説 教 「一つの霊によって」牧師 藤掛順一
旧 約 ヨエル書第3章1-5節
新 約 コリントの信徒への手紙一第12章1-31a節
ペンテコステの出来事
本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエスの復活から五十日目のこの日に、弟子たちに聖霊が降りました。彼らはそれによって力を与えられて、主イエスこそ神が遣わして下さった救い主であることを、人々に宣べ伝え始めました。そして、主イエスの十字架の死と復活によって神が実現して下さった救いを信じて、その印である洗礼を受けなさいと勧めたのです。弟子たちの勧めを聞いた人々が、その日に三千人ほど洗礼を受けた、と使徒言行録第2章に語られています。そのようにして、この世に、主イエスの名による洗礼を受けた者の群れである教会が誕生しました。ペンテコステは、聖霊が降って教会が誕生したことを記念する日なのです。
この出来事は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるヨエル書第3章の預言の成就でした。ヨエル書3章1節にこうあります。「その後(のち)/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ、あなたがたの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る」。主なる神の霊が注がれると、人々が預言するようになる。預言というのは、これから起ることを言い当てるという意味の、予めという字の予言ではなくて、預けるという字の預言です。つまり神の霊、聖霊が降ることによって、人々が、神から預けられた言葉、神の言葉を語るようになるのです。ペンテコステの日にそのことが実現し、弟子たちが神の言葉を語ったことによって教会が誕生したのです。その聖霊が今も変わらずに教会に働いて下さっています。私たちの教会の礼拝においても、聖霊のお働きによって神の言葉が語られ、聞かれているのです。
ペンテコステの日に、聖霊を受けた弟子たちが語った神の言葉を聞いた人々の中から、洗礼を受ける人たちが現れました。本日のこの礼拝においても、二人の方々が洗礼を受けます。聖霊が降り、神の言葉が語られるところには、それを信じて洗礼を受ける者たちが起されるのです。既に洗礼を受けて教会に連なっている全ての人々にそういうことが起こりました。私たちが信仰を与えられ、洗礼を受けて教会に連なっているのは、聖霊のお働きによるのです。この聖霊のお働きの始まりを記念するのが本日のペンテコステなのです。
洗礼において新しく生まれ変わらせて下さる聖霊
本日のこの礼拝では、コリントの信徒への手紙一の第12章をご一緒に読みます。その冒頭の1節には、「さて、きょうだいたち、霊の賜物については、次のことをぜひ知っておいてほしい」とあります。「霊の賜物」とは、聖霊が私たちに与えて下さるもの、ということです。言い換えれば、聖霊は私たちに何をして下さるのか、ということです。それについて、私たちがぜひ知っておくべきことがこの12章に集中して語られているのです。
その第一のこととして、3節にこう語られています。「そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も『イエスは呪われよ』とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」。この3節の後半が、教会の5月の月間聖句となっています。聖霊が私たちにして下さる、先ず第一のことは、「イエスは主である」という信仰を与えて下さることです。生まれつきの私たちはむしろ、「イエスは呪われよ」と言っていました。自分はそんなことは言っていない、と思うかもしれませんが、自分の人生の主人は自分だ、と思っており、自分の思いや願いを叶えることを求めて生きている私たちは、自分以外の者が自分の主であろうとすることを拒んでいるのではないでしょうか。神も、イエス・キリストも、自分の思う救いを与えてくれるなら、自分の願いを叶えてくれるなら受け入れて信じる、でも自分の思い通りにならず、むしろ自分の主人になろうとするような、そんな神は、そんなイエスはいらない、そんな奴は呪われよ、というのが私たちの本音なのではないでしょうか。そのように自分を主として生きている私たちが、「イエスは主である」と言うようになる、私の主人は私ではなくてイエス・キリストだ、私は主であるイエスに従う者だ、という信仰に生きる者となる、それは私たちが180度方向転換して、新しく生まれ変わることです。