主日礼拝

聖徒の交わり

「聖徒の交わり」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:レビ記 第19章1-2節
・ 新約聖書:使徒言行録 第2章41-42節
・ 讃美歌:2、393

教会は聖徒の交わり
 毎週の礼拝で告白している使徒信条の第三の部分を読みつつ、み言葉に聞いています。本日は「聖徒の交わり」という言葉についてです。この第三の部分は、聖霊なる神を信じる信仰を語っているところです。聖霊を信じることの中で、私たちは、「聖なる公同の教会」を信じ、さらに「聖徒の交わり」を信じているのです。「聖徒の交わり」とは何でしょうか。またそれを信じるとはどういうことなのでしょうか。
 「聖徒」というのは「聖なる人々」という意味です。聖なる人々の交わりが聖徒の交わりです。それが「聖なる公同の教会」に続いて語られています。「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」は同じことを指しています。そのことを明確にするために、以前は「聖なる公同の教会、すなわち聖徒の交わり」と訳していたこともあります。「すなわち」という言葉は原文にはありませんが、それを補って訳すことによって意味を明確にすることができます。要するに、教会は聖徒、つまり聖なる人々の交わりであり、教会に連なっている私たち信仰者は、聖なる人々なのです。
 そんなこと言われても困る、と私たちは思います。私は聖なる者なんかじゃない、罪をたくさんかかえている、弱さもある、清く正しく生きているとは言えない、私のような者は聖なる者ではないし、聖なる者になれ、と言われても無理だ。教会が聖なる人々の交わりなら、私はそこにいることはできない、と誰もが思うのです。それが正常な感覚です。もしも、「そうだ、私こそ聖なる者だ」と思っている人がいるとしたら、その人は自分のことが全く見えておらず、自分の現実が分かっていないと言わなければならないでしょう。私たちは誰もが罪人であって、聖なる者などと言える人は一人もいないのです。

聖なる者となるとは
 しかし、先ほど朗読された旧約聖書の箇所、レビ記第19章の始めのところで、主なる神はご自分の民であるイスラエルの人々にこう語りかけておられます。2節の後半です。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」。聖なる者である主なる神は、ご自分の民に対して、あなたたちは聖なる者となりなさい、と命じておられるのです。教会は、主なる神が遣わして下さった独り子主イエス・キリストのもとに集められた新しいイスラエル、新しい神の民です。私たちは、主イエス・キリストを信じて、その救いにあずかり、主なる神の民とされているのです。ですから、イスラエルの民に対して語られたこのみ言葉は私たちに対するみ言葉でもあります。主は私たちにも「あなたたちは聖なる者となりなさい」と命じておられるのです。
 聖なる者となる、と言われると私たちはすぐに、いわゆる聖人君子のようになることだと思ってしまいます。聖なる者とは、清く正しく罪のない生き方をしている人のことで、そんなことは自分には無理だ、と感じてしまうのです。しかし「聖なる」ということの正しい意味は、先月「聖なる公同の教会」についての説教の中でお話ししました。教会が聖なるものであるというのは、それが常に清く正しく誤りを犯すことのない群れだということではありません。同じように聖徒、聖なる人々というのも、清く正しく罪のない人々という意味ではないのです。聖書において、もともと聖なる方であるのは神お一人です。本日の箇所においても「主であるわたしは聖なる者である」と語られているように、主なる神は聖なる方です。私たち人間が聖なる者となるのは、聖なる方である神が私たちをご自分のものとして下さることによってなのです。旧約聖書の時代に、神はイスラエルの民を選んでご自分の民となさいました。それによってイスラエルは聖なる民となったのです。イスラエルの人々が清く正しく信仰深い生き方をしていたから聖なる民となったのではありません。むしろ、弱く貧弱なイスラエルの民を、主が選んでご自分の民として下さり、彼らが繰り返し神に背き、逆らってばかりいるのを忍耐して、導き、育てて下さったのです。主なる神がご自分のものだと宣言して、他のものから区別して下さったことによって、そのものや人は聖なるものや人となるのです。教会が聖なる教会であるというのもそれと同じです。主なる神が、独り子イエス・キリストのもとに選び、集めて下さった群れが教会です。この神の選びと召しによって、教会は聖なるものとされているのです。そこに連なっている私たちが聖なる者、聖徒であるのもそれと同じです。私たちが清く正しく罪のない、信仰深い者であることによって聖なる者となるのではありません。神が、弱く罪深く、神に逆らってばかりいる私たちを、それにもかかわらず選び、ご自分のもとに召し集め、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しにあずからせ、キリストの体である教会の一員として下さったことによって、私たちは神のものとされ、聖なる者とされているのです。だから私たちが聖なる者であるのは、私たちがどのような人であるかによってではなくて、神の愛と憐れみによってなのです。

