主日礼拝

主イエスは生きておられる

説教「主イエスは生きておられる」牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第16編1-11節
新約聖書 使徒言行録第1章3-11節

主イエスの復活を体験した使徒たち
 本日はイースター、主イエス・キリストの復活を記念し、喜び祝う日です。そして本日は4月の第一主日、新年度最初の主の日でもあります。主イエス・キリストの復活を喜び祝うことによって2026年度を歩み始めることができるのは、幸いなことです。そして主日礼拝においては本日から、「聖書協会共同訳」を用いていきます。新しい翻訳で聖書を読むことによって、み言葉の新たな光に照らされて、2026年度を歩んでいきたいと願っています。
 本日私たちは、そして世界中のキリスト教会が、十字架につけられて死んだ主イエス・キリストが、三日目のこの日曜日の朝に復活なさったことを記念し、喜び祝っています。イエス・キリストの復活こそ私たちの救いの土台であり、信仰の中心です。私たちがこのことを信じているのは、復活した主イエスに出会った使徒たちの証言によってです。使徒たちは、復活して生きておられる主イエスと出会った、いや主イエスが彼らに現れて、ご自分が生きておられることを示して下さったのです。そのことを語っている箇所の一つが、先ほど朗読された、使徒言行録第1章の3節です。そこにはこうあります。「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」。使徒たちはこの体験を人々に語り伝えていったのです。ここから分かるように、彼らが復活を信じたのは、主イエスの遺体が次第に生気を取り戻し、ムクムクと起き上がったことを見たからではありません。苦難を受け、十字架につけられて殺され、その遺体は確かに墓に葬られた主イエスが、彼らに現れて、ご自分が生きていることをお示しになったのです。つまり彼らは、生きておられる主イエスと出会ったのです。そのことを体験した彼らにとっては、復活などあり得るのか、なぜそんなことを信じることができるのか、などということは問題ではありませんでした。彼らは主イエスの復活を「信じた」と言うよりも「体験した」のです。

神の国について話された
 復活した主イエスは使徒たちに現れて、ご自分が生きておられることを数多くの証拠をもってお示しになりました。目に見える姿で彼らの前に現れ、十字架に釘づけられた手と足の傷跡をお見せになったのです。使徒言行録の前編であるルカによる福音書の24章には、復活した主イエスが使徒たちの前で焼いた魚をムシャムシャと食べて見せた、とも語られています。本日のところの4節にも、主イエスが彼らと食事を共にされたことが語られています。食べることは肉体の営みの代表です。主イエスはそのことによって、ご自分が肉体をもって復活したことをお示しになったのです。しかしただ食べていただけではありません。3節に、主イエスは彼らに「神の国について話された」とあります。復活した主イエスは使徒たちに、「神の国について」お語りになったのです。神の国とは、神のご支配という意味です。主イエスが復活して生きておられることは、神の国、神のご支配の実現のしるしなのです。なぜなら復活は、十字架の死において主イエスを捕え支配した死の力に、神が勝利して、主イエスを死の支配から解放し、新しい命、永遠の命を与えて下さった、という出来事だからです。つまりそこでは、死の力と、神の力と、どちらが主イエスを支配するのか、という戦いがなされ、その戦いに神が勝利して、死の力が打ち破られ、命を与えて下さる神のご支配が、つまり神の国が確立したのです。主イエスは使徒たちにこの神の国、神のご支配のことを話されたのです。「見なさい、私はこのように生きている。父である神が、死の力に勝利して私に新しい命を与えて下さったのだ。私は死の支配から解放されて、今や神のご支配の下で生きている。この世界を支配しているのは、もはや死ではない。神のご支配が、神の国が、私の復活と共に始まったのだ。だからあなたがたも、もはや死の支配下にいるのではない。神のご支配の下で、神の国を生き始めているのだ」。
 主イエスは今私たちにもこのように語りかけておられます。私たちが主イエスの復活を喜び祝うのはこのことのゆえです。イエスという人がおよそ二千年前に一旦死んだけれども生き返った、ということだけなら、それは別に私たちが喜び祝うようなことではありません。「そりゃすごいですね」ということではあっても、私たちには何の関係もないことです。しかしこのことによって、神が死の力に勝利して下さったのであれば、命を与えて下さる神のご支配、神の国が、主イエスの復活によって始まったのであれば、それは私たちの人生に決定的な転換をもたらし、私たちを新しく生かす恵みの出来事なのです。