聖霊は私たちをそのように新しく生まれ変わらせて下さるのです。そのことの印が洗礼です。洗礼を受けるというのは、生まれつきの、罪に支配されている自分が、主イエスの十字架の死にあずかって、主イエスと共に死んで葬られ、それによって罪の支配から解放される。それと共に、主イエスの復活にもあずかって、復活した主イエスが生きておられる新しい命、永遠の命を私たちも生き始める、ということです。洗礼を受けることによって私たちは、主イエス・キリストと一つとされ、主イエスの十字架の死と復活によって実現された神の救いにあずかるのです。聖霊は私たちに「イエスは主である」という信仰を与えるだけでなく、洗礼において私たちを新しく生まれ変わらせて下さるのです。その聖霊のみ業が今日、この礼拝においてもなされるのです。
務めや働きを与えて下さる聖霊
しかし聖霊のみ業はそれだけではありません。4節には「恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」とあります。聖霊が与えて下さる恵みの賜物はいろいろあって、同じ聖霊が、私たち一人ひとりに異なった賜物を与えて下さるのです。5〜7節にはさらにこう語られています。「務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」。私たち一人一人に、いろいろな異なった務めや働きが与えられる。それは全て「霊の働き」の現れ、つまり聖霊が与えて下さるものであって、どの務めも同じ主に仕える務めだし、どの働きも同じ神の働きの現れなのだ、聖霊は一人一人にいろいろな異なった賜物を与えて下さることによって、全体の益となるようにして下さるのだ、と言われているのです。その「全体」とは、聖霊によって信仰を与えられ、洗礼を受けた者たちの群れである教会の全体です。「務め」や「働き」も、教会における務めや働きです。つまり聖霊は、私たち一人一人にいろいろな賜物を与えることによって、教会を築いておられるのです。聖霊によって「イエスは主である」という信仰を与えられた私たちは、洗礼を受けて教会のメンバーとなり、聖霊が与えて下さるいろいろな務めや働きを担う者となることによって、教会全体の益のために用いられていくのです。
いろいろな賜物を与えて下さる聖霊
でもこれは、聖霊が私たちを、教会の働きを担う労働力とする、ということではありません。「務め」や「働き」が与えられると語られていますが、聖霊が与えて下さるのはむしろ「賜物」です。それは何かをする力、能力です。聖霊が与えて下さる賜物によって私たちは、いろいろなことが出来るようになるのです。そのことが8節以下に語られています。「ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」。知恵の言葉や知識の言葉を語る力、癒やしや奇跡を行う力、預言をし、霊を見分け、異言を語り、それを解き明かす力などの様々な賜物が、聖霊によってそれぞれの人に与えられるのです。「信仰」もその賜物の一つとされています。それは他の人には信仰が与えられていないということではなくて、神を信じ信頼して全てを委ねて生きることにおける特別な賜物がその人には与えられているということでしょう。このように聖霊は、私たち一人一人にいろいろな賜物を与えて、私たちがいろいろなことが出来るようにして下さるのです。あるいは、その賜物を用いていろいろなことをしていこうとする意欲、やる気を与えて下さるのです。聖霊は私たちを教会の労働力にするのではありません。私たちは、聖霊によっていろいろな賜物を与えられると共に、それを用いていこうとする意欲を与えられて、自分の意志で、自由に活動していくのです。つまり聖霊は、私たちそれぞれが、自分の賜物、能力、才能を生かして喜んで生き生きと、充実した日々を送ることができるようにして下さるのです。しかもそのことが「全体の益」となるようにして下さる。聖霊は私たちの内でそのように働いて下さるのです。
キリストの体である教会を築いて下さる聖霊
