主日礼拝

あなたは、わたしに従いなさい

「あなたは、わたしに従いなさい」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨシュア記 第24章14-15節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第21章20-25節
・ 讃美歌:7、510

「コロナ禍」の中でヨハネ福音書を与えられた幸い
 礼拝においてヨハネによる福音書を読み進めてきまして、ついにその最終回となりました。ヨハネ福音書の連続講解説教を始めたのは2018年の8月ですから、ほぼ3年かけてこの福音書を読んできたわけです。その後半は、新型コロナウイルスが猛威を振るう中での歩みとなりました。共に集まっての礼拝を休止せざるを得なかった期間も二ヶ月ほどありました。その間多くの皆さんは、音声を聞くか、原稿を読むことによってこの説教を聞いて来られました。まもなく150年になろうとしているこの教会の歴史においても前代未聞の事態を私たちは体験したのです。共に集まる礼拝が再開されて一年を過ぎた今も、このウイルスの影響は続いており、三回に分かれての、聖餐を行えない、讃美歌も歌えない礼拝となっています。教会は今、まことに深い試練の中にあるのです。その厳しい試練の時を、ヨハネによる福音書からみ言葉を聞きつつ歩むことができたことを私は主に心から感謝しています。ヨハネ福音書を読み始めた時には、読み終える頃にこんな事態になっているとは誰も想像していませんでしたが、主がこの試練の時に備えて導いて下さっていたのだと思います。昨年の4月、共に集まる礼拝が休止されている中で、長老会から教会員の皆さんにお送りした文書の中に私は、この福音書の16章33節のみ言葉を記しました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というみ言葉です。私自身が、「コロナ禍」の中で、このみ言葉によって支えられてきました。またこの連続講解説教の中では繰り返し、3章16節のみ言葉に立ち返りました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これらのみ言葉に、この福音書のメッセージが凝縮されています。神が、その独り子主イエス・キリストを私たちに与えて下さり、その十字架の死と復活によって、私たちを罪による滅びから救って下さった。神はそれほどまでに私たちを、この世を、愛して下さっている。今私たちは苦難の中にいるが、独り子をすら与えて下さる神の愛は、このウイルスをはじめ、私たちを神の恵みから引き離そうとするあらゆる力に既に勝利している。だから私たちは安心して、勇気をもって、この苦しみの中を忍耐して歩むことができる。そういう慰めと励ましを私たちはこの福音書から与えられてきたのです。その試練の時はまだ続いています。この福音書を通して与えられた信仰はこれからも私たちの確かな支えとなっていくでしょう。

