12月24日 主日礼拝 クリスマス礼拝
説教 「仕えるために来られた方」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第98編1-9節
新約聖書 マルコによる福音書第10章45節
クリスマスの根本的な意味
本日の主日礼拝はクリスマス礼拝です。先週の主の日の礼拝において、クリスマスの洗礼式を行い、聖餐にあずかりました。ですから先週もクリスマス礼拝だったと言うことができます。今年は二週続けてクリスマスを喜び祝う礼拝を行っている、という感じです。先週の礼拝では、今主日礼拝で読み進めているマタイによる福音書の続きのところを読みましたが、本日のクリスマス礼拝では、クリスマスの意味を直接語っている箇所をご一緒に読もうと思います。それはマルコによる福音書第10章の45節です。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。ここに、クリスマスの出来事、主イエス・キリストの誕生の根本的な意味が語られているのです。
仕えるために来られた方
「人の子」というのは、主イエスがご自分のことを言っておられる言葉です。主イエスは何のためにこの世に来られたのかを、主イエスご自身が語られたのです。それは「仕えられるためではなく仕えるため」でした。主イエスは神の独り子です。つまりご自身がまことの神であられる方です。その主イエスが人間となってこの世に来られたのですから、人々は当然、主イエスを神として拝み、崇め、主イエスに仕えるべきです。しかし主イエスはそういうことを求めずに、「わたしは仕えられるためではなく仕えるために来たのだ」とおっしゃったのです。主イエスがこの世にお生まれになったのは、ご自分を低くして、僕となって、私たち人間に仕えて下さるためだったのです。これこそがクリスマスの出来事の意味であり、私たちはクリスマスにこのことを喜び祝うのです。
驚くべき出来事
神である主イエスが、私たち人間に仕えるために、人間となって下さった、これは天地がひっくり返るような、驚くべき出来事です。私たちは普通、神さまというのは人間やこの世界をはるかに越えた高いところにおられる方だと思っています。そしてその神を崇め、その神に少しでも近づくために自分を高める努力することが信仰だと思っているのではないでしょうか。つまり、私たちが普通に考えている信仰の基本的な方向性は、下から上へと向いているのです。努力して自分を高めていくことが信仰だと思っているのです。信仰をそのようなものとして捉えているので、私たちはしばしば、信仰を、倫理や道徳の教えと混同してしまいます。けれども聖書の信仰は、倫理、道徳の教えとは違います。なぜなら、聖書が語っている神は、高い所から人間を見下ろして、「お前たちがんばってここまで昇って来い」と言っている方ではないからです。人間が努力して自分を高めていくための教えが倫理、道徳ですが、聖書の神は、ご自分を低くして、僕となって、私たち人間に仕えて下さる方なのです。この神を信じて、神に仕えていただく、つまり神が恵みによって与えて下さる救いにあずかって生きることが聖書の教える信仰です。ここに、聖書の信仰の驚くべき特色があるのです。私たちがクリスマスに記念しているのも、神の独り子がご自分を低くして、私たちに仕えるためにこの世に来て下さったという驚くべき出来事なのです。
私たちが変えられるため
神の独り子主イエスが、私たちに仕えるためにこの世に来て下さったという驚くべき出来事を、私たちはどう受け止め、何をしたらよいのでしょうか。「いや別にそんなこと頼んでないよ。まあ仕えたいなら仕えてもらおうか」とふんぞり返っていていいのでしょうか。そうではないはずです。神の独り子が人間となってこの世に生まれて下さり、私たちに仕えて下さったのは、私たちが変えられていくためです。新しくされて生き始めるためです。それが救われる、ということです。主イエスは私たちを救うために、人間となってこの世に生まれ、私たちに仕えて下さったのです。その救いとは何でしょうか。私たちは救われたらどのように変えられ、新しくされるのでしょうか。
偉くなりたい、という思い
主イエスが本日のみ言葉を語られたのは、その前のところ、35節以下を受けてです。35節以下には、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスのもとに来て、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願ったことが語られています。ヤコブとヨハネの兄弟は、シモン・ペトロとアンデレの兄弟と共に、主イエスの最古参の弟子たちでした。その彼らが、主イエスが「栄光をお受けになるとき」、つまり神による救いが完成して主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、と願ったのです。つまり自分たちを王である主イエスの側近くの、最も高い地位につけてください、ということです。要するに彼らは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思ったのです。それを知った他の弟子たちは腹を立てました。それは、他の弟子たちの心の中にも同じ思いがあったということです。彼らは皆、自分が最も偉くなり、高い地位につきたい、と思っていたのです。