それは聖霊が、教会を、一つの体として築いて下さる、ということです。そのことが12節以下に語られています。12、13節にこうあります。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです」。一つの体が多くの部分から成っており、多くの部分がありつつ体は一つである、ということが見つめられています。私たちの体にも、手があり足があり、目があり耳がありと、いろいろな部分があります。手は手の、足は足の、目は目の、耳は耳の、それぞれ異なった働きをしていますが、その全体で一つの体が成り立っているのです。そしてここに「キリストの場合も同様です」とあります。ここに語られているのは私たちの肉体のことではなくて、キリストのこと、キリストの体である教会のことです。聖霊は私たち一人一人に異なった賜物を与え、私たちがそれを生かしてそれぞれの働きをしていくことを通して、教会を、一つのキリストの体として築いて下さるのです。つまりここには、私たち一人一人が、自分に与えられている賜物、能力を生かして、自分の意志で、いろいろなことをしていく、そのようにして私たちが喜んで、生き生きと、自由に生きていく、そのことによって、手や足や目や耳がそれぞれ異なった働きをしつつそこに一つの体が築かれるように、一つのキリストの体がそこに築かれていく、ということが見つめられているのです。聖霊はそのようにして、キリストの体である教会を築いて下さっているのです。
一つにして下さる聖霊
ここに語られているもう一つの大事なことは、「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も」ということです。そもそも私たち一人一人の間には、元々、いろいろな違いがあるのです。ユダヤ人とギリシア人という民族の違いもあれば、奴隷と自由人という社会における立場の違いもあります。そのように私たちは一人一人みんな違っているのです。だからその私たちがただ集まっても、そこにあるのはバラバラな個人の集まりで、「一つになっている」とは言えません。13節は、そのように一人一人違っている私たちが、「一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」のだ、と語っています。私たちは、一つの霊つまり聖霊を飲ませてもらったのです。つまり聖霊が私たちの内に宿り、働いて下さっているのです。それによって、それぞれみんな違っている私たちが、「一つの体」とされているのです。「一つの霊」である聖霊が、いろいろな違いがありバラバラな私たちを、「一つの体」、キリストの体である教会において一つにして下さっているのです。洗礼を受けることによって私たちは、一つの霊、聖霊を受け、同じ一つの霊を飲んだ仲間たちと共に、一つの体、キリストの体である教会を築く部分とされるのです。本日の箇所の27節に「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」とあります。そのことが、聖霊のお働きによって実現するのです。
一人一人の違いが生かされつつ
つまり聖霊は、それぞれ元々全く異なった人間である私たちを結び合わせて、キリストの体である教会を築き、私たちを一つにして下さるのです。そしてそれと同時に、私たち一人一人に、それぞれ異なった賜物を与えて下さるのです。つまり一方では、私たちが元々持っていたいろいろな違いが、聖霊によって乗り越えられて、私たちは一つとされます。「一つの霊」である聖霊は私たちを一つにするのです。しかしもう一方で、その聖霊は私たち一人一人に、いろいろな異なった賜物を与えて下さいます。私たちは聖霊によって与えられたそれぞれの賜物、能力を生かして、自分の意志で、いろいろなことをしていくのです。それは、私たち一人一人の違いが、個性が、生かされていくということです。聖霊は私たちを一つにして下さいますが、それは私たちがみんな同じになり、画一化されるということではありません。聖霊によって一つとされた私たちは、それぞれの違いを、個性を生かして、つまり他の人とは違ったことをしながら、自分の意志で、自由に生きていくのです。そのように一人一人の違いが生かされながら、一つの体が、つまりキリストの体である教会が築かれている、それが聖霊のお働きです。聖霊を受けることによって私たちはこういうことを体験するのです。
一つであることと個性の尊重が両立する