ペトロと、イエスの愛しておられた弟子
 さてこの福音書の締めくくりである本日の箇所には、主イエスの他には、シモン・ペトロとイエスの愛しておられた弟子の二人が登場しています。そして24節には、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」とあります。「この弟子」とは、「イエスの愛しておられた弟子」です。この弟子が、ヨハネによる福音書を書いた人だとされているのです。この弟子とは、ゼべダイの子らの一人であるヨハネだと言い伝えられています。だから「ヨハネによる福音書」と呼ばれているのです。しかしこの福音書の中に、弟子のヨハネの名前は一度も出て来ません。彼は「イエスの愛しておられた弟子」としてのみ登場しています。一方シモン・ペトロの名前は繰り返し出て来ます。本日の箇所もそうですが、ペトロと、イエスの愛しておられた弟子とは、しばしば共に登場しているのです。そこに、この福音書が成立した事情が反映しているのだ、ということを繰り返しお話ししてきました。この福音書は、ヨハネの信仰を受け継いでいる教会において、紀元1世紀の終わり頃に書かれたと考えられています。自分たちの指導者であるヨハネのことを「イエスの愛しておられた弟子」と言っているところに、この教会の人々の、ヨハネに対する深い尊敬と愛が、そして自分たちがその教えを受け継いでいることへの誇りや自負が感じられます。主イエスが特別に愛しておられたヨハネ先生の信仰を我々は受け継いでいるのだ、という思いをこの教会の人々は強く持っていたのです。しかしこの弟子と共に、シモン・ペトロが、こちらははっきりと名前を記されて出て来ます。そしてしばしば、ペトロとイエスの愛しておられた弟子とを比較して、ペトロよりもこの弟子の方がより主イエスの近くにおり、主イエスに信頼されていたのだ、ということが語られているのです。主イエスの十字架の死の場面で、その真下にいたのは、主イエスの母とこの弟子であり、主イエスは母をこの弟子に「あなたの母です」と言って預け、母にはこの弟子を「あなたの子です」とおっしゃったのです。このような箇所から、ヨハネの信仰を受け継いで歩んでいたこの教会において、主イエスの弟子の筆頭だったシモン・ペトロの存在が強く意識されていたことが窺えます。ペトロが初代の教会の中心的指導者であることは誰も否定できない事実です。しかしヨハネ福音書を生み出した教会は、ヨハネの信仰を受け継ぎ、ペトロの指導の下にあった教会とは少し違う独自な歩みをしていたのです。その独自性が、他の三つの福音書とは違うヨハネ福音書の独自性として現れています。しかしそれは両者が対立していたということではありません。ペトロとイエスの愛しておられた弟子は共に主イエスの弟子であり、仲間なのです。それぞれの信仰を受け継ぐ教会がそれぞれの独自性を持ち、ある意味でライバル関係にありつつ、共に、神の子である主イエスの十字架と復活による救いに生き、その福音を宣べ伝える群れとして歩んでいる、そういう関係がこの福音書から読み取れるのです。

21章が付け加えられた
 この福音書は元々は20章までだったところに、21章がつけ加えられたのだということも、これまでに何度かお話ししてきました。紀元2世紀に入って、ヨハネの信仰を受け継ぐ教会はペトロの信仰を受け継ぐ教会に吸収され、合流していったのだと考えられます。その事情はここでは述べませんが、その合流の後、21章がつけ加えられたと思われるのです。前回読んだ21章15節以下において、主イエスがペトロに、「わたしを愛しているか」と三度問われ、ペトロも三度、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。主イエスはペトロにその都度、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃったのです。これは、主イエスがペトロを、ご自分の羊の群れである教会を牧する者としてお立てになったことを意味しています。そこには、ヨハネの信仰を受け継ぐ教会が、ペトロを、自分たちの信仰の導き手として受け入れ、その下で一つの教会となって歩み出したことが示されているものと思われます。それぞれ独自の歩みをしていた教会が、今や合流して一つとなって歩んでいることを語るために、21章がつけ加えられたのです。

主イエスの羊の群れを牧することができるのは
 カトリック教会はこのことを、ペトロが主イエスから、全世界の教会を牧する権威を授けられたと捉え、そのペトロの後継者がローマ教皇なのだと主張していますが、私たちはそのようには考えません。ここには、主イエス・キリストに従って歩む教会は一つであることが語られているのです。ペトロがその教会を牧する者とされていますが、そのペトロは、主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまった、取り返しのつかない罪に陥った人です。そのペトロに、復活した主イエスが、「わたしを愛するか」と三度問いかけて下さいました。主イエスは、三度「知らない」と言ってしまったペトロから三度「あなたを愛しています」という言葉を引き出すことによって、彼の罪を赦し、彼がもう一度、主イエスを愛し従う者として立つことができるようにして下さったのです。この主イエスの恵みによってこそ、彼は再び立ち上がることができたのです。主イエスがそのペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃったのは、ペトロ個人に権威を与えたということではなくて、このペトロのように、自分自身がとうてい救われ得ない罪人であるのに、主イエスの恵みによって罪を赦され、主イエスを愛する者にしていただいた、そのことをはっきりと自覚している者こそが、主イエスの羊の群れである教会を牧することができる、ということを語っているのです。

