝ち続けていかなければなりません。しかしたとえそのように勝利者として地上の人生を生きることができたとしても、死においてはその全てが失われるのです。そのことを考えずに、肉体の死を超えた先にあるものに目を向けずに生きることは、愚かなこと、と言うよりも、滅びと絶望に至る歩みなのです。
 「しかし、私たちの国籍は天にあります」とパウロは語っています。私たちは、地上のことしか考えないのではなくて、自分の国籍が天にあることを見つめて生きることができるのです。神が、独り子イエス・キリストによって既に実現して下さった救いへと招いて下さっており、その救いが将来、主イエスの再臨において完成し、神が死の力に勝利して私たちをも復活させ、永遠の命を生きる者として下さることを待ち望んで生きることができるのです。だから私たちは、この神の招きを大切にして生きていきたいのです。そうすれば私たちは、地上のことしか考えない、結局は滅びに至る歩みではなくて、主イエス・キリストによって約束されている復活と永遠の命を待ち望む希望に生きることができます。肉体の死を超えた希望に生きることができるのです。召天者の方々にも、そして私たちにも、この希望が与えられています。召天者の方々と私たちとが、主イエスの栄光の体と同じ形に変えられて、共に神を賛美する、その救いの完成へと、神は私たちを招いて下さっているのです。

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