皆に仕える者として
主イエスはそのように思っている弟子たち皆にこうおっしゃいました。42節以下です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。それに続いて本日の45節が語られたのです。つまり主イエスが、私は仕えられるためではなく仕えるために来たのだ、とお語りになったのは、弟子たち皆の中にある、偉くなりたいという思いを指摘して、しかし私はそれとは正反対のことのためにこの世に来たのだ、私に従っているあなたがたも、私と同じ思いになってほしい、この世の支配者たちのように、人々を支配し、権力を振るうのではなくて、皆に仕える者、すべての人の僕として生きてほしい、と語りかけるためだったのです。
人と自分を見比べることによって
つまりここには、弟子たちの思いと主イエスの思いが、正反対と言えるほどに食い違っていることが示されているのです。弟子たちは、偉くなりたい、人よりも高い地位につきたいと思っています。しかし主イエスは、自分を低くして、僕となって、全ての人に仕えようとしておられるのです。私たちの思いも、この弟子たちと同じように、主イエスの思いとはかけ離れたものとなってしまっているのではないでしょうか。私たちは、自分は別に偉くなりたいとか、人よりも高い地位につきたいとは思っていない、と感じているかもしれません。この社会におけるいわゆる立身出世のようなことにおいてはそういうことが言えるかもしれません。そしてこれは念のために言っておかなければなりませんが、この社会においてより高い地位を求めたり、より上の資格を得ようとすることが信仰と矛盾する、などということは決してありません。自分の能力やスキルをより高めて、より有意義な、人々のためになる働きをするには、つまりより良く人に仕えるためには、より高い、責任ある地位につくことが有益である、ということはあるのです。だから主イエスが言っておられるのは、この世で出世してはいけない、ということではありません。弟子たちが陥っていた、主イエスの思いとは矛盾する思いとは、人と自分を見比べることの中で、人よりも上になろうとすること、そういう人との相対的な関係によって、自分の価値を確かめ、そこに拠り所を見出そうとすることです。私たちは、偉くなろうとは思っていなくても、人と自分を見比べて優越感や劣等感を覚えることはいつもしているのではないでしょうか。しかもそれを主イエスとの関係において、つまり信仰においてすらもしているのです。例えば主イエスがここで「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」とおっしゃったことを受けて、自分はどのくらい人に仕える者となっているだろうか、あの人と比べてどうか、あの人よりは自分の方がよほどよく人に仕えている、でもこの人は自分よりはるかにいろいろなことをして人に仕えている、自分はまだまだこの人の足元にも及ばない、などと考えてしまうとしたら、それは主イエスの思いとは全く違うことなのです。そのように考えてしまう私たちは、先ほど述べた、下から上へという思いに捕えられています。努力して自分を高めていくことが信仰だと勘違いしているのです。自分を低くして、人に仕える者となることにおいて、自分を高め、人より偉い者になろうとする、というわけの分からないことに陥っているのです。つまり「皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい」という主イエスの教えが、倫理、道徳の教えとして受け止めてしまっているのです。
多くの人の身代金として
主イエスがこの世に来て下さり、私たちに仕えて下さったのは、私たちをこのような思いから、つまり人と自分を見比べて優越感や劣等感を覚えていくような思いから解放して下さるためでした。自分で自分を高めていくことによって誇りや拠り所を得ようとする倫理、道徳の教えから、主イエスは私たちを解放して下さるのです。そのために主イエスが何をして下さったのか、そのことがこの45節の後半に語られています。「また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。主イエスが私たちに仕えて下さったというのはこういうことだったのです。「多くの人の身代金として自分の命を献げる」、それは主イエスが十字架にかかって死んで下さったということです。主イエスがクリスマスにこの世にお生まれになったのは、私たちのためにご自分の命を捧げて、十字架にかかって死んで下さるためでした。主イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての死だったと語られています。身代金とは、捕えられている人、捕虜となっている人を解放するために支払われる金です。その捕えられている人、捕虜となっている人とは私たちのことです。自分たちをあなたの右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、皆、自分で自分を高くして、人よりも高い者となることに誇りや拠り所を得ようとする思いに捕えられてしまっているのです。それは主イエスの思いとは違うことであり、主イエスを遣わされた父なる神のみ心にも反することです。神のみ心に反することは罪です。自分で自分を高め、そこに拠り所を求め、人と比べ合っている私たちは、罪に捕えられ、罪の捕虜となってしまっているのです。罪に支配されていると、信仰と、倫理、道徳の区別がつかなくなります。倫理、道徳の教え自体が罪であるわけではありませんが、神の恵みではなく人間の力に拠り頼もうとする罪が、倫理、道徳の教えを用いて私たちを支配しているのです。
新しく生かされる私たち
主イエス・キリストは、私たちをこの罪の支配から、倫理、道徳の支配から解放するための身代金としてご自分の命を献げ、十字架にかかって死んでくださいました。主イエスの十字架の死によって私たちは罪を赦されて、神の恵みの中を新しく生きる者とされたのです。私たちは、自分で自分を高めていって、神に近づくことによって救いを獲得するのではなくて、神の独り子が人間となり、私たちの罪を背負って歩み、十字架の死によって私たちを赦して、神の子として新しく生かして下さる、その恵みによって新しく生かされるのです。主イエスの十字架の死によって、この神の恵みが私たちに与えられたのです。それによって私たちは、自分で自分を高めて偉くなろうとする思いから、人と自分を見比べて優越感や劣等感を覚えることから解放されます。私たちを縛りつけている倫理、道徳の教えから解放されて、自由になって、喜んで神と共に生き、神のみ心に従っていくことができるのです。そのように私たちは変えられていくのです。
人に仕え、仕えられて生きる
皆に仕える者、すべての人の僕となることも、この恵みの中でこそ実現します。神の独り子主イエスが、僕となって私たちに仕えて下さり、ご自分の命をすら与えて下さった、その愛に応えて、私たちも、全く不十分にしか出来ないけれども、人に仕えていくのです。どれだけ仕えることが出来たかとか、他の人に比べてどうか、などということはもう問題ではありません。それぞれが、喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることをして人に仕えていくのです。主イエスがして下さったことに比べれば、私たちのしていることなど何ほどのこともないのですから、「自分はこれだけ仕えたのだ」などとは思わないし、「それに比べてあの人は」などとも思わないのです。また私たちは、人に仕えてもらうことをも喜ぶことができます。私たちは根本的に、主イエスに仕えていただかなければ生きることができない者なのですから、申し訳ないとか、迷惑をかけているとか、心苦しいなどいう思いは捨てて、喜んで、感謝して、人に仕えてもらうのです。主イエスは私たちがそのように、喜んで人に仕えることができ、また喜んで人に仕えてもらうことができる者になることを願っておられます。そのために人となってこの世に来て下さったのです。
私たちは新しくされる
そして主イエスは私たちを罪の支配から解放して下さるために、ご自分の命を献げて、十字架にかかって死んで下さいました。このことよって私たちは、自分を人よりも高めていこうとする思いから解放されます。人と自分を見比べて優越感や劣等感を覚えることから解放されます。倫理、道徳の教えに縛られて、それによって人をも自分をも裁くことからも解放されます。私たちの救いはそんなことによってではなくて、主イエスがご自分の命を身代金として献げて下さったことによって与えられていることを知らされるからです。これらのことから解放された私たちは、主イエス・キリストご自身がそうして下さったように、自由な者として、喜んで、自発的に、人に仕えていくのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とおっしゃった主イエスが、私たちをそのように新しく生かして下さいます。クリスマスにこの世にお生まれになった主イエスを、私たちの心にお迎えすることによって、私たちは主イエスと共に、仕えられるためではなく仕えるために生きる者となるのです。そうならなければいけない、という倫理、道徳の教えによってではなくて、神の独り子である主イエス・キリストがこの私に仕えて下さり、私のためにご自分の命を献げて下さった、その愛によって、私たちは新しくされるのです。