主イエスについて行く
 ちょっと脱線しましたが、ヨハネの信仰を受け継ぐ教会がペトロの信仰を受け継ぐ教会に合流して、一つの教会として歩み出したことが、本日の箇所の冒頭の20節にも現れています。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」とあります。イエスの愛しておられた弟子がペトロについて来ているのです。そこに、ヨハネの信仰を受け継ぐ教会がペトロの信仰を受け継ぐ教会に吸収されて、ペトロのもとで一つとなって歩み出したことが暗示されています。しかしそこで大事なことは、ペトロ自身も主イエスについて行く、つまり従って行く者だということです。ペトロも、イエスの愛しておられた弟子も、そして私たちも、皆主イエスについて行く、従って行くのです。そのことによって教会は一つであるのです。つまり教会は、誰かある指導者の権威に従うことによって一つとなるのではなくて、主イエスについて行く、主イエスに従って行くことにおいてこそ一つとされているのです。

この人はどうなるのでしょうか
 イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見たペトロは、主イエスに「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねました。この問いは、ここだけ読むと唐突な感じがしますが、その前のところからの流れにおいて読めばその意味がはっきりします。主イエスはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と三度目におっしゃった後、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」とおっしゃいました。それは「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして」語られたことだと19節にありました。つまり主イエスは、ペトロが十字架につけられて殉教の死を遂げることを予告なさったのです。その上でペトロに「わたしに従いなさい」とおっしゃいました。つまり、死をもって神の栄光を現すその時まで、わたしに従いなさい、とおっしゃったのです。主イエスの羊の群れを牧する者となるペトロに主はこのような覚悟を求めたのだと言えます。しかしそれは人間が覚悟し決意することによって実現するものではないことをペトロの歩みは示しています。彼は以前、「あなたのためなら命を捨てます」と言っていたのです。そういう覚悟、決意を持っていたのです。しかしいざとなると、三度主イエスを「知らない」と言ってしまいました。人間の決意や覚悟はそのように脆いものです。主イエスはそのような罪と弱さを抱えている私たちのために十字架にかかって死んで下さいました。主イエスの十字架の死による罪の赦しによって、ペトロはもう一度、主イエスを愛する者として、従って行く者として立てられたのです。その彼はもう、自分の決意や覚悟によって従っているのではありません。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という彼の言葉に示されているように、主イエスが自分の罪も弱さも全て知っておられ、その自分のために十字架にかかって死んで下さることによって罪を赦し、主イエスを愛する者、従っていく者として新しく生かして下さっているのです。その主イエスの恵みによってこそ彼は、殉教の死に至るまで主イエスに従い、神の栄光を現すことができるようになったのです。
 そのペトロが、共に主イエスに従っているもう一人の弟子の姿を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問うたのです。「私は死ぬことによって神の栄光を現すようになる、あなたがそのように導いて下さるなら、私はそれを受け入れ従っていきます。でもこの人はどうなるのですか」。それは私たちもしばしば抱く問いではないでしょうか。私たちも、主イエスを信じ、従って行こうとしています。それは自分の決意や覚悟によってできることではなくて、主イエスの赦しの恵みによってこそ可能となることです。その主イエスのみ心に従っていくことが私たちの信仰です。でもその信仰の歩みにおいて、他の人のことが気になるのです。「あの人はどうなるのだろう」「この人はどのように導かれるのだろうか」と問いたくなるのです。