死の支配下にいる私たち
 私たちはこの礼拝において、昨年のイースター以降に天に召された教会員、および教会で葬儀が行われた方々のことを覚えています。また本日の午後には、教会の二つの墓地において墓前礼拝が行われ、そこに埋葬されている多くの方々のことを覚えると共に、何人かの方々を新たに埋葬します。これらの方々お一人おひとりに、それぞれの人生がありました。長寿を与えられた人もいれば、若くして召された方もいます。この世での働き、そこで挙げた成果、社会において果した役割も様々であり、家族との関係もいろいろでした。そして信仰生活においても、長く信仰者として生きた人もいれば、洗礼を受けて数日で亡くなった方もあり、教会において多くの役割を担った方も、そうでない方もいます。それぞれの歩んだ人生はそのように一人ひとり皆違っています。しかし全ての人に共通していることが一つあります。それは、この人たちが死んだ、ということです。社会において素晴らしい業績を挙げた人も、そうでない人も、長く信仰に生き、様々な奉仕を担ってきた人もそうでない人も、そういうことと関係なく、これら全ての人々は、死んで葬られ、今や死の支配下にいるのです。私たちは家族や親しい人の死を嘆き悲しみます。しかしどんなに嘆き悲しんでも、死の支配からこの人たちを取り戻すことはできません。私たちは嘆き悲しみつつ、死が支配している現実を受け入れ、それに慣れていくしかないと思っている。そして、いつか自分も死の支配下に置かれた時に、先に亡くなった人たちと再会できると思って自分を慰めているのではないでしょうか。

神のご支配の下で生きる人生への転換
 主イエスの復活は、そのような私たちに決定的な転換をもたらします。主イエスは十字架にかかって死んで葬られました。つまり主イエスも、死の支配下に置かれたのです。しかし三日目の日曜日の朝、主イエスは復活しました。主イエスの父である神が、主イエスを支配していた死の力に勝利して、主イエスに新しい命を、もはや死に支配されることのない永遠の命を与えて下さったのです。死の力の支配はこれによって終わり、神のご支配が、神の国が始まったのです。洗礼を受け、主イエスと結び合わされている私たちは今や、この神のご支配の下にいるのです。主イエスの復活によって、私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなくて、命を与えて下さる神なのだということが示されたのです。洗礼によって主イエスと結び合わされた私たちは、死が支配している現実を悲しみつつあきらめて受け入れるしかない人生から、死を滅ぼして私たちを新たに生かし、もはや死に支配されることのない永遠の命を与えて下さる神のご支配の下で生きる人生への転換を与えられているのです。イースターはそのことの記念日であり、私たちはこの日にそのことを喜び祝っているのです。

