主日礼拝

喜ばしい知らせ

「喜ばしい知らせ」 神学生 廣瀬祥史

・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章6節
・ 新約聖書:使徒言行録 第13章44-52節
・ 讃美歌:127、402

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 今日お読みました聖書箇所は、パウロとバルナバによる第一回宣教旅行の初めの時期におけるピシディア州のアンティオキアで起きたことが書かれている箇所です。パウロは、ユダヤ人たちの会堂で、神が主イエスを救い主として遣わしてくださり、十字架の死と復活によって救いを成し遂げてくださった、という喜ばしい知らせ、福音を語りました。それを聞いて信じる人々も与えられ、次の安息日には、ほとんど町中の人々が、福音を聞くために会堂に集まりました。異邦人たちは、パウロの言葉を喜んで聞き、賛美しました。彼らが喜びと聖霊に満たされていたという、大変喜ばしい出来事が記されています。一方で、ユダヤ人たちは、多くの人々がパウロのもとに集まるのを見てひどくねたみ、パウロとバルナバを迫害したことが記されています。パウロが宣べ伝えている福音の言葉が、異邦人にとっては喜びとなり、ユダヤ人にとってはつまずきとなったことが記されているのです。
 ユダヤ人は、神によって選ばれ、神の民とされた人々でした。神はエジプトで奴隷として苦しめられていた彼らを救い出してくださいました。そして、神によって救われた彼らに、十戒を中心とする律法をお与えになりました。律法は、神によって救われ、神の民とされた彼らが、神に従って歩むためのみちしるべとして与えられたものです。救いはあくまでも神の恵みによって与えられたのであって、それに感謝して生きるために律法を守ることが求められていたのです。ところが彼らユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれているから律法を与えられているのであって、律法を守り行えば神の前に義とされ、神の民となることができると考えました。そして、熱心に律法を守るという自分の行いによって救いが得られると考えたのです。しかし、それは大きな間違いでした
 パウロは、ローマの信徒への手紙4章3節で「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」と語り、神の民の先祖であるアブラハムは、律法を行うことによって神に義とされたのではなく、神を信じたことによって義とされたのだと言っています。さらに、そこに続く4章13節で以下のように語っています。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」
 つまり、パウロは、神の民に世界を受け継がせてくださるという神の約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのだと語っているのです。この約束を成就するために、アブラハム、そしてダビデの子孫として、救い主であられる主イエスが来てくださった、と語っているのです。しかし、ユダヤ人たちは、その主イエスを受け入れず、主イエスを、神が約束し、神が与えてくださった救い主であると信じませんでした。ユダヤ人たちは、神が与えた律法を行うことこそが、神の前に義とされ、神の民とされることだと信じていたからです。確かに律法は、神がお与えになったものです。しかし律法は、それを守ることによって救いを得るためではなくて、神の恵みによって救われた者が神に従って感謝の生活を築くためだったのです。
 一方、異邦人とは、神に選ばれた民であるユダヤ人でない人々のことです。つまり彼らは神に選ばれておらず、神の民とされていません。神の民は、人間が努力してなれるものではなくて、神がそうして下さるものです。異邦人は、神の救いにあずかることはできない人々だったのです。しかし神は、まずアブラハムを選び、神の民とし、子孫と土地を与えるとの約束をなさいました。そしてアブラハムは、神を信じる信仰によって義とされました。その時、神はアブラハムに、創世記12章3節で「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」と言われたのです。つまり、神はアブラハムに、ユダヤ人も異邦人も、神による救いにあずかって、神の祝福を受けるということを、言われました。
 パウロは、この言葉を引用して、ガラテヤの信徒への手紙3章8節で「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」と語っています。つまり、神の民として選ばれていない異邦人も、神を信じる信仰によって、神の前で義とされ、神の民とされることを、
 神はアブラハムに予告していたのです。神は、その予告を実現するために、アブラハム、そしてダビデの子孫から主イエスをこの地上に送ってくださいました。そして、神の御心によって、主イエスは十字架にかけられ、死より復活させられたのです。ですから、異邦人であっても、自分の罪を悔い改めて、主イエスの名によって洗礼を受け、主イエスによる罪の赦しを与えられることで、神の救いに与り、神の前で義とされ、神の民とされるのです。異邦人は、神の民ではなかったのが、神が実現して下さった主イエスの救いの恵みに与ることによって、神の前に義とされるのです。このことは、異邦人にとって、大変喜ばしい救いの言葉です。
 パウロとバルナバは、主イエスによる救いを受け入れないユダヤ人に対して、46節から47節でこのように述べます。
 「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」この言葉は、本日お読みしたイザヤ書49章6節の言葉です。
 パウロとバルナバは、光に照らされて、自らも、光を放ち、神によって異邦人を照らす光と定められたのです。彼らが異邦人の光となったのは、神の御心によって定められたことなのです。
 その光は、主イエスです。ルカによる福音書2章31節から32節によると、主イエスが生まれ、ヨセフとマリアが、主イエスをエルサレムの神殿に連れて行くと、そこにはシメオンがおり、シメオンが主イエスを腕に抱きながら「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」と神をたたえた、と記されています。主イエスは、神がユダヤ人と異邦人の救いのために送って下さった救い主なのです。そして、神は、自分の力でいくら努力しても救いを得ることが決してできない異邦人を光よって照らしました。その光は、主イエスであり、神は、主イエスが救い主であることを啓示されたのです。