聖なる者となれ、という命令
 しかし愛と憐れみによって私たちを聖なる者として下さった主は、その私たちに、「あなたたちは聖なる者となりなさい」と命じておられます。それは、「私があなたたちを選び、召し集めて私のもの、聖なる者としたのだから、その私の愛を受け止めて、私の民として、私と共に生きなさい」ということです。主なる神が愛と憐れみによって私たちを選び、招いて救いにあずからせ、ご自分の民、聖なる者として下さった、その恵みに私たちがお応えすることを主は求めておられるのです。だからこの主の命令は正確に言うならば、「あなたたちを選んで私の民、聖なる者とした私の愛に応えて、あなたたちも私を愛し、私の民として私のもとで歩みなさい」ということです。あなたたちが清く正しく罪がない立派な者になったら、聖なる者、私の民としてあげる、ということではないのです。
 教会は、神によって選ばれて、主イエス・キリストのもとに集められ、主イエスによる罪の赦しにあずかって生きている者たちの群れです。清くも正しくもない罪人である私たちが、神の恵みによって、主イエスによる罪の赦しを与えられて、神の民とされ、神と共に生きているのです。そのようにして神が私たちを聖なる者として下さっている、この神の愛に感謝して、神のもとで、神を礼拝しつつ生きることが私たちの信仰です。私たちは礼拝において、神の愛をますます豊かに注がれ、それに応えて私たちもますます神を愛し、神に愛されている自分自身を愛し、同じく神に愛されている隣人をも愛して生きていくのです。そのようにして私たちも聖なる者となっていきます。清く正しい聖人君子になっていくのではなくて、神に愛されていることを知っているゆえに神と隣人とを愛して生きる者となっていくのです。神が自分のことを大切に思って下さっていることを知っているので、自分も自分のことを大切にすると共に、他の人のことをも大切にして生きる者となるのです。それこそが、聖なる者となることです。自分が清く正しい者となることによって聖なる者となろうとしていると、自分が獲得したと錯覚している清さや正しさによって人を裁くようになり、人を愛することができなくなります。主が私たちに「聖なる者となれ」と命じておられるのは、主に愛されていることを知り、その喜びと感謝の内に、自分自身をも隣人をも愛する者となれ、ということなのです。
 このように私たちは、主なる神の愛によって選ばれ、召されて主イエス・キリストによる罪の赦しを与えられ、神の民つまり聖徒、聖なる者とされているのです。ですから私たちは、「自分は聖なるものではない」と言ってはなりません。「聖なる者」という言葉の正しい意味を受け止めて、自分が弱く罪深い者であるにもかかわらず、神の恵みによって聖なる者とされていることを感謝をもって受け止めて、その神の愛にお応えしていきたいのです。

交わりに生きる信仰
 その聖なる者である私たちが連なっている教会は「聖徒の交わり」です。次にこの「交わり」についてみ言葉に聞いていきたいと思います。先ほど朗読された新約聖書の箇所、使徒言行録第2章41節以下には、生まれたばかりの教会の様子が語られています。ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まり、三千人ほどの人々が洗礼を受けて群れに加えられたとその前のところにあります。このようにして生まれた教会において、どのようなことがなされていたのかが42節に語られているのです。そこには四つのことが並べられています。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」の四つです。生まれたばかりの教会で、これら四つのことが熱心になされていたのです。その二番目に「相互の交わり」とあります。生まれたばかりの教会では熱心に「交わり」がなされていたのです。わざわざ「交わり」ということが語られているのは不思議な気もします。人々が共に集まっているのだから、そこに交わりが生まれるのは当然ではないか、と思うのです。しかしここに大事なことが示されていると思います。それは、教会における「交わり」は、人が集まるところに自然に生じる現象ではなくて、もっと信仰に基づく大切なこと、意識的に、熱心になされるべきことなのだ、ということです。つまり教会の信仰とは、共に教会に連なっている兄弟姉妹との相互の交わりに生きる信仰なのだ、ということがここに示されているのです。私たちの信仰は、自分一人で神を信じて生きればよい、というものではなくて、交わりに生きる信仰なのです。