目に見えない主イエスを信じて生きる
 でも、目に見えるこの世の人生は何も変わっていないではないか、と私たちは思います。神のご支配、神の国が始まり、そのご支配の下で生きる新しい人生が始まったと言うが、死んだ人たちはやはり死に支配されたままだし、私たちもいつか死んで葬られていくという現実には変わりがない。死はあいかわらずこの世を、そして私たちの人生を支配しているではないか、と思うのです。つまり、主イエスの復活において示された、死の力に対する神の勝利、神のご支配、神の国は、目に見えるものとはなっていない。目に見えるこの世の現実においては、死の力がなお支配しており、私たちはそれに対して無力なのです。そのことが、本日のこの箇所においても見つめられ、語られています。主イエスが使徒たちの前に目に見える姿で現れ、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって示したのは、四十日の間でした。復活から四十日間、使徒たちは生きておられる主イエスを自分の目で見て、一緒に食事をすることもできたのです。この四十日間は特別に恵みに満ちた日々だったと言えます。しかしその日々は四十日で終わりました。9節には、その四十日の終わりに主イエスが天に昇ったことが語られています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった」。目の前に見えていた主イエスが、天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。それが復活から四十日後の昇天の出来事でした。それ以来、主イエスは天におられ、使徒信条に語られているように、「全能の父なる神の右に坐し」ておられます。しかしその主イエスを、地上を生きている私たちは見ることができません。復活して生きておられる主イエスのお姿を見ることができたのはあの四十日間だけで、その後は、使徒たちも、そして私たちも、主イエスをこの目で見ることはできないのです。目には見えないけれども、主イエスの復活によって神が死に勝利して下さり、神の国、神のご支配が既に始まっていることを信じて生きる。それが私たちの信仰なのです。

神の国の完成を待ち望みつつ生きる
 その私たちに、神は約束を与えて下さいました。そのことが10、11節に語られています。「イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる』」。雲に覆われて見えなくなった主イエスを見ようとして必死に天を見上げていた使徒たちに、天使が、「天に上げられたイエスは、またお出でになる」と告げたのです。「天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で」ということは、目に見えるお姿で、ということです。天に昇り、そのお姿をこの目で見ることができなくなった主イエスが、いつかもう一度来て下さり、復活して永遠の命を生きておられるお姿を再び見せて下さるのです。主イエスが天からもう一度来られるのはこの世の終わりの時です。その時、主イエスの復活によって打ち立てられた神のご支配、神の国が誰の目にもはっきりと分かるように示され、完成するのです。神は主イエスの昇天においてそのことを約束して下さいました。この神の約束に支えられて、主イエスがもう一度来て下さり、神のご支配、神の国が目に見える仕方で完成することを待ち望みながら歩むことが私たちの信仰なのです。

神の国はどのように築かれていくのか
 主イエスの昇天の前、まだ主イエスのお姿を目の前に見ることができていた時に、使徒たちは、6節にあるように「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねました。主イエスが復活なさったことによって神の国、神のご支配がいよいよ始まった。神の民であるイスラエルの国が、主イエスのもとでいよいよ建て直されるのだ、と彼らは思ったのです。彼らのこの思いをもっと一般化して言えば、主イエスが復活して神のご支配が始まったからには、主イエスの下でこの地上に神の国が築かれていくに違いない、ということでしょう。彼らは、神のご支配、神の国は、イスラエルのために国を建て直すという仕方で築かれていくに違いない、という理想を抱いて、その実現のために自分たちも働きたい、という使命感をもってこのように語ったのです。
 しかし主イエスは7節でこうおっしゃいました。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。主イエスは、地上に神の国が築かれていくことを否定してはおられません。しかしそれがいつどのようになされていくのかは、父である神のみ心によるのであって、あなたがたが思っているように、イスラエルの国が建て直されることによって実現するのではない、とおっしゃったのです。神の国は、私たちが思い描く理想の世界とは違います。人間が使命感をもって働くことによって築かれていくのでもありません。神のみ心、ご計画によってのみ、それは築かれていくのです。私たちは、自分の理想の実現のために使命感をもって努力することによってではなくて、神のみ心、ご計画の中で用いられることによってこそ、神の国の実現に参加することができるのです。