この聖霊のお働きによって教会は誕生しました。そのことを記念するのが本日のペンテコステです。この日私たちは、この聖霊が私たちにも豊かに降り、そのみ業を行って下さることを、そして私たちのこの群れが、聖霊によってキリストの体として築かれていくことを祈り求めたいのです。つまり私たちのこの群れも、それぞれの違いを乗り越えて一つとされつつ、同時に、聖霊がぞれぞれに与えて下さっている豊かな賜物がしっかり生かされ、それぞれの個性が尊重されていく、そういう群れとして築かれていくことを願い求めたいのです。人間が集まって作っている団体においては、そういうことを妨げる力が働いています。そもそも人間の思いや常識からすれば、それぞれの違いが乗り越えられて一つとされることと、それぞれの違い、個性が生かされ、一人一人が自由に生きることとは両立しません。違いが乗り越えられて一つとされることは皆が同じになること、画一化されることであり、そこでは、それぞれの違いや個性は生かされないのです。しかし、聖霊のお働きによって築かれるキリストの体である教会においては、そのことが両立するのです。それを両立させて下さるのが、聖霊のお働きなのです。
聖霊に敵対する人間の思い
その聖霊のお働きを妨げる人間の思いは、私たちの中に、教会の中に、常に起って来ます。と言うか、私たち人間はこのような聖霊のお働きにいつも敵対しているのです。15節以下にそのことが語られています。ここには、足が「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったり、耳が「私は目ではないから、体の一部ではない」と言う、ということが語られています。これは、足や耳が、自分に与えられている賜物を、手や目に与えられている賜物と見比べて劣等感を抱き、私などこの体のために何の役に立っていない、と言う、ということです。あるいは21節以下には、目が手に向かって「お前は要らない」と言ったり、頭が足に向かって「お前たちは要らない」と言うとあります。これは今とは逆に、目や頭が、手や足に与えられている賜物を価値のないものとして、「あいつらはいらない」と言う、ということです。両者に共通しているのは、聖霊のお働きを見つめていない、ということです。自分に与えられている賜物も、人に与えられている賜物も、聖霊が、望むままに一人一人に分け与えて下さったものなのであって、どちらの方が優れているとか劣っているということはありません。しかしその聖霊のお働きを見失ってしまうと、私たちは、自分の賜物と人の賜物とを比べ始めるのです。そして優越感を覚えたり、劣等感に苦しんだりするようになるのです。そしてそうなると、自分の賜物を喜ぶことができなくなります。それは自分が自分であることを喜んで生きることができなくなる、ということです。また同時に、他の人に与えられている賜物を喜ぶこともできなくなります。他の人の個性を喜んで活かそうとするのでなく、批判して足を引っ張るようなことになるのです。それが、罪に支配されている人間の自然な姿です。しかしそこに聖霊が働いて下さるなら、それぞれの賜物の違い、個性をお互いが喜び合い、生かし合って、一つのキリストの体を築いていく、ということが起こるのです。
神のみ心を受け止めることによって
だから私たちはいつも、聖霊が自分に、この群れに働いて下さることを祈り求めていかなければなりません。そのために私たちが覚えておくべきことが22節以下に語られています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです」。これは、私たちが人のことを「弱い、つまらない、格好が悪い」などと判断している、その思いが変わるということです。何によってそれが変わるのか、それは24節後半の、「神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました」ということを受け止めるからです。神はこのようにして、劣っていると私たちが思う部分をかえって尊いものとして、一つの体を、キリストの体である教会を築いて下さっているのです。その神のみ心を受け止めることによって初めて私たちは、人のことを「弱い、つまらない、格好が悪い」と判断する思いから解放されて、26節にあるように「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ことができるようになるのです。
聖霊の招き
聖霊は私たちに「イエスは主である」という信仰を与え、洗礼において私たちを新しく生まれ変わらせ、様々な違いをもって生きている私たちをキリストの体である教会において一つに結び合わせて下さいます。その聖霊のみ業が今日も私たちの間でなされています。聖霊のお働きによって洗礼を受け、キリストの体である教会の部分とされた私たちは、礼拝において、み言葉と聖餐によって養われ、それぞれに与えられている聖霊の賜物を喜び合い、生かし合いながら生きていくことへと招かれているのです。