聖徒とは交わりに生きる者
 このことは先ほどの、私たちは「聖徒」とされているということと繋がっています。聖徒、聖なる者とは、清く正しく立派な者ではなくて、神の愛による救いにあずかり、神のものとされた人であり、私たちはその神の愛に応えて、神と隣人を愛して、聖徒として生きていくのだ、と申しました。つまり聖徒は、隣人を愛し、隣人と交わりを持って生きるのです。清く正しく立派な者として生きるのが聖徒なら、そこには必ずしも隣人との交わりは必要ではありません。「孤高の人」という言い方があるように、他の人と関わることなく自分一人で立派な人として生きるということもあり得るのです。しかし聖書における聖徒、聖なる者は「孤高の人」ではあり得ません。神の愛、つまり神が自分と交わりを持って下さったことに応えて、自分も神を愛し、つまり神との交わりを持って生き、そして隣人を愛して、つまり隣人との交わりに生きるのが、聖書における聖徒です。聖徒とは、他者を愛して生きる者、つまり他者との交わりに生きる者なのです。ですから最初の教会が相互の交わりに熱心であったということは、彼らが聖徒として、聖徒の交わりに生きていたことを示しているのです。

キリストの体は交わりにおいて築かれる
 そしてこのことは、教会はキリストの体であり、連なる私たちはその部分である、ということとも繋がります。洗礼を受け、キリストによる救いにあずかった信仰者は、キリストに結び合わされた部分であり、頭であるキリストのもとで、他の部分である兄弟姉妹と共に一つの体を築いているのです。部分である私たちが、一人で、他の部分と交わりを持たずに生きることはできません。またその交わりがなければキリストの体も成り立ちません。つまり相互の交わりは、キリストの体である教会において、ないよりはあった方が楽しくていい、というような付け足しの事柄ではなくて、一人ひとりが信仰に生きるためにも、またそもそも教会がキリストの体として存在するためにも、無くてはならないものなのです。「聖徒の交わり」なしには一人ひとりの信仰者も生きることができないし、教会も存続することができないのです。それほど大事な事柄だから、使徒信条の中にこの言葉が入っているのです。
 私たちは今、コロナ禍の中で、この「聖徒の交わり」に大きな制約を受けています。共に集まって親しく言葉を交わすことが妨げられていることによって、「相互の交わり」が持ちにくくなっているのです。このことによって教会の命が脅かされています。交わりが妨げられているのは、あった方が楽しいことが今はできない、というような呑気なことではなくて、私たちの信仰と教会全体の命の重大な危機なのです。

礼拝にこそ交わりがある
 しかしそこで私たちが同時に知らなければならないのは、互いに顔を合わせて親しく話をすることが「聖徒の交わり」の中心ではない、ということです。42節に並べられている四つのことの内の他の三つ、「使徒の教え、パンを裂くこと、祈ること」はどれも、基本的には礼拝においてなされていることです。使徒の教えを聞くのは礼拝の説教においてですし、パンを裂くことは礼拝の中で行われる聖餐を指しています。祈ることは個人でもできますが、礼拝における共同の祈りが個人の祈りを支えているのです。つまり最初の教会がこれらのことを熱心に行なっていたのは礼拝においてだったのです。「相互の交わり」も同じだと言えるでしょう。信仰者の相互の交わりは、共に礼拝を守ることにこそあるのです。「聖徒の交わり」が具体的に成り立つのは主の日の礼拝なのです。礼拝の後で、親しく話をしたり食事をしたりすることによって初めて交わりが成り立つのではありません。礼拝に集うことができていれば、そこには聖徒の交わりがあるのです。聖徒の交わりなしには一人ひとりの信仰者も教会も生きることができない、と先ほど申しましたが、その無くてはならない聖徒の交わりは、礼拝においてこそ実現しているのです。