聖霊によって誕生する教会の伝道によって
 そのことが8節に語られています。「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」。神のご支配が地上に確立し、神の国が築かれていくのは、あなたがたが理想に燃え、使命感をもって活動していくことによってではない。あなたがたの上に聖霊が降ることによってこそ、それはなされていく。聖霊が降ることによって、あなたがたは「私の証人」となって、地の果てまで、つまり全世界の人々に、私つまり主イエス・キリストのことを宣べ伝えていく。そのことによってこそ、神の国、神のご支配は地上に確立していく。それが父である神のみ心であり、ご計画なのだ、と主イエスはおっしゃったのです。
 このことは、4、5節で主イエスがおっしゃったことと繋がっています。主イエスは使徒たちに「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受けるからである」とおっしゃいました。聖霊が彼らに降ることが、聖霊によって洗礼を受ける、と言い表されていますが、それを待ちなさい、と主イエスはお命じになったのです。「エルサレムから離れず、待ちなさい」と言われているのは、使徒たちの中に、今すぐにもエルサレムから出かけて行って、自分たちの使命感によって神の国を築くために活動しよう、という思いがあったからだと言えるでしょう。主イエスは、神の国はあなたがたの使命感による働きによって築かれるのではなくて、聖霊が降ってあなたがたが私の証人となり、私のことを宣べ伝えていく、その伝道によってこそ築かれていくのだ、とおっしゃったのです。そしてこの主イエスのお言葉通りに、主イエスの復活から四十日目の昇天を経て、五十日目のペンテコステの日に、聖霊が彼らに降り、彼らは力を受けて、主イエスによって神が成し遂げて下さった救いを宣べ伝え始めました。そして人々が洗礼を受け、教会が誕生しました。神の国、神のご支配は、聖霊によって誕生した教会とその伝道によって、この地上に築かれていったのです。

聖霊の働きによって
 主イエスをこの目で見ることはできないけれども、主イエスの復活によって神が死に勝利して下さり、神の国、神のご支配が既に始まっていることを信じて生きることが私たちの信仰です。この信仰に生きるとはどのようなことで、またそれはどのようにして可能なのか、がここに示されています。復活して天に昇られた主イエスを、地上を生きる私たちはこの目で見ることはできません。天におられる主イエスと、地上を生きている私たちの間には、大きな隔たりがあるのです。しかし神は、私たちがその隔たりを乗り越えて主イエスを信じ、主イエスと共に生きることができるようになるために、聖霊を与えて下さったのです。聖霊によって私たちは力を受けます。主イエスのお姿をこの目で見ることができなくても、主イエスの復活によって神のご支配が、神の国が実現していることを信じて生きる者とされるのです。この聖霊によって、教会が築かれています。教会は、聖霊の導きによって洗礼を受け、復活して生きておられる主イエスと結び合わされた者たちの群れです。聖霊を受けて教会に連なることによってこそ私たちは、目に見えない主イエスを信じて、自分がもはや死の支配下にいるのではなくて、命を与えて下さる神のご支配の下にあり、神の国の一員とされていることを信じて生きることができるのです。

教会に連なる者に与えられている希望
 この礼拝において一人の兄弟が聖霊の導きによって洗礼を受け、教会に連なる者となります。洗礼を受けて教会に連なった者は、聖餐にあずかりつつ歩みます。聖餐において私たちは、主イエスの十字架の死による救いの恵みにあずかるだけでなく、神が死の力に勝利して復活させて下さり、今は天において生きておられる主イエスと一つにされるのです。復活して生きておられる主イエスのお姿を私たちは今はこの目で見ることができませんが、聖餐にあずかることによって、今は天におられる主イエスと一つにされるのです。そしてその主イエスが、この世の終わりに天からもう一度来て下さって、神の国を完成して下さること、その時私たちも、死の支配から解放されて復活し、新しい命、もはや死に支配されることのない永遠の命を生きる者とされることを待ち望みつつ生きる者とされるのです。洗礼と聖餐によって主イエス・キリストと一つにされ、教会に連なって生きることによってこそ私たちは、死に勝利して主イエスを復活させて下さった神のご支配を信じて生きることができます。先に天に召され、今は死の支配下に置かれている方々も、いずれ死に支配されていく私たちも、主イエスがもう一度来て下さる世の終わりに、死の支配から解放されて復活し、永遠の命に共にあずかることにおいて再会することができるのです。教会に連なっている私たちは、死の支配をあきらめて受け入れるのではなくて、神のご支配の完成を希望をもって待ち望む者とされているのです。

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