教会が一つであるとは
 ペトロのこの問いに対して主イエスは、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」とお答えになりました。この言葉の背後には、主イエスの愛しておられた弟子ヨハネがかなり高齢になるまで生きたという事実があるようです。ペトロは紀元六十年過ぎに、皇帝ネロの迫害において殉教しましたが、ヨハネは長生きして教会を指導し続けたのです。そのために、「主イエスがもう一度来られてこの世が終わる時まで、この弟子は死なないのではないか」という噂が広まったのです。しかし主イエスはそういうことをおっしゃったのではない、とここに語られています。主イエスのお言葉の意味は、主イエスを信じて従って行くことにおいて、他の人がどのように導かれ、どうなるかはあなたとは関係ない、あなたは、自分に与えられた道を歩んで、わたしに従いなさい、ということなのです。ペトロにはペトロの、主イエスに従う人生が備えられています。それは、十字架につけられて殉教の死を遂げることによって神の栄光を現すことへと向かう歩みでした。主イエスの愛しておられた弟子ヨハネにも、彼なりの、主イエスに従う人生が備えられていました。それは、長生きして人々に主イエスのことを証しし続けるという歩みでした。主イエスを信じて従って行く歩みがどのように導かれ、どうなっていくかは、このように人によって全く違っているのです。どちらがより優れているとか、より価値があるということはありません。どちらも、主イエスの恵みと赦しのみ心によって与えられた歩みなのです。ヨハネの信仰を受け継ぐ教会とペトロの信仰を受け継ぐ教会が合流して一つになったことも、そのことを示しているのです。それぞれの教会が、それぞれに与えられた仕方で主イエスによる救いを証しし、主イエスに従っていました。そこにはそれぞれの独自性があり、個性があり、特徴がありました。しかしどちらも、主イエスに従っていくことにおいて同じ方向を向いていたのです。だからこそ、合流して一つとなることができたのです。そこに、主イエス・キリストの教会が一つであるのは何によってかが示されています。教会は、いろいろな違った意見や考えを持っている人たちが対話をして合意できることを探ることによって一つとなるのではありません。私たちそれぞれには、それぞれなりの、主イエスに従う道が備えられています。それは人によって全く違う道です。私たちは、他の人にどのような道が備えられ、どのように導かれているのかに目を奪われるのではなくて、自分に与えられている道を見極め、そこをしっかり歩んで、主イエスに従って行くことが大切なのです。勿論それは私たち自身の決意や覚悟によってできることではなくて、主の恵みによる赦しによってのみ可能となることです。主イエスの恵みによって生かされ、主イエスに従い、その十字架と復活による救いを証ししていくことによってこそ、私たちは、教会は、一つであることができるのです。

私たちの人生は主イエスのなさったことの証し
 最後の25節に面白いことが語られています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」。主イエスのなさったことを全て書き記したら、世界が、地球がその書物でいっぱいになり、足の踏み場もなくなる。今なら、デジタルデータにすればよい、ということになるかもしれませんが、これは明らかに誇張した言い方です。しかしここにも深い真理が隠されています。「イエスのなさったこと」、それは、主イエスが三十年余りと言われる地上のご生涯においてなさったことのみではありません。復活して生きておられる主イエスは、今も、私たち一人ひとりをご自分のもとに招き、私たち一人ひとりに、主イエスに従って歩む人生を与え、その人生を導いて下さっているのです。私たちが主イエスを信じて、それぞれに与えられている仕方で主イエスに従って生きていく、その私たちの信仰の歩みにおいても、主イエスはみ業を行っておられるのです。だから、信仰をもって生きる私たち一人ひとりの人生が、「イエスのなさったこと」です。私たち一人ひとりの人生が、主イエスのなさったことを証ししている書物なのです。だからこの世界には、信仰者の数だけ、主イエスのなさったことの証しが満ちているのです。その証しはそれぞれみんな違っています。多くの人の目に留まる証しもあれば、誰も見ていないところで、ただ一人の人に対してなされた愛の業という証しもあります。どちらが優れているとか、より尊いということはないのです。どちらも主イエスの恵みによって与えられていることであり、神がその独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さったことの証であり、主イエスが既に世に勝っておられることの、つまり私たちがこの世で味わうあらゆる苦難に、神の愛が既に勝利して下さっていることの証しなのです。人は誰も気づいてくれなくても、主イエス・キリストは私たちを慈しみの眼差しをもって見つめていて下さり、私たちが主イエスの恵みに支えられて、主イエスを愛し、従って歩むのを喜んで下さっています。そして今このコロナ禍の中で、主イエスによる神の愛を証しする者として私たちを立て、不安や恐れに満ちているこの世へと遣わそうとしておられるのです。「他の人はどうであれ、あなたは、わたしに従いなさい」というみ言葉が今、私たちにも語りかけられているのです。

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