 48節で「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」とあります。異邦人たちは、神の民として選ばれていないと思っていた自分たちが、実は、神は、アブラハムの時代から、神による約束と救いの恵みが、異邦人にも与えられており、主イエスの十字架と復活によって、神がそのことを実現して下さったことを、喜んで、賛美しました。
 ここで「永遠の命に定められている人」とあります。「定められている」というのは、主イエスを信じて、神の救いの恵みにあずかるように、神が定めて下さっているということです。救いは、全く人間の努力ではなく、ただ神の恵みによって与えられるのです。
 一方、パウロを口汚くののしって、パウロに反対したユダヤ人に対して、パウロとバルナバは、46節で「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。」と語りました。神はまず初めに、イスラエルを神の民としてお選びになりました。ところが神の民として選ばれたユダヤ人が、主イエスによる救いを受け入れず、神の恵みによる救いを拒み、自らを永遠の命を得るに値しないものにしてしまっているのです。
 このように、福音の言葉が、異邦人にとっては喜びとなり、ユダヤ人にとってはつまずきとなったというのは、福音の本質を示しています。神の救いは、自分の努力によって律法を守ることで得られるのではありません。神の恵みによってのみ救われるのです。
 異邦人は、神に選ばれていないので、自分の力でいくら努力しても救いを得ることが決してできません。つまり異邦人とは、自分自身の中に救いの可能性が全くない者です。そのような異邦人に、神が主イエスを救い主として与えて下さいました。そして、神の御心によって、主イエスは十字架におかかりなり、死から復活させられたのです。主イエスは、十字架におかかりになることで、神と異邦人との間を断絶している罪を代わりに負ってくださり、主イエスの復活によって、異邦人を、罪のない清い者として、新しい命に生きることができるようにしてくださいました。異邦人であっても、自分の罪を悔い改めて、主イエスの名によって洗礼を受け、主イエスによる罪の赦しを与えられることで、神の救いの恵みに与り、神の前で義とされ、神の民とされるのです。
 ユダヤ人は、神に選ばれている民であり、律法を与えられて、神との契約の中にある民でした。しかし、それは彼らが律法を守るという自分の努力で救いを得ることができる、ということではありません。彼らもまた、神の恵みによってのみ救われるのです。神は、主イエスの十字架の死と復活によって、その救いを実現してくださいました。しかし、ユダヤ人は、その救いを実現してくださった主イエスを受け入れずに、神の恵みによる救いを拒んでいるのです。
 46節から47節でパウロとバルナバは「見なさい、異邦人の方に行く」と言いました。
 ユダヤ人が主イエスを通して与えられる神の救いを拒んだことによって、「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた。」という神の御心が示されました。異邦人にも、主イエスによって神の救いの恵みが与えられているという神の御心が示されたのです。
 50節には「ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。」と書かれてあり、パウロとバルナバは、町から追い出されます。
 しかし、52節に示されているように、ピシディア州のアンティオキアの「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」のです。パウロとバルナバが追い出されても、主イエスの光、主の言葉、福音、良い知らせは、その町から決して消えることがないのです。神のなさる御業は、なんと偉大で素晴らしいのでしょう。
 パウロを通して語られた、主イエスの福音、喜ばしい知らせは、神の民ではない異邦人を照らし、神の恵みによってのみ救われることが明らかにされました。異邦人たちは、福音の言葉を賛美し、弟子たちは、喜びと聖霊に満たされました。ユダヤ人は、先祖から与えられてきた福音を誤解して、自分たちの力で救いを得ることができると思っていました。そのため、つまずき、自ら神の救いを拒みました。
 私たちも、神の民ではない異邦人であり、本来は救いにあずかる可能性がない者でした。しかし、神の恵みによって、神は、私たちにも救い主であられる主イエスを送ってくださいました。悔い改めて、主イエスの名によって洗礼を受けることで、主イエスによる罪の赦しを与えられて、神の民とされるのです。ピシディア州のアンティオキアでの異邦人たちの喜びは、私たちの喜びでもあります。
 一方で、私たちは、ユダヤ人と同じように、自分が努力をすることによって救いを得られる、それが信仰である、という間違った思いに陥ってしまうことがあります。自分が努力することによって、自分で自分を肯定しようと一生懸命になることもあります。さらに、他人からほめられたい、認められたいという思いに駆られることもあります。しかし、それは、自らを福音にふさわしくない者にしてしまっているのです。しかし神は主イエスによって、自分で自分を肯定することができない私たちを肯定して下さっているのです。自分の力で救いを得る可能性のない私たちに救いを与えて下さっているのです。ですから、私たちはもう、自分で自分を肯定しようと頑張らなくていいのです。私たちは、神が実現して下さった、主イエスの救いの恵みに信頼して与ることで、神の民とされるのです。神が与えて下さっているこの救いによって私たちは、自分で自分を肯定しようとして頑張ったり、周囲からほめられたり、認められようとすることから自由になれるのです。そこには真の喜びがあります。異邦人たちが味わったその喜びが、ただ神から与えられる恵みを受け入れることによって、私たちにも与えられるのです。

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