礼拝は神の民の礼拝
 しかしどうして礼拝が交わりになるのでしょうか。それを知るためには、礼拝についても、交わりについても、聖書が語っていることをさらに聞かなければなりません。聖書において、礼拝は、神の民の礼拝です。私たちは神によって集められた民として礼拝をしているのです。自分一人で礼拝をするためにここに来たのではありません。自分一人で礼拝して神から慰めや力づけを受けようと思っている人たちがたまたまこの場に一緒にいる、という礼拝のとらえ方は間違っています。この場に集まっている者たちは一人残らず、神が今日この礼拝へと招き集めて下さった神の民です。神によって一つとされて、私たちは共にこの礼拝を守っているのです。それゆえに礼拝そのものが神の民の交わりなのです。神の選びと招きによってここに「聖徒の交わり」が生じているのです。それゆえに、ネットで配信される礼拝の音声を聞いたり、あるいは動画を見ることによって家で一人でも礼拝ができる、というものではないのです。礼拝は、神に集められて共に守るものです。そこにこそ聖徒の交わりがあるのであって、音声の配信や原稿の発送は、それに代わるものとはなりません。それらはあくまでも補助的、補完的な手段なのです。

交わりは分かち合い
 さらに「交わり」という言葉です。その元々の意味は「分かち合い、共有」です。あるものを分かち合うこと、それが聖書における交わりなのです。礼拝において私たちは、同じ神のみ言葉を分かち合い、共有しています。この礼拝に共に集っている者たちは今日、同じみ言葉を聞き、それによって生かされているのです。そこに交わりがあります。礼拝が終わってからお互いの近況を知り合い、いろいろな話をすることによって初めて交わりが持たれるのではなくて、礼拝において共にみ言葉にあずかることにおいて既に、分かち合いを本質とする交わりが与えられているのです。
 このように「聖徒の交わり」は礼拝において存在しています。だからコロナ禍によって互いに顔を合わせ、話をするという交わりが妨げられているとしても、聖徒の交わりそのものが失われているわけではありません。神の招きによる礼拝が守られている所には聖徒の交わりがあるのです。たとえ自分はその礼拝に集うことができていなくても、礼拝を覚えて祈り、補助的な手段を用いてみ言葉を共有することによって私たちは聖徒の交わりの中にいるのです。

賜物をも分かち合う
 しかしそのことにあぐらをかいていてはなりません。ハイデルベルク信仰問答の問55、「『聖徒の交わり』について、あなたは何を理解していますか」の答えをここでご紹介します。「第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、とうことです」。ここに語られている第一のことは、キリストとその救いの恵みに共にあずかっている、つまりそれを分かち合っている、それが「聖徒の交わり」だということです。しかしそれに続いて第二のことが語られています。お互いが、自分の賜物を、他の部分の益と救いとのため、自発的に喜んで用いていく、それが「聖徒の交わり」であり、主は私たちがそのような交わりに生きることを望んでおられるのです。つまり私たちは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みを分かち合うだけでなく、その恵みによって生かされていることを感謝して、主が自分に与えて下さっている賜物をも、他の人たちと分かち合っていくのです。自分に与えられている恵みを他の人のために喜んで自発的に用いていくのです。それがつまり、神の愛に応えて自分も神と隣人を愛して、聖徒として生きていくということです。愛するとは、自分のものを相手と分かち合い、相手の益と救いのために用いていくことです。その自分のものは、持ち物やお金だけでなく、いろいろな能力や知識や技術でもあり、あるいは時間でもあります。それらは全て神が私たちに与えて下さっている賜物です。それを他の人たちと分かち合っていく、それが愛することであり、そこに、聖徒の交わりが築かれていくのです。私たちは、神が招き集めて下さった礼拝において、キリストの救いの恵みを共有しています。そしてその恵みに応えて、自分に与えられている賜物を他の人々と共有して、聖徒の交わりに生きていくのです。そこに、キリストの体である、聖なる公同の教会が築かれていくのです。

関連記